生きていて楽しいと思うとき、それはどんな時だろう?
人によって答えは色々だろうが、概して言える事は、各個人個人が持っている様々な欲望が満たされたときではないだろうか。
女性であれば、高価なブランド物の服飾品を買ったとき、一流のレストランで豪華な食事をしたとき、海外旅行に行ったとき、エステで見違えるほど綺麗になったとき、責任ある地位に抜擢されたとき等々、いくらでも思い浮かべることが出来る。
男性の場合でも、昇進・昇格したとき、給料がアップしたとき、最新のゲーム機や情報機器を手に入れたとき、恋人が出来たとき、競馬やパチンコで勝ったとき等々、いろいろ考えられる。
まさに欲望は尽きることなく、生きている限り、新たな欲望が次から次へと湧き出てくる。
これらの欲望が満たされているとき、大半の人は、幸せだな~、楽しいな~、と感じるだろう。
もともと人間には、生物として生きていくために必要な、食欲・睡眠欲・性欲の三つの本能的・根源的な欲望が、生まれたときからインプットされていた。
まだ人間が、原始的な生活を送っていたときは、この三つの欲望だけで十分だった。
ところが、集団生活を送るようになり、社会という形態が成立し発展していくに従って、生存するために必ずしも必要であるとは限らない新たな欲望が、次々と誕生してきた。
金銭欲・名誉欲・名声欲・権勢欲・知識欲・自己顕示欲等々が、それである。
人口が増え、社会も高度に発達した現在では、後者に属する欲望が異常に増殖し、経済的・技術的な物質面で社会を発展させるというプラス効果はあるのだが、肝心の人間の心を大きく荒ませ病ませるというマイナスの効果のほうが、このところ顕著になってきた。
仏教では、これらの欲望(=煩悩)を抑えた生活をせよ、と教えているわけだが、現実には、諸々の欲望から離れた生活をするというのは、一般人にとっては甚だ困難である。
では、どうしたらよいのだろうか?
私自身も現世での一人の生活者だが、社会の様相を見ていて一つ感じることがある。
それは、現世人は、後者の欲望を充足することに囚われ過ぎていて、食欲・睡眠欲・性欲の三つの欲望が、本能的・根源的な欲望であることを忘れているのではないか、ということである。
欲望が満たされたとき、人は楽しみ、大きな満足感を得る。
本能的・根源的な欲望にこそ、その効果は顕著に現れる。
美味しいものではなく、美味しくものを食べたとき、浅い眠りではなく、ぐっすりと深く眠ったとき、義務的な行為ではなく、熱い愛情を持って抱きあったとき。
この三つが真に満たされているならば、他に色々な悩みを抱えていても、生きるということは楽しいものだ、ということを真実のこととして実感できると思う。私の実体験として。
昨今、ゲームやメールが大流行し、若者が、ケータイやパソコンの画面ばかりを覗き込み、人の顔を見なくなったと言われている。
草食系男子、肉食系女子などという、私の世代では考えられなかったような逆転現象も起きている。
コンビニがあり、ファストフード店があり、自動販売機があり、生きること、食べることに必死になることもなくなった。
それなりに、若者達の生活は、楽しみに満ちているのだろう。
私達が、危惧することではないのかもしれないし、お節介をするべきことでもないのかもしれない。
しかし、一つだけ、このことだけは忘れないでおいてもらいたい。
本能的・根源的な欲望には、人知を超えた、大きな楽があることを。