こんにちは、ひでちぇろブログです。

 

今日は、クラシック音楽と神話についてです。

神話というと、

ギリシャ神話とか古事記のようなもののことです。

 

ところで、

そもそもなぜ神話は存在するのでしょうか。

あんな荒唐無稽な話に、

どんな意味があるのでしょうか。

 

 

ウィキペディアで調べてみると、

「存在理由を説明するためのストーリー」

と書かれていました。

 

そう。

神話とは、

ストーリーを使って

国なり、集団なりの

存在理由を示し、

生きる意味と方向性を与えてくれるものなのです。

 

なかなかに、大事なものです。

 

その集団が大切にしているものに畏敬の念を抱かせたり、

現実の社会や生活を秩序立ったものにする機能があります。

 

ある意味、神話は便利なものでもあるので、

昔から権力のある人やリーダーなどにも

利用されてきたのでしょうね。

 

 

この、

神話という考え方を当てはめると、

色々なものが見えてきます。

 

私はアマチュアとして、

クラシック音楽の分野で活動していますが、

自分にとって、クラシック音楽には、

どんな「神話」が当てはまるでしょうか。

 

もう少し範囲を拡げると、

日本人にとって、クラシック音楽にはどんな「神話」が有りうるのでしょうか。

 

 

 

クラシック音楽は最初、

キリスト教世界の神話(聖書)に含まれる神聖なもの

という位置づけだったのだと思います。

 

そして、キリスト教が科学で相対化されて、

西洋社会が教会権力から開放された後も、

キリスト教から独立して

さらに発展しました。

 

普遍的な何かにつながる手段である芸術としての

新たな神話をまとって。

 

その後、

日本において、クラシック音楽は、

近代の明治時代に、

西洋の教養として輸入されました。

日本が和魂洋才でずっと発展してきている間は、

進んだ西洋の文化としての神話をもっていました。

 

しかし、現代日本では、

西洋からの学びが減って、

新たな神話を必要とする時期に来ていると感じられます。

 

そもそも、

皆が一つの神話を生きるの時代は終わりが近いのかもしれません。

皆が自分の神話を追求する時代に入ろうとしている様な感じがします。

 

クラシック音楽は現在、

現代音楽がメロディー、リズム、ハーモニーの枠組みを否定し始めており、

つまり既存には神話はもう依って立つことができず、

価値観が崩壊しはじめている

段階に来ている様です。

 

崩壊を突き詰め、もう壊すものがなくなる段階の後、

新しい神話が新たに構築されるのかもしれません。

 

シュタイナー曰く、

3度の和音の時代の次には、

神の存在を証明する、8度の和音の時代が来るそうです。

 

本当に8度なのかは不明ですが、

クラシックのなかでの新しい神話の萌芽に

常にアンテナ張って見逃さない様にしたいと思います。

 

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ。

 

今回は、

もっと議論されてもよさそうな、

クラシック音楽と「自然」についてです。

 

 

直接「自然」を表現したクラシック音楽としては、

ベートーベンの田園とか、

リヒャルト・シュトラウスのアルペン交響曲あたりが有名ですが、

今回は、音楽を生み出すプロセスや人と、「自然」の話です。

 

 

 

私は、十年くらい前まではよく

アマチュアオーケストラの練習の合宿で、

富士五湖辺りに行ったりしていました。

 

音楽をしに、自然の豊かなところに行くと、

心の中の何かがオープンになる感じがしていました。

 

音楽との距離感が変わるというか、

音楽が人に近づく感じです。

 

多神教的な意味での神の存在が、

より身近になり、

音楽=神との距離が縮まり、

より音楽が創造がしやすくなるのかもしれません。

 

また、

20代の独身のころ、

海辺に一人で行ってハーモニカを吹いたり、

湖のほとりで一人でチェロを弾いてみたりしたことがあります。

 

屋外の本当の自然の中ですね。

なんか生命体としてほんとに自分一人という感じです。

そうなると、自分の内面と対話せざるを得なくなります。

 

そして、自分がすごくちっぽけな存在で、

その音楽もあまりにちっぽけなんだなと感じざるを得ません。

 

そういうことをした後で、

他の人と一緒に演奏すると、

温かい気持ちになったりします。

共感してくれる「人間」のいることの心地よさでしょうか。

 

 

「音楽」で「自然」を表現するとかいうフレーズを見たりすると、

自然は大きすぎて、個人はあまりに小さくて、

その小さい自分が何を感じたかっていうのを

ちょろっと表現できるだけなんだよな、と感じます。

 

しかし、そのちょろっと感じるものを、

他人と共有することは可能です。

 

こういう、自然と対峙する一人だけの自分、

を表現した作曲家としては、

シベリウス、ブルックナーあたりが筆頭かと思います。

 

人間が出てこない感じ。

神ー自然ー自分しか存在しないところに感じられる美

を極めた音楽ですね。

 

日本的に言えば、

一人で畏敬の念を感じながら、

土地の氏神さまに感謝の祈りを捧げているのに近いです。

 

 

多神教的ですね。

 

だから分かりやすく感じのかもしれません。

 

ブルオタ(ブルックナーのオタク)の方々も

意外と日本的なのかもしれませんね。

 

今日はそんなところです。

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ。

 

今日のテーマは現代音楽に見る音楽の未来です。

 

 

あくまで、私個人の印象ですが、

現代音楽は、弁証法でいうところのアンチテーゼ、

つまり現状の否定ですね。

 

言い方を変えると、

これまでの絶対的なものや決まりごとを排して、

既成の価値観を相対化して作られた、

ポストモダンの音楽という風に言えると考えています。

 

ポストモダンていうのは、

自分が既成品化しまうと、

その絶対性を否定して、

たくさんの新しい価値を作り出してしまう性質があるので、

価値の物指しが増える傾向があり、

否定の繰り返しで価値が無数に増加して、

発散、希釈されて自ら消えていく運命にあるのかもしれません。

(現代音楽好きな人、すみません。あくまで個人の見解です)

 

西洋社会の大きな価値観の流れとしては、

大雑把に言うと、

昔はキリスト教

その後は自然科学との両輪でやってきたと思います。

しかし、これらも疲労してほころびが出て来て、

現状を保てなくなってきたのかもしれません。

 

キリスト教の世界では、

すでに神が崩壊してきていることの現れかもしれません。

(キリスト教関係の方へ、あくまで個人の見解です)

 

陽が極まって陰になってきた感じですね。

ということは、

どこか別のところで陰が極まって陽になろうとしているのかもしれません。

 

 

これから、何が芸術、音楽の分野で陽に来るのでしょうか?

 

あくまで可能性としてですが(強引かもですが)、

世界の主流の思想の、

一神教的価値観から多神教的価値観からへ移行があるのではないでしょうか。

 

ただ多神教が生き延びて

長く継続していくには

まだ試練があると思います。

 

 

だいぶ音楽から話が飛びますが、

武装できない平和オンリーの民族は滅びると言われます。

チベットしかり、アイヌしかり。

 

自分を守る強さを兼ね備えた多神教民族が

次のリーダーになると思っています。

 

そういう意味では日本も可能性が大かと思います。

(右寄りですみません)

 

ということで、

芸術としての音楽のリーダー格である西洋ラシック音楽が行き着いた、現代音楽。

次のバトンは太平洋を渡って東洋にやってくる可能性あると考えています。

 

どれくらいのタイムスパンか未知数ですが。

生きているうちにアンチテーゼである現代音楽の次の

ジュンテーゼの音楽の姿を片鱗でも見てみたいですね~。

 

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ。

 

 

今回は、音楽における「芸術」と「娯楽」の違いについて

考えていきます。

 

まず、「芸術」と「娯楽」の定義について。

 

色々と定義はあるでしょうが、

「芸術」は、

人以外の「何か」。

その「何か」の為に完璧な美を目指、。

演奏者と聴き手で、共にその「何か」と繋がるもの。

と定義します。

 

「何か」とは、

普段の意識では到達できない高いところにあるものです。

 

一方、

「娯楽」は、

人を楽しませ、人に気に入ってもらう。

そして、人と人(演奏者と聴き手)をつなぐもの。

と定義します。

 

音楽は、最初は「娯楽」から始まって、

時間が経って淘汰されて(本物が残って)

「芸術」になっていく場合もあります。

 

一度「芸術」になると、

そのレールに乗って後に受け継がれて、

伝統ができていくのでしょう。

 

ここで、

現代において、

「芸術」はどうやって存続できるのでしょうか。

 

そもそも純粋な「芸術」っていうのは存在しえないかもしれません。

アマチュアの音楽活動は自発的でビジネス化もされていませんが、

技術不足感で、「何か」と繋がり切れない感じがします。

 

演奏者と聴き手が

人と人ではない、

大切な「何か」にお金を払っているっていうことに

両者が確信的で、人が集まるならば、

娯楽化して衰退すること無く、

今後も続いていくのかもしれません。

 

しかし、

社会の成長についていけなかったり、

形ばかりの伝統に囚われて

今を生きる人々にとっての

「何か」との繋がりが希薄になっていくと、

淘汰されるかもしれません。

 

この先、どうなっていくのかは全くわかりませんが、

生きている間はずっと、

社会のなかでの音楽の在り方について観察し、

その中に身を置いて体験していきたいです。

そして、微力ながら表現していきたいです。

 

 

続きは、現代音楽の記事でまた。

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ。

 

今日はマニアックですが、

自分の思考の足跡を記録する意味も含めて、

ブログにアップします。

 

約100年前の1925年まで生きた

神秘思想家のルドルフ・シュタイナーは、

著書の中で、音楽の中での和音の捉え方が(和音の音体験)が

歴史の中での変化してきていると言っています。

 

今回は、このシュタイナーの言う和音の変化の歴史と、

音楽で音程を決めている音律の関係について

書いていきます。

 

 

 

シュタイナーによれば、

超古代(彼曰くアトランティス文明)には、

7度の和音の音体験によって、

精神は霊的世界に行くことができ、

地上とのつながりを忘れられたそうです。

 

精神が現実の世界を離れて

彼岸の世界に行き切った状態を体験できた模様です。

 

 

それから時代下って

ギリシャ文明からルネサンス期の頃までの時期、

今度は5度の和音の音体験が重視される様になります。

精神はは地上と離れず肉体の中にいる感覚が保たれるものの、

神の世界を感じて忘我の状態になれました。

ただ、個人の主観的感情はまだ入り込めていない状態です。

 

ちょうどこのギリシャ文明の頃に

5度の繋がりだけで「ピタゴラス音律」が作られます。

まさに、5度がきれいに響く、必然的に出てきた音律と言えます。

 

日本の雅楽も笙で5度を鳴らして、

それにメロディーが付きます。

 

笙で鳴らす和音は、

ドソ+レラ+ミシみたいに5度の音を3つほど足し合わせた、

6個の音で構成されていて、

この6音の和音には基音があり、

音階分だけ7つの基音(組み合わせ)があります。

その和音の基音を篳篥(ひちりき)とか龍笛のメロディの音に合わせて演奏します。

 

細かく説明してしまいましたが、

要するに、笙は

5度をたくさん重ね合わせて、ハーモニーを作っています。

雅楽はそもそも中国起源ですが、

中国でも三分損益というピタゴラス音律とまったく同じ音律で、

5度中心の音楽でした。

 

ギリシャ文明以降の古代の音楽は、

みな5度を和音の基本としていた為、

音律も5度の和音を使って作ったということです。

まさに、シュタイナーさんの言う通りです。

 

 

そしてルネサンス期以降から現代まで、

3度が重要となってきます。

3度の選択で長調と短調が決まる主要3和音が出来ます。

3度の和音が個人の感情が解放されているか、

抑圧されているかを決めるのが3度の選択によるという世界です。

そして音律もピタゴラス音律から、

3度がきれいに響くミーントーンになり、

さらに3度が完璧にきれいに響く

純正律が最も正しい音律と言われる様になりました。

人間の個人の主観的感情を3度を通して自由に感じ、表現できる様になった訳です。

 

 

シュタイナーさん曰く、

未来には、8度(1度という記載も見られる)の時代来ると言っています。

神を認識して、同じやり方で自分をも認識できるとか、

神の存在が証明されるという記述もあります。

 

そうすると、

現在理想的と言われている純正律も、

実際は現代の人類の発展段階に即してたまたま作られたものであり、

今後時代が進めばまた変わっていく可能性もあります。

 

8度が基準だと3度、5度、7度のどれもが重要でなくなり、

音階の美しさでピタゴラス音律にまた回帰するかもしれません。

 

 

現代音楽についてですが、

現在の現代音楽の不協和音との饗宴(苦闘)も、

もしかしたら必然で、

その過程を経た後に、

ある時、誰かが8度の素晴らしさによる神の証明をしてくれるかもしれません。

未来過ぎて生きていないかもしれないけれど、

 

という風に、

今現在音楽の決まりと言われている事柄も、

俯瞰的に感じ取る視点も有って損はないし、

音楽をより楽しめると思います。

 

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログです。

 

今回は、このシリーズのまとめです。

 

まず、

心理学と音楽について。

 

この二つに共通するキーワードについて考えてみると、

 

「心の階層構造」と「共感性」でした。

 

心の働きに問題が生じた時に、

階層構造を持つ心に対して、

共感性というツールでもって変容させていく

ということにフォーカスした心理学。

 

音楽もまた、

共感性を持って心の変容を体験する訳ですから、

特に臨床心理学的、深層心理学的な見方が

音楽に役立つことが分かりました。

 

 

 

宗教と音楽について。

 

音楽のバックボーンについて考える上で、

その社会のベースとなっている宗教との関係は当然ながら大切で、

西洋の音楽であるクラシック音楽に関わるならば、

キリスト教に対する知識はやはり必要ですね。

 

どういう社会で、どういう文脈で

その音楽が作られたかの理解が深まる程に、

より深く共感できるものと考えられます。

 

そして、音楽は、神とか集合的無意識とか宇宙とかのレベルの情報でした。

それだけ普遍性のあるものを

扱っているということをちゃんと認識した方が

より真に迫った、より深い、より高い

音楽表現が可能になるものと思われます。

 

 

 

心の世界の学問や教えと、音楽、

まだまだこれから色々と勉強して

発見していきたいと思います。

 

この「宗教、音楽とクラシック音楽」のシリーズはこれで一旦終わります。

(ブログは続きます)

わたしの学びが進んだら、

アップデートして

また掲載したいと思います。

 

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ。

 

日本人の約4割が信じていると言われる「輪廻転生」。

皆さんにとってはいかがでしょうか。

あまり興味の無い方もいらっしゃるかもしれませんが、

役立つところがあるかと思いますので

ぜひおつきあい下さい。

 

 

さて、

私自身の輪廻転生思想との出会いは、

五島勉さんの「カルマの法則」という本でした。

 

主に退行催眠の結果を起点に

輪廻転生について書かれていたと記憶しています。

この本によって、死は終わりではなさそうだという

なんとなくのイメージはできました。

しかし、この時点では

自分の価値観が変わるほどではありませんでした。

 

その後、

社会人になって2~3年目くらいまでは唯物論者でした。

死んだら終わりってことですね。

また、世の中の真理は

そのうち物理学か哲学が説明してくれるだろうくらいに

思っていました。

 

しかし、

会社入ってから仕事がうまく出来ず、

ストレスが強すぎ、

入社3年目くらいから、

うつに近い状態になりました。

 

この頃から、何とか明日を死なずに生きていく為、

また、自分を癒す為に

精神世界系の本を読む様になりました。

 

そして、まず読んだのが、

トロント大学のジョエルLホイットン教授による

「輪廻転生」でした。

これも退行催眠を元に書かれていましたが、

生死について前向きにとらえられるように書かれていました。

 

その後も、

仕事の現実から逃避する様に輪廻転生とか

死後の世界とかについて、

色々と読み漁りました。

そういう世界に救いを求めていたんですね。

 

そしてこの状況で出会った決定版的な本が、

飯田史彦さんの「生きがいの創造」でした。

 

基本的な考え方を私なりに要約すると、

 

この世は学校の様なもの、勉強の為に記憶を消して生まれてくる。

 

試練もすべて魂が成長する為に起きる。そして、死んだら元の世界に帰る。

 

宇宙は成長を志向する境界の無い意識体で、常に愛を表現する。

 

人間はその愛の表現の一端を担っている。

 

人生の目的は魂の成長であり、人生のすべてを肯定して生きがいを感じて生きていこう。

 

 

というものです。

 

20代後半にこの本を知りましたが、

今でも死生観のベースになっています。

(これに神道的価値観をプラスして生きています)

 

私自身についてはこんなところです。

 

 

宗教では「輪廻転生」をどう扱っているでしょうか。

 

輪廻転生を起点にしていて、強く肯定しているのは、

インド発の様なヒンズー教でしょう。

カルマによる運命論を強調しており、

カースト制に繋がっているところが特徴でしょうか。

また、輪廻転生の存在は肯定しつつ、

信仰に従って生きることで輪廻とカルマから解脱することを

最終目的としています。

 

仏教も輪廻転生そのものは否定していないと思われますし、

執着があるから輪廻するのであって、

そこから解脱しようという考えのベースは、

やはり同じインドのヒンズー教に近いです。

 

キリスト教はちょっと特殊で、

キリスト自身は輪廻転生を否定していません。

しかし、キリストの死後500年くらい後に行われた、

コンスタンティノーブルでの教会関係者の会議で、

教会権力維持の為に輪廻転生は無いことされてしまいました。

肯定すると、自分の判断で生きられることになって

教会の影響力が低下してしまうという理由からです。

(キリストより教会が偉いらしいです。。。)

 

こうやって見ていくと、

既存の宗教の世界では人の生死とか輪廻転生については、

現代人に向けたアップデートがなされていないように感じられます。

 

では、

ここからはクラシック音楽との関連性についてです。

 

まず

クラシック音楽は輪廻転生を否定する

復活系の思想であるキリスト教世界で作られたものです。

表面的には。

 

しかし、シュタイナーによれば、

音楽は神の世界とダイレクトに繋がれる唯一の芸術ということでした。

ということは、西洋世界においては、

真理を含みつつも教会という権力で加工されたキリスト教よりも、

クラシック音楽の方がより真理に近い、

神に近いとも言えるのではないでしょうか。

 

さらに、シュタイナーの考え方を飯田さんの生きがい論風に表現すると、

 

宇宙は成長を志向する境界の無い意識体で、常に愛を表現する。

音楽はその愛の表現の一端を担っている。

そして、

音楽の目的は魂の成長だとして、すべてを肯定して演奏していこう。

 

となります。

 

そう感じていたいし、そうありたい。

理想ですね。

(私の場合は、この境地に少しでも近づくために練習ですね。。。)

 

あと、個人的願望ですが、

もし次の人生がもしあるなら、

ぜひ音楽家になりたいですね。

今回の人生のすべての音楽体験、

人生経験のすべてが次の人生の「音楽」に生きるわけですから。

死んだら終わりではないということで、楽しみです。

 

「輪廻転生」、

科学的には当面証明はされないでしょうが、

あることを仮定して楽しみながら生きていきたいです。

 

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ。

 

今回は、ルドルフ・シュタイナーの思想と音楽についてです。

 

まずは、シュタイナーの思想の特徴です。

 

シュタイナーは、

キリスト教的価値観をベースにして学問にした神智学から

さらに派生した人智学というものを作りました。

 

キリスト教的価値観に基づいた精神世界を科学的に探究し、

瞑想と集中で悟りを得ようという、

仏教的、新興宗教的側面のある思想です。

 

そして、心と身体の構造について独特の考え方を持っており、

エーテル体、アストラル体、というような聞きなれない単語がよく出てきます。

以下、シュタイナーの考える人間の構造について、

概略を箇条書きにしてみます。

 

1.肉体:身体

 

2.エーテル体:肉体の形態を維持するエネルギー。気質、習慣、記憶。植物的エネルギー

 

3.アストラル体:身体と自我をつなぐ。感情。欲望、動物的エネルギー。

 

4.自我:我々の考える自分

 

5.霊我:アストラル体を自我でコントロールできる様になった状態

 

6.生命霊:エーテル体を自我でコントロールできる様になった状態

 

7.霊人:自我で肉体を変容できる

 

という感じです。

エーテル体、アストラル体と、

自我と身体の間に2層の状態を想定しているのが

特徴的です。

 

また、ユング心理学と比べると、

ユングでは意識⇒無意識⇒集合無意識と、どんどん深く掘り進んで行く感じですが、

シュタイナーでは身体⇒自我⇒神と、上に上がっていく感じが、

キリスト教的な感じです。

 

シュタイナーには多数の著作があり、

精神世界、教育、農業、建築など色々な分野について書いています。

そして、精神世界的観点からの音楽論についても以下の著作に書いています。

 

「音楽の本質と人間の音体験」

 ルドルフ・シュタイナー著 西川隆範訳 イザラ書房

(以下「音楽の本質」)

 

表面的な科学的音楽論や音楽美学論しかみられない中で、

この本は現代でも価値があります。

個人的にはやっと見つけた感満載です。

 

シュタイナー自身、

「音楽」について考えるには、

「人間全体」について考えなければならないと著作の中で書いています。

まさに、人間全体から考えた音楽論です。

 

では、シュタイナーの音楽論を見ていきましょう。

 

 

まず、

音楽という芸術について。

 

シュタイナー曰く、

「音楽の本質」P.17より、

「彫刻、絵画など、音楽以外のあらゆる芸術は、自然の秘密の意図を推測するまえに、表象をまとめなければならない。それに対して、メロディ、ハーモニー、音楽は直接、自然自身の表明なのである。音楽家は、神の意志の脈拍が世界を貫くのを直接聴く。神の意志がいかに表現されているかを、音楽家は知覚する。」

 

他の芸術分野では、

一度表現されたものを介して神の意識を受け取るが。

音楽は神の意志を直接知覚できる。

ということです

 

音楽のみが神の世界とダイレクトに繋がれるんですね。

 

こんな視点はなかったし、

音楽をやっていてよかったなと思いました。

音楽で神聖な気分になる、っていうよりも、

音楽体験=神聖(神性)そのものだったのですね。

 

 

次に和音についての考察です。

 

シュタイナーは、

時代ごとに、何度の和音が音楽の中心になっているか

という特徴的な見方で音楽を捉えています。

(ドとシが七度、ドとソが五度、ドとミが三度です)

 

まず最初は、「七度の音楽体験」(アトランティス文明以降)です。

「音楽の本質」P.47より、

「七度の体験において、人間は地上との結び付きから解放されるのを感じました。・・当時の人間は、「わたしは自分が霊的世界の中にいるのを感じる」という意味で、「わたしは音楽を体験する」と、いうことができたのです。」

 

アトランティス文明以降の時代には、

七度の和音によって地上の世界から開放されて、

霊的世界にいることが感じられたとのことです。

 

 

次は「五度の音楽体験」(ギリシャ文明~ルネサンス期)です。

「音楽の本質」P.48より、

「人間が肉体の中に入り込み、自分の肉体の中に座をしめようとするにしたがって、七度体験が苦痛なものと感じられはじめたのです。そして、五度体験に大きな満悦を感じはじめました。・・五度は、時の経過のなかで、快適な、心地よい音楽的な感じになっていったのです。・・音楽は忘我状態を体験させるものでした。」

 

人間の心が肉体のなかに座を占めるにあたって、

七度体験が苦痛になり、

五度体験で忘我状態になれるように変化したようです。

日本でいうと、雅楽などにはまだこの五度の感覚が残っているような気がします。

 

そして「三度の音楽体験」(ルネサンス期~現代)です。

「音楽の本質」P.49より、

「三度体験が現れたことによって、主観は自分のなかにやすらうのを感じ、人間は自分の通常の生活の運命感受を音楽と結びつけはじめたのです。・・長調と短調は人間の主観、地上的身体と結合した人間の感情のいとなみと結びついています。」

 

この段階で初めて、主観的な感情が表現できるようになり、

長調と短調も生まれました。

人間の自我による感情が初めて音楽と結びつくようになったのが、

このころからです。

 

 

さいごに「オクターヴ(八度)の音楽体験」(未来の人類)です。

「音楽の本質」P.55より、

「オクターヴ体験が、先に述べたような方法でやってくるとき、この世界へのつながりが現れるでしょう。そのとき音楽体験は、神の存在を証明するものになるでしょう。」

「音楽の本質」P.56より、

「わたしの自我を、、地上にあるように、一度のなかで体験し、もう一度、自我が霊的なもののなかにあるように体験すると、それは神の存在を内的に証明するものになる。」

 

オクターヴ体験は、神の存在を証明するものになるとのことです。

生きている間には無理かもしれませんが、

そういうものがあれば体験してみたいものです。

「悟り」のような体験かもしれません。

 

 

 

楽器について。

 

オーケストラに出てくる楽器は皆、

神の世界で設計されたもの(「神の本質」P.78より、「 楽器は、すべて霊的世界から取って来られたものです。 」)

と言っています。

確かに、なにか人知を超えた形をしてますよね、みんな。

そして、楽器は音楽が人間全体で体験されることを証明していると書いています。

管楽器はメロディ、弦楽器はハーモニー、打楽器はリズム

を通して証明されているのです。

 

楽器もただ何となく人が設計したのではなく、

上の方から来た情報で作られているんですね。

 

 

 

音楽について考えるということについて。

 

「音楽の本質」P.130より、

「音楽は本質的に無意識を使うものなので、わたしたちは非芸術的な理論的考察なしに、そのような事柄を意識下、半意識によって、意識へと輝く音楽体験といっしょにすることができます。ほんとうの精神科学的な芸術考察は、非芸術的になる必要はまったくありません。血の気のない抽象や、美的な理論の織りまぜにいたることはありません。」

 

芸術についての、非芸術的な理論的考察とか美の理論は、

本質的ではないということです。

私は耳が痛い感じですが、

確かにその通りだと思います。

 

中途半端な理論づけはあまり意味ないんでしょうね。

実験心理学的なアプローチなどの

論文を読んでも何か大切なものが抜けている感じがしますし。

「人間全体」を扱うべきなのでしょうね。

 

 

最後に

音楽と接して我々は一体何を聴いているのか、

どんなものと接しているのかという

普段無自覚になりやすい根本的な問いについて、

シュタイナーは視点は多くの視点を与えてくれています。

 

また、音楽は通常の学問や芸術よりも高い(深い)ところまで

我々を連れて行ってくれるものなんだというのが分かり、

音楽を作っていく上で精神的支えにもなります。

 

今回は若干まとまりに欠いた記事になりましたが、

私自身、シュタイナーについて勉強中なので、

また学んだことが有れば別の記事に書いていきたいと思います。

 

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ。

 

今回はキリスト教とクラシック音楽です。

 

最初に、

私が自分なりに把握しているキリスト教の特徴を挙げてみます。

 

・神の子であるイエス・キリストを信じている

・父と子と精霊の三位一体を信じており、これを一つと見なした一神教である

・聖書にイエスの事が書かれていて、イエスは実在の人であると考えられている

・信じれば天国で永遠の命が得られる、信じなければ地獄行き

・キリストがアダムとイブの犯した原罪を償ってくれて、神と新しく契約した

・十字軍、コンキスタドール(スペインの南米征服)、奴隷貿易、宗教改革(内部抗争)等

 大規模な殺戮を行ったが見過ごした

・善行もたくさん存在すると思われる(マザーテレサとか)

・信者は世界で一番多い(20憶人くらい)

 

という感じです。

 

まさに最強の一神教ですね。

残念ながら個人的には縁が薄いです。

 

音楽とのつながりを見ると、

グレゴリオ聖歌からバロックまでは、

どっぷり教会に組み込まれていた様です。

実際バッハあたりまでに教会に雇われていましたし。

 

そのあと社会は、

自然科学と技術により力をつけた民衆の力により、

貴族と教会つまり武力と思想による支配から人は開放されました。

そして音楽も開放されました。

古典派のハイドン、モーツァルト、ベートーベン

がそれにあたる。

というのが、私の認識です。

 

ただし、

貴族と教会という権力から開放されたのであって、

キリスト教そのものは別に捨てた訳ではなさそうです。

 

現世で苦労しても、キリストを信じて正しく生きていれば、

死後に天国に行って永遠の生命が与えられる。

救済される。

 

っていうストーリーが音楽の中に常にある様に思えます。

 

西洋人はこういうキリスト教的成功ストーリー?が

僕たちより好きなんじゃないかと思います。

 

音楽にはかならず緊張と弛緩という要素があり、

リズム、メロディ、ハーモニーでそれを表現することが

特に西洋の音楽を作る場合に肝になりますが、

西洋世界で作られたものは、

その緊張と弛緩のストーリーの大本は、

キリストの人生であったり、

自分が現世で苦労して、死後に救済されるイメージだったりが

どこかで投影されている可能性が高いといえるのではないでしょうか。

 

一方、僕たち日本人の心には、

一体どんなストーリー、物語が刻まれているのでしょうか。

 

多くの日本人にとって、確固たるストーリーは無いのでは

ないでしょうか。

 

私の場合は、古神道的な価値観を起点にストーリーを紡いで行こうと

考えています。

 

神道という宗教をあげると抵抗がある方もいるかもしれませんが、

たとえば、宮崎駿のアニメで表現されている、

自然に対する畏敬の念とか、大事に思う気持ち等は、

日本人が忘れてしまった、神道的価値観だと思います。

 

大事なものを思い出して、手元に戻して、

等身大で生きていこうとすると、

日本人としては神道的になっていくのではないかなと感じています。

(各方面から反論が来そうですが。)

 

そういう神道的物差しを持ちつつ、

キリスト教的価値観も意識しつつ、

西洋で作られたクラシック音楽とお付き合いしていきたいと思います、

 

では。