今日はやる気も出ないし、
いいアイデアも浮かばないし、
元気も出ないし、
一番苦手な冬の雨の日。

仕事はまあまあこなしたけれど、
なにかイマイチでパッとしない。

こういう日は何もせず充填していたいけれど、
サラリーマンではそうもいかず、

耐えるしかないですね。
待っていればそのうち上向くので。
お天気と同じ。

そして、そういう自分の状態も受け入れた方がいいんでしょうね。
こういう停滞期間があってこそ、
また、クリエイティブになれるのでしょうし。

ということで、
今日は以上です。

ようこそ、ひでちぇろブログへ。

 

 

今日出勤時に、

よく見かける、のら猫と目が合いました。

 

その時にふと、彼の目線からの視野が見えたと感じ、

同時に、彼も、

 

神から分離した個を

私とは別の個のなかで体験してくれているんだな。

 

という、仲間意識を感じました。

(向こうはそう感じていないでしょうが)

 

本来、

心は元々一つであったけれど、

 

神が、

自分で自分を感じたり、

成長の喜びを得たくて、

 

個に分離して、

生命体であることを別々に体験しているのでしょう。

 

人間以外の動物だと、

余計な感情が働かないので

より強くそう感じられました。

 

 

普段、

人間相手には

神視点の仲間意識は感じづらいんですが、

 

音楽を

演奏する、

リアルタイムの場でだけは、

それを感じます。

 

本来繋がっていた心が

繋がっていたことを思い出す体験ですね。

 

音楽を媒介として。

 

自分だけでなく、

 

他の演奏者や聴き手の心に

起こっていることは、

 

他人事ではなく、

自分達を通じて神が体験していることを、

別の側面から受け取ってくれているのです。

 

言語、性別問わず同時性をもって

これができるのは音楽のみでしょう。

 

音楽において、

そういう魂レベルの認識を大事にしたいし、

 

音楽以外の日常でも、

この感覚をいつも大切にしたいです。

 

のら猫相手に感じる一刹那の共感みたいな感覚を。

 

では。

 

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丸山真男の音楽観の続きです。

 

丸山真男は、

「バッハは神のため、モーツァルトは現世の人のため、ベートーベンは人類に向

けて人類の目標、理想を表現した。」という主旨のことを言っています。

また、「シューベルト、シューマン以降、あとは個人的で矮小化していく」と言っています。

 

前半はいいと思います。

まさにその通りでしょう。

 

しかし、後半の「矮小化」の部分は、

現代の感覚から相当かけ離れています。

 

いや、それは違うよ、って話です。

 

確かにベートーベンが、

理想を神から人類の手元まで取り戻した、

っていうのは本当にすごいことです。

 

だけれど、

実際の人類はまだそれだけでは救われないんです。

理想と現実が違い過ぎて。

 

だから、

神から人類を分離したあと、

さらに個人への分離が必要となります。

 

そして、個人を掘り下げて、

死の恐怖とか、

性への囚われとかをさらに掘り下げて、

交響曲9番あたりで何か見えてきたのがマーラー。

 

春の祭典などで、

人間の太古的な本能までえぐり出したストラビンスキー。

 

これまで語られなかった別世界の愛を語った、

メシアンのトゥーランガリラ交響曲

 

等々。。。

 

人類の理想が最高って、

このころ方々は、

音楽に関してはなんて楽天的だったんだろうかって思いました。

 

 

丸山真男先生も、

当時としては誰も語りえなかったことを語っているのでしょう。

 

しかし、人間にとっての音楽っていう器は、

ベートーベン止まりではないと思います。

 

そして、クラシック音楽の人々の捉え方も日々進化しているのだと思います。

 

 

それでは。

 

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日本の政治史と思想史が専門で思想家の、

丸山真男さんをご存知でしょうか。

 

専門とは別に大のクラシック音楽好きで、

例えば、

ワーグナーのオペラのスコア(総譜)のすべてのページに

書き込みして、

ワグナーのメッカであるバイロイト音楽祭を現地まで

聴きに行ったりするくらい、

傾倒していた様です。

 

作曲者はベートーベンとワグナー

指揮者ではフルトベングラーを崇拝していたようです。

 

私は、

作曲者の崇拝についてはそれほど共感出来ませんが、

 

彼のインタビューで一番いいなと思ったのは、

 

「クラシックの生命の中心は調性である。

これがあるからクラシックは数百年の生命力を持っている。

 調性が心臓部である」

 

という言葉です。

 

長調から異なる調や短調に転調してまた元に戻って平和を感じたり、

 

和音でいえばドミナント(ソ、シ、レ)に行って緊張を味わってから、

トニカ(ド、ミ、ソ)に戻ったり。

 

これが人の心の琴線に触れる、

普遍的な物語を生み出すのでしょう。

 

実際、

クラシック以降のすべての西洋音楽に生かされています。

 

この調性の変化は、人間の感情の動きや人生と同じで、

 

苦という緊張と楽という弛緩を繰り返し、

少しずつ成長し、

 

必ず終わりがあります。

 

そしてこれを、

3度を2つ重ねた和音3種類と、

 

調の変化の力で表現できるというのは、

本当にクラシック音楽の力だと思います。

 

調性という普遍的な表現力を生み出したクラシック音楽、

 

ぜひ、今後も調性は捨て去らずに発展していって欲しいと思います。

 

 

それでは。

 

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こんにちは、ひでちぇろです。

(この記事は2018年8月12日に掲載したものです。)

 

アマチュアオーケストラに行って、

よく他の奏者の姿勢を観察していますが、

 

弦楽器、

なかでもチェロの人は猫背の人が多く、

もったいないな~、と思います。

 

ここで、

演奏での姿勢の教科書的なものといえば、

アレキサンダーテクニークかと思います。

 

著作やホームページを見ると、

大雑把に言えば、

・頭(首、あご)を緩めて頭が自由に動けるようにする。

・頭が上に送られ、背中が広がる様な、

身体を上向きに持ち上げる意識の方向性

 

が自然にできる様になると、

身体のコントロール度がアップして、

傷めたりすることも減る。

というものです。

 

開発したアレキサンダー氏自身が、

シェークスピア劇の舞台俳優でしたが、

身体の使い方が悪くて

声が出なくなってしまい、

それを乗り越える為に開発したものです。

 

これが出来ているお手本ですが、

やはり元祖チェロの巨匠である、

カザルスでしょう。

 

写真や動画でしか見ることが出来ませんが、

デフォルトの姿勢で、

背筋がすっと真っすぐになっていて、

いかにも身体が効率よくコントロールされていそうです。

 

また、ウィーン国立歌劇場のチェリストの方々。

年間300回程度の公演を軽やかにこなしている

様に見える彼らも、

必要に迫られてか、

頭が自由でかつ上向きな方向性が維持されていて

姿勢はものすごく良いです。

 

日本のアマオケでも、

管楽器奏者の方々は、

呼吸を使い、

自分の身体を楽器として使う度合いが高いので、

姿勢がいい人が多いですが、

 

同じアマオケでも、

弦楽器奏者の方々は、

フォルテシモで首が完全に固まり、

ピアニシモで首が縮まってしまっている人が多いです。

 

運動性が下がるだけでなく、

身体からのフィードバックが

遮断されているのではないかと危惧します。

(そうでない方も当然いますが)

 

ちょっと持論ですが、

 

「頭を自由」にした姿勢と、

「上向きの方向性」を意識することは、

運動性や身体情報のフィードバックだけでなく、

 

上から(無意識領域の神に近い)

の情報が得やすいのではないかと感じます。

 

逆に、首を固めて下向きになると、

下から(無意識領域のより原始的な動物に近い)

の情報が入りやすいのではないかと思います。

 

クラシック音楽を演奏するなら、

やはり「上」からの情報で演奏したいと思います。

 

 

また、話は変わりますが、

姿勢を保つ上で大切なのが、

基礎的な筋肉でしょうか。

 

私自身はここ3年くらい

週二で筋トレをやっている効果もあって、

最近は姿勢を保つことが苦でなくなりましたが、

姿勢を保つのは、最初はつらいかもしれません。

やはり、疲れても意識して姿勢を維持する訓練も

必要かと思います。

 

アレキサンダーテクニークの

姿勢はまた、

演奏上の利点だけでなく、

 

心が前向きになったり、

身体の色々な情報に気づきやすくなったり、

声が通りやすくなって話に説得力がでたりと、

普段の生活でも色々とご利益があります。

 

姿勢の改善、

すぐに、しかも無料でできるので、

おすすめです!

 

それでは。

 

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ようこそ、ひでちぇろブログへ!

 

 

今回は、音律とか音程の話です。

 

音律についてネットで検索すると

良く見かけるのが、

 

「平均律」は間違い「純正律」が正しい、

という意見です。

 

純正律は、

「ドミソ」、「ファラド」「ソシレ」の

主要な3和音がきれいに響くことと、

(平均律ではうなりが発生する)

 

純正律の音だけで音階を構成できることもあり、

「ドレミファソラシド」を純正律にすべきというものです。

 

 

しかし、私としてはこの意見に抵抗があります。

 

ピタゴラス音律、

をご存知でしょうか。

 

ド→ソ→レ→ラ→…

という風に5度の上下(と8度)だけで

音を作っていく音律です。

 

この音律の場合、

主要3和音の様な和音のハーモニーは濁ってしまい苦手です。

 

音程としての特徴は、ミ、ラ、シが高いことです。

これにより、音階とかメロディーが、

より際立って美しくなります。

 

音階は始まりの音から上がっていく時、

全音、全音、半音を2回繰り返します。

 

ピタゴラス音律では、

全音が幅広く、半音が狭くなります。

 

これにより、上昇時に広い全音でより緊張が高まり、

狭い半音でより弛緩が感じられやすくなります。

つまり、ピタゴラス音律ではメロディきれいになります。

 

ここで、

あまり推奨されることのない

ピタゴラス音律の具体例を挙げてみます。

 

一つが

カザルスのバッハ無伴奏です。

特にミとシを相当高めに弾いています。

おそらく意図的に。

そのおかげで、とても音階が力強いです。

 

もう一つが、

北島三郎さんです。

演歌は単音のメロディーが優勢な音楽なのでしょう。

純正律の音階を聴くとシが低く聞こえるそうです。

 

 

理想的には、

メロディをピタゴラス音律にして、

それに付随する3和音は、

メロディの音程に合わせてずらした純正律とするのが、

両者の長所を生かせて一番美しいということになります。

 

私がオーケストラでチェロを演奏する時は、

伴奏では「ミラシ」低め、

対旋律やメロディでは「ミラシ」高めで、

周りを聴きながら合わせる感じで弾いています。

 

オーケストラの他の楽器を見ると、

弦楽器はピタゴラス音律が得意、

管楽器は純正律が得意です。

 

得意、不得意もあり、

その時に優先させたい音律もありで、

オーケストラ内の音程は結構混沌としています。

 

いくらチューニングでAの音を合わせても正解などない感じです。

 

しかし、

正解がないからといって、

自分が正しいと主張すると絶対合いません。。

音程はいかに矛盾しやすいを理解し、

考え方、感じ方の違いを越えて合わせていくことが大切

というのが私の考え方です。

 

結局、

音程、音律の選択も音楽性のうちであり、

人間の個性と同じで正解はありません。

場面ごとに相手に合わせて

柔軟に対応するのが良いと思われます。

 

 

それでは。

 

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ようこそ、ひでちぇろブログへ!

今回は、

楽器の練習で、
量をこなせば質に転化していくか?

という話です。

たとえば、
音階のエチュードを繰り返し弾くと、
その動作自体には慣れます。
そして、
動作が無意識化して余裕が出てきます。

さらに余裕が出ることで、
精度が悪いところを直せる様になり、
ある程度それらしく弾けるようになります。

スティーブ・ジョブズの母校の大学での
有名な公演で、
若い時はまずやってみたいことにチャレンジするのが良い。
やがてそれが点となり、
さらに点と点が繋がって線になって意味を持ってくる。
意味は後から分かってくるのだから、まずはチャレンジしようという主旨の話でした。

なので、最初は意味が分からなくても、
まずは身体を動かして弾くべきです。
そうすると、点(=出来ること)が増えます
そして、点と点が繋がっていくはずです。
ある程度のところまでは。

問題はそこからです。

演奏は、

身体動作の理解(身体性)、
数学的正確さとしての音楽(正確性)、
表現としての音楽(芸術性)

がそれぞれ有機的に繋がって成り立ちます。
また、お互いがお互いに対して影響を与えています。

そして、
それらを統合して一つの感覚にして音を出せる様になる必要があります。
どれか一つでも足を引っ張ると、一挙に台無しになります。

この3つが有機的に繋がって、かつ呼吸の様に無意識化できて、
始めて音楽が出来るようになります。

これらをどう統合するかは、
教科書的な正解はどこにもなく、

先生に見てもらったりしながらも、
自分で模索して「自分の技術」を
作り上げていく知的試行錯誤が必要です。


私の場合はアマチュアなので、

しのごの言わずに、
正確性を鍛え続けることが重要という、
まだまだな段階です。

ということで、
量は勝手に質には転化しない、
知的試行錯誤が必要という結論です。

今回は以上です。
それでは。

こんにちは、ひでちぇろです。

 

(※この記事は2018年3月7日に掲載した記事を一部修正したものです)

 

今日は、ここまで書いた「共感」と、

「音楽」の関係について書いていきます。

 

結論的に書くと、

「音楽」は「共感」の為の

ツール、媒介であると私は考えています。

 

例えば通常のクラシックオーケストラの

演奏会では、

・作曲者

・指揮者

・演奏者(オーケストラ等)

・聴き手

のそれぞれが「共感」する場が演奏会であり、

 

その「共感」の為のツール(媒介する)のが、

「音楽」です。

 

では、なぜそれが「音楽」なのか?

言葉だって、映像だっていいじゃんないか?

という疑問が生じます。

 

この点が最も大事なのですが、

なぜ「音楽」かという理由、

 

それは「音楽」の持つ、

高い「抽象度」です。

 

例えば「愛」という言葉、

 

言葉だと、これ以上も表現できませんよね。

 

しかし、「音楽」であれば、

深淵なものから身近なもの、

深いものもから浅いものまで、

1時間でも2時間でも

縦横無尽な抽象度と

無限の多様性で語ることが出来ます。

 

例えば、モーツァルトのオペラは、

ストーリーはおおよそ貴族がとっちめられて、

痛快だった、

っていう話ですが、

 

付随する音楽は、

まったく異なる高いレベルにあり、

まさに「愛」を無限のバリエーションで

語ったものだと感じます。

 

つまり、

音楽によって表現できる、

個人の感覚から神の愛まで連続する、

高い抽象度の情報である「音楽」によってこそ、

 

人と人(人類)の間に「共感」を創造できる

のだと思います。

 

「音楽」がホールの中の人間を

「共感」によって一つにできる

ということは、

 

「人類」を一つにできる可能性、

「集合的無意識」や「阿頼耶識」

レベルでの「共感」を創造できる可能性が

あると言えます。

 

現時点のクラシック音楽は、

現代音楽っていう、

相当実験的でマニアックで、

シュールなものをよしとする

段階にあると感じますが、

 

逆に、今こそ、

全人類を惹きつける、

 

「共感」によって全人類を惹きつけられる、

より普遍的な音楽という視点を

そろそろ持っても良いのではないかと思います。

(多様性という面も大切ですが)

 

もちろん、

宗教の様に他の音楽ジャンルと喧嘩せずに。

 

25年くらい前に、

御茶ノ水のカザルスホールで、

ロストロポーヴィチのマスタークラス(公開授業)を

聴いたのですが、

 

彼は最後に、

「音楽は演奏者の感動と聴衆をつなぐ心の架け橋であると、

私は信じています」

と言っていました。

 

いまでも忘れられない言葉ですし、

今でも心の支えです。

 

今日はここまでです。

それでは。

 

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