『りょう太のぼうけん』〜イクメンではない子育て〜 -5ページ目

早雲寺でケンケンパ

戦国時代の関東の覇者、北条氏。その北条五代(5人)の墓がある、早雲寺へ行ってきました。


箱根湯本駅から早川沿いを歩いていき、散策路のように整備された山道を登り、下ると、早雲寺があります。息子の足でも、だいたい15〜20分くらいです。



ガイドブックに必ず載っている観光スポットなのに、観光客に全く媚びる様子はありません。禅寺だからなのか、臨済宗だからか……この雰囲気って、懐かしいな。ぼくは、こういうツンデラ(ツンツンしている寺)が嫌いじゃないです。


本堂の前には、うっすらと苔むしたスペースが広がっています。その本堂と並行に、石が並んでいました。


さっそく息子の りょう太が「けんっけんっぱっ!……けんっけんっけんっけんっぱ!」と、飛び跳ねています。ま、ぼくら以外に拝観してる人もいないし…まぁいいでしょ。



本堂をはじめ北条氏五代の墓(? 碑?)も、江戸時代に再興されたものだそうです。というのも、戦国時代の最終盤に、北条氏の小田原城が、豊臣秀吉などの連合軍に囲まれた当初、この早雲寺に豊臣秀吉の本陣(総司令部)が置かれたとか。その後、本陣が石垣山城(一夜城)に移る際、早雲寺を含む周辺は焼き払われたとか。


おそらく北条家の庇護のもとにあった時代は、大伽藍だったことでしょう(豊臣秀吉が本陣を敷くくらいですからね)。


今は往時を偲べるものはありません。いくつか、国指定文化財に指定されているものも、年に何日かの拝観日に見られるだけのようです。


そんな、北条家の栄枯盛衰を感じられる境内は、息子の りょう太には けんけんぱ がしやすかったよう。箱根湯本の喧騒を避けたいのなら、とてもおすすめです。



ああああああ

「8K みほとけ調査」@東京国立博物館

東京国立博物館へ行ってきました。あまり時間がなかったので、今回は法隆寺宝物館にだけ寄ってみました。
 
目的は「8K みほとけ調査」という展示。インド、中国、そして日本に残る菩薩像を、高解像度でスキャンしたデータを、8K解像度のモニターで見られるというもの。

 

 

懐中電灯のようなポインターを持って、モニターに映し出される菩薩像に向けると、照らした場所をしげしげと見られます。また自分の体を左右に動かすと、まるでそこにある菩薩像を左や右から見ているかのように、菩薩像が左右に振ります。
 
また、菩薩像のところどころにあるマークを、懐中電灯で照らすと、その箇所の詳細な解説が音声が流れます。
 
8K解像度って、すごく詳細まで見られるんだなと思ったと同時に、こうして高解像度でスキャンされた、さまざまなデータを集めて、バーチャル博物館のような形で、整備してくれれば良いのにな……とも思いました。
 
今回のも立体データなので、VRで自由に見られたらいいのになぁ…。まぁ今回はシャープが作ったものなので、VRではなく、モニターなんでしょうけどね。
 
⭐︎⭐︎⭐︎
 
8K映像で見る菩薩像も面白かったのですが、もっと興味深かったのは、そのブースの壁に描かれた、3体の菩薩像の解説メモでした。
 

 
人が常に並んでいる場所なので、一つ一つ丁寧に読んでいけなかったのが残念です。なにか冊子にして配ってくれたらいいのに…と、ないものねだりばかりしちゃいます。
 
全体を写真に撮ってきたのが、上のものです。
 
今度行ったら、もっと一枚一枚を撮影してきたいと思います。
 

「お金」に翻弄されないために、「お金」のことを真剣に考える

ぼくは重度の「働きたくない症候群」に罹っています。

 

もう、できるだけ働きたくない…というか、できるだけ仕事とは関係ないことを考えていたいです。例えば……興味のある歴史だったり、植物のことだったり……いちおう家族のことも考えたい(と言っておきます)。

 

とはいえ、家族のこともあるので、仕方なく働いています。

 

(再び)とはいえ、仕事が嫌いなわけではありません。今の仕事は、世の中にある多くの仕事のなかで、かなり自分に合った仕事だとは思っています。その点では、そうした仕事を得られたことは、ラッキーだったとも思っています。

 

ようは、頭の中が仕事のことでいっぱいいっぱい……という状態を避けたいのです。

 

☆☆☆

 

そんなぼくは、投資のことを考えることが多いです。

 

一方で、ぼくのパートナーである妻は「投資で儲けるなんて邪道だ!」という性格です。ぼくが「あと〇〇円投資すれば、月に〇〇円稼げるよ」と言っても、「そのくらい、仕事して稼げよ!」と言います。

 

はぁ〜……ぼくには、無理なのよ……わかってよ……。

 

そんな妻を説得して、約3年前から何種類かの投資をはじめました。

 

いくつかは失敗し、いくつかの投資からは、徐々に利益のようなものを得ています。

 

そして、どんな投資が自分に合っていて、どんな投資が苦手なのかが分かってきました。

 

「投資も誰かにお任せしたい」というのが、基本です。

 

例えば、個別株やFXなども、デイトレードなどには向いていないということがハッキリしているんです。

 

なぜかといえば、ぼくには“なりわい”としての本業があります。そのほかにも、家族と遊んだり、一人で物思いに浸ったりする時間が必要です。ハッキリしているのは、株や為替が上がるか下がるかなどを、研究する時間がないんです。

 

時間がないというのは、全くないというのとは違います。

 

プロフェッショナルにまでなる時間がないんです。あと、頭もありません。

 

もしぼくが投資の天才であれば、短期間かつ短時間で、取引のコツを掴めるはずです。そうして個別株やFXなどに資金を投入すれば、稼げるはずです。

 

試してみましたが、分かったのは「ぼくは投資の天才ではない」ということ。

 

自分の才能を見切りました。

 

例えば、天才が投資で稼げるようになるのに必要な時間が、100時間だとしましょう。

 

その場合に、ぼくが稼げるようになるのに必要な時間は、1万とか10万、もしかすると100万時間かもしれないと……そういうことが分かったんです。

 

分かった結果、そうした努力を重ねた人に寄生するのが、ぼくのベストな選択だと思っています。

 

☆☆☆


例えば「自分の家が欲しいなぁ」と思ったとしましょう。一般的に、そう思った人は、戸建てを買ったり、工務店や大工さんに依頼して家を建てます。

 

当たり前です。

 

自分で木材を買ってきて、のこぎりやトンカチを使って家を建てるよりも、大工さんなどに頼んだ方が、住みやすい家が短期間で作れるからです。しかも、多くの場合は、自分で建てるよりも、安く建てられるんじゃないでしょうか?

 

例えば「子どもに英語を習わせたいな」と思ったとしましょう。一般的に、そう思った人は、子どもには英語教室へ通わせるんじゃないでしょうか?

 

当たり前です。

 

親が英語を勉強して、話せるようになってから子どもに教える……なんてことをしていたら、何年後から子どもに教えられるようになるか分かりません。世の中には英語を教えるプロフェッショナルがいて、そうした人に教えてもらったほうが、子どもが速く英語を話せるようになる確率が高いからです。(親が英語を話せたとしても、教えるスキルを持っていない場合が多いはずです)

 

☆☆☆


家を建てる場合の工務店や大工さん、英語を習う場合の英語教師のように、各界にはプロフェッショナルが存在します。そして、今ではお金を払えば、効率的に目的を達成できるんです。それぞれクオリティが、ある程度保証されているので、安心して任せられます。

 

そんななか、投資に関していうと、プロフェッショナルへ依頼せずに、自分で「やってみよう!」と飛び込んでいく個人が多いような気がします。

 

ぼくもその一人でした。

 

いま考えると、無謀なことをしていたものだと思います。

 

☆☆☆


いくつかの投資をしていますが、今は「投資信託」に興味を抱きはじめています。一部、投資信託と同様の仕組みを使ってきましたが、それを本格的に始めたいと思っています。

 

これもプロフェッショナルに依頼するものです。

 

どの会社の株を買ったり売ったりしたら良いか分からないからです。はたから株の個別株の取引を見ていると、それらの株の価値が上がったり下がったりなんて、分かるわけがありません。

 

投資信託は、自分が預けたお金を使って、最善と思われる取引を勝手に行なってくれるサービスです。

 

もちろん「投資」なので、100%儲かる保証はありません。だって、株の価値が上がるか下がるかなどは、プロフェッショナルでも分からないからです。

 

ではなぜプロフェッショナルに頼むかと言えば……彼らは「上がりそう」とか「下がりそう」というのを分かっています。それ以外に「予想外の事象が起こったときに、どうリスクを回避するか」を、素人よりも分かっています。

 

それだけでも、プロフェッショナルに依頼する価値は高い……と考えます。

 

☆☆☆


投資信託が何なのか?

 

ぼくもよく知りません。それほど詳しく知る必要があるとも思っていません。だって、詳しく知る必要があるのなら、知るまでに努力をかける時間が必要ならば、どんどんプロフェッショナルに依頼するメリットが薄れていくからです。← だって、そんなに勉強研究するなら、自分で取引したほうがいいじゃん、っていうことになりかねないからです。

 

さきほど、下記サイトを読んで、ここは分かりやすいなと思いました。(なにかの投資を勧誘しているわけではありません。投資に関心のない人は、おそらくずっと関心がないだろうから、説得しても無駄……と、ぼくは思っているので)

 

 

上記サイトで分かったのは……

 

生活費として毎月20万円の分配金(利益)を得たい場合に、どれだけの金額を投資信託に投資すればよいか?

 

年率10%の分配金利回りが期待できる投資信託の場合に必要な投資資金は……

 

2,400万円

 

これが高いと感じるか安いと感じるかは、人それぞれでしょう。

 

ただ、ぼくは「とっても安い!」と感じてしまいました。

 

だって2,400万円って……。多くの世帯(家庭)が、このくらいの金額以上の家を建てたり所有したりしているんですよね。そのために何十年もローンを組んで、毎月10万円とかのお金を支出しているはずです。

 

それが逆に、2,400万円を投資信託すれば、毎月20万円の「収入」が得られる(かもしれない)からです。

 

もちろん、「家を建てるために2,400万円を借りたい」と言う方が、「投資信託に掛ける2,400万円を借りたい」と言うよりも、簡単に安く借りられることは知っています。

 

ただ……たいていの家は、価値が下がりますよね(ここ10年の都市部は上がっていますが…)。同じ数十年単位で考えれば、投資信託のたいていは利益が出せる確率が圧倒的に高いです(株やFXで、デイトレードを長期で行なう場合は、知りませんけどね)。

 

ぼくなら、価値が下がる家を建てるのにヒーヒー生活するよりも、数十年はボロい家にでも住んで投資信託を買い増していき、その後は毎月20万円を得られる方が、数段良いなと思ってしまいます。

 

☆☆☆


最近分かってしまったのですが……

 

日本人の多くは、働かなくても生活していけるのに、いやいや労働している人が多い

 

ということ。もちろん日本社会にとっては、一生懸命に働いてくれる人が多いというのは、とても良いことです。もちろん「働きたくない」ぼくにとっても、多くの人が労働好きなのは良いことです。

 

ただ、個々人や家庭ごとに考えると……個人や家族の誰かが、いやいや働いている状況は、不幸が増す行為のような気がします。

 

ぼくもそうなんだよな。

 

自分や家族が「お金」に翻弄されないためにも、「お金」のことを真剣に考えたいものです。

 

そして、今回の話は、どうすれば“自分たちにとって、より幸せなのか”と考えた場合に、“ぼくだったら”という話を書いただけです。


各人や各家庭において、状況や価値観は様々なので、“誰もが”こうすれば幸せになれる、ということではないので……「いや、うちは〜〜だから、そんなこと出来るわけない」などと感じられた場合は、またほかの道を探すと良いと思います。

 

 

「しろい たんぽぽ あったよ」

「しろい たんぽぽ あったよ」

 

小学校へ向かいながら、息子がそういって追いかけてきました。

 

「白いたんぽぽ? ほんとに?」

 

「うん あっちに さいてた」

 

息子が今来た道を指差して言います。嘘をついているようにも思えないけれど、このあたりにシロバナタンポポが咲いているとも思えません。それでも、もしかしたらと思い、道を引き返しました。

 

「ほらここ」

 

そういって、一軒家の日陰の一画を指さす先には、ワタをいっぱいにしたタンポポがありました。

 

「そっかぁ ワタも白いもんね。けど、白い"花"が咲いているんだと思っちゃったよ」

 

「あ そうだそうだ しろいワタだった(笑」

 

そうして僕らはまた小学校へ向かいました。大きな道から狭い道へ入り、校門まであと20メートルまで来たあたりで……

 

「ここにくると さむい……さむいよ……」

 

と、息子が言って、突然立ち止まりました。

 

「寒いの? ここは日陰だからね……教室へ行けばあったかいよ」

 

息子のうしろを押しながら、そう言いました。一歩、二歩と歩かせました。あきらかに押される背中に、あらがいながら歩いている様子。

 

「さむいんだよぅ さむいんだよぅ きのうも きょうしつにいっても さむかったんだよぅ」

 

「大丈夫 大丈夫。みんなと遊べばあったかくなるよ」

 

校門まできて、手を離して僕が行こうとすると、息子は逆に僕の手を強く握り締めました。

 

まいったなぁ……

 

「さむいんだよぅ おなかもいたくなってきた……」

 

校門を通り過ぎて、中腰になって息子と話そうと思いました。

 

「寒いの? なんでだろうなぁ。それじゃあ、うちに帰る?」

 

そう尋ねても、はっきりと頷くわけではありません。どうしたんだろうな。まぁ保育園でも、1週間に1回ていどは、朝出かける前に「おなかがいたい いきたくない」と言っていたことがありました。たぶん気分的な問題だと思うのだけど。その気分は、息子にはどうしようもないものなんだろうなぁ。僕が気分屋だから、息子がフッと学校へ行きたくなくなる気持ちもよくわかります。

 

校門脇で話し込んでいたものだから、先生などが次々にやってきて「一緒に行こう? ねっ」などと優しく声をかけてくれました。

 

声をかけられるたびに息子は「さむいんだよぅ さむいんだよぅ」と、つぶやきました。だんだんと追い詰められていくのか、息子の目からポロポロと涙がこぼれてきました。「おなかがいたいんだよぅ」と、先生の顔を見ないように顔をそむけて、訴え続けていました。

 

☆☆☆

 

その後で、息子は2-3人の先生に連れられて、学校に入っていきました。校門の外から、様子をうかがっていると、息子が振り返りながら僕のことを探しているのが見えました。

 

こうやって子どもは強くなっていくんだろうなぁ。

 

そう思いつつも、もしかすると、息子はこのまま学校が嫌いになるのかもしれないなぁとも思いました。僕も妻も、学校が嫌で嫌で仕方なかった……という記憶はありません。息子も、教室へ行けば友達に囲まれて、楽しく過ごすはずです。それでも、学校へは行きたくないと言い出すかもしれないなぁ。

 

そうしたら、正直面倒だけど、一緒に何かを探してあげないといけないのかもなぁと思っています。

 

まぁ僕の血が入っちゃってるからなぁ……一筋縄ではいかなくても、驚きはしませんけどね。

 

☆☆☆

 

白いタンポポって、なぜか関東ではほとんど咲いているのを見たことがありません。

 

数年前に伊予松山城へ行った時に、咲いているのを見つけました。

 

天守閣のある本丸へ向かう道脇の、草が生い茂るばしょで写真を撮っていました。ぼくはしゃがみこんでカメラで花を撮り、息子は近くではしゃいでいました。

 

「お〜い! 白いたんぽぽが咲いてるぞぉ〜」と、息子や妻に教えてあげたのですが、ふたりともたいした興味はなさそうです。

 

そうしていると、話しかけてきた親娘がいました。その娘さんが、シロバナタンポポの研究をしているのだと、一緒にいた母親が言っていました。愛媛や広島など瀬戸内海の沿岸に多いのだとか。

 

母親が話しているあいだ、娘さんは恥ずかしがりのようで、はにかみながら、ずっと黙って うつむいていたのを思い出しました。

 

息子と探検してきた「江戸博」<土偶編>

江戸東京博物館へ、息子の りょう太と2人で行ったときの話の続きです。

 

 

 

今回の江戸博の探検は、だいぶ長くなってしまいました。常設展で歩きまくったあげくの特別展「2021 縄文」。


前回は、その縄文展の、主に土器を整理しました。今回は土偶です。

 

 

展示を見ている最中は、実は息子の りょう太の妨害にあっていたので、じっくり見ることができませんでした。


土偶などを見ていると、頻繁に りょう太に呼び出されて、縄文のムラの模型に連れて行かれていたんですw なので、解放された隙にササッと写真を撮り…またムラへ連れて行かれて、また土偶に戻って写真を撮る…なんて状態でした。


そこで、改めて写真を整理しつつ、江戸博の公式YouTubeチャンネルで、学芸員(?)の解説を聞いてみました。

縄文時代の草創期から前期にかけての土偶を非常に小型で、抽象的なものが多かったようです。中期以降になると非常に様々な土偶が作られるようになります。

 

例えば縄文中期についてはここにあるような、立ち姿の(立位の)大型の土偶とか、小型の土偶が作られました。また中期以降になると筒型土偶やハート形、山形、みみずく土偶、それから遮光器系土偶など様々な土偶が作られます。

 

また多摩ニュータウンのNo.72遺跡では、土偶の頭部だけの非常に小さいミニサイズの土偶が発見されています。

 

土偶は、男女の生物を区分できないものもありますが、性別が判定できるもののほとんどが女性のようです。男性をかたどった例としては、福島県の高橋遺跡で、縄文後期の事例で知られていますが、その出土例は非常に少ない。


では土偶は何のために作られたものだったんでしょうか。

 

この辺りは縄文の草創期や前期のものでしょうかね。土偶というか、ココアとかチョコ味のクッキーのようです。


ただ、一番右側の土偶は、腰から下の膨らんでいるラインが、後期土偶の「多摩ニュータウンのビーナス」や「縄文のビーナス」に、似ている気がします。こういう衣装なのかが、一般的だったんでしょうか。それともまた違うものを描いているんでしょうか。



一見、手足のない土偶なのかと思いましたが……これって、身体の前に腕が彫られていますよね。両手を合わせています。少し女性的な手の合わせ方……。女性なのか分かりませんが、足がないのではなく、スカートのような服を着ているんじゃないでしょうか。


それにしても、顔が大きいですけどね。




こちらは頭部だけが残ったのか、顔だけを作ったものか、写真だけでは分かりません。


右は普通に、まゆげが両津勘吉みたいに繋がっていますが…まぁ当時はそれが一般的だったのかもしれません。


左は…吊り目みたいになっていますが、遮光器…つまりアイマスクというかサングラスを装着しているようにも見えます。



土偶としては、大きな足でした。これが全身土偶の一部だったのか…足だけを作ったのかは分かりません。でも、この足に合う身体を作っていたとすれば、だいぶ大きな土偶になりそうです。


しかも…ほかの土偶で、こんなに写実的な土偶って、見当たらない気がします。と思ったけど……この足の土偶……指が足りてませんね……4本しかない。



上と下は同じ土偶です。少し斜め前から見ると、大きな仮面をかぶっているようにも見えます。


この細い腕や足が、よく何1000年後まで残っていたなぁ。





↑ 学芸員YouTubeだと、この左側が筒型土器と称していました。



↑ 性別が判定できる土偶の、ほとんどが「女性」のようだと、YouTube学芸員は言っていました。おそらく、胸が膨らんでいる場合は、女性ではないか? と判定しているんでしょう。ただ…本当にそうなのかなぁ…これって男性じゃないか? と思う土偶も多々あります。



↑ この真ん中の土偶が、いい表情しています。



↑ 人型土偶を集めたコーナーだと思っていたら、なんかゴロっとした物体がありました。なんだか分からず写真に撮ったのですが……これは、手を広げた人が描かれていたんですね。



↑ 遮光器土偶ですかね。他の土偶と、雰囲気が異なるような気がします。だからなのか、これだけ別格で、後ろに鏡が用意されていました。



↑ さっきの良い表情の土偶を、ドアップで、もう一度撮っておきました。


 

 

見逃すところだったのが丘陵人(おかびと)です。特別展の入り口やパンフレットで、あれだけアピールしていたのに……けっこう「その他の土器・土偶」みたいな扱いの展示でした(笑)。そして、ちっちゃい! 


↓ 特別展の入り口ちかくには、直径1.5mくらいの「モニュメント」が飾られていたんです。まさか、こんなに大きいとは思っていなかったけど……あんなに小さいものだったなんて(笑)

 

会場の最後の最後……出口の直前で、長野県茅野市で出土した通称「縄文のビーナス」が展示されていました。これは撮影禁止だったので、その後にあったお土産用のレプリカを撮っておきました。

実物を見て思ったのは、イメージしていたよりも大きくて腰がドッシリとしていたこと。身体のバランスは、ガンダムのドムに似ているなと思いました。また、頭部の冠(?)を後方から見てみると、うずまきのような紋が刻まれていましたね。あれはなんだろう。

 

☆☆☆

 

 

これは耳飾りです。耳たぶに穴を開けて、最初は小さなものを入れて、じょじょに大きい耳飾りをハメていったんでしょうか。


この耳に飾りをハメるというファッションは、日本の縄文人のオリジナルなんだろうか? すでに外国との交易も行なっていたとすれば、中国あたりの人たちの真似をしたのかも……とも思えます。


また、精度の高い丸を、どうやって作っていたんだろう?






 

 

 

 

すごいぞ! 縄文人【土器編】@江戸東京博物館

息子の りょう太と江戸東京博物館へ行ったときの続きです。

 

 

常設展を見終わり、とうとうぼくの目的地である特別展の『縄文2021 東京に生きた縄文人』へ行きました。

 

あまりにも記録と記憶に残しておきたい土器や土偶などが多かったので、今日から少しずつ載せて、アップデートしていこうと思います。


特別展へ入ってすぐに飾られているのが「縄文のビーナス」……ではなく、「多摩ニュータウンのビーナス」。これが女性の偶像なのかは分かりませんが、胸に膨らみがあることから、女性である可能性は高いですね。

 

解説パネルには「非常に丁寧に作られており、表面は光沢を帯び……」と記されています。特別展の最後に展示されている「縄文のビーナス」の土偶は、もっと光沢を帯びていますけどね。

 

同館の公式YouTubeでは、学芸員の方が「土偶は土器と同じように粘土を焼いて作られている」と説明しています。

 

また「おそらく慰霊や祭祀で使われた道具と思われますが、女性をかたどったものが多く、その中には妊婦の様子をうかがう様子も数多くあります。少なくともこのような土偶については、縄文人たちの生命の誕生に対する想い、そういったものが土偶の製作に強く、関わっていたのではないかと思われます」とも言っていますが……。

 

土偶は「慰霊や祭祀用」だというのは、よく言われていることです。ただ、「土偶」とは「土で作られたフィギュア」という意味でしかないとおり、その目的は、まだ全く分かっていません。

 

 

縄文時代は1万年も続いたと言います。現在は西暦2021年……つまりキリスト誕生から2021年ということ。縄文時代は、2021年の5倍もの長さに渡っていたわけです。例えば、写真の「多摩ニュータウンのビーナス」は「今から約5,380〜5,320年に作られた」と言います。

 

その1万年のなかで、たった数千数万の土偶しか残っていないというのが事実。だから、土偶を何に使われていたのか? というのは、「さまざま」というしかないのでしょう。


☆☆☆

 

日本列島における縄文文化がいつ頃の話なのかといえば、世界ではシュメール…メソポタミア…インダス…マヤ…などが興ってはなくなっていったようです。これらの文明は、だいたい3000年くらいでなくなっていった。

 

おそらくですが、縄文人は、とても平和的な人たちだったのだろう…と言われるゆえんです。のんびりと生活していたため、領土という概念も希薄で、争うことも少なかったのかもしれません。

 

もちろん「遅れていた」とも言えます。そもそも他の集団と争うほど、大きな集団を作っていなかったから……とも言えます。

 

現在でも、よく日本はガラパゴス化していると言われますが、この縄文時代にも、例えば他国から攻められることもなく、平和に暮らしていたために、良い意味でガラパゴス化していたんだと想像できます。

 

ちなみに、『キングダム』の「秦(しん)」の時代は、縄文の晩期にあたるようです。日本では、まだ遮光器(しゃこうき)土偶が作られていた時代に、中国では「兵馬俑(へいばよう)」という、超リアルな偶像が作られていたのです。それもかなりすごいよなぁ。

 

↑ これは東京国立博物館の遮光器系土偶(秋田県)。紀元前の1000〜400年の、縄文時代の晩期に作られたもの。

 

☆☆☆

 

特別展では、「多摩ニュータウンのビーナス」を見てから、本格的に展示が始まります。

 

まず中心は、東京各地で発掘されたさまざまな土器が、出土した遺跡ごとにまとめられていました。

 

帰宅してから写真を見てみると、ぼくはどうやら、中期から晩期に作られたデザイン性の高い土器が好きだったようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 




 

 

☆☆☆

 

これは、展示室のどこかに掲示されていた、縄文時代の関東地方の様子です。

 

 

縄文時代早期以降は海水面が上昇する“縄文海進”が進行していますが、今から約7000年前の縄文時代早期末から前期始めくらいにピークに達します。その頃の海水面は、今から約3mほど高かったようです

今の利根川や荒川あたりでしょうか? 現在の東京都の東部の多くや、埼玉県の東部も入江のようになっていたようです。もちろん我が家も海底だったということ。

 

いまの利根川や霞ヶ浦あたりも、かなり広かったんですね。いまの桜川沿いを、筑波山の南や西側まで海水だったとは……。

 

今よりもかなり暑い時代だったのでしょうか?

 

 

 

「日本第四紀学会」という、なんだか偉そうな人たちがいそうな学会のサイトをサラッと読むと、以下のように記されています。

 

日本列島は、今よりも数℃以上気温、水温が温暖な時期であったことも推定されています

 

う〜ん……この頃の人たちも、現代人のように二酸化炭素の排出量が多かったのでしょうか? まさかね……。

 

それは良いとして……

 

縄文時代って、イメージとしては、ムラ(一定のエリア)の中に閉じこもっていたという印象がないでしょうか? ただ、有名な話ですが、黒曜石は流通していたんですよね。

黒曜石が古くから石器の材料として、広域に流通していたことは考古学の成果でわかる。例えば、伊豆諸島神津島産出の黒曜石が、後期旧石器時代(紀元前2万年)の南関東の遺跡で発見されているほか、伊万里腰岳産の黒曜石に至っては、北松浦半島の縄文人が隆起線文土器・大型石斧(佐世保市相浦の門前遺跡製)とともに持ち込んだ物が、対馬海峡の向こう黒曜石を産出しない朝鮮半島の東三洞貝塚で出土しており、隠岐の黒曜石はウラジオストクまで運ばれている。(Wikipedia「黒曜石」)

ということは、縄文人は、生まれた土地にこもっていたわけではない、ということ。いろんな「移動」をしていた。

 

で、東京都の縄文人も、そうだったようです。

 

当時、移動手段として使われていた丸木舟だそうです。一本の木(ニレ科のムクノキ)の樹皮を剥いで、中を くりぬいて作ったそうです。

 

これは東京都北区の中里遺跡からの出土品で、縄文時代の中期の舟。現存の状態での長さが約5.8m、内部の最大の深さは約42cm、船底部の厚さは約5cm。

 

 

 

でかい! のですが、これで外洋まで出ていたわけでは、さすがにないだろうなぁ。海へ出るのには、アウトリガーとか付けて、もっと大きな舟だったんじゃないでしょうか。

 

この櫂(かい)=オールは、新潟の遺跡から発掘されたものだそうです。でも、原型をよくとどめていて……すごい丁寧に作られているんですよねぇ。今でも同じ形で十分に使えるでしょう。

 

おだやかで広い東京湾や霞ヶ浦、そのほかの河川を、こういうふうに漕いでいたのでしょう。漁をしていたのか、はたまた交易や運搬に使っていたのか…。

 

そして、交易をしていたとしたら、どんなものをやり取りしていたのか?

 

代表的なのは黒曜石ですが、今回の展示では「各地の土器が、やり取りされていた」んじゃないか、ということでした。

 

下の画像は、多摩ニュータウン遺跡で出土したものですが、実は東京で作られた土器ではないんです。

 


解説パネルには……

 

中期に東北地方の大木式、中部地方の後沖(うしろおき)式、東海の北裏式、東海・近畿の咲畑(さきはた)式と、各地で使用されたものが、多摩ニュータウン遺跡から出土しているということ。

 

さらに驚きなのは……

 

その多くは運ばれてきたわけではなく、どうやら、こちら(東京)で作られたらしい。

 

だから、各地の縄文人が多摩ニュータウンへ集結していた! というわけでもなく、その頃は、普通に各地から土器の職人さんなどが出張販売を行なっていた……ということではないでしょうか?

 

でも……土も持って来てたのかなぁ……なかなか慣れていない土で、思い通りに作るのって大変そうだしな……。

 

 

☆☆☆

 

縄文時代のムラを再現した模型がありました。この特別展のために作ったそうです。

 




死者を埋葬する様子ですね。老衰だったとしても、今では考えられないくらいに、若く亡くなっていたででょう。老衰以外にも、今とは比較できないほど、死が身近だったと考えられます。当然、死生観もいまとは異なっていたはず。


とはいえ、普段は楽しく暮らしていたでしょうね。




ぼくが土器や土偶に夢中になっているあいだ、何度も何度も模型を見ていたけど、彼は何を考えてたんだろう。




縄文人は漁も猟もしていたけれど、安定的に採れる、クリなどの木の実を多く食べていたようです。

 

 




この2枚は、東京国立博物館で開催されていた「たてもの展」で展示されていた、縄文期か弥生期の住居です。こちらには周囲に柵のようなものがあります。土地によっても、色んな形があったんでしょうね。


でも、縄文住居では、どんな草で屋根を葺いていたんだろう。


犬を追いかける少年も、模型で再現されていたけれど、写真に撮り忘れました。息子が何度も、この模型を見ていたな。







このイラストや模型だと、石の斧で木を切っているんだけど……石の斧で、イラストのように木を切れるのかなぁ……。なにか違う方法で切り倒していたんじゃないのか? と思ってしまいます。



 

 

 

 

「トンビがタカを生んじゃった?」と思った話

以前、息子の りょう太が天才ではないか? という話を書きました。

 

 

今回は、その続編です。

 

最近、つまが学童(児童館)へ行き、館長と話をしたときです。

 

館長「りょう太くんって、おもしろいですよねぇ」

 

つま「あ……そうですか? なにかありました?」

 

館長「最近、テンカ(室内ドッジボール)が流行ってるんですけど、りょう太くん、とてもボールをよけるのが得意なんですよ。足も早いんですけどね」

 

つま「そうなんですねぇ…。まぁボールをよけるのは、うまいようですね」

 

館長「そうなんですよ。それでこの前、『かんちょう! ぼく、ボールをよけるのは とくいだけど、ボールを とるのがにがてだから、ボールのとりかたをおしえてほしい!』って言ってきたんですよ」

 

つま「へぇ〜……(なにが面白いんだろ?)」

 

館長「お母さん、普通はね、子どもは、自分が苦手なことを、誰かに『おしえてあげる』って言われても、嫌がるものなんですよ。りょう太くんみたいに、自分の苦手なことを、率先して教えて欲しいっていう子どもは、めずらしいんですよ。それが、面白いなぁって」

 

つま「なるほどぉ。そういうものなんですね」

 

館長「でもりょう太くんって、運動神経いいですよねぇ」

 

つま「そうなんですよ、夫に似たみたいで…」

 

館長「そうなんですね(笑)。良かったですね」

 

つま「でも、普段は『教えてあげるよ』って言っても、『自由に遊びたい』って言って拒否するんですけどね…。せっかく運動神経がいいから、もっと上手になってほしいんですけど……。なにせ顔と性格が夫に似てしまったので……。練習とか嫌いなのかと思っていました(笑)」

 

館長「だんなさん似なんですね(ゲラゲラ笑)」

 

☆☆☆

 

つまから館長との会話を聞いたときに、ぼくも意外でした。

 

りょう太って、ぼくとは違って、意外と向上心があるんだなぁと。

 

もしかすると、まだ子どもだからかな。

 

それにしても、自分が「ボールをキャッチすることが苦手」だって、把握していたのは、さすがだなと思いました。さすが、ぼくの息子だと(笑)。

 

ぼくもスポーツは得意だったのですが、なんで得意なのかが分かったのは、大学生になってからでした。

 

なぜ得意か?

 

それは、自分の弱点が分かるからだと分かりました。もっと言うと、自分が、どんな身体の動きをさせているかや……自分の筋肉がどう働いているかが把握できるからなんです。

 

これが出来ると、ある動作で失敗したときに、何が原因で失敗したかが失敗直後に分かるんです。で、次にチャレンジしたときに、姿勢=身体の動き=筋肉の動きを改善できるんです。

 

多くの人が、原因を把握まではできます。第三者から指摘されることで、把握できる可能性も高いです。ただ、それを次の練習で反映させられるかどうかが鍵になります。この点で、できる人とできない人がいる。できる人は「運動神経が良い」に分類されて、できない人は「運動神経が悪い」に分類される。

 

当たり前の話です。

 

百獣の王の武井壮さんが言っていました。

 

「ぼくは、自分の筋肉が、どう動いているかが分かるんです。だからスポーツが得意なんです」

 

体操の内村航平選手は言っていました。

 

「空中での自分の姿勢を、ビデオを撮っているのを見ているように、はっきりと見えるんです」

 

↑ ぼくの記憶で、こんなことを言っていたと思うだけなので、正確には分かりません。でも、大きく外れてはいないはずです。

 

ぼくが「自分の動きが見える」と感じたのは20歳前後でしたが、もしかすると りょう太はすでに見えているかもしれません。

 

しかも、自分の弱点を克服しようという気持ちを備えている……かもしれない。この点は、ぼくが希薄だった部分です。

 

だから、もしかすると りょう太は タカになるかもしれないんです(笑)。

息子と探検してきた「江戸東京博物館」

小1息子の りょう太と2人で、江戸東京博物館を探検してきました。

 

ぼくは何年かぶりに久しぶりに行ったのですが、思っていたよりも広いですね。じっくりと見て回ったら、一日ではとうてい足りないです。

 

☆☆☆

 

今週の日曜の午後は、ぼくが りょう太を見ていることになりました。前日から「明日、エドハク(江戸東京博物館)へ行こうよ」と、言っておきました。

 

実は何週間も前から行きたかったのですが、なかなか行けなかったのと、りょう太に拒否られていたんです。

 

「エドハクって、なにがあるの?」

 

「いま、土偶の特別展をやってるよ。りょう太、土偶が好きだって言ってたよね?」

 

「うーん……りょう太くんねぇ……どぐう…そんなにみたくないよ」

 

そういって、顔も合わせてくれません。

 

チッ……前回、トーハク(東京国立博物館)で、土偶を探して館内を連れ回したのが、よくなかったようです。連れ回したことを、ちょっと反省……。

 

 

「でもさ、エドハクには大きなジオラマがあるよ」

 

「そうなの?」

 

「うん。でっかいよ」

 

「このくらい?」と、りょう太は両腕を広げてみせました。

 

「いや、そんなもんじゃないよ。この部屋のこっちから、あっちくらいまであるよ」

 

「えぇ〜そんなにおおきいんだ」

 

「大きいよ。ちょっとYouTubeで見てみようか」

 

そう言って、りょう太が寝る前の少しの時間、YouTubeで江戸博を検索して、テレビに映し出しました。

 

りょう太のなかでイメージが固まったのか…「いいよ。あした、エドハクいこう」と言ったあとに、「おやすみ〜」といって寝室へ入って行きました。

 

しめしめ……ということで、江戸博へ行くことになりました。

 

☆☆☆

 

実際に行ってみたら、江戸博……むっちゃくちゃ大きいし広いし……充実の展示内容でした。

 

↑ 両国駅のホームから見た江戸東京博物館。でかい! 手前のホームは、今は使われていない、通称「幻のホーム」

 

↑ なぜか大勢の若い女性がたむろしている国技館の脇を通って、江戸博前へ。この建物は建築家の磯崎新さんが「東京5大粗大ゴミ」に認定したとか……。まぁ、コンクリの建築に、100年以内に粗大ゴミにならない建物があったら教えてほしいです。

 

エスカレーターを上がって、6階へ上がっところが常設展示の入り口です。

 

ぼくは、常設展と特別展とを見られるチケットを買いました。息子は、常設展は無料とのことで、とりあえずチケットは購入しませんでした。

 

でも実は、小学生は常設展だけなら無料だけれど、チケットは発券しないとダメとのこと。2階だか3階のエスカレーターに乗るときに、係の人に言われたのですが「えぇ〜、またあのチケット売り場に並ばなきゃいけないんですか!?」と言ったら……まぁ大丈夫ってことになりました。詳細省きますが、小学生=無料ということで、発券しないで入り口まで行ってしまう人が多いようです。子どもと一緒にチケットを購入しに行ったのに、「大人の分だけで良いですか?」としか聞かれないんだから、そりゃそうだろ。

 

ず〜っとエスカレーターで上っていき、やっと6階の入り口です。チケットを見せて、展示エリアに入ると、いきなり「(半分復元された)江戸の日本橋(にほんばし)」がド〜ン!

 

 

橋の上からは、江戸時代の歌舞伎小屋や、明治だか大正の頃の朝野新聞の社屋などが見下ろせて、壮観です。これが建物の中だって考えると、ほんとすごい大きさです。

 

 

ぼくが写真を撮っているあいだ、りょう太はスキップして日本橋を渡り終えて、さっさと大きなジオラマに見入っていました。

 

ぼくも後から近づいて、ジオラマにカメラを向けていると、さっそく りょう太がぼくの腕をグイグイと引っ張って「ねぇねぇ、あそこに あんな人がいるよぉ。あっちには、こんなひとがいるよぉ。ほらっ、あそこに にわとりがいる!」と、いろいろと教えてくれます。

 

 

 

 

↑ この模型…だれが作ったんだろう。なんか、ひとりひとりが本当にどこかへ向かっているような表情なんですよね。実在した人たちを切り取ったような感じです。

 

 

↑ ここらへんは日本橋室町。いまは中央通りや三越前駅の真上あたりですね。お店の裏は、こんなにゆったりとした感じだったんだなぁ。「うだつ」も上がってます

 

↑ りょう太くんは、いきなりの釘付け……離れません

 

 

隣は江戸城のジオラマです。

 

「りょう太くん、ひとが いるジオラマが すきなんだけど…」と不満そうですが……

 

「りょう太、江戸城へ行ったの覚えてる? あっちの大手門から入って、あそこの門をくぐって、ぐ〜っと坂をのぼって、本丸へ行ったでしょ?」と、ぼくは江戸城ジオラマに見入りながらも、りょう太に質問をして、不満を封殺します(だって、ゆっくり見たいんだもん)。

 

「うん……でも、いしがき しか なかったよね」

 

りょう太の ノリが悪いのを 放っておいて、ぼくは写真を撮っておきました。写真を撮ろうと構えていると、りょう太が腕をひっぱってくるのがムカつきます。

 

江戸城のジオラマで一段落してから、周りにある説明パネルや資料などを見たかったのですが、りょう太がぐいぐいと腕をひっぱり「ここ、つまらないよぉ〜。みつい(三井=三越)の おおきなジオラマは どこにあるのぉ〜?」と、せっつきます。

 

「わぁ〜った わぁ〜った! 行くから、ちょっと一瞬待って! これだけ見せて!」と言って、ぼくは江戸図名所屏風だかの前に立ちました(結局、屏風の名前は不明です)。「ほら、これが江戸城だよ」とか「りょう太くんの家は、どこらへんだか分かる?(たぶん載ってないけどw)」などと質問して、息子の気を散らせる作戦を取ったのですが、まったく効果無しでした。

 

腕を引っ張られて、下りのエスカレーターへ向かいますが、途中に駕籠(かご)に乗れる体験コーナーがあり……「りょう太くん、これ のりたい!」とのこと。「いいよいいよ、乗りねぃ乗りねぃ」と言って、見守りました。

 

↑ 大手門の前にあり、今のパレスホテルの裏側、地下鉄大手町駅の真上にあった、越前福井藩主・松平伊予守忠昌の邸を再現したもの(寛永期)。同藩の初代は結城秀康、幕末には松平慶永(春嶽)を輩出。ただ、江戸時代に色々と引っ越しがあったようで、幕末の地図だと、越前福井藩の上屋敷は神田橋あたりに引っ越しています。これも、江戸は火事が多かったからかもしれないですね

 

りょう太の順番が来て、ワクワクしながら駕籠に乗ります。

 

「ねぇ、おっとー(ぼくのこと)」と言って、りょう太が駕籠の中の障子みたいなのを指差して「これにのってると、ここから かたなで グサッ ってやられちゃうことってあるの?」と(笑)。

 

 

「あるよ。そうやって やられちゃった井伊直弼っていう人がいたんだよ(笑)」と教えてあげましたが……もしかすると、大河ドラマだかの記憶が、りょう太の中に残っているのかもしれないな。岸谷五朗の扮する、井伊直弼が、桜田門外でやられたけど……グサッとやられたところが、映像化されていたかなぁ? ナレーションで「井伊直弼がおそわれました」とかって言って、終わったような記憶があるけど……。

 

駕籠からおりて、江戸の庶民の暮らしを再現したエリアへ。

 

このあたりは、ブラタモリでタモさんが歩いていましたね。

 

そうだ、ブラタモを見たから、江戸東京博物館を調べたら「縄文展」をやっているって知って、それでぼくは来たくなったんだった。

 

りょう太は「ここらへんは、テレビでやってたねぇ…」と言いながら、一つ一つ、ブラタモで語られていたことと、昨夜のYouTubeで解説していた内容を、ぼくに説明してくれます……って……「りょう太、けっこう覚えてるね?」

 

↑ 江戸時代の井戸。覗き込んで「水がすぐそこにあるよぉ〜」と、誰かが言っていた受け売りも忘れません

 

あらかじめ知識を入れておいたので、パネルを読まなくても(読めなくても)、りょう太は、かなり展示内容を把握できているようでした。子どもって、すごいな。やっぱり予習は重要だな。

 

 

☆☆☆

そのあとは、江戸の火事のエリアなどを見てから……りょう太が見たがっていた、江戸時代の三井=三越のジオラマです。

↑ これは、手前がなんちゃら船と、奥が神田祭の山車(だし)。神田祭って、横を通りかかったことはあるけれど、行ったことがないんだよなぁ。なんでだろ? って思ったら、毎年、ゴールデンウィーク中にやってるからですね……うちは、GWは旅行へ行ってしまうから……

そもそもなんで、りょう太が、このジオラマに固執しはじめたかたと言えば、ぼくがYouTubeで、このジオラマを見ながら「この三井って『晴天を突け』でも出てきてるんだけど、知ってた?」って聞いたんです。

そしたら、「え? しらない。だれがやってたの?」

「あの、(渋沢)栄一の家に来て、子どもたちと遊んでたおじいちゃんいたでしょ?」

「うん、いたいた。あれが三井なの?」

「そう。あれが三井の実質のトップだった人だよ。三井の偉い人」

「へぇ〜、そうだったんだぁ」



まぁ、『晴天を突け』では、三井の番頭・三野村利左衛門を、イッセー尾形が怪演していたんです。りょう太にとっても、すごくインパクトがあったはず……それで覚えていたんだと思います。

まぁ今年の大河ドラマの『晴天を突け』は、本当におもしろいですね。

☆☆☆

 

しかし、当たり前ですが、見てきた展示内容を詳細に記そうとすると、キリがないですね……。

 

とりあえず、途中に様々な展示がありましたが、次の大型ジオラマは「江戸時代の両国」です。エドハクのある両国が、江戸時代にどんなだったのかをジオラマで再現しているんです。

 

 

 

このジオラマも、りょう太は楽しかったようで、ここに何分いたか分からないくらいいました。

 

ぼく「この橋さぁ、さっき電車で通ったところだって知ってた?」

 

りょう太「ええ! そうなの?」

 

ぼく「電車で隅田川を渡ったじゃん? ほとんどあそこが、この橋だよ。で、あっちの、お店がいっぱいあるところが、ココだよ」

 

りょう太「ココって?」

 

ぼく「今は江戸東京博物館があるんだよ」

 

りょう太「へぇ〜そうなんだぁ。(それよりさ)あそこに スイカたべてる おじさんがいるよ」

 

ぼく「どこ?」

 

りょう太「あそこだよ、あそこ」

 

スイカ持ってるおじさん……むちゃくちゃ小さくて、視力が悪くなっているぼくには、まったく見えませんでした。カメラで「ここかなぁ?」と、りょう太が指差すあたりをテキトーに撮って、拡大してやっとわかりました。

 

こんなことがいくつも……。

 

↑ このあたりが両国橋の東詰(東側)。もともと大川(隅田川)が武蔵国と下総国との境界だったことから、そこに架かる橋を「両国橋」と呼んだそう。そのため、その橋の東西のエリアとも「両国」と呼ばれていたんだとか。つまり今の両国だけでなく、東側の浅草橋あたりも両国と呼ばれていた時期があったということになるけど……そのあたりは今は「柳橋」とか「浅草橋」と呼ばれていただろうから……いろいろと細かくエリア分けされていたのかな。

 

 

 

☆☆☆

 

その後は、歌舞伎の劇場を再現したエリアへ。

 

特に仕掛けモノっていうのか、お化け屋敷みたいな演出をするときの、カラクリを説明する場所を、りょう太は見ていました。これもなのですが……江戸東京博物館は、展示物はちょっと動くような展示がいくつかあるのですが……正直、たいした仕掛けでもないのに、動くのが15分とか20分ごとだったりして……もう、数分ごとに定期的に動かしてくれれば、サササっと見て回れるのになぁっていうことが多いです。

 

ということで、ぼくはこのカラクリが動くまで待ってる りょう太を置いて、ほかの展示を見に行ったりしていました。ただ、やっぱりまだ小1のりょう太から目を離すのって、博物館内とはいえ気がひけるので、そわそわしちゃうんですよね……。

 

カラクリが分かったので、「りょう太、行こう!」と行って、先を急ぎます。

 

ここまでで予定よりかなり時間が経ってしまいました。

 

このままでは、ぼくのメインの目的である「土偶」のある縄文の特別展が見られないんじゃないかって、焦ってきちゃったんですよ。

 

☆☆☆

 

明治大正エリアへ。

 

なぜか足元には、鹿鳴館の模型が埋まっています。上空から俯瞰するように見られる点では、ものすごく面白い展示方法ですね。

 

 

ニコライ堂もありますが、そこも何か動くようになっていて、密だったので……

 

そしてもう一つ「銀座煉瓦街」という模型もあったのですが、こちらも20分間隔で動くような仕掛けになっているようで……ちょうど終わってから数分の時に来たため、次の回は20分後とのこと。

 

いや、それはいいんだけど、照明を真っ暗にしている意図が分かりかねます。動いてなくてもいいから、見させてよ……。

 

そこは本当に真っ暗で、なにがあるのか分かりづらかったので、「さっ、次行こ!」と、りょう太をせかせます。

 

次の部屋へここにもドーン! と「浅草十二階」が建っています。正式名称は「凌雲閣」。これを見ながら、「りょう太」の「りょう」を「凌」にすればよかったかもなぁと思ったのは内緒です。意味は「雲をも凌ぐ建物」と言ったような感じです。

 

 

 

☆☆☆

 

このあたりは、りょう太が魅了するものも少なかったようで、ガンガン進みます。

 

 

大正エリアにはA型フォード、昭和エリアにはダットサンのピックアップトラック「G222型」やスバル「360」があり、ここは足が止まるだろうと思ったものの、りょう太は意外にも、「おっとーが すきそうなくるまがあるよぉ」と、スバル360を指差しながらササッと通り過ぎます。

 

「自家用」とか「NAKAJIMA-SHOTEN」と記されているのに、しびれます。これが実際にホコリまみれになって走っていたんだなぁっていうのが感じられて、いいんですよ。

日本車に限らず、この頃のなのか、昔なのかの車は、曲線がとてもきれいで好きです。ま、安全性は今の方が段違いで高いんでしょうけどね。

 

なぁんて思っていたら、りょう太は、昭和30年代のひばりが丘団地の再現ブースに釘付けになっていました。

 

 

なぜ?

 

「ねぇおっとーみてよ。テレビがちいさいね(笑)」

 

「へぇ〜、おっとーが子どもの頃よりも少し前の家だなぁ。おっとーのときは、もうちょっとテレビも大きかったよ」

 

「ねぇ、こっちきて! こっちにげんかんがあるよ」

 

なんだか、やたらと夢中で見て回っています。ほんと、子どもが何に興味を抱くのかって、分からないものです。

 

 

ま、ぼくはそのとき「はやく常設展を出たい!」の一念でしたけどね。もうその時に、15時半だったんです。閉館が17時半だから、あと30分かかるとして、縄文の特別展を見られるのが1時間を切っちゃうかもなぁ……と。

 

で、もうすぐ終わると思ったら、今度は「輪タク」に乗ってご機嫌の様子。その姿を撮っていると……

 

「おっとー! ちょっと うしろに のってくれない?」と、親指で後ろを指差しながら言います……。しかたないから、乗りましたよ。乗ったからって、「お客さん、どこまで行きます!?」なんて、聞いてくるわけでもないというね……。

 

 

そして、常設展が終わりました……。これでも、第二次大戦当時の東京のエリアは飛ばしたりしたんですけどね……長かったぁ……。

 

 

いや、特別展のことがなかったら、もっと常設展をじっくりと見たかったんですよ。ただ、早く特別展へ行きたかっただけなんです。

 

☆☆☆

 

常設展を出たものの、りょう太とぼくは、へとへとでした。

 

家から電車に乗ってきて、館内を歩き回ったこともあるのですが……ぼくらは、お昼ご飯を食べていなかったんです。

 

昼過ぎに家を出る時に、りょう太もぼくもお腹を空いていなかったんです。

 

「りょう太くん……おなかすいちゃったぁ〜」

 

「そうだよね。おっとーもお腹すいたよぉ……」

 

ということで、とりあえず特別展のやっている1階へ行き、カフェなのかレストランを探しました。さすがに事前に、飲食店があることは調べておきました。

 

が……カフェの方は、ランチは「売り切れ」とのこと……。

 

「りょう太くん……おなかすいたよぉ〜」と、いまにも へたり込みそうになっているりょう太。最悪、駅の方へ行かなきゃいけないのかぁ〜……そんなことになったら、特別展なんて見られないぞ……( ;  ; )

 

もうひとつのレストランは「江戸博砂漠」。

 

「おぉ〜、りょう太! こっちはやってるよぉ!」と、勇んで入って、メニューを見ると、ぼくもりょう太も苦手な辛そうな料理ばかりが並んでいます。ん? これはインド料理か?

 

「あのぉ〜……辛くない料理ってあります?」と、店員さんに聞いてケバブを1つだけ頼みました。そんなに食べられるとも思えなかったし、ぼくはそれほどお腹がすいていなかったからです。

 

メニューを見たときは「ほかに、ないのかなぁ〜?」と不安そうだった りょう太ですが、ケバブが来ると、かぶりつくように食べ始めました。

 

「おいしい?」

 

「うん……(もぐもぐもぐ)」

 

結局、意外にも りょう太がほとんどを食べ尽くしてしまいました。

 

食べ終わって、りょう太が上機嫌になったところで「よし! 次は土偶を見に行くぞ!」と気合を入れ直しました。お腹がいっぱいになったからか、りょう太も「うん!」と、元気よく応じてくれました。

 

☆☆☆

 

ということで、特別展の『縄文2021―東京に生きた縄文人―』については、また後日、記そうと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

子どもの教育。英語・辞書引き・プログラミングよりも投資を教えたい

当たり前ですが、子どもが幸せになれるように……という思いを込めて、教育熱心になる親が多いのだと思います。将来は大企業なのか外資系企業なのか、医者や弁護士にさせたいのか。

 

では、子どもの幸せとは?

 

偏差値が高い大学へ入れば、子どもは幸せになれるのか?

 

英語教育も流行っていますが、英語を話せるようになると、子どもは幸せに近づくのか? もしくは、英語が得意だと入試に有利だから、小さい頃から英語教育を始めるのか?

 

⭐️⭐️⭐️

 

ぼくは何かを教えたいとすれば、息子には投資を教えたいなと思っています。

 

息子が高校生になったら、3年間分の小遣いとして例えば入学と同時に30〜40万円くらいを前渡ししてしまいたいです……ゴソッと渡しておく(おそらく妻に大反対されるでしょうけどね)。

 

その時に、ぼくは息子に、こう言いたい。

 

「りょう太よ、これを渡すから、これで商売でも投資でも良いから、なにかを始めなさい。もし儲けたら、月に2万円までは、小遣いとして使ってもいいからね。ただし、2万円以上を儲けたら、貯金するか投資信託に入れなさい。もし高校を卒業する時に、余剰があれば、それを元手に大学へ行ってもいいし、なにか事業を興しても、投資家として生きるのでもいいよ」

 

アメブロを読んでいて知ったのですが、2022年から、高校の家庭科で、投資を教えるらしいです。

 

誰が教えるの? って感じですけどね……。

 

⭐️⭐️⭐️

 

最近は、英語やプログラミングやなんやらと、小学生とはいえ忙しいです。

 

英語は……うちは学校で習う程度ですけど、小学校の頃から習わせるのは良いですね。息子の小学校は、月に1回か2回しか授業がないはずなのに……発音が、ネイティブみたいにかっこいいです。

 

もし英語が好きになったら、5-6年生くらいで、夏休みなどに短期留学させるのも良いかなと思います(まぁお金があればですけど…)。

 

プログラミングを習わせている友だちもいますが……。うちは「りょう太くんも、プログラミングをならいたい」と言ってきたので、プログラミングができる5-6000円くらいのロボットを買ってあげました。瞬殺で、遊ばなくなりましたけどね……。

 

プログラミングは、論理的な思考能力を育てるのに良いとかって言いますが……だったら、将棋とかでも良いんじゃないかと思ってしまいます。もしくは実際に学校で習いはじめてから、りょう太が本当に興味を抱くのなら、高度なプログラミングを習わせても良いかなと…。

 

 

 

「ユカイな生きもの&ココロキットセット」は、瞬時に飽きたようですが、将棋の方は、いまだに親子で楽しんでいます。先日は、妻実家へ行ったときに、おじいちゃんと何局も対戦していました。

 

くもんの「スタディ将棋」は、駒(こま)ごとに、どう動かすかが記されているので、幼稚園/保育園の年中さんくらいからでも遊べておすすめです。りょう太が通っていた保育園では、たまたまなのか、そういう時期だったのか、将棋が大流行したんです。そのことが、息子にとっては、ラッキーだったなぁって思います。だって、将棋だったら、一生涯楽しめますから。

 

辞書引きについて、続報を記すのを忘れました。そのことは、また今度。

すごいぜ! 東京国立博物館(たてもの展)

以前、国立“科学”博物館(科博)の『たてもの展』へ行ったことを記しましたが、実はその翌日に、お隣の東京国立博物館(東博=トーハク)へも行きました。

 

なんで博物館をハシゴしたかと言えば、その科博で見た『たてもの展』は、科博と東博と、あと同じく近所にある国立近現代建築資料館とのコラボ企画だったんです。

 

 

科博で『たてもの展』をひと通り見たあとに、「じゃあ明日は東博へ行く?」って、息子の りょう太を誘って、東博へも行ったんです。

 

その東博で『たてもの展』が開催されていたのは、正門を入って西側にある表慶館でした。この建物自体が、西洋風の素敵な建築で、いつもキレイだなぁと思います。

 

これは1カ月前くらいに西側の東洋館の前から撮影した表慶館です。

 

これは『たてもの展』が開催されていた今年1月の表慶館ですね。

 

帰る間際に、家族に急かされながら出口から撮影した表慶館。

 

正面から中に入ると、天井のドーム部分までの吹き抜けになっています。この写真は、2階から、そのドーム部分を撮影したもの。いま写真で拡大してみたら、この丸い紋章のような装飾は、一つずつ異なっていますね。楽器のハーブや、空想動物などが描かれているようです。

 

 


建物の左右に配置されている階段スペースです。

 

科博の階段も素敵でしたが、表慶館も、この曲線や装飾がすばらしいです。

 

階段自体の素材は無機質なものでしたが、踊り場には細かいタイルが貼られていています。どんだけの費用を掛けて作ったんだよ、って感じです。

 

☆☆☆

 

あ……表慶館の話ではなく、『たてもの展』の展示内容もいちおう見ていきましょう。実は、精巧に作られた模型の数々に見入ってしまったのか、あまり写真を撮っていませんでした。

 

でも、いま展示リストを見返すと「あぁ…宮大工の西岡常一さんも模型製作に関わっていただろう法隆寺五重塔を、もっとちゃんと見て、写真に撮っておけばよかったなぁ」などと後悔しています。

 

これは何の建物だろうと今調べて見たら、長寿寺の本堂とのことです。鎌倉時代の前期に建てられた本堂。当寺のWebサイトには『国宝に指定された理由』というページが用意されていて、それを読むと、この模型がなぜ真っ二つになっているかが分かります。

 

断面図を見ると、本堂内部に三角屋根が二つ並んだ構造をしていることがわかります。これは二つの建物が、一つの大きな屋根の中に入っている構造といえます。

そうなんです、せっかく模型を真っ二つにしてくれているのに、ぼくは、その大事な部分を撮っていないんですよね……。なので、詳しくはお寺のサイトに掲載されている図面を見てほしいのですが、「かつて正堂(仏様を安置するお堂)と礼堂(私たちがお参りをするお堂)を別々に建てた双堂(ならびどう)の形式を踏襲しているため」と記されています。

 

とても珍しい形式とのことですが……神社では「本殿」と「拝殿」とで別れているのが一般的な形式ですね。長寿寺では、その2つを合体させた……ということかな。仏式というか寺の構造としては、たしかに見たことないな。

 

これは仁科神明宮の本殿のようです。

本殿は、桁行3間、梁間(はりま)2間、神明造(しんめいづくり)、桧皮葺(ひわだぶき)。中門(御門屋)は四脚門、切妻造、桧皮葺。釣屋がこれらを連結している。

それにしても、かつてはトレンドだった、平安時代あたりに建てられただろう神明造が、現存している点が貴重で、国宝指定されているようです(そもそも、表慶館に模型展示されていた建物は、ほとんどが国宝指定されています)。

 

おそらく唐招提寺の金堂です。なぜか全体を撮っておらず……どうやらぼくは、たてものというよりも、模型そのものに魅力を感じてしまったようです。

 


こういうところまで一つ一つ再現しちゃうって、すごいです。実際に、唐招提寺へ行って天井を見上げたって、こうもじっくりとは見られませんからね(行ったことないから分からないけど…)。

 

織田信長の弟で茶人の、織田長益(ながます)が建てた茶室「如庵」だそうです。東京の有楽町(ゆうらくちょう)は、この人の屋敷があったことから、名付けられたとして有名ですね。茶人としては「有楽斎(うらくさい)」や「如庵(じょあん)」と号して(名乗って)いたそうです。

 

茶室っていうと、もっと狭い空間をイメージしていたのですが、これは、それなりの広さがあって、なんだかここに暮らせそうです。ぼくも10年後くらいには引退して、このくらいの家をどこかに建てて、ひっそりと暮らしたいなぁ。

 

これは、大徳寺の塔頭である大仙院本堂だと思います。なぜか全体は撮っておらず、おそらく内部の畳とか狩野元信の描いた障壁画の再現の細かさに関心していたようです。

 

ちなみにWikiで調べてみると、この大仙院は「大徳寺76世住職古嶽宗亘(こがくそうこう、大聖国師)によって創建された。現在22に及ぶ大徳寺塔頭中、北派本庵として最も尊重重視される名刹」とあり、続けて「古嶽宗亘が自分の隠居所として建立したもの」だそう。

 

どんだけ豪華な隠居所を建ててんだよ……と思ってしまいますが、まぁこちらが建てられた室町から江戸にかけては、こうした寺などがアーティストのパトロンだったわけですもんね。彼らが建築や芸術の価値を分かっていたから、日本の文化は進化していったとも言えそうです。

 

関係ありませんが、うちの近所にも多くの寺がありますが、よく寺のガレージなどにはメルセデスやBMW、レクサスなどが置いてあります。それを考えれば、当時の坊さんたちは、良いお金の使い方をしてくれたなと思います。

 

前述した仁科神明宮の近く、信州松本の松本城ですね。現存している12天守の1つで、当然国宝です。ぼくもこれまで3回以上は行っていますが、立ち居姿がキリっとしていて好きです。

 

そのほかは、どの建物なのか判別ができない写真が多く残されていました。調べれば分かりそうですが、ちょっと疲れたので、また別の機会に。写真だけ置いておきます。

 

 

 

 

 

 

これは那覇の首里城ですね。2019年の10月に焼失したニュースは、衝撃的でした。関東のぼくがショックを受けたのだから、地元の方の心中は筆舌に尽くしがたいものだったと推測できます。

 

焼失した正殿は1992年に復元されたもの。Wikiによれば「1453年・1660年・1709年・1945年」の4度に加えて、5度目の焼失だったと言います。

 

その復元された首里城へは、一度だけ行ったことがありました。関東出身のぼくからすると、中国的な建物だなと思いました。

 

でも、この弁柄色ではない模型を見る限り……中国よりも日本の建築の影響の方が濃いように思います。Wikiには「王の居住する中心部は正殿(せいでん)と呼ばれ、別名「唐破風」(からふぁーふ)と呼ばれた。」とありますが、この正面の作りは……城や銭湯でもおなじみの、まさに日本独特の「唐破風(からはぶ)」ですよね。たしかに、重心の低いどっしりとした作りは、中国っぽいとも言えるけれど、最上段の屋根は入母屋っていうのかな? っていう感じ。(入母屋は日本独自ではないけれど、首里城の入母屋は、角度などが日本っぽい印象です。

 

まぁ外観だと、正面の唐破風とてっぺんの屋根にあるのが、鯱(しゃちほこ)ではなく、ドラゴンなのは、中国の影響ということなのでしょうか。それに、正殿前に広場を配すあたりや、建物の内部においては、日本っぽさを見つけるのは難しいようです。まぁ、それらは琉球様式ということで。

 

いずれにしろ、城好きとしては、また復元してもらいたいような…そのままでいいんじゃないかというような…複雑な気分です。(ちなみに、復元された天守閣にワクワクする城好きって、そんなに多数派ではないと思うんですよね。復元賛成派は、城が好きだからではなく、ランドマークとして復元したいんだと思います。心の拠り所にしたい…みたいな。それはそれで、とても重要だと思います)