
すごいぜ! 東京国立博物館(たてもの展)
以前、国立“科学”博物館(科博)の『たてもの展』へ行ったことを記しましたが、実はその翌日に、お隣の東京国立博物館(東博=トーハク)へも行きました。
なんで博物館をハシゴしたかと言えば、その科博で見た『たてもの展』は、科博と東博と、あと同じく近所にある国立近現代建築資料館とのコラボ企画だったんです。
科博で『たてもの展』をひと通り見たあとに、「じゃあ明日は東博へ行く?」って、息子の りょう太を誘って、東博へも行ったんです。
その東博で『たてもの展』が開催されていたのは、正門を入って西側にある表慶館でした。この建物自体が、西洋風の素敵な建築で、いつもキレイだなぁと思います。
これは1カ月前くらいに西側の東洋館の前から撮影した表慶館です。
これは『たてもの展』が開催されていた今年1月の表慶館ですね。
帰る間際に、家族に急かされながら出口から撮影した表慶館。
正面から中に入ると、天井のドーム部分までの吹き抜けになっています。この写真は、2階から、そのドーム部分を撮影したもの。いま写真で拡大してみたら、この丸い紋章のような装飾は、一つずつ異なっていますね。楽器のハーブや、空想動物などが描かれているようです。
建物の左右に配置されている階段スペースです。
科博の階段も素敵でしたが、表慶館も、この曲線や装飾がすばらしいです。
階段自体の素材は無機質なものでしたが、踊り場には細かいタイルが貼られていています。どんだけの費用を掛けて作ったんだよ、って感じです。
☆☆☆
あ……表慶館の話ではなく、『たてもの展』の展示内容もいちおう見ていきましょう。実は、精巧に作られた模型の数々に見入ってしまったのか、あまり写真を撮っていませんでした。
でも、いま展示リストを見返すと「あぁ…宮大工の西岡常一さんも模型製作に関わっていただろう法隆寺五重塔を、もっとちゃんと見て、写真に撮っておけばよかったなぁ」などと後悔しています。
これは何の建物だろうと今調べて見たら、長寿寺の本堂とのことです。鎌倉時代の前期に建てられた本堂。当寺のWebサイトには『国宝に指定された理由』というページが用意されていて、それを読むと、この模型がなぜ真っ二つになっているかが分かります。
断面図を見ると、本堂内部に三角屋根が二つ並んだ構造をしていることがわかります。これは二つの建物が、一つの大きな屋根の中に入っている構造といえます。
そうなんです、せっかく模型を真っ二つにしてくれているのに、ぼくは、その大事な部分を撮っていないんですよね……。なので、詳しくはお寺のサイトに掲載されている図面を見てほしいのですが、「かつて正堂(仏様を安置するお堂)と礼堂(私たちがお参りをするお堂)を別々に建てた双堂(ならびどう)の形式を踏襲しているため」と記されています。
とても珍しい形式とのことですが……神社では「本殿」と「拝殿」とで別れているのが一般的な形式ですね。長寿寺では、その2つを合体させた……ということかな。仏式というか寺の構造としては、たしかに見たことないな。
これは仁科神明宮の本殿のようです。
本殿は、桁行3間、梁間(はりま)2間、神明造(しんめいづくり)、桧皮葺(ひわだぶき)。中門(御門屋)は四脚門、切妻造、桧皮葺。釣屋がこれらを連結している。
それにしても、かつてはトレンドだった、平安時代あたりに建てられただろう神明造が、現存している点が貴重で、国宝指定されているようです(そもそも、表慶館に模型展示されていた建物は、ほとんどが国宝指定されています)。
おそらく唐招提寺の金堂です。なぜか全体を撮っておらず……どうやらぼくは、たてものというよりも、模型そのものに魅力を感じてしまったようです。
こういうところまで一つ一つ再現しちゃうって、すごいです。実際に、唐招提寺へ行って天井を見上げたって、こうもじっくりとは見られませんからね(行ったことないから分からないけど…)。
織田信長の弟で茶人の、織田長益(ながます)が建てた茶室「如庵」だそうです。東京の有楽町(ゆうらくちょう)は、この人の屋敷があったことから、名付けられたとして有名ですね。茶人としては「有楽斎(うらくさい)」や「如庵(じょあん)」と号して(名乗って)いたそうです。
茶室っていうと、もっと狭い空間をイメージしていたのですが、これは、それなりの広さがあって、なんだかここに暮らせそうです。ぼくも10年後くらいには引退して、このくらいの家をどこかに建てて、ひっそりと暮らしたいなぁ。
これは、大徳寺の塔頭である大仙院本堂だと思います。なぜか全体は撮っておらず、おそらく内部の畳とか狩野元信の描いた障壁画の再現の細かさに関心していたようです。
ちなみにWikiで調べてみると、この大仙院は「大徳寺76世住職古嶽宗亘(こがくそうこう、大聖国師)によって創建された。現在22に及ぶ大徳寺塔頭中、北派本庵として最も尊重重視される名刹」とあり、続けて「古嶽宗亘が自分の隠居所として建立したもの」だそう。
どんだけ豪華な隠居所を建ててんだよ……と思ってしまいますが、まぁこちらが建てられた室町から江戸にかけては、こうした寺などがアーティストのパトロンだったわけですもんね。彼らが建築や芸術の価値を分かっていたから、日本の文化は進化していったとも言えそうです。
関係ありませんが、うちの近所にも多くの寺がありますが、よく寺のガレージなどにはメルセデスやBMW、レクサスなどが置いてあります。それを考えれば、当時の坊さんたちは、良いお金の使い方をしてくれたなと思います。
前述した仁科神明宮の近く、信州松本の松本城ですね。現存している12天守の1つで、当然国宝です。ぼくもこれまで3回以上は行っていますが、立ち居姿がキリっとしていて好きです。
そのほかは、どの建物なのか判別ができない写真が多く残されていました。調べれば分かりそうですが、ちょっと疲れたので、また別の機会に。写真だけ置いておきます。
これは那覇の首里城ですね。2019年の10月に焼失したニュースは、衝撃的でした。関東のぼくがショックを受けたのだから、地元の方の心中は筆舌に尽くしがたいものだったと推測できます。
焼失した正殿は1992年に復元されたもの。Wikiによれば「1453年・1660年・1709年・1945年」の4度に加えて、5度目の焼失だったと言います。
その復元された首里城へは、一度だけ行ったことがありました。関東出身のぼくからすると、中国的な建物だなと思いました。
でも、この弁柄色ではない模型を見る限り……中国よりも日本の建築の影響の方が濃いように思います。Wikiには「王の居住する中心部は正殿(せいでん)と呼ばれ、別名「唐破風」(からふぁーふ)と呼ばれた。」とありますが、この正面の作りは……城や銭湯でもおなじみの、まさに日本独特の「唐破風(からはぶ)」ですよね。たしかに、重心の低いどっしりとした作りは、中国っぽいとも言えるけれど、最上段の屋根は入母屋っていうのかな? っていう感じ。(入母屋は日本独自ではないけれど、首里城の入母屋は、角度などが日本っぽい印象です。
まぁ外観だと、正面の唐破風とてっぺんの屋根にあるのが、鯱(しゃちほこ)ではなく、ドラゴンなのは、中国の影響ということなのでしょうか。それに、正殿前に広場を配すあたりや、建物の内部においては、日本っぽさを見つけるのは難しいようです。まぁ、それらは琉球様式ということで。
いずれにしろ、城好きとしては、また復元してもらいたいような…そのままでいいんじゃないかというような…複雑な気分です。(ちなみに、復元された天守閣にワクワクする城好きって、そんなに多数派ではないと思うんですよね。復元賛成派は、城が好きだからではなく、ランドマークとして復元したいんだと思います。心の拠り所にしたい…みたいな。それはそれで、とても重要だと思います)

























