こんにちは、ひでちぇろです。

 

(※この記事は2018年3月7日に掲載した記事を一部修正したものです)

 

今日は、ここまで書いた「共感」と、

「音楽」の関係について書いていきます。

 

結論的に書くと、

「音楽」は「共感」の為の

ツール、媒介であると私は考えています。

 

例えば通常のクラシックオーケストラの

演奏会では、

・作曲者

・指揮者

・演奏者(オーケストラ等)

・聴き手

のそれぞれが「共感」する場が演奏会であり、

 

その「共感」の為のツール(媒介する)のが、

「音楽」です。

 

では、なぜそれが「音楽」なのか?

言葉だって、映像だっていいじゃんないか?

という疑問が生じます。

 

この点が最も大事なのですが、

なぜ「音楽」かという理由、

 

それは「音楽」の持つ、

高い「抽象度」です。

 

例えば「愛」という言葉、

 

言葉だと、これ以上も表現できませんよね。

 

しかし、「音楽」であれば、

深淵なものから身近なもの、

深いものもから浅いものまで、

1時間でも2時間でも

縦横無尽な抽象度と

無限の多様性で語ることが出来ます。

 

例えば、モーツァルトのオペラは、

ストーリーはおおよそ貴族がとっちめられて、

痛快だった、

っていう話ですが、

 

付随する音楽は、

まったく異なる高いレベルにあり、

まさに「愛」を無限のバリエーションで

語ったものだと感じます。

 

つまり、

音楽によって表現できる、

個人の感覚から神の愛まで連続する、

高い抽象度の情報である「音楽」によってこそ、

 

人と人(人類)の間に「共感」を創造できる

のだと思います。

 

「音楽」がホールの中の人間を

「共感」によって一つにできる

ということは、

 

「人類」を一つにできる可能性、

「集合的無意識」や「阿頼耶識」

レベルでの「共感」を創造できる可能性が

あると言えます。

 

現時点のクラシック音楽は、

現代音楽っていう、

相当実験的でマニアックで、

シュールなものをよしとする

段階にあると感じますが、

 

逆に、今こそ、

全人類を惹きつける、

 

「共感」によって全人類を惹きつけられる、

より普遍的な音楽という視点を

そろそろ持っても良いのではないかと思います。

(多様性という面も大切ですが)

 

もちろん、

宗教の様に他の音楽ジャンルと喧嘩せずに。

 

25年くらい前に、

御茶ノ水のカザルスホールで、

ロストロポーヴィチのマスタークラス(公開授業)を

聴いたのですが、

 

彼は最後に、

「音楽は演奏者の感動と聴衆をつなぐ心の架け橋であると、

私は信じています」

と言っていました。

 

いまでも忘れられない言葉ですし、

今でも心の支えです。

 

今日はここまでです。

それでは。

 

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