超絶便利なiPhone&MacBookの「メモ」アプリの……やってはいけない使い方
AppleのiPhoneとMacBook Airを使っています。
そんな2つを行き来しながら使うのに便利なのが、元からインストールされている「メモ」アプリ。愛用している人も多いのでは?
結論から言うと、どんな使い方をしない方が良いかというと…。
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「メモ」アプリに、画像を添付してはいけない!
(なぜかと言えば)
画像を添付しまくると、バッテリー消耗が激しいから
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という結論を先に書いてから、なんでそう思ったのかを下記していきます。
(ぼくだけの現象かもしれないので、ご自身の環境でも確認してください)
「メモ」アプリの、なにが便利かと言えば、iPhoneで「メモ」したことが、(Web環境にいれば)瞬時にMacBook Airにも反映されていること。
思いついたことや、これいいなっていうこと、今日やらなきゃいけないこと(ToDoリスト)などを、iPhoneまたはMacBook Airの「メモ」アプリによく書き込んでいます。
便利に使っていたのですが……
MacBook Airで、画面の右上に表示される「バッテリー」マークをタップすると、「エネルギーを著しく消費中」のアプリが表示されます。これをチェックすると、バッテリーの消耗度が激しいアプリが表示されるんです。
「ブラウザー」が表示されるのは、ある意味、仕方ないかなと画面できるのですが……ここに、やたらとに「メモ」アプリが表示されるようになりました。
「え? メモアプリなんて、開いているだけなのに…」って、思いつつも、外出先でバッテリーを消耗されちゃうと痛いので、気が付いたら「コマンド+Q」で、しっかりとアプリをシャットダウンするように心がけていました。
でもね…気軽に使える「メモ」だったから便利だったので、こうやって意識して消さなきゃいけなくなると……ぜんっぜん便利じゃない!
それで、なぜ「メモ」アプリごときが、そんなに「エネルギーを著しく消費」してしまうのかを、調べたりしました。あまりキチンと解説されているサイトがなかったのですが……1つだけ「メモアプリの画像を削除していった」というブログを発見しました。
「もしかすると、これが原因かも」と思い当たって、せっせと過去に添付した画像を消していきました。
すると、晴れて「エネルギーを著しく消費中」に、「メモ」アプリが現れることがなくなりました。
超すっきり!
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この「メモ」アプリですが、数年前くらいから画像も添付できるようになりました。それで「こりゃ便利だ」ということで、画像をバンバン添付していたんですよ。
それがトラップだったようです。
iPhoneでも「メモ」アプリを、かなり使っていたので、今まで「メモ」アプリのせいで、iPhoneでも、かなりバッテリーを食っていたんだろうなぁと思うと……。
でも、MacBook Airを買い替えたばかりの、いま気が付いてよかったです。せっかく超寿命で定評のあるM1 MacBook Airなのに、これのせいでバッテリーをそうそうにヘタらせていたら…本当にゾッとします。
ということで、全国のiOSまたはMac OSユーザーで、ぼくと同じように「メモ」アプリを多用している人がいたら、「画像は添付しないように!」と、教えてあげたいです。
誤解のないよう念押ししますが、「メモ」アプリ自体は、すごく便利です。
土浦城から(つくば)小田城へ……りんりんロードで小田城奪還の道のりをたどる
『サイクリング&キャンプツアー 〜戦国武将<小田氏治>を学び、感じるモニターツアー〜』というものに参加してきました。
ツアーの場所は妻の実家からほど近く。ちょうど緊急事態宣言も解除され、ツアーの実施日に、帰省する予定でした。妻実家に帰ったところで、することもなく、いつも義祖母の家でゴロゴロしているくらいなもの。
そしてぼくは、この全国的には全く知られていない……一部の戦国マニアの間では有名なんですけどね……小田氏治さんという武将に、けっこう興味を抱いています。
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妻から話を聞いたときに、参加したいと思いました。ただ、ぼくは団体行動がものすごく苦手なんです。知らないみんなとワイワイお酒を酌み交わす……なんてことは拷問に近いです(そもそも下戸だし)。
それで、つくば市の担当者に、メールをしてみました。
「立ち寄る場所では、どなたか小田氏に詳しい方が説明してくれるのか?」
「サイクリングツアーだけ参加して、帰ってもいいか?」
ということのほかに……
「小田氏治についての文献などが置いてある図書館を教えてほしい」
などまで、あまり回答を期待せずに質問してみました。
質問したのが金曜の夜……週明けの月曜には、担当の方から返信が届きました。
「サイクリングのみの参加でもOKです」とのこと。おぉ、じゃあ参加してみようと思いました。
それだけでなく、文献がある図書館についてなど、ツアーに直接関係のないことも、詳細な回答がメールに記されていました。正直、感動してしまいました。ぼくの気まぐれな質問に対してまで、ちゃんと答えてくれるなんて!
ということで、当日は自分の自転車を車に積み込んで、集合場所の土浦駅へ行きました。
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ぼくの自転車は、いちおうロードバイクのような形をしています。詳しく言うと、タイヤの径が小さな「ミニベロ」。十数年前に、通勤用に購入したものです。
購入当初は、速く走れるように、細いタイヤチューブが使われていました。ただ、細いタイヤは、できれば使うたびに…おそらく最低でも1週間に1度くらいの頻度で、タイヤがカチンコチンになるくらいまで空気を入れなければいけません。ただ、ぼくの場合は、定期的に空気を入れることができず……しょっちゅうパンクしました。それで、今ではスピードではなく耐久性重視のタイヤを装着しています。
今回は、自転車が積み込みやすいように、近所のカーシェアからカローラフィールダーを選びました(まぁ近所で一番安いというのも選んだ理由)。
あとは家族を乗せて、土浦駅へ。土浦駅へ行くなんて、記憶では高校生のとき以来のこと。出発から1時間半で到着……けっこう高速道路が混んでいました。
集合場所は、土浦駅の中にあるル・サイク土浦店の前。駅ビルの中に自転車ごと入れるようになっていて、びっくりです。店の中には入りませんでしたが、自転車のラインナップは豊富だし、店では自転車のレンタルも可能です。ツアー参加者の半分くらいは、ここで自転車を借りていたので、ぼくもここで自転車を借りても良かったかも……と思ったものの、借りたら返しに来なきゃいけないしな…。ちなみに、ロードバイクのレンタル料は3,500円。
ツアー参加者は10人前後。そのほかに市役所の方や、ツアー催行者の数名。この手のツアーに参加するのは初めてですが、けっこうサポートメンバーが充実しているように感じました。
10時半ころに出発し、最初に向かったのは、駅から1kmほどの土浦城。
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そうそう、今回のツアーの趣旨についてですが……ツアー催行者の方が、分かりやすく説明してくれました。
戦国の武将、小田氏治は、筑波山の直下にある小田城を本拠地にしていました。当時は北から佐竹氏、西から結城氏(上杉氏)、南から北条氏から攻勢をかけられていました。そこで小田氏は、あるときは上杉、あるときは北条氏などと同盟を結ぶものの、小田城は何度も敵に落とされていました。
落城するたびに逃げたのですが、逃げる先は、最も頼りになる家臣・菅谷氏。同氏が居城としていたのが土浦城(亀城)です。
今回は、そんな土浦城が、実質的なスタート地点。ルートは、土浦城〜藤沢城〜法雲寺〜小田城と、(たしか)約13kmの道のり。つまり、逃げていた小田氏治が、小田城を奪還するルート……ということだといいます。
当日まで、どのくらいの距離だか調べていなかったのですが、13kmであれば、一気に走れば自転車であれば30分前後で着いてしまう道のりです。走ったら……ぼくの足だと1時間半くらいはかかるかな……。足軽くらいの軽装備であれば、2時間……遅くても3時間もあれば行軍できそうです。
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そんなことんなで、あっという間に土浦城です。ここへ来たのも、何年ぶりだろう……。高校卒業してから、1度くらいは来たことがあった気がします。(上の写真は復元された西櫓)
土浦城の別名は亀城(きじょう)。水の上に亀の甲羅がぷかぷかと浮かぶように、本丸を中心に周囲に郭が巡らされていたから、そう呼ばれていたようです。説明板には水城とありますが、土浦は今でも湿地が多く、蓮根の産地です。城が建てられた当時も、湿地の中に城を建てたのでしょうか。決して大きな城ではありませんが、実際に攻めようとすると、石田三成が大軍でも落とせなかった忍城のように、堅固だったのかもしれません。
本丸と二の丸の間にある櫓門。この本丸の表門である櫓門と、裏門である霞門(現在は、霞門が表門のような印象を受ける位置にある)、それに旧前川門というのが、江戸時代からの遺構とのこと。旧前川門は、高麗門ということだけれど……そんな立派な門を見た記憶がなく、今回も、見られなかったな…。
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ということで、土浦城の二の丸で、改めてツアーの注意を聞いたり、昼ごはんのメニューを決めたりしたあとに、再出発しました。城の西側から出て、少しだけ車道を通って、「りんりんロード」へ。

右手に筑波山が臨めます。小田城の方向としては、あちらの方角のはず。
すぐに1つ目の虫掛駅の跡に到着。自販機や売店などがあるわけではありませんが、休憩施設として、ゆるりと整備されています。ここで少し休憩して、すぐに出発。
左右が開けてきて、気持ちが良かったです。
少し走ると、今度は藤沢駅の跡地です。駅跡の裏にある台地が藤沢城跡だとのこと。催行者の説明によれば、小田城の支城の1つで「小田城奪還する際には、藤沢城に集合して、ここから出撃していったのではないか」ということでした。とはいえ、藤沢城跡は、すでに畑になっていて、ほとんど痕跡のようなものが残っていないとのこと。上り坂もキツいので、今回は寄らないとのことでした。まぁ、ヒルクライム(というほどでもないと思いますが)は苦手なので、いつか一人で散歩がてら行ってみようと思います。
藤沢駅あとを出ると、すぐに法雲寺に到着しました。
本堂が立派です。
ここは小田氏治の墓がある場所です。墓と言っても、小田氏治の墓は何箇所かに存在するようなので、当寺の墓に、本人の遺骨や遺髪があるのか…。彼が亡くなったのは福井の方で、そちらにも墓があるようなので、こちらはもしかすると供養塔のような存在なのかもな……という気もします。
おそらく、これが小田氏治の墓……なのかな? 本堂横の急な石段を上ったところにあるお堂の横に建っていました。
「天庵大居士」とあるので、おそらく小田氏治の墓で間違いないでしょう。
墓の土台(というのでしょうか)には、小田家の家紋が彫られています。ちょっと「おしりたんてい」のマークのようにも見えるな……と思ってしまいました。
ただ、法雲寺と小田氏、それに小田氏治本人との関わりは濃いようです。例えば当寺を開山した復庵和尚は小田氏の7代目・小田治久が招いた方で、その晴久の猶子(養子)とも言われています。
また小田氏治本人に加えて、父の小田政治の肖像画も、この寺に残っているとのこと。小田氏治の肖像画は、あの有名な(?)、猫を傍らにしているものです。今回、もしかすると本物を見せてもらえるのかも…と期待していましたが、お寺に寄って境内を散歩するだけでした…残念。
この法雲寺、最盛期には末寺300余か寺の大きな寺だったということです。もちろん、小田氏の庇護があったればこそ。もしかすると、小田氏の三男四男などが、寺の住職などになっていたのかも……なんて想像してしまいます。
また、ほかの方の話によれば、どこまで資料に則った話かは分かりませんが、法雲寺は城郭造りになっていて、本堂を土塁が囲むような配置になっているとか…。土塁は確認できませんでしたが、りんりんロードから寺への道は、短いけれどそうとうの急坂でしたし、本堂の背後や西は断崖でした。当寺の寺域が分かりませんが、ここで兵を集めて「いざ小田城を奪還しようぞ! えいえいおー!」と、やっていた可能性も低くはないんじゃないかなと。
実際に(これも他ブログによれば)、天正2年(1573年)には、兵火で消失したという記録が残されているそうです。(天正2年に、どんな戦いがあったのかは、手元の記録にはないのですが…)
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ほかの戦国武将も同様だとは思うのですが、小田氏の代々も、非常に多くの寺を庇護しています(という印象を受けます)。
例えば末寺300余か寺と言われる法雲寺のほかにも、小田氏には「小田城四方護寺」と呼ばれる、普門寺/大聖寺/法泉寺/南円寺がありました。これらは、それぞれ寺領が1万200貫/7000貫/8000貫/5000貫とする資料があるようです(自分で確認したわけではありません)。ネットで検索してみると、(仮に)1000貫が1億2000万円くらいとする研究者がいました。それでで言うと、普門寺などは10億を超えていたわけです。それぞれ僧兵も居て、僧兵500人/300人/200人/300人を配していたそうです。
この「小田城四方護寺」のほかにも、有名なところでは筑波山神社……というよりも当時は中禅寺がありました。この中禅寺の別当(一番偉い人)には、筑波氏という、小田氏の分家にあたる家がなっていたそうです。
つくば市の研究職の方に聞いたところでは、筑波氏については、小田氏と共闘することもあったが、小田氏に歯向かうこともあったと言っていました。ただ、ぼくの想像を言えば、小田氏と筑波氏は、江戸時代の徳川御三家や御三卿のように、かなり密接な間柄だったのではないかと思います。
また、小田城の南には、これまた大きな「一ノ矢八坂神社」があります。Wikipediaによれば「小田氏が権勢を誇っていた頃には、同氏の崇敬を受け『玉取の里御花園』と呼ばれ、同氏がたびたび来遊したほか、弓矢の奉納を受けている。」とあります。ここもまた台地の端にあり、出城としての意味合いもあったのではないか…。実際に、小田氏治の何度目かの敗走の折りには、小田城から一ノ矢八坂神社を経て、土浦城へ向かっています。
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とにもかくにも、現代のツアーでは法雲寺をあとにし、小田城が間近の地点で昼食を取りました。その名も「キャラバン」というレストラン。ぼくは、大半の人と同様に「ハンバーグとエビフライ」のAセットを注文していました。これが意外と……と言っては失礼ですが、美味しかったです。
食後に改めて自転車へまたがり、小田城へ向かいます。
ここからは、あっという間に、小田城に到着。
小田城の東側の土塁。
ここから小田城の横を通り過ぎて、ぼく以外の参加者の皆さんが幕営地とする、旧小田小学校へ行きました。
今回のハイライトである、つくば市の小田城の専門職員による約1時間ほどの小田氏治セミナーです。こうやって改めて系統的な話をうかがうと、頭の理解度が段違いです。小田氏って、パンフレットや本で見かける内容が、散発的なんですよね。メジャーな戦国武将みたいに、小説になっているわけでもないので、いまひとつ流れがつかめていませんでした。今回のセミナーで、その流れが、少し理解できた気がします。
そして、そのまま解説していただいた市職員とともに、小田城へ。
立派な土塁(北側)が残っています……というか、これは復元したのかな……。
本丸が広い……。広いと言っても、天守閣がない城なので、その分だだっ広い印象なのですが、土浦城へ行った後なので、広く感じます。さすが常陸の国の守護の家柄であり、常陸の南側半分近くを久しく治めていた小田家の居城だけのことはあります。(と、初めて来たような書き方ですが、これまで4-5回は来たことがあります)
本丸には池が2つありました(現在、水を張って復元されているのは東側の1つ)。池の畔には茶室くらいの広さの建物が一棟あったそうです。その建物からは、池をはさんで筑波山が臨めます。
おそらく代々の小田家は、周辺の親族や譜代の有力な豪族を招いて、宴会を開いていたんでしょうね。
「小田氏治は、何度も敗れたけれど、そのたびに小田城を奪還できたのか?」
小田氏に興味を抱く人たちの間で、考えられてきたことです。私見を書けば、宗教が大きく関わっていると思っています。
先ほど寄った法雲寺をはじめ、小田氏は多くの寺を守ってきました。特に影響が大きいのは、筑波山にある筑波山神社=中禅寺。当時は今よりも筑波山信仰が強かったはず。そこを、小田氏の一族である、筑波氏が代々別当をつとめていました。その本家筋にあたるのが小田氏です。
筑波氏の跡取りがいなければ、小田氏から子を送り、逆に小田氏に子がなければ、筑波氏から跡目が来ることも少なくない間柄ではなかったか。
そうした地元の人たちの信仰に近い思いが、小田氏を支えていた……と考えています。例えば、小田氏が敗れて逃げた後、地元の人たちは、年貢を小田氏の敗走先にまで納めに行っていたそうです。逆に言えば、佐竹や結城などが派遣した領主には、出し渋っていたのかもしれません。小田氏以外には治めにくい土地だったということ。そのため、小田氏治は何度も小田城の奪還に成功しています。
また、小田氏が最後に敗れてから十数年後の1600年には、筑波山の筑波氏が、徳川氏により追いやられています。1600年に追いやられたということは、小田氏が最後に小田城を失墜した1568年のあとでも、筑波氏は筑波山で存続していたということです。小田氏が敗れた後に、佐竹側に寝返っていたのかもしれませんが、とにかく存続していた。その筑波氏を、わざわざ幕府が追いやり、自身の仲の良いお坊さんを連れてトップに座らせます。
面白いなと思うのは、現在の筑波山神社のホームページには、神社にしては珍しく、葵の紋が掲げられていることです。この徳川・中禅寺もまた、徳川幕府から明治新政府へ移った際には、廃仏毀釈のトレンドにより、廃寺に追い込まれているのにも関わらずです(徳川・中禅寺は廃寺になって、筑波山神社がメインに返り咲いたにも関わらず、葵の御紋が筑波山神社のシンボルになっているのが面白いという意味です)。
つくば市の職員のお話では、小田氏のブランド力は江戸時代に入っても、残っていたそうです。そのため、小田氏治が『小田天庵記』や『小田軍記』など、軍記物(フィクション小説)で主人公として描かれ、茨城南部では多くの書き写しが残されているとのこと。
ぜひ読んでみたいと思っています(だれか現代語に訳してくれないかなぁ)。
☆☆☆
ツアーは、旧小田小学校で(ぼくは)終了しました。ほかの方々は校庭でキャンプやバーベキューをする予定だとのこと。当日夜までは天気が持ってよかったです。
ぼくはと言えば、自転車で妻の実家まで帰ろうと思っていました。小田からは十数キロなので、帰れない道のりではありません。妻からは「終わったら呼んでね」と、言われていましたが、車で迎えに来てもらうほどの距離でもないなぁと。
帰ろうとしたら、つくば市の職員の方が「車で送りますよ」と声を掛けてくれました。ということで、結局は送ってもらいました。
最初にツアーについて質問メールを送ったときもそうですが、ツアーのつどつどで、唯一、一人で参加したぼくのことを気遣って、話しかけてくれていた職員の方の親切心に感謝です。
このブログを読むことがあるか分かりませんが……おかげで、とても有意義なツアーでした。
小学校就学前の「学童」選び
ちょうど昨年の今頃。いよいよ小学校入学の準備に入りました……と言っても、うちはほとんど妻がやっていましたけどね。
いつ頃だったか忘れましたが、2-3月頃だったかな…妻から「学童、どこにしようか?」と聞かれました。
「学童って…1番近いところでいいんじゃないの? 同じ学校の子も多いだろうし。たくさん仲間がいた方がいいじゃん。迎えも楽だし」
ぼくは、そう答えました。学童って選ぶものなのか? というのが感想でした。←こういうのも、妻から叱責されるポイントです。
つま「いや、おにいちゃんがいる、うみちゃんママから色々と聞いたんだけど、学童によって、夏休みに給食がでたり、弁当を作らなきゃいけなかったり、色々とあるらしいんだよ。あと、施設もだいぶ違うからさ」
ぼく「そうなのか…(めんどうだなぁ)」
つま「でさぁ、今度、色んな学童へ見学に行こうと思う」
ぼく「そうか…」
つま「一緒に行くよね?」
ぼく「う…うん…、いつごろ行く?」
つま「とりあえず、今週の土曜日の◯時に◯◯クラブへいって、それから◯時に△△くらぶ…えーと、◯時には◇◇クラブへ行くって連絡しといた」
ぼく「そか…じゃあ行くか」
ということで、まぁ本当は2日くらいに分けて行った気がします。この辺りでは、(大人の)徒歩10分圏内に4つの学童クラブがあります。あと、塾っぽい…あれなんて言うんだろう…私立の(?)学童みたいな…子どもを預かりつつ、英語などを教えてくれる場所もいくつかあります。
その他、見学はしませんでしたが、小学校の、放課後教室というのもあります。これは、最終帰宅時間が16:30とか、早すぎるので、現実的ではなかったので、選択肢からはほぼ外しました。
◇◇◇
1件目……ぼくが最有力だと考えていた学童です。行ってみて初めて知ったのは「とても狭い!」ということでした。ここで何人が過ごすのか分かりませんが、放課後にここへ来させるのは…男の子にはキツイな……と。
近くに大きな公園がないのも、気にかかりました。近所なので、大きな公園がないことはもちろん知っていました。でも、施設が狭いうえに走り回れる公園がないっていうのは…正直、かわいそうだなと。
他にもムムムな点があり、学童を後にした瞬間に、妻へ「ここは、ないね…」と。いくつかのポイントを告げると、つまは「おっ、やる気でてきたじゃん(笑)。じゃあ次へ行こう」と。
2件目……少し遠めの、隣の小学校の敷地内にある学童クラブでした。隣の学校と言っても、1kmも離れていないので、自宅からの距離は問題ありません。ここら辺の小学校の中では校庭も広く、天気の良い日には伸び伸びと過ごせそうです。
スタッフの方も、とても親切そう。そのうえ、動きがキビキビとして、話し方もぼくとは違ってハキハキしていて好感が持てます(基本、ぼくと似た雰囲気の大人には、息子を預けたくないんです)。
「うん、ここはいいね。隣の小学校の友だちと仲良くなれていいよね。校庭も広いし」
3件目……私立っぽい学童(?)。なんて言うんでしょう? 塾っぽい学童です。小学校への迎えや自宅への送りもしてくれるとのこと。
ただ、ここも狭いですね。やはり、いちおう都心にも近いこの辺だと、私立だと広いスペースを確保できないんでしょうね。私立の保育園も園庭がないしなぁ。まぁ先ほど行った2件目も、運営は公的機関ではないんですけどね。
あとは…勉強、特に英語を教えてくれるというのは魅力的ですね。ただ…小学校でも習うからなぁ。「それより、興味を広げてくれるようなことをしてほしいなぁ」というと…つまは…
「大丈夫。いずれにしても、ここは高いから、毎日は通わせられないから。もしお願いするとしても、他の学童に通わせつつ、何曜日だけはここにするとかっていう使い方だろうね」
4件目…ここは公立の児童館と学童が、同じ建物内にある施設(保育園も)。児童館と学童というのも、ガッチガチに区別しているわけでもなさそうです。案内してくれた職員(いわゆる先生)は、これまでの中で1番ハキハキとしていて、こちらが質問すると、即座に答えが返ってきます。
(おっ、この人、あたまいいな…)って思わせるタイプの、キャリアウーマン風の女性。館長にも挨拶しましたが、これまたどこかから引き抜かれてきたのか? と思わせるような、しっかりとした年配の女性。そのほか、若い女性と男性の職員とも挨拶しましたが、いずれもキャピっとしたところがあるけれど、キチンとしているイメージでした。挨拶を交わすだけで、職員の統率が取れているように感じられました。
さらに決定打となったのが……工作室があったこと。保育園で、息子は、何かを作る楽しさに目覚めた時期でした。「工作といえば りょう太くん(息子)」と、先生などに言われて、りょう太もぼくも調子に乗っている時期だったんです。
工作室には、本格的な工作台をはじめ、ノコギリなどの工具類などが揃っています。
ぼく「りょう太…ここすごいなw?」
りょう太「うん…りょう太くん、ここにする」
ぼく「うん…入れるといいね」
施設を出てすぐに「少し遠いし、夏休みとかは弁当になっちゃうけど、ここがいいね」と、ぼくは妻に言いました。
ここは、狭いけれど施設に隣接して児童公園もあります。また新コロになってからは行かないそうですが、100mほど先には、近辺では一番広い公園もあります。
自宅からの距離は最も遠くなるとはいえ、自転車であれば4-5分、歩いても10分はかかりません(低学年は、新コロ禍で、親の迎えが必須なんです)。
◇◇◇
ということで、最後の4件目を第一希望として役所に届けました。
そして今年の春、小学校の入学とともに、この学童へも通い始めました。保育園でも仲良しだった友だちも何人かいて(ママ同士も仲良い)、りょう太も 居心地が良さそうです。
「小学校へは行きたくないけど、学童へは行きたい」と言う時期もあるほど、学童が大好きに…。土曜の学童は申し込んでいないけれど、同じ施設と職員の「児童館へ行きたい!」とも、よく言います。
自宅ではない場所に、自分のベースのような場所が、息子にできてうれしいし、安心しました。
選んだ甲斐があったというものです。
『ドラえもんの学習シリーズ』を買ってしまった
先日、アメブロのどなたかのブログを読んでいたら、『ことばの力がつく 辞書引き学習: ドラえもんの学習シリーズ』が紹介されていました。同じ小1のお子さんなのに、これを読んだら、辞書引きブームが到来していると。
ひょんなことから仕事で、子どもたちの間で「辞書引き」が流行っているらしいということは、以前、聞いたことがありました。
なんちゃらメソッドというのがあって、辞書を出版している出版社の編集者などが、全国でセミナーを開いているとか、辞書引きがしやすいように、辞書の作りを以前と微妙に変えているとか…。
あと、いまは辞書を小1で買って辞書引きを始めて、小学校で辞書を使い始める3年だかの頃にはボロボロになっているから、また新しい辞書を買う家庭も少なくないとか…。
その話を聞いたときから、それいいなって思いました。
息子が、普段使っている日本語に興味を持ってもらえたらいいなぁと。
ということで、アメブロを始めてからはじめて、ブログを読んだ勢いで、Amazonで『ドラえもんの学習シリーズ』を買ってしまいました。
さて…息子の場合は、どう反応するかなぁ…。学校で漢字を習い始めたら「かんじに きょうみがある!」って、この前までは言っていたけど…。いまはどうだろう?……ワクワク。
……なんてことを書いていた昨日、くだんの本が届きました。息子の りょう太は さっそくガツガツ読み始めましたが……特に「辞書引き」への興味が募ったということもないようす……。
これを読み終えたら辞書を買って"あげよう"と思ったけど……まだ必要ないかもな……。まぁ、それが普通の小1なんでしょうw
ちょっと近所の銭湯へ……ダイバーシティを感じる場所
我が家は、月に何度か銭湯へ行きます。
おそらく昔は(ワンブロックの)町ごとに銭湯が一軒くらいはあったんじゃないか…というような下町に住んでいます。そのため、あちこちに銭湯や銭湯だったところがあります。
息子の りょう太が、まだ3-4歳の頃は、必ずと言って良いくらいに、気の良いおじいちゃんに、よく話しかけられました。
「まだちっちゃいのに、自分でからだ洗えるなんて偉いなぁ」とか…
よちよち歩いていたりすると
「おっ、だいじょうぶか? ころぶなよ!」とか…
最近だと、息子が水風呂にチャレンジしようとすると…
「はいれはいれ! いけるかぁ〜?」
りょう太が「ひえぇ〜つめたいぃ〜」などという顔をしていると…
「すごいな! 気持ちいだろ!?」などと…
ここいら辺の銭湯は、毎日銭湯へ来る方が多いのですが、必ずと言っていいほどの確率で、立派な入れ墨をしている人に出会います。以前は、そうした人を見て、りょう太が……
「ねぇねぇ…あのひと、いれずみしてるから、はいっちゃいけないのに、はいってるよぉ」
などと指をさしながら言ったりしました。
あわててぼくが「おい! 指をさすな! 銭湯は、(入れ墨していても)いいんだよ」などと「し〜!」ってしていました。
ぼくだって入れ墨の人を見かけるのは、銭湯へ一人へ行くようになってからのこと。大人になるまで、見かけることはありませんでした。だから、「入れ墨=悪い人」みたいなイメージが、心の中には根付いてしまっているんです。
だって…背中に観音さまだか龍みたいな彫り物をしている、いかつい身体のおじさんって、やっぱり怖いです。頭では分かってますけどね。
でも銭湯では、むしろ入れ墨している人の方が、常連客です。さすがに背中いっぱいに入れ墨している方は、そう多くはないけれど(少なくもないです)、肩から両腕にかけて入れている人などは、ざらにいます。
☆☆☆
先週、どこかへ出かけた帰り道に、そんな銭湯の1つへ行きました。
りょう太と2人で身体を洗っていると、おじさんの一人が浴室から脱衣所へ出ていきました。
その時、おじさんがドアを閉め忘れたため、脱衣所から冷たい風が入ってきました。
ぼくは、ちょっと涼しいなあ、くらいに感じていましたが、息子のりょう太が……
「さむいよぉ……ドアがあけっぱなしだよぉ〜……おっとー(ぼく)、あそこのドアをしめてきてよぉ〜」と言いました。
「えぇ? りょう太が閉めてきてよ」
「やだよぉ〜、おっとーがしめてきてよぉ〜」
そんなやり取りをしていると、洗い場の近くの湯船に浸かっていた一人が、ざばぁ〜と勢いよく上がってきました。菅原文太を思わせるようなキリッとした顔つきで、上方も角刈りでキメています。鍛え上げられてはいないけれど、身体つきはガッチリとしています。そして肩から背中…そして腰までの立派な入れ墨。
ちょうど、愚息が「ねぇ、はやくぅ〜、おっとーがしめてきてよぉ」などと、言っているときでした。
その入れ墨のおじさんが、ぼくらに近づいてきたと思うと、背中側の狭い通路を通り過ぎて、がらがらがら……と、洗い場と脱衣所を仕切るドアを閉めます。
ぼくら親子2人が、その様子を ぽか〜んと眺めていると、入れ墨おじさんは、サッと向き直り、またぼくらの背後を通って、ざぶんと湯船に浸かりました。
「おじさん、ありがとう!」なんて言える雰囲気でもありませんし、オクテの親子2人が、その方に気安く声を掛けるようなこともありません。
また身体を洗い始めながら「あのおじさん、怖い顔しているけど、やさしいね」と、りょう太に話しかけると、「うん…しめてくれたね」と。
☆☆☆
近所にはキレイにリニューアルされた銭湯がいくつかあります。
浴室のある家が一般的になってきて、お客さんが減ってきてしまったんでしょうね。
銭湯なのに、入れ墨がNGっていうところも、見かけます。
ダイバーシティと、逆行しているような気がするんだけどなぁ。
そうは言っても、タトゥーの集団には、ぼくも偏見がありますけどね…
新型コロナ禍で、暇すぎる妻が書道教室を始めた話
妻は、いわゆる“バリキャリ”に分類されると思います。新卒から同じ会社で、あくせく(とまではいかないまでも)働き続けています。
そんな妻が、昨年は大きな挫折感を“一瞬だけ”抱いていたようです。
原因は、世界を震撼させた感染症です。妻が所属する企業は、大手…とまではいかずとも、日本で絶対につぶれない会社1,000選くらいにはランクインしそうな会社のグループ子会社です。大企業とは言えないし、誰も会社名を聞いたことがなくても、絶対に必要な企業って、たくさんあるんです。そんな会社の子会社に務めています。
そのため、妻の(部署の)仕事がなくなっても、この1年半、給料が減らされることもありませんでした。特に、初めて東京に緊急事態宣言が発令されたときからは、ほとんど出勤しなかった、にも関わらずです……。
ぼくは自営業なので「サラリーマン……恐るべし」と思いました。こういう時は、うらやましいな。特に、名だたる企業がリストラやら賃金カットやらしているのに…うちの妻は、有給かつ有閑なサラリーマン。
ただ、動き続けないと弱ってしまうタチの妻にとっては、良いことばかりではありませんでした。特にはじめのうちは、「ヤバい…仕事がなくなったら、どうしよう…」って心配していたし、感染症の広がりとともに、未来に(仕事面での)希望を見いだせずに、転職を考えていました。
そんな妻を横目で見ながら、ぼくはといえば……
「え? 会社へも行かずに、仕事もせずに、それで給料がもらえるなんて、サイコーじゃないか!」
って、お気楽に、うらやましがっていました。まさにぼくが理想とする生き方です。
妻「まあね…そういうことだよね。ジムでも通おうかな。いま月に数千円で入会できるらしいし」
ぼく「いいねそれ。ただ…いまジムに通う人たちって、ぼくらよりも意識低い系が多そうだから、気をつけてよ」
妻「そうなんだよねぇ。(近所の)◯◯でも、毎月感染者が出ているらしいし…。でも、時間があるからさぁ。それよりも、前から言ってた、書道教室を始めようと思っているよ」
書道教室の話は、数年前から言いはじめていました。そして、もう習字教室を開く準備を始めたと言います。教室を開くための、セミナーへ通うことにしたと……いやぁ、いつもボーッとしているぼくとは、正反対の妻。いつもながら動きが早い。
それが、たしか緊急事態宣言が発令されてから、すぐのことだったと思います。それとも、一回目が開けてからだったかな…。そんなときに、先生育成のためとはいえ、セミナーを開催していたっていうのも、いま考えるとすごいな…。
そして、昨年の秋頃に、彼女は習字教室を開きました。
本当は、近所に場所を借りる予定だったのですが、金銭面などで折り合いがつかずに、自宅で開くことにしました。
まずは練習として、息子の りょう太……それに、一番仲の良いママ友で、りょう太と同じクラスの女の子を、生徒として教え始めました。そのママ友も「教わりたい」と言っていましたが、「大人に教えるほどではないから…。でも、一緒に来て書くのならいいよ」ということで、妻+3人が、ほぼ毎週末に集まって習字をしていました。
ぼくはといえば、みんなが来ている間は、近所のカフェで時間をつぶしました。平日に仕事をしないで銭湯や博物館へ行く時のように、週末に家族と過ごさずに一人でいられるって……不謹慎かもしれませんが、とてもうれしいです。
⭐︎⭐︎⭐︎
そして今は、噂が噂を呼び…ではないですけど、息子を合わせて生徒が5人になりました。たまたまなのですが、一人を除き、息子の同級生(一人は同級生のお姉ちゃん)。
息子以外は全員、女の子。
自分以外は女の子ということで、習字教室の様子をぼくが聞くと…
「おんなはねぇ、しゃべってばっかりなんだよ。ぜんっぜん しゅうじに しゅうちゅうしないの」
などと言っています。男の子の友だちにも入ってもらいたいと言い出し、妻に「おとこも いれてよ!」と抗議。
つま「いいよ、りょう太が だれか さそってくればいいじゃん」
おそらく妻は、軽い気持ちで、そう言ったはずです。なんといっても、今は妻の趣味のような感じの書道教室です。そんなに生徒が増えても困る……狭い自宅だしね。
そうしたら、予想に反して、りょう太が 一人の友だちへ猛烈な勧誘を始めたらしいのです。
保育園も同じで、小学校も学童も同じ男の子。
「うみくんが、しゅうじ やっても いいって いってたよ」
ある日、りょう太が言いました。
「でも、うみくんママは やってもいいって言ったの?」
そう妻が言うと、りょう太は「こんど うみくんママに きいてみる」
後日、りょう太が うみくんに 改めて聞いたそうです。そうして…
「うみくんママに でんわできいたら、いまはむりだけど、こんど はいるかもしれない ってさ」
え? 本当に聞いたのか?
土曜日に学童というか児童館で、うみくんと一緒に遊んでいたらしいのです。うみくんは 子ども用の電話を持っているので、その電話で りょう太が うみくんママに直談判したと言います。
「すごいな りょう太が、直接 話したの?」
りょう太は、超絶オクテだと思っていたので、そんなことできないと思っていました。
「うん、はなしたよ」
べつに大したことしてないよ、くらいな感じで りょう太は答えます。ふむ…子どものすることって、分からないものだなぁ。
うみくんママと妻は仲良しなので、その日のうちに、LINEでやり取りして「押し売りみたいなことしてごめんね。こうこうこうだから、気にしないでね」と、軽く謝っておいたとのこと。
まぁいつかは 男の子も入るかもしれません(妻が教室を続けていれば…ですけどね)。
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この書道教室ですが……とくに儲かるわけではありません。やはり大がかりに生徒を募って、教室を運営しないと、難しいんでしょうね。教室というより保育施設のような雰囲気。ただ、妻もこれで儲けようとしているわけではありません(いちおう野望があり、今はその前の前の前の準備段階といったところです)。
もちろん無駄や徒労にはならず、良いこともたくさんあります。
まずは、妻の活力の一つになっていること。
自分で仕事を作る…自営するというのが、妻の長年の希望だったので、その足掛かりにはなっているはずです。妻のことなので、今後は大ばけするかもしれません……途中で飽きる可能性も大ですけど(笑)。
りょう太が習字を続けていることも、大きなメリットです。
当初も今も「ならってあげても いいよ」という、何様? スタンスですが、それでも毎週 筆を持ち、書を書くというのは良いことです。じょじょに筆独特の書き方にも慣れてきたようで……そろそろぼくよりも上手になりそうです。進研ゼミ小学講座のチャレンジタッチとの相乗効果で、ひらがなや漢字も どんどん覚えていきます。
もう一つのメリットとして、前述した通り、ぼくの自由時間が増えたことです。書道教室の数時間は、カフェで休憩したり、博物館へ行ったりして、ゆったりとした時間を過ごせます。
家族みんなに良い効果のある書道教室……無理のない範囲で、楽しめる範囲で、続けてもらえればと思っています。
小1息子が「サザエさん」のエンディングで大爆笑した理由
先週末に、小1息子の りょう太が、サザエさんのエンディングソングを聴きながら、ケタケタと笑っていました。
(↑ プライムビデオで配信していたって知りませんでした)
「こんなひと いないでしょう(笑)」
歌詞のどこに笑っていたかと言えば……
「買い物しようと街まで 出かけたが
財布を忘れて 愉快なサザエさん」
小1息子が保育園の年長さんへ教えたい、小学校の魅力
この前、息子のりょう太と、キックボードで近所のマイバスケットへ買い物に行った、その帰り道のこと。(我が家はキックボード2台持ち)
子どもをのせた自転車と、すれ違いました。
通り過ぎた直後に「あぁ! いまの カイトくんだ!」と、りょう太が言いました。
ぼく「◯◯小学校の、おともだち?」
りょう太「ううん ◯◯ほいくえん の ライオン(組)なんだよ」
ぼく「そっか。じゃあ りょう太の ひとつ下だね」
りょう太「そう。カイトくんさぁ、がくせいに なりたくない って言ってたんだよぉ」
「がくせい」とは、小学生のこと。りょう太はなぜか、こう呼びます。
りょう太「だからカイトくんに おしえてあげたいんだよね」
ぼく「え〜? なにを教えたいの?」
りょう太「しょうがっこうは いいよ って。がくせいに なったほうが いいよ ってさ」
ぼく「そうなの!? ほいくえん より たのしいの?」
りょう太は、時々、小学校へ行くのをグズったり、保健室へ逃げ込んだりしているので、小学校が嫌い…とまでは言わなくても…好きではないのかと思っていました。
りょう太「うん、しょうがっこうは いいよ」
ぼく「なにがいいの?」
りょう太「しょうがっこうはさぁ、なが〜い やすみがあるから。それが いいよって カイトくんに おしえてあげたい」
ぼく「夏休みとかのこと? 夏休み、楽しかった?」
りょう太「うん。なが〜い やすみ なのが いい(笑)」
うちは、夏休みの間は、学童へ通わせていたので、結局、休みではなかったんですけどね。まぁ…やっぱり小学校は、それほど好きってわけじゃないってことか。
ぼく「そうなのかぁ。じゃあそろそろ学生になる準備を始めているだろうから、教えてあげられるといいね」
りょう太「うん。こうえんで あったら おしえてあげようっと」
いずれにしろ、以前よりも今のほうが、ひとにおすすめしたい環境に、りょう太が居るってことは良いことです。
りょう太の場合、小学校は、必ずしも好きではないかもしれないけど、学童=児童館は、土曜にも行きたがるほど大好きです。
そういう場所があるっていうだけで、ありがたいです。
※ちなみに「カイトくん」は、もちろん仮名です。
りょう太……トーハクへ連れていかれる(東京国立博物館)
この前の週末に、妻が自宅で用事を済ませたいということで、終日、息子の りょう太(小1)と一緒に過ごすことになりました。
朝、りょう太は学校の宿題を済ませたあと、週に一度の習字の練習。習字をはじめて半年くらい。徐々に筆の扱い方が上手になっています。そろそろ、親のぼくよりも ひらがなを書くのが上手になりそう……ヤバいな。
「ふぅ……おわったぁ〜! いくよぉ〜!」と、寝転がっているぼくに、りょう太が声を掛けます。「おっけー! じゃあ行こうか」ということで、2人で自転車で出発。
りょう太の目的は虫取り。折りたためる虫かごをリュックに入れて、虫取り網を ぼくに手渡しながら、「○×○こうえんへ いきたい!」と宣言。「え?……おっとーは、トーハク(東京国立博物館)へ行きたいから、上野公園へ行こうよ」と言いました。
「え〜、やだよぉ……りょう太くんは、むしとりしたいんだよぅ」
「だぁかぁらぁ〜、上野公園で虫取りしてから、トーハクへ行けばいいじゃん」
「やだよぉ……○×○こうえんのほうが、むしがたくさんいるんだよぉ」
「大丈夫だって、上野公園にだって、虫はたくさんいるって。おっとーが、虫がたくさんいる場所を教えてあげるから」
「やぁ〜だぁ〜…‥○×○こうえんへ いぃきぃたぁいぃ〜」
「○×○こうえん、おっとーは何もすることがないから、つまんないんだよ。りょう太だけ楽しめる場所に行くなんて、おかしいでしょ? さっ、上野公園へ行くぞ!」
すごく不服そうでしたが、りょう太は、いやいや着いてきました。
ということで、上野公園に到着。虫は……あまり見つけられなかったのですが、なんとかバッタを一匹捕まえたし、木登りを教えてあげたので、りょう太の機嫌も直ってきました。
はじめに「りょう太の虫取りは1時間。そしたらトーハクへ行こう」と宣言していたので、だいたい1時間半ほど外で遊んでから、トーハクへ移動しました。
乃木坂さんたちの特別展も開催中ですけど……ぼくは常設展示しか、基本的に見ません。
☆☆☆
今年に入ってから、トーハクの年パスを買って、入り浸っています(学生も無料なので、息子も無料)。今日の目的は「令和2年度 新収品」。新たにトーハクの収蔵品に加わった品々が集められているんです。
土佐光起(とさみつおき)筆『粟穂鶉図屏風(あわほうずらずびょうぶ)』
粟を中心に、すすきや桔梗など秋草の野でうずらが遊んでいる様子を描いたもの。解説文では、うずらがすすき野に遊ぶ絵は、日本絵画の古典的な画題なのだそう。
土佐光起は、室町時代の土佐光信以来の流派である土佐派の画家。光起は、江戸時代に宮廷の絵所預となり、土佐派を再興したそうです。
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江戸時代の元和元年(1615年)に、本阿弥光悦が加藤明成という人に出した書状。
光悦は、江戸時代初期の書家、陶芸家、蒔絵師、茶人で、まぁ風流人ですね。書については「寛永の三筆」の一人と称され、「光悦流」の祖です。
彼の作った茶碗「白楽茶碗」や蒔絵の「舟橋蒔絵硯箱」は、国宝とされています。
上の書状は、樽酒などの礼を述べ「すちけ(筋気)」という筋肉の痙攣により病む病気のため、手紙の執筆もままならず、訪問もかなわなかったことを侘びているのだとか。光悦の書風を変化させた病気について、年代特定のできる貴重な書状なのだそうです。
☆☆☆
藤原定家(ふじわらのていか)筆の『後撰和歌集 巻十二断簡(紹巴切)』
藤原定家といえば、歌人として知られています。身近なところでは、『小倉百人一首』の撰者とされている方です。
書については、Wikipediaによれば「能書といったものではなく、一見すると稚拙なところがあるが、線はよく練れて遒勁である」と記されています。字が上手というよりも、味のある字を書く人のようです。たしかに…メモ書きのようなぐちゃぐちゃした雰囲気ですが、よく見れば「味」と言えるのかもしれません。
☆☆☆
15〜16世紀に作られた銅造の『忿怒尊坐像(ふんぬそんざぞう)』
怒った顔した尊師の坐像といったところですかね。
「見開いた両目に、扇形に逆立つ髪の毛や、手足に蛇を巻きつけるという異色の姿は、チベット仏教における忿怒尊の特徴です。東アジアの仏教では明王にあたり、左足でうつ伏せの人物を踏みつけ、さらに右手に剣を持ったとみれば、なかでも不動尊である可能性があります。」(解説パネルより)
10cmほどの小さい像が、ガラスケースの中に収められているので、なかなか近くまで寄れません。なんとなく怒っている顔だな…っていう感じです。
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江戸時代、鍋島の『色絵枝垂桜図皿(いろえしだれざくらずさら)』
解説パネルには「鍋島の七寸皿」と記されているのですが、「鍋島」というのがわかりません。おそらく、佐賀藩が藩直営の窯で製造していた高級磁器の「鍋島焼」のことか、それに関連するものなのでしょう。
「染付と赤の上絵具で枝垂れ桜が描かれ、背景は濃(だみ)で塗り込んで、夜の様子が表現されています。転写紙を用いて同図をあらわした組皿ですが、10枚が揃いで伝わることが大変珍しく、高度で洗練されたデザインが追究された盛期鍋島の優品です」(解説パネルより)
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上の他にも『法然上人絵伝』や『平安神宮下絵』など、絵や書があったのですが、りょう太が ぼくの袖を引いて「あしが つかれたよぉ〜」とゴネるので、彼の気を散らせるために、向かい側の考古室へ移動することにしました。
さっそく、はにわにお出迎えされる。いやいや立たせて、記念撮影。
国宝の『扁平鈕式銅鐸(へんぺいちゅうしきどうたく)』
弥生時代(中期)・前2年〜前1世紀
解説パネルでは「Bronze Bell」と訳されています。ベルってことですね。
「身の区間内には魚をついばむ鳥や、イノシシ猟など農耕生活を賛美したとも言われる絵画が描かれています。杵で臼をつく人物や梯子が掛けられた高床建物の表現は、銅鐸が農耕祭祀と深い関わりをもった祭器であるという解釈のよりどころにもなっています。」
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国宝の『銀象嵌銘大刀(ぎんぞうがんめいたち)』
金石の器物に記された文「銘文」のある大刀。大刀の全体に27文字が刻まれています。
解説パネルによれば「ワカタケル大王(雄略天皇)が天下を治められておられた時代に、文書を司る役所に仕えた人“ムリテ”が、精錬用の鉄釜を用いて、4尺(約1m)の立派な大刀を制作した。80回90回に至るほどに丹念に打ち、また鍛えたこの上もなく上質の大刀である。この大刀を身につけるものは、長寿を得て子孫が繁栄し、恩恵を受けることができ、その支配地を失うこともない。命じられて大刀を製作した者の名は“イタワ”で、銘文を書き記した者は“張安”である」と、大刀全体に記されているそうです。
文字は判別できませんでしたが、同じように大刀の身に刻まれている動物は、くっきりと視認できます。
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こちらも国宝の、5〜6世紀(古墳時代)の大刀。『竜文素環頭大刀』
どのあたりが「龍文」なのかがわかりませんでしたが……国宝ですからね……。
☆☆☆
古墳時代の埴輪も、たくさん展示されています。このあたりは、いつも見ているので、ササッと通り過ぎます。
しかし、何千年も昔の人が、こうしたものを手作りしているっていうのを想像すると、ワクワクするというか……あぁ、ぼくらの祖先が実存していたんだなと感じます。
☆☆☆
いろんな土偶も置かれています。
土偶を見ながら、りょう太が「りょう太くん……どぐうが けっこう すきなんだよね」とボソリと言いました。
「OK! じゃあ土偶を探しに行こうよ。たぶん、東洋館にあるから、あっちに行ってみよう!」
「いや…りょう太くん、そんなに みたくないんですけどぉ〜」
「いやいや、せっかくだから見に行こうよ。外国の土偶は、もっと面白いかもよ?」
「う〜ん……いいけどぉ……」
☆☆☆
ということで、場所を平成館から東洋館へ移動しました。
監視員の方に「土偶ってあります?」と聞いたりしながら、東洋館の5階へ。このフロアには、古代から近世の中国や朝鮮の……まぁ色んなものが展示されています。
これは4階だったかな…。
これはなんと! 中国の殷(いん)の時代の『饕餮文鼎(とうてつもんてい)』ということ。漫画『キングダム』は、秦の始皇帝の話ですが、それよりも随分と古い「前13〜前11世紀」の鍋ですよ。キリストさんだって、まったく生まれていない時代のものです。
「鼎(てい)」は、2つの把手(とって)と3本の足がつく鍋で、祭祀や儀礼の場で、肉や魚を煮て祖先や天地の神に供えるのに用いたと、書かれています。
なにがすごいって、胴部の装飾です。「内巻きの角と丸い目をもつ動物の顔が左右に開く形で表されています」とのこと。これは当時の人々が畏敬した神の姿と考えられ、「饕餮文(とうてつもん)」と呼ばれているのだとか。
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これは軍馬の頭に載せる青銅製の「馬冠(ばかん)」らしいです。これも西周時代…前11〜前8世紀ですからね。やっぱり中国って、とんでもない歴史を持っていますね。
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こちらは高さ2mくらいある『揺銭樹(ようせんじゅ)』。何度か全体を写真に撮ったこともあるのですが、今回は、一番上にある「鳳凰」だけを撮ってみました。作りが細かくて、感嘆するばかり……。
これだって、1〜2世紀の後漢時代のものですからね……。当時の日本は「倭(わ)」と呼ばれていた頃で(いまも中共人には蔑称として使われているようですが…)、まだ本州すら統一されていない時代です。
☆☆☆
土偶が置いてある場所まで、くねくねと向かったのですが、そろそろ りょう太が、ぼくの戦略に気づき始め……「ねぇ〜! どぐう はどこにあるの! わざと どぐう じゃないところを みてるんでしょ!」と、怒り始めています。
「ちっ……バレたか」ということで、土偶を見に行きました。
朝鮮半島の5~6世紀、三国時代と呼ばれた頃の土偶です。
大人の親指の先くらいの大きさの「カメの土偶」です。
「ねぇ……これ、りょう太くんより へたじゃない(笑」
「そだね(笑」
りょう太「いぬ だってよ(笑」
おっとー「これ…だれが犬って言ったんだろ? しっぽもないけど……(笑」
りょう太「あぁ! ほんとだぁ〜。しっぽないじゃん!(笑」
☆☆☆
こちらは「騎馬人物土偶」。かなり完成度の高い感じですが、先ほどの「カメ」や「犬」と同時代のものです。
馬の土偶は、けっこうがんばってリアルに作っているなぁ。
☆☆☆
りょう太「おーい! おっとー! こっち きてみなよ。すごい まがたま があるよ!」
たしかに、細工が細かい!
これ、1つの大きさが、小指の第一関節くらいだった気がします。
こちらも5〜6世紀の三国時代のもの。金製とあります。朝鮮半島でも、たくさんの金が産出されたのか、それとも外国から輸入したものなのか。
☆☆☆
「頸飾(くびかざり)」と書かれているんですけど、なんで、わざわざ「頸」という字を使うんだろう? 「首飾り」で良いとおもうんだけど。
素材には「硬玉」や「ガラス」と書かれています。
解説パネルには「色鮮やかなガラス玉と硬玉製の勾玉(まがたま)から構成された一連の頸飾です。多彩なガラスは、朝鮮半島内にとどまらず、アジア各地からもたらされたと思われます。本品が出土した居昌(コチャン)は、慶尚南道の西北にあり、伽耶諸国の1つ「子他(シタ)と呼ばれていました」と書かれています。正直、後半部については、書かれている意味が分かりにくいですね。
☆☆☆
こちらも細工が細かいですね。「金帽付き蜻蛉玉(とんぼだま)」とあります。
拡大するとこんな感じです。イヤリングと言ったところでしょうか。
しかし朝鮮半島も日本(古墳時代)も、この頃の装飾品は、とても細工が精緻だし、金製なども多くて驚かされます。すでに統治者が、かなりの財をなしていて、こうした装飾品を専門に作る職人を、多く抱えることができたということです。
☆☆☆
りょう太は「さぁかえろう! おなか すいちゃったよ」と言って、カメラを構えるぼくの腕を揺らして、写真が撮れないようにしています。
「わかった わかった。これだけ撮らせて……」と哀願するものの、許してくれません。
仕方がないので、東洋館を出て、庭園をぐるりと回って、トーハクを後にしました。
小学生のお勉強事情「小1の息子にチャレンジタッチを始めさせた理由」
小1の息子にチャレンジタッチを始めさせた理由
保育園の修了間近の3月だったかな…息子の りょう太に、進研ゼミ 小学講座のチャレンジタッチを始めさせました。始めさせたと言っても、親が強制したわけではありません。
りょう太が自分から「チャレンジタッチが ほしい!」って言い始めたんです。
りょう太からすれば、おもちゃを欲しがるような気持ちだったと思います。時々遊びに行くお友だちが、同じような通信教育の「スマイルゼミ」を、年長の頃から始めていました。遊びに行くたびに、それを使っているお友だちに、憧れのような気持ちを抱いていたんじゃないかな。
あとは「あっかー(妻)も おっとー(ぼく)もスマホ持っていて うらやましい! りょう太くんも ほしいよぅ!」ということで、自分のタブレットが欲しかったようです。
ぼくは、本人が やりたがっているんだから、やらせてあげたらいいじゃん…と単純に賛成しました。一人分であれば、ほかの習い事と比べても、高価なわけでもありませんしね。
でも妻の あっかーは、ずっと反対していました。「小1で、家で勉強する必要ある? そんな時間があるなら、遊ばせればいいんじゃない?」ということ。
「でもさ、学童から帰ってきたら、遊びになんか行けないじゃん」
「そうだけどさ。学校の宿題だってあるんだよ。それに加えて、チャレンジやる時間なんてないでしょ?」
「でも、本人がやりたいって言ってるんだから、半年とかだけでも試してみればいいじゃん」
「わかった。じゃあ様子を見てみようか。でも、おっとーが りょう太に、ちゃんとやらせてよね」
えっと…なぜか不機嫌だな……。
☆☆☆
実はぼくも、小学校で、学校以外の勉強をやらせる必要なんてある? って、思っています。学校の勉強をしっかりやってれば、いいんじゃない? って。りょう太は、頭のデキが悪い方だとも思えないし、学校の勉強に ついていけない…なんてことはないだろうと楽観も しています。
でも、本人が(勉強だとは意識せずに) 勉強をしたい! って言っているのだから、それに反対する理由もないだろうと思います。
☆☆☆
なんで進研ゼミ 小学講座のチャレンジタッチにしたかといえば……まぁ りょう太が、テレビCMを見て やりたがったのが、チャレンジタッチだったからです。
あとは、ぼくが小学校の高学年の頃に、成績が悪くて……進研ゼミを やっていたからです。
ぼくははじめ、兄と同じ塾に通わされました(兄は優秀でした)。でも、塾が大嫌いだったんですよ。学校終わってから、塾へ行くのが嫌で嫌で。それで、行きたくない!! って、主張していたんじゃないかな?(記憶にないけど)。
それで、塾ではなくて進研ゼミをやりたい! って、親に言った気がします。
当時は、今みたいに通信教育が一般的ではなかった気がします。クラスで進研ゼミをやっていたのは、ぼくだけでした(塾へ通う子どもは、少なくなかったです)。だからというのもあったでしょうが、母親は、ぼくが進研ゼミをちゃんと続けられるか、不審に思っていたようでした。
母の予想は外れて、ぼくは進研ゼミを、けっこうちゃんと取り組み続けました。
進研ゼミ(のような通信教育)は、決まった時間に決まった場所へ行き、だれかと比べられるっていう、塾のような息苦しさがない……だから、ぼくに合っていたんだろうと思います。
☆☆☆
りょう太には、ぼくと同じような匂いを感じるんです。集団行動が得意ではなく、一人で何かをしているのが好き。かと言って、友だちと遊ぶのが嫌いなわけでもないんですけどね。ただ、自分の興味のあることは集中できるけど、興味のないことには、とことん無関心。
さらに、いつどんなことに興味が湧くか、本人を含めて誰にもわからない……。
要は、一般的な小学1年生っていうことです。
子どもなんて、普通は、そんなもんでしょ。
☆☆☆
3月から始めて、途中の夏休み期間は、あまりやりませんでしたけど、それ以外は順調にチャレンジタッチを続けています。
時々、息子がチャレンジタッチを使っているのを、脇から見ているのですが、進研ゼミはさすがだなって感じます。
子どもに勉強させる工夫が、詰まっている気がするんです。
まだ小1だから、というのもあるでしょうけど、勉強しているっていう感じではないです。ちょっとしたゲーム感覚ですね。で、努力賞ポイントを溜めると、いろんなものの中から欲しいものがもらえる……っていう、物欲にも訴えます。
そのほか、いわゆる「お勉強」のメインレッスン以外にも、興味関心を広げられるような動画があったり、プログラミングや英語への興味を抱かせるようなコンテンツがあったり、絵本などが無料で読めたり……なんか、これが数千円/月だったら、安いなって本当に思います。
そうそう、これは親や本人の考えなどにもよりますが、りょう太とぼくは「チャレンジ」ではなく「チャレンジタッチ」にこだわりました(妻は紙で書かせたがっていたのですが…。
りょう太やぼくのような、ズボラな性格だと、紙はダメなんですw
紙テキストだと、そのテキスト以外にも、えんぴつや消しゴムを用意しなきゃいけない。さっ! 始めよう! ってせっかくヤル気が出ても、えんぴつや消しゴムを用意する間に、ヤル気が迷子になりかねません。まずここでつまずきそうw(実際、学校のプリントの宿題だと、準備するまでが大変です)。
チャレンジタッチ……つまり、タブレットだと、本体だけあればいいんです。電源をつければ、リビングだろうがキッチンの床に座ってだろうが、ベッドで寝る前だろうが、始められる。なんなら、旅行先へ持って行ったこともあります(持って行く! と、妻の反対を押し切って、持っていっていました)。
☆☆☆
そんなこんなで、進研ゼミの「チャレンジタッチ」には、今のところ大満足です(親としては、ですけどね)。
まぁ、どんな子どもにも「チャレンジタッチ」をやらせた方がいいですよ!
なんて、全く思いません。
妻が言うように、小1から勉強させる必要はないっていうのも正しいと思います。また、子どもによっては、塾とか公文へ通わせた方が、相性が良いかもしれない。紙と鉛筆で書かせた方が良いかもしれない。進研ゼミと同種の「スマイルゼミ」とか「Z会」とかの方が合うかもしれない。
そういう「子どもにとって、相性が良い勉強法はどれだ?」って、早いうちから探っていくっていう意味では、小1から始めるのも良いかもしれないですね。
「あぁ…チャレンジタッチ、合わないねぇ」って感じたら「じゃあ、スマイルゼミにしてみる?」とか「じゃあ、◯◯ちゃんと一緒の塾に行ってみる?」とか……「どれもダメだったかぁ……じゃあ、おっとーが、うんちドリルを使って、教えてあげるかぁw」っていうのが一番かもしれないですしね。


























































