年明け、だいぶ株価が上げている。
とある経済番組の配信を眺めていて、すこし笑った。
1月の株価は始値33193円、3分の2を消化した現時点では35963円。
途中6営業日での株価上昇は、2000円を超えていた。
これは多くの予想屋の限度を超えている。
すでに「答え」が出ている状況で、去年に収録した「予想」を出している番組を、やや冷ややかな思いで眺めた。
えらそうに説明しているが、あんたそれだいぶハズレてるよ、と。
言っていることが見当はずれなわけではなく、タイミングを完全にハズしている、という意味だ。
ことしの株価の予想上限を36000円と書いた人の予想チャートと、真逆に動いた1月。
早くもさらしものになっているのは、すこしかわいそうな気もした。
そもそも、ゲストに株価なり為替の予想チャートを出させるのはどうかと、いつも思っている。
とくに為替などはわかりやすく、だれかは「完全にハズす」わけで、もともとそういうものといえばそうなのだが、これは「馬券を買う」行為にも近い。
私は「経済」とは本来、地に足の着いた活動であるべきだ、と信じている。
経済と「ギャンブル」に境界線を引きたいなら、まずはギャンブルじみた「予想」は避けてほしい。
もちろん経済番組では全員が確信犯、お遊びとしてやっているのだと理解はしている。
そういう余地を残しておくべき程度には、経済活動に賭博的要素がつきまとうことも事実だ。
発注の量や、ヒット予想、お天気も含めて、すべて賭博的といえば賭博的である。
だからといって競馬の予想屋じみたことを、公共の放送で……という考え方も、私のなかにはある。
賭博をやるならやるで、振り切ってやってもらうぶんには、いっこうにかまわない。
私は暴力はきらいだが、過激な殴り合いだって強い者どうしでやっているぶんには、人口に膾炙する娯楽になる。
なんなら明確に犯罪である「詐欺」的行為すら、「だましあい」というライアーゲームの文脈からいえば、必ずしも否定はしない。
問題は犯罪者が、強い者どうしでやらずに弱い者をターゲットにしがちなところだけだ。
テレビという旧メディアの番組視聴者は、それなりに情弱が多い。
そこで公然と賭博じみたことをやっているから、違和感があるのだと思う。
詐欺の話が出たついでに、もらったものは返さない、という行為について書いておきたい。
いわゆる「誤送金」問題だ。
この手のミス、世界レベルでもよくある。
わかりやすいのが、2020年の「レブロン問題」だろう。
化粧品大手レブロンの債権者に、シティは約900万ドルを送金する必要があった。
そのとき彼らのシステムは、まちがって9億ドルを送金してしまった。
支払いを受けた企業の一部は、シティに不満があり返金を拒絶した。
そっちが勝手に送金したのだから、返金する義務はない、と。
問題は、そう考える人々の割合が、9億ドルのうちの5億ドルを占めた点だろう。
シティはそれを取り戻すため、訴訟という無駄な労力を強いられている。
金額的に過半数となると、これはもはや「一部」とはいえまい。
まちがってもらったお金を返す、という常識的な判断をする人々が、半分もいなかったのだから。
じっさいここには単なる人為的ミスというより、より根深い問題が横たわっている。
「シティには返金したくない」という気持ちは、わからないでもないのだ。
以前「金融マフィア」について書いたことがある。
ワースト3のヤクザ会社として、リーマンブラザーズ、クレディスイスと並んで、シティバンクの名を出した。
前二社がすでに破綻している現実にかんがみて、このシティグループもかなりヤバい。
逆に、よくもっているな、と思う。
解散価値が企業価値を下回る、PBR1倍割れ。
シティは長年0.5を割っており、市場の評価は厳しいといわざるをえない。
金融危機によって問題が暴露されたのは、シティばかりではない。
多くの銀行、JPモルガン、バンクオブアメリカ、トラベラーズなども甚大なダメージを受けたが、彼らは組織改革に成功し株価をもどしている。
一方、シティはヤクザであることをやめられなかった。
ただのジャンクという見方以上に、この問題は根が深い。
ジャンクみたいな企業価値の会社が多数あることが、日本のマーケットでも問題視されている。
そんな日本の現状に慣れてしまったせいか不思議にも思わなかったが、むしろこの巨体でこの数値、こんな企業が温存されている理由のほうが興味深い。
「大きすぎる」「複雑すぎる」「経営がまずい」シティの問題は、一発逆転の儲かる投資ではなく、もっと地道に稼ぐべきところにある。
投資銀行の問題について語ると長くなるのでやめておくが、組織が「タコツボ化」することによる非効率などの弊害は、シティにかぎった話ではない。
あらゆる組織に、この手の問題は内在する。
以前、コロナ給付金を誤送金をした自治体に、金を返さず逃げ回った男が話題になった。
日本では結局、ほとんどが自治体に返却されたようだが、個人的には「甘い」と思っている。
シティにお金を返さない人々が多いように、自治体にもお金を返すべきではない「理由」があるからだ。
給付金の話が出た当時、このブログでも、もし私がそのお金を受け取ったとしたら「返さない」と書いた。
正確には、盗まれたことにして同額を寄付する、と。
これは法的には正しくないし、過去記事について反省すべき点はあると認める。
だが、返すにしても「簡単に返すべきではない」と、いまでも思っている。
法的には、たとえ寄付に充当したとしても、「誤った振り込みを告げる義務」を怠った時点で罪になるという判例が、最高裁にはあるようだ。
人を欺いて金銭を得れば、それは詐欺罪に当たる──なるほど。
お金を返さなければ「悪」になるとして、では振り込んだ側はどうだ?
彼らをただの「過失」で済ましていいのか?
タコツボ化した組織には、改革が必要だ。
日本の自治体全部がそうだとは言わないし、シティグループと比較するつもりもないが、彼らは一定の制裁を受けるべき程度には腐っている。
事故が発生する時点で、その背後には100倍のヒヤリハットが隠れている。
大きすぎるシティと同様、小さすぎる自治体にも問題は多い。
日本は他国よりマシ、と考えている人々に言いたい。
あまり楽観しないほうが、よいのではないか。
むしろ一定程度の「悲観」が、日本をマシに保たせているような気がする。
民度は高くても、組織がそれに追いついていない。
まちがって給付金を送った自治体ではフロッピーディスクを使っていたし、イギリスでの富士通の問題も古臭いシステムが原因としてあった。
度重なるみずほ銀行のシステム障害は、遺物のような「タコツボ問題」に帰結する。
取引のミスで相場が大きく下げる、または上げる、といった「フラッシュクラッシュ」は定期的に起こっている。
だれかがまちがって発注し、それを訂正できなかった東証の責任は追及された。
もちろん人間なのでミスは犯す。
過ちを犯したら、相応の制裁、情報の開示、改革の責務を負うべきだ。
賞味期限の切れたシステムを廃し、より迅速に更改できる組織が勝ち残る。
私自身も含め、人間にも賞味期限があることを認めなければならない──。
最近よく昔のことを思い出す。
死ぬのかな、と予感しているわけではないのだが、脳の状態はそれなりによくない。
走馬灯とかいう謎の機械について調べてしまった。
内外二重の枠を持ち、影絵が回転しながら写るように細工された灯籠の一種、らしい。
走馬灯のなかの私は小学2年生。
鉄道料金のことを「汽車賃」と言って、笑われていた。
汽車w 電車だろw
同級生が、私をあざ笑う。
べつにトラウマというほどのことでもないが、たまに思い出す。
彼の指摘もまちがいではないという事実に対する鬱屈が、この記憶を風化させてくれないのだと思う。
自分自身、「正確に表現する」ことに対するこだわりは強い。
当時、蒸気機関車はすでに走っていなかったし、高崎線も信越線も電化されていて、祖父は横軽で電気機関車の機関士をしていたくらいだから、たしかに「電車」だ。
相手の指摘が正しい場合、反論するとしたら、どうしたらいいのだろう?
などと考えながら、「汽車賃」という言葉を使わないように気をつけていた、愚かなクソガキだった。
もちろんいまは、古い言葉のもつ情緒も含め、残していくべき表現だと思っている。
べつにいいだろ、汽車賃で。
この手の指摘は、連綿として受け継がれている。
とくにわかりやすいのが、鉄オタだ。
たとえば、きょう電車でこんなことがあったんだ、などと写真つきでSNSでつぶやいたとする。
すると、あれは電車ではなく気動車ですね、といった指摘が飛んでくる。
一般にこれをクソリプというが、これも言っていること自体は正しい。
問題は、それが「言う必要のないこと」である点だ。
正確に伝えることは重要だろう。
が、必ずしもそうあるべきと思い込むのは、よくない。
数学や化学のテストで、正確に記述しないとバツになるのはしかたない。
そのせいでこれらの学問がいやになる子どもも一定数いると思うが、理系の宿命と受け入れるしかない。
「火がつく」は不正解で、「炎がでる」が正解。
水に「溶けない」は不正解で、「ほとんど溶けない」が正解。
小中学校の「理科」の動画をたまに観て、そういえばあったなあ、と懐かしく思い出す。
だが一般社会では、そのような正確性には、たいした意味がないことのほうが多い。
最近いちばん気になったのが「恐竜」という言葉だ。
私は古生物学が好きで、その手の番組もよく観る。
そこで動画制作者は、口を酸っぱくして恐竜の定義を語る。
いわゆる恐竜は、正確には竜盤類と鳥脚類が属する爬虫類で、広義では現生の鳥類も含む。
スズメやカラスも恐竜だ、という強弁は可能らしい。
一方、中生代を生きていたプテラノドンやフタバスズキリュウは、恐竜ではない。
翼竜、魚竜、首長竜など、それぞれに分類がある。
──理解はするが、そこ、そんなに重要か?
学問なんだから正確に、という視点で番組をつくる気持ちはわかる。
FF外から絡んでくる鉄オタタイプも多いだろう動画業界で、粘着質な突っ込みを避けるための予防線であろうことも、予測はつく。
正確さを否定するつもりは、もちろんない。
とはいえ、そんなに言葉の用法に厳しくならんでもよくないか、と思うことも多い。
たとえば「恐竜図鑑」には、ケツァルコアトルスやモササウルスも載っている。
海生爬虫類は恐竜じゃないから、などという理由で図鑑から排除されるとしたら、子どもたちは残念に思うだろう。
代わりになる最適の言葉が、ほかにあるなら別だ。
しかし現実問題、適当な言葉がないので、より広い意味に「恐竜」が使われている。
それでいいのではないか。
昔のデカい生物をくくる一般的な言葉として「恐竜」を定義しても、だれにも迷惑はかからない気がする。
中生代までの巨大な動物はすべて、一般に「恐竜」と呼ぼう。
より正確に言葉を使いたい人間がいるなら、彼らは「恐竜目」とでも言えばよいのではないか。
同じことは「昆虫」でもいえる。
頭と胸と腹に分かれていて、胸から足が六本出ているのが昆虫、といった定義はたしかに学校でも習う。
だが「昆虫展」に行って、ムカデやダンゴムシがいても、すこしもふしぎではない。
それぞれ正しくは多足類や甲殻類なわけだが、『ファーブル昆虫記』にこれらのムシは出てこないか?
それは昆虫じゃないね、多足類だね、などとふつうの会話で指摘をする人間は、たぶんうざい。
勉強すればするほど言いたくなる気持ちはわからないでもないが、そこはもっとおおらかに受け入れておいたほうが、全体的に得だと思う。
細菌と古細菌は、ドメインレベルでちがう。
が、一般的な院内感染の話をしているときに、温泉地なら高温耐性ありそうだから古細菌ではないか、などと絡んでくるタイプは正直うざいし、たぶん自分が損をする。
必ずしも正確である必要はない、むしろより重要なのは意図が伝わることだ。
というユルい考えに、最近ようやくたどり着いた。
世の中には年をとるほど頑固になるジジイもいるが、私は逆に、だんだんテキトーになってきている。
電車でも気動車でもいいし、電車賃でも汽車賃でもいい。
そういう昔のことはちょいちょい思い出すが、さっきおぼえたばかりの言葉が、なかなか思い出せない。
能力の低下を実感して不安な日々だが、だれもが年をとる。
まちがった老化ではないと信じて、死ぬまで生きよう。
そもそも「まちがい」なんて、人生にはないのだ……。
若いころ、3交代の仕事をやっていたことがある。
眠る時間が、週ごとに8時間ずつスライドしていく生活だ。
いまはいいけど、年をとったらきついよ、と当時の先輩が言っていた。
その先輩の年齢をとっくに超えているが、きついと感じることはあまりない。
いまでも3交代の仕事をしているから、ではない。
結果的に、そういうサイクルで寝起きしているからだ。
人間は眠りたいだけ寝て、起きたいだけ起きていると、その1日のサイクルは25時間になるらしい。
その「人間のサイクル」に合わせて、いまは生きている。
というわけで、年越しのタイミングで寝ていることもあれば、起きていることもある。
ことしはぴったり、朝まで起きて年を越した。
テレビはいっさい観ない。
年末特番など無関係に暮らしている。
ことしも去年と変わらず、同じ一年というルーティンワークをこなすんだろうな、と思っていた、元旦。
まさに1月1日の朝、選挙カーがやってきた。
すごいタイミングだな、と思った。
365日、おそらく朝っぱらから寝ているだろう人間が1年でもっとも多いだろう元日の8時9時を狙いすますように、平和な日本人の眠りをたたき起こす黒船。
たった1台で朝も眠れず。
正気かよ、と思った。
山のふもとの街道筋で、おそらく上りと下りだろう2回、共産党の名を連呼しながら走り去った。
この保守王国群馬の眠りを覚まさんとするかのような、革命政党。
おまえら、そんなことしてるから勝てねえんだぞ……。
唖然、凝然、憮然としつつ、そのまま二度寝についた。
ちなみに私は、選挙には行かないタイプだ。
よって、共産党だろうが自民党だろうが、もちろん私の眠りを邪魔したことを死ぬまで許すつもりはないが、だからといって彼らは損も得もしない。
とりあえずそのときは、まさか同じ日にあんなことがあろうとは、夢にも思わなかった。
そう、地震だ。
午後、緊急地震速報で本格的に起こされた。
石川県で震度7らしい。
例年にない、騒がしい元日だった。
群馬の奥地もすこしだけ揺れたが、鳴り響く携帯電話を3回、止めてまわるのがだるかった、という程度の影響しかなかった。
私はテレビを観ないので、三が日の放送がたいへんなことになっているというニュースは読んだ。
それも含めて、ダメージはほとんどゼロだ。
あえて影響があったとすれば、目を覚まされた夕方から、あけおめチャットを返しはじめたことだろうか。
さすがに地震後に「おめでとう」は、タイミングがよくなかったかもしれない。
顧みると、反省すべき点はある。
私のような引きこもりは、自分だけが変わらず日常生活を送れていれば、それでよいという態度になりがちだ。
被災地に対してできることがないときは、日常生活を崩さないことが重要。
というようなことを、声の大きいひとが言っている記事も読んだが、結果的にはそのとおりのことをしていた。
社会不適応者の私が正しいこともあるんだな、と自分を甘やかしていいのかどうかはわからない。
ただ善人ぶるつもりだけはないので、ことしもやはり、よけいなことはせず静かに暮らそうと思っている。
最近、脳の具合がおかしい。
生命の危険を感じる瞬間がないこともない、とまで言うと大げさだが。
ひとまず人生をふりかえっておいてもいいかな、と感じた。
こういう変なおっさんがいた、という記録を残しておいても害にはなるまい。
──そろそろ天命を知っていい年齢、10年ずつ区切って分析するとわかりやすい。
生まれてから10歳までは、どこにでもいるアホなガキだった。
10代になると、こじらせはじめた実感がある。
表現者になりたいという夢をもったのが、このあたりだ。
20代、とりあえず10年、小説を書いてみた。
雑誌に名前が載る程度の実績で、結局受賞はできず、筆を折った。
30代、無茶をした。
とにかく働き、遊び、タネ銭を稼ぎ、トレーダーをやった。
30代後半から40代にかけて、脳の具合がおかしくなった。
めまいがひどく、ときおりパニックの発作が起こった。
メニエール病とかうつ病とかも考えたが、その手の「病気」ではないと結論している。
完全に無関係ではないかもしれないが、もっぱらストレスの問題だ。
日々、非常識な金額の利益と損失にさらされつづけたせい、と考えるとつじつまが合う。
このときの貯蓄で現在生きているので、簡単に当時を否定はできないが、あの生活には二度ともどりたくない。
リハビリがてら、小説を再開した。
創造的な作業のおかげで、なんとか平静をとりもどしたかのようにみえる。
小説についてはいまも、一次二次は抜けるがしょせんその程度、という中途半端な能力。
むしろ下手に受賞とかしないほうがいいな、と思うようになってきた。
これは負け惜しみではない。
もはやそういう段階は、とっくに通り過ぎた。
創造的作業そのものがリハビリなので、作品自体は書く。
書いたものは一応、投稿する。
昔は期待があったが、いまは逆の意味の不安が強い。
投稿したその日から、微妙に気分がわるくなるのだ。
病膏肓に入る、とはこのことだろう。
自分を見つけてもらいたくて投稿するくせに、見つかってしまうことに恐怖をおぼえる。
途中経過に下手に名前が出ると、不安が増す。
最終結果が出るまで、雑誌もネットも見ないようになった。
落選が決定的になれば、また安定して暮らせるようになる。
「静かに暮らしたい」という本音が、精神の根底に巣食っているせいだと思う。
大金を動かしていたときと、ある程度有名な表現者になってしまうことは、似ている気がする。
いずれにしても「静かに暮らせなくなる」からだ。
だから現在、正解の人生を生きている、と思っている。
田舎で小さな仕事をして、孤独に生きることは、私にとって正しい。
ちなみに落選作や応募に適さない作品は、ネット用に直しつつ順次、公開している。
このブログと同じようなもので、評価はあまり負担にならない。
そもそも、ほとんど読まれないという現実に気づいて以来、公開自体は気楽になった。
いつかAIあたりに見つけてもらえればいいかな、と思っている。
──そんな私に気を使ってくれたのだろうか、妹が投資の話をもってきた。
経営している会社で利益が出ているので、それを投資にまわして増やしたい、ということのようだ。
たしかに、低能な私がまともにできるのは、いまやカネ転がしくらいのものになった。
そのせいで心を病んだという過去さえなければ、喜んで乗っただろう。
マーケットの本質は一応、ある程度、理解はしている。
FP2級もとって、マネーという冷酷な現実に向き合ってきた自覚もある。
だが孤独に生きるのに、それほどお金はいらない。
いまは、いかにミニマムに生きるかを追求するほうが、むしろ楽しくなってきた。
だからマネーの世界にもどるのは、正直いやだな、と思っている。
そして、そんな自分を気持ちわるい、とも思う。
オファーをくれるというのは、チャンスをくれるということだ。
それを蹴るというのは、忘恩の徒のそしりを免れないのではないか。
生まれてこの方、自分はなにをやってきたか。
そう問われたときに、胸を張れなくなりはしないか。
それでも、いやな仕事をする必要はないと、もうひとりの自分は言う。
小さな仕事をコツコツやっていればいいじゃないか、という意見も正しいはずだ。
妙なことをはじめたら、また混乱して、発狂して、ひとに迷惑をかけるかもしれない。
前述したとおり、私の脳はポンコツなのだ。
どんなに養生していても、たまに暴走することがある。
なぜか食べ物を食べられなくなって、体重が10キロ減った。
ときおり全身を冷水に漬けたくなるような、やむにやまれぬ衝動に駆られる。
首筋と脇に凍らせたペットボトルを当て、急速に脳の血流を冷やすという方法で機能を低下させ、パニックをやり過ごすという処世術はいまのところ有効だ。
同居人がいないので、だれにも迷惑をかけずに済んでいるが、いれば心配をかけてしまうだろう。
こんな危なっかしいおっさんは、たぶん目立ってはいけない。
それほど大きな金額を動かさなければ、だいじょうぶではないか、という気もする。
妹も、負担のない方法を提案してくれている。
感謝すべきなのだ、私は。
こんなポンコツでも、使い道があるんだよと教えてくれている。
目立つ価値のない役立たずのおっさんでも、生きていていいのだと甘やかしてくれる。
ありがたいことだ。
生きていることが福音とはかぎらないと、もうひとりの自分が絶叫していても。
こうして文章を書けるのは、おそらく幸せなのだ。
書きたいことは、じつはまだある。
必要な情報を集め、低スペックな脳のなかで混ぜ合わせているときは、それなりに充実感があったりもする。
社会や歴史や科学を学んで、それを作品内で表現できることが楽しい。
だれにも迷惑をかけず、なにかを残している気になれる。
そこまではいい。
たしかに迷惑はかけていない。
が、結局のところ役に立ってもいない。
それでいい、プラマイゼロなら御の字だ、と自分を甘やかして生きている。
天才的な頭脳で、社会の役に立っている偉人はいる。
しかし私にその能力がないことは、20代までにたっぷりと思い知った。
一方、世の中に迷惑をかけて、盛大なマイナスをさらしている犯罪者もいる。
それに比べればマシだろう、という考えはスポイルなのか?
人間には、できることとできないことがある。
……そのできることを、どれだけやっているか?
為替やオプション取引には、リスクがある。
やるとしたら準備と勉強が必要だ。
踏み込むかどうか。
もうすこし考えさせていただきたい。
残りの人生の長さはわからない。
それほど長くはないと思っているが、もしかしたら生き恥をさらす憂き目に陥ることもあるかもしれない。
私は、どう生きるか。
映画に答えがあれば助かるが、たぶんない。
ともかく、死ぬまで生きるだけ、それでいいんじゃないかな。
そんなことを思いながら、ことし最後のエントリーを終えたい。
読んでいただいてありがとうございました。
来年もよろしくお願いします。
世間はクリスマスらしい。
シングルベルに慣れた私が、七面鳥を喰う予定はさらさらない。
クリスマスにはケーキと七面鳥を喰い、コーラとワインを飲む、などという欧米の文化にはまったく共感していない。
とはいえ、マーケティング手法として、宗教的なイベントが利用しやすいことも理解はしている。
クリスマスくらいは肉を喰おうぜ、という宣伝が仏教国の日本人に影響を与えている可能性も、ないとは言えない。
ともかく消費をうながす「商人」の行動原理に、私は批判的だ。
だいぶ昔のことのように思うが、サンタの扮装をしたヴィーガンがKFCのまえで「地球に平和を」とシュプレヒコールをあげていた。
調べ直したところ、2023年のことだった。
野菜「だけ」を食べよう、という共感の得づらい主張を、どうやって効果的にするか。
お肉の店のまえで大々的にやったらええんちゃう? という考えかもしれない。
暴力的な活動をしていたわけではないので、これはこれでいいんじゃないかなと、個人的には思っている。
宗教を利用して肉やイベントを売っているマーケッターと同様、ヴィーガンという宗教も既存のフレームを宣伝に利用しているだけだ。
自分で殺せる生き物だけを食べる。
何年かまえ、当時フェイスブックのザッカーバーグがやっていた生き方だ。
動物を殺して食べることについて、世界中にさまざまな意見がある。
ちなみに私は現在、ほぼ菜食主義で生きている。
自分で殺せない生き物を、食べるべきではない。
これは「倫理」の問題である。
反論として、「現代社会は分業で成り立っているので、携帯電話をつくれないひとは使ってはいけない、と言っているのと同じだ」と強弁するひとがいたが、もちろんそういう話ではない。
携帯電話の製造に参加することは容易だし、さほど気兼ねもなくできる。
目のまえの動物、たとえば生きて動いているウシやブタを殺せと言われてできるか、という話だ。
必要な道具などは与えられるものとする。
さほど気兼ねなくそれができるなら、食べてもいい。
ためらいがあるなら、それを食べるのはやめようという「倫理」綱領。
中型の魚くらいなら、釣ったりさばいたりできるので食べる。
ニワトリの首をへし折るのも、ぎりぎりできそうだ。
しかし大型ほ乳類を、自分の手で撃ち殺すのはためらわれるので食べない。
──そういうシンプルな倫理基準は、それなりに正しいと思われる。
私自身、あまり殺さないようにしている。
田舎なのでよく虫が出るのだが、なるべく捕まえて外に出している。
虫は食べないから、というわけではない。
殺す必要があれば殺すだろう、たとえウシでもクジラでも。
必要がないから、やらない。
野菜中心の食生活で、それなりに満足している。
ただ怖いから殺さない、というのはちがう。
むしろ生き物の構造そのものには、興味がある。
解剖動画などを、好んで観ている。
ネットがなかったころは、テレ東の「臨床科医の皆様へ」を毎週録画して観ていた。
人体がどういう構造になっているのか、もっと学校でちゃんと教えるべきだと思う。
さすがに人間を食おうとは思わないが、他の動物たちと同じ「肉」なんだと理解することは必要だ。
ウシやブタをつぶす現場を見ると、肉の味が変わるという。
その意味を知りもしないで、肉を食いたくない。
われわれは命を消費して生きているのだから、きちんと知る義務がある。
マグロの解体などはテレビでもふつうに観られるので、うまいもんだなあ、と感心しながら眺めることはよくある。
そういうことをきちんと教えないと、パックで切り身になった魚が泳いでいる、などという脳みそお花畑な人間が製造されることになる。
まあ、これはただの都市伝説らしいが。
サイトから警告が出るような動画を、よく観る。
この動画は、一部のユーザーに適さない可能性があります。
どういう理由で警告を出すのか、年齢制限か、あるいは他の基準があるのか、巨大IT企業の考えていることは忖度しがたい。
それぞれの世界に、それぞれの価値観はあってしかるべきなので、頭から否定するつもりもない。
たとえば「外科」という体育会系の世界観。
個人的には、やや違和感があったりもするが、やっていること自体は非常に興味深い。
などと、えらそうなことを書いているが、大型動物の解剖に、リアルに立ち会ったことは一度もない。
医者の知人が解剖実習の話などをしているのを聴いていると、すこしうらやましい。
司法解剖など一度は観たいと思っているのだが、ただの知的好奇心だ。
最初は気分がわるくなるんだろうな、と覚悟もしている。
べつにそういう職業人ではないので、慣れる必要はない。
ただ、なんらかの事件事故によって閉鎖環境に陥った場合に備えて、最低限の医療知識はあったほうがいいと思う。
知恵や知識の少ない人間は、そもそもつまらない。
なにを食うかは自分で決めればいいが、自分が摂取している栄養の意味くらいは、理解して食べたいものだ。
報道番組で、最近よく「パー券問題」をやっている。
私にとってのパーケンは女子高生の制服泥棒なのだが、今回その話はしない。
正直、かなりなつかしい香ばしさは、当初から感じていた。
暴走族とかチーマーが、オバケのパー券をつかませて中学生が泣き寝入り、みたいな昭和のプロットを思い出した私は年寄りだ。
パー券はみかじめ料で、70年代、田中角栄のもと、政治家たちの集金システムのなかに組み込まれた。
当時、ロッキード社の問題から逃れるべく、個人からの献金を募る政治資金パーティが奨励されるようになったが、その後、あまりの規制のゆるさに悪用された。
リクルート事件でも俎上に上がり、金額が下がって、20万円までは裏金にしてもいいですよ、という話になってから30年くらいか。
一世代、甘えていた爆弾が、いよいよ火を吹いた、という話だ。
さて。
とりあえず私の話をしよう。
私は、言ったことはやる。
だから、できそうもないことは言わない。
たとえば「生涯出ない」と宣言した番組に出た落語家がいたが、彼の生涯は終わったのだろうと拝察している。
新たな人生、第二の人生に踏み出した彼を、べつに応援はしない。
もちろん人生なので、状況が変わることはよくある。
その場合、そうとう丁寧な説明が必要になるだろう。
やると言ったらやるが、やらないと言ったらやらない。
そういうタイプの私にできることは、生涯とか、二度とないとか、そういう長期間を縛るようなことは、なるべく言わないようにするくらいだ。
政治家がついたウソだけを並べたサイトがある。
裏どりをしたわけではないから、すべてを信じるわけではないが、それにしても多い。
政治家は基本的に約束を守らないし、ウソをつく。
その例があまりにも多すぎるので、彼らはそういう人種なのだと思ってしまうが、個人的には信じがたい。
病気でもないかぎり、自分の言ったことは守りたいはずだし、そういう良識は教育されるまでもなく持っているはずだ、という私の先入観はまちがっているのだろうか。
あるいは、それらを捨て去らないかぎり政治家にはなれない、という暗黙のルールがあるのかもしれない。
永田町のプレイヤーとして生き残るための資質は、にこやかに挨拶をした相手に背を向けた直後、その相手の悪口を延々と並べられることだという。
その意味で、まさに政治家向きの人物を、個人的に知っている。
すごいな、と思う。
すなおに感心しているが、あまり連絡をとりたい相手ではない。
政治家は言葉がすべてだ、とよく言われる。
技術者なら、自分がつくりあげた製品に、すべてが表れている。
営業マンなら売り上げだし、学生なら成績だろう。
私なら、こうして書くことだと思っている。
「政治家はつぎの時代を考え、政治屋はつぎの選挙を考える」
古来、永田町に伝わる、由緒正しい格言だ。
政治家は私利私欲を捨て、国家の理想のために邁進する者らしい。
そうではないのが、つぎの選挙のために邁進する政治屋だ。
だとしたら、そもそも政治家なんていないと思うのだが、私が知らないだけでもしかしたらいるのかもしれない。
一方、よく使われる政治屋という言葉が、どういう意味かを考えるにつけ、最近、簡単な見分け方を見つけた。
一種の「屋号」だと思えばいい。
世襲が基本であり、長くつづくほど「老舗」となり、それだけで当選できたりもする。
本人の資質よりも、看板のほうが大きい。
それが「成田屋」みたいな感じで議事堂という舞台にのぼると「政治屋」になる。
一方、政治「家」は、芸術家や音楽家、作家だ。
その人自身の才能で成り上がるもの、と考えればわかりやすい。
世襲議員が全員無能だというわけでは、もちろんない。
新人議員も同じようなもので、カンニングペーパーつきで試験会場に送られた受験生を通すかどうか決めるのは、結局は「老舗の看板」だったりする。
彼らの目的は当選であって、その後、なにをするかではない。
多くの受験生のゴールは大学に合格することであって、大学を変革することなどではないのだ。
だから彼らは老舗の看板を敬い、そこが用意した既存のルールを守る。
政治資金報告書に書くなと言われれば、書かないに決まっているではないか……。
世襲を批判するが、いちばん悪いのは地方議員出身者で、つぎが官僚出身だ、世襲のほうがまだましだよ──。
と、G藤田M晴が言ったらしい。
スキャンダルは交通事故のようなもので、バレたのは「運がわるい」だけ。
地元への利益誘導と利権と票は、選挙で生き残るための三点セット。
中央に集めた金を、いかにして自分の地元にぶんどってくるか。
その能力が、国会議員の評価に直結する。
若手は、どんな会合に顔を出すか、どのポストに就くか、どの陳情を優先処理するか、地元の宴会でズボンの膝が擦り切れるほどお酌をして回り、やりたくもないゲートボールに参加し、カラオケで喉をつぶす。
すべては、つぎの選挙のため。
選挙の心配がなくなったベテランたちの目は、大臣ポストの獲得競争に向かう。
派閥抗争、権力闘争が主戦場だ。
必要なのはカネ。
やりすぎた政治屋は失敗するが、それ以外の政治屋は全員、そこそこうまくやっていた。
安倍派とは、そういう集団だったように思う。
彼らはただ、うまいことやろうとしていただけなのだ。
べつに結論というわけでもないが、私は政治の世界を、しょせんこの程度の代物だと思っている。
そこに庶民の一部が「うまくやろう」と加わって、政治屋たちと互いに利用し合ったりしている劇場が、中央から地方まで全国各地にある議会だ。
政治屋は、地元や支持者の要求に応えるべく、橋や道路建設のための予算をぶんどり、商店街の街灯設置、捨て猫の処理まで走り回っている。
本来は行政がやるべき仕事を政治が引き受け、代わりに立法府の仕事を行政の人間が請け負っている。
国会を通過した法案のほとんどは、じつは役所がつくったものだ。
現実の国会は、国の進路を決める言論の場でもなければ、法律の改正、作成の場でもない。
立法府と行政府の「立法能力」には圧倒的な差があり、何百人、何千人と専門家を抱える省庁がつくった法案に、ポッと出の政治屋とその取り巻きごときは対抗できない。
質問の内容は事前に政府側に届けられ、それに対する答えは役人がつくって答弁者に渡されている。
質問者も答弁側も、だれかにつくってもらった作文を棒読みするだけ。
そういう国の政治家に、なにを期待すればいいのか。
庶民として彼らにかかわろうとするなら、うまくやる道はひとつ。
政治屋さんに「言われたとおりの金額を振り込む」ことだけだ。
わかってんだろうな、「20万」振り込めばいいんだよ、うまくやりてえんだろ?
振り込めば、たしかにそれなりの公共事業はまわってくる、らしい。
そういう構図が、今回の問題の根底にある。
正直いまさら、たいした話ではない。
パーティ券がどうの、ノルマがどうのと、政治資金とかブラック企業を思わせるワードが飛び交っているなかで、私が見つけたのは結局「昭和の暴走族」だった。
そんな私の「ニュースの見方」は、私にとっては正しい。
私は賢い消費者なので、できるだけ日常の固定費を節約したいと思っている。
各種の値上げがつづくなか、生活防衛のためにできることをやりたい。
たとえばうちの通信回線、しばらく光だったが、群馬の奥地にも楽天の電波が届いたのを機に、置き換えてみた。
結論から言うと、光とほぼ変わらない速度が出ている。
誤解されたくないが、楽天モバイルを推奨しているわけではない。
むしろこの会社には、かなりイライラしている。
個人的感情は措いておこう。
事実として、楽天回線は使える。
理由はおおむねハッキリしている。
使用者が著しく少ないせいだ。
人口密度の高いところなど、ここ以外のどこかについては、いっさい検証していない。
言い換えれば、この田舎における楽天回線は、おそらく私の占有回線と化している。
有限の資源である電波。
その帯域を使う人間が少ないほど、ひとりひとりの通信品質は高くなる。
ヘビーな通信環境を要するゲームなどはしない。
せいぜい将棋を指すくらいの私にとって、さしあたり電波でじゅうぶんであることは、最初からわかってはいた。
その通信回線、埼玉の実家を一足早く、楽天に置き換えていた。
こちらを置き換えるための様子見という意味もあったが、問題なくつながっていた。
数か月ほど実家の通信状況を確認したところ、毎月20ギガちょっとしか通信していなかった。
ちょうど料金が高くなる境界線である。
20ギガ以上通信するなら、たとえば私のように500とか600使っても、値段は同じだ。
いくらでも使っていいと言っているのに、20ちょっとしか使わない。
だったら30ギガのプランに置き換えてもいいな、と判断した。
そこで節約のため、実家の回線は月30ギガのプランで契約しなおした。
翌月からだ。
月末、毎月のように苦情が届くようになったのは。
つながらない、と。
答えはそう、容量超過だ。
一応、予備回線としてpovoを準備していたので、そちらに切り替えてはいる。
なので実用上の問題はあまりないのだが、正直この親の態度にはイラッときている。
いくらでも通信していいよ、と言っているときは20ちょいしか使わない。
今月からは30ギガまでだよ、と言ったとたんに30ギガ以上使いだす。
なんなんだ、こいつら。
もしかして、いやがらせされているのか?
1年プランで30ギガ契約してしまったので、終わるまで超過分はpovo運用になるが、来年からは50ギガプランに変えようと思う。
さすがにそれ以上は使えないだろう……たぶん……そのはずだ。
それにつけても、きょうの結論は「乗り換えよう」だ。
べつに楽天を推奨するつもりは微塵もないのだが、環境によってはそれが適切な場合もある。
通信にしろなんにしろ、契約を見直すというのはとても重要だ。
光回線でも携帯電話でも電気でもガスでも水道……は難しいが、ともかく漫然と使いつづける人々というのは、商人のいいカモになっていることを自覚すべきである。
商人は、世のアホどもから吸い取った利益を自分たちで分け合いつつ、余剰を乞食にふりまく。
それがかつてあった「ケータイ乞食」の時代だ。
乗り換えてナンボですよ、という狂った時代。
毎月コツコツと支払っている人々が、乗り換えて高額キャッシュバックをもらう人々のための原資を負担している。
商人の言い分は、だってアホどもの貢物を自分たちだけで分け合うのは不公平だし、よそもやってるし、だからキャッシュバックしちゃうよと。
結果、当時の菅総理がブチ切れて、携帯業界の官制改革にいたった。
まともに料金を払っているのがバカらしくなった私も含めて、多くの人々が正気を失っていた。
さすがに現在、それほど狂ってもいられない時代にはなったが、多かれ少なかれ基本は変わらない。
賢い消費者になって、商人の利益をすこしでも削りたい。
そんな欲求のために脳を費やすことで、形而上学的妄想にふける自分を、すこしでも正気にもどしてやれる気がする。
魂、世界、神。
そういう答えのない迷宮について考えた数分後、お買い物のポイント付与率について計算したりする。
私は本来、お金などというケガラワシイモノのことなど、考えたくはない。
そういう性根の人間にとって、「節約」や「経理」の仕事で年末調整や確定申告の作業などに意識を集めるのは、バカバカしいと思う反面、じつはいいリハビリになっている。
お金は大事だが、それはいちばん大事ではない。
バランスをとりながら、それでも好きなことを考えて生きられる時間が、私にとっては最重要だ。
ことしのブラックフライデーも、それなりに買い物をした。
着々と荷物が届くなか、ほんとうにお得に買い物をできたのかとか、再配達含む2024年問題とか、いろいろな記事を読みながらすこし考えた。
私は基本的に、再配達させたくない。
引きこもりで家にいるので、実績からいっても、その手の負担をかけたことはほぼない。
置き配が指定できる場合には、置き配してもらっても苦しゅうない。
むしろ置いとけばいいのに、わざわざチャイムを鳴らされて玄関まで出るのがおっくうだったりもする。
うちはド田舎なので、郵便局、佐川、ヤマト以外の宅配業者はやってこない、と思っていた。
それが最近、見慣れない会社が配達にやってきて驚いた。
ずっと家にいた私が、ふと玄関に出ると、置き配してあった。
もちろんこちらが希望したので、置き配自体はいい。
この時点で、再配達がない、という前提での参入らしいと察した。
こんな田舎まで、ごくろうさま。
気になったのは、ポストに「不在通知」票があったことだ。
私はその日ずっと「不在」ではなかった。
なぜチャイムも鳴らさないおまえに、私が不在だったかどうかわかるのだ?
置き配「連絡」票とでも書くべきだろう、と思った。
勝手に決めつけられたことに、ちょっとイラッとした。
たぶん新規開拓の分野で気が回っていないだけだろうが、最初から置き配するつもりなら、そのくらいの配慮を求めたい。
さて、本格的にイラッとくることがあった。
アマゾンの「本日到着予定」に、今回もだまされたのだ。
私はちゃんと届きさえすれば、基本的にはいつでもいい。
「本日届けますよ」と言われれば、じゃあ届いてから風呂にするか、となる。
これが、みごとに「だまされる」。
私がきょう風呂にはいれなかったのは、アマゾンのせいだ。
いや届かないことが確定してから、夜中にでも風呂はいればいいじゃん、と思う方。
うちは寒冷地の古民家なので、生活の知恵として、冬場の風呂は昼間と決めている。
ともかく届かないなら、そんな予定は通知しないでほしい。
なぜ多くのECサイトは、届きもしない予定を通知するのか?
たぶん、それが親切だと思っているからだろう。
そして、もし届かなくてもそれは自分たちの責任ではありません、ショップか配達業者の問題ですよ、と説明できるからだろう。
ひとのせいにする余地は最大限留保しつつ、これみよがしに通知してくる「到着予定」。
それに私は、きょうもだまされる。
いつものこととはいえ、私は正直、だまされることがきらいだ。
好きなひとはあまりいないと思うが、ともかく問題視すべきは「だましているのは何者か」だと思う。
それは「商人」である。
ひとをだましても、平気の平左の面の皮という連中だ。
その事実を理解しているからといって、ムカつかないわけではない。
ムカつかされた側としては当然に、「約束を破って」いる者に「報いを与え」たい。
具体的にいえば、配達時間を予約して、その時間に留守にしたい。
彼らは通知した予定を無視するのだから、こんどは相手から予約を無視される番になるべきだ。
しかしもちろん、わざとやるようなことはしない。
アマゾンも、わざとやっているわけではないだろうからだ。
というわけで残念ながら、いまのところ私は予約時間を無視したことがない。
とても残念だが、いつかそのうち予定がはいったら、容赦なく無視してやりたいと思っている。
大事なことなので、もう一度言っておく。
自分は無視しておいて、相手からは無視されないなんて、そんな理屈はありえないのだ。
とはいえ、困るのは末端の配達員だったりするので、やや気が引ける部分はないこともない。
上司が適当な約束をしてくれるおかげで、末端の営業が困らされる構図に似ている。
この場合、アマゾンにだまされる私も配達員も、末端の両者ともが被害者ということになるかもしれない。
そう、考えてみれば加害者はひとり、ECサイトのシステムそのものなのだ。
要するにやめればいい、配達予定という「ウソを通知する」行為を。
もしどうしても通知したいなら、巨大な文字で「予定は未定」とでも書き足すべきだ。
あるいは配達予定の「達成率」を、きちんと併記してほしい。
発送国によったり、時期的な要因もあるだろうから、この期間の予定達成率は何パーセントですよ、などと通知してくれれば、まだ耐えられるかもしれない。
すくなくとも予定を知らせておいて届けない、という暴挙だけは許せない。
自分の発した通知がどれだけ信頼に値するか、その実績をきちんと表示すべきだ。
言ったことはやれ、できんことは言うな。
これは人生の基本だと思う。
ここ一週間で話題だったOpenAIの顛末について、すこし記してみたい。
サム・アルトマン氏が解任され、マイクロソフトへ移籍という話が流れ、再びOpenAIの社長にもどるという、大山鳴動して鼠一匹というような話だ。
何本かの記事と、経済ニュースを流し見た程度の知識で、なんとなく察したところを書く。
あくまでも現時点の不正確な情報からいたった個人的な見解だ。
そこには「歴史の鋳型」のようなものが見受けられる。
くりかえされる歴史は、人間の基本的な行動原理に根差しているものなのだろう。
経済ニュースなどでは、アルトマン氏を解任した取締役会のダメさかげんについて、指摘する向きが強かった。
そもそも情報が少ない状況では、事実から類推する以外にない。
いわく従業員の9割が反発したとか、投資家からの圧力がハンパないとか。
どうみても四面楚歌は取締役会のほうで、早々に白旗を上げたのは当然の結果だろう。
もちろんステークホルダーの意見は重要なわけだが、反対意見にも耳を傾けておく必要はある。
右をみても左をみても、相手の意見に耳を傾けない連中が多すぎる。
さて、ではアルトマン氏を解任した取締役会の意見とは、どういうものか。
いくつか見解の相違について語られている記事を読んだが、要するに「意識高い系」と「利益追求系」の戦いではないだろうか。
きっかけは取締役のひとりが書いた論文で、OpenAIのやり方を批判していた。
それにイラついたアルトマン氏が噛みついて、なんとなくいがみ合う関係になった。
冒頭に提示した「鋳型」というテーマにことよせて考えれば、これは資本主義と共産主義の戦いである。
そもそも「非営利」の理事会が、営利目的に走るアルトマン氏を否定する理屈は、理解できなくもない。
OpenAIは社是として、「広く利益をもたらす安全なAGI(汎用人工知能)の創造」を優先課題としている。
株主価値の維持などといった資本主義社会の現実には、あまり興味がないということだ。
現在の会社の利益などはどうでもよく、未来の公共の利益のために働く。
そんな理想をぶち上げる会社で、ふつうのアメリカ人に近いアルトマン氏が社長をやっていたら、それは意見もぶつかるだろう。
高い理想を掲げて、まい進するイデオローグたち。
どこかで見たことがある……そう、「革命」の闘士たちだ。
一部の理想主義者が暴力革命を指導し、相互監視社会の社会主義国ができあがった。
民衆はバカであったほうがよく、事実、一部の独裁者は字が読めるとか眼鏡をかけているだけで虐殺した。
意識高い系の連中を好きなようにやらせておくと、最悪そうなる。
宗教系も同様で、彼らは自分の正義を信じていて、他人の言うことに聞く耳をもたない。
右も同じく、思想を検閲し、洗脳と虐待の犠牲にしてきた。
彼らはつねに、相手の意見に耳を傾けず、しばしば「実力行使」にいたる。
理想を追求する取締役会。
ある種の哲学系、未来を語るコミュニティに属していて、理想社会の実現について追及する人々は、もちろんアメリカにも多数いる。
が、そんな理想主義者の居場所は、現在のアメリカにはそれほど多くないのだろう。
取締役会を占めていた優秀なインテリゲンチャたちは、そのあたりでアルトマン氏とモメた。
自己批判しろ、総括しろ、と昔ならリンチされるか強制収容所に送られるところだが、彼らは今回、解任という手段を用いることにした。
「主義者」にしては穏当な手段といっていいかもしれない。
そうやって理想を目指していく社会主義の会社があってもいいとは思うが、いかんせんそこはアメリカだった……。
お金儲けがしたいんです、という正直で字が読める、なんなら高い技能も持っている社員たちが、すなおについていくわけがない。
少数の知識人が、なんか意識高いことを言っているようだ。
しかし一般民衆には、未来よりも明日の給料のほうが大事だよ、と。
9割の社員に反旗を翻され、資本家たちの反撃にも遭い、アルトマン解任の顛末は速やかに逆流した。
そうして優秀なビジネスマンは、社長に復帰することになったのだった。
アメリカで、この手の理想を追求するのは、やはりむずかしいのかもしれない。
むしろ理想主義者が意外に多く存在することに、すこしホッとしたくらいだ。
とくにOpenAIのような大企業になってしまったら、そうそうヘタなことはできないということだ。
どちらに転んでもマイクロソフトの勝ち、という流れもアメリカらしい。
株主こそ最強たる新自由主義国の出来事として考えると、個人的にはとても理解しやすかった。
一方、世界でもっとも成功した修正社会主義国、日本のAI業界はどうだろう。
アンテナを高くすれば聞こえてくるのかもしれないが、いまところ、これといって衝撃的なニュースは聞かない。
よくもわるくも、静かに淡々と進めるのが日本のやり方なのかもしれない……。
個人的な経験から申し上げて恐縮だが、私はあまり人間を信用していない。
とくに彼らの「選ぶ能力」には、たいへんな疑問を感じている。
20年来、小説を書いてきたあげくに落とされつづけてきたから、という突っ込みは痛烈なのだが、まあ否定はできない。
私も私の能力を評価しない方々とは、なるべく付き合わなくて済むように努力しているつもりなので、それはそれで自己完結しているとは思うが。
べつに愚痴るつもりはない。
ただ似たような感覚をもつ方々が、社会には多いのではないかと思って書く。
とある経済番組でやっていた話を下敷きに、たとえ話をしよう。
温故知新というテーマで、伝統ある食料品店が一丸となって、新商品開発の話をしていた。
若い社員が自信をもって、これが温故知新です、と新商品をもっていった。
すると社長は、昔の感じが出ていない、とほぼ全部の案をリジェクトしていた。
若手がつくったのは、どちらかといえば新しきを知ることを重視した商品だった。
しかし社長は、もっと昔の感じを出さないと許さないよ、これはボツだ! と。
私は舌がバカなので、この経営者の意見も労働者の意見も、どちらが正しいのかまちがっているのかわからない。
ただビジネスは正直、やってみなければわからないことが多いように思う。
その社員は、温故知新の「知新」のため、新しき人々のためにつくった。
しかし古き人々のひとりである社長は、昔はこんなんじゃなかった、と言い出してボツにする。
若い社員は、昔はこうだったことは知っているが、それを踏まえても、いまはこっちのほうが受けるはずだ、という判断で出したアイデアだった。
しかし社長は、いまがどうこうじゃないんだよ、昔の感じが出ていないんだよ、温故知新の「温故」が大事なんだ、だからダメだと。
……じゃあ自分の気に入った商品をあんたがつくれよ、と思ってしまった。
大衆に向ける商品の議論で、個人の好みでボツにするというのは、説得力がないと思う。
まあ売り出したら全責任は社長が負うんだから当然、という気もしないでもない。
そういう「気概」を感じさせる社長なら、まだ受け入れる余地はある。
しかし万一、社長の言われるまま昔の感じの商品を、そのままつくって売れなかったとしよう。
その社員に対し、おまえがつくった商品なんだからおまえの評価を下げるよ、と言い出しかねないのがこの手の社長だと、私は思っている。
そもそも昨今の食品業界で、そうそう「まずいもの」はない。
つまり、出してみなければ当たるかどうかはわからない「好み」のものだ。
そこに、どう考えても社長よりはくわしく市場調査をしている若手の出してきた案を、なんなら「温故」でも「知新」でも、どっちを出してもそれなりに売れるだろう商品に対して、あえてボツを言い渡す。
こういう経営者が、ほんとうに苦手だ。
似たようなことは、かのスティーブ・ジョブズもやっていた。
もしかしたらジョブズの本を読んで「これマネたろう」と思った、浅はかな経営者が日本にも多いのかもしれない。
わざわざマネしなくても、この手のタイプは一定数いる。
彼らの言い分は、こうだ。
とてもいいアイデアだ、すばらしい……が、とりあえずボツにしておこう、もっとがんばってもらいたいからだ、そうすればもっといいアイデアが出てくるだろう。
──このような経営者とは、断じて噛み合わないタイプのひとりが、私だ。
彼らようなタイプに私が言いたいことは、ひとつ。
いいものはいいと言えよ、拒絶したらすべてを失えよ、だ。
そのアイデアを拒絶した時点で、その手のアイデアから得られるものすべてを失ってほしい。
ダメ出しをした以上、それ以外の新しいものを考えてほしい。
もちろん考えるのが若手の仕事ではあるのだが、拒絶をするならするで、その理由に説得力をもたせるのが経営者の仕事だと思う。
その経済番組では「社長はなにもわかっていない」と社員が愚痴っていたので、すくなくともこの社長には社員を納得させる能力がなかったということになる。
正直、経営者という連中ごときに、それほど「ものを選ぶ能力」があるとは思えない。
私にとっては、えらそうな編集長が、ひとが一生懸命書いた作品を酷評してくる感じと、ものすごく重なる。
その地位にいる以上、それなりの経歴を積んではきたのだろう。
ただ単に学校の成績が良かったとか、世渡りがうまかっただけのケースも、ままあるとはいえ。
また、たとえ実績を誇るタイプでも、たまたまやってみたら成功しただけ、という程度が大半だと思う。
彼らにはそもそも「選ぶ能力」などないのだ、という前提に立ってみると、世の中にある「失敗作」の半分くらいは説明できるような気もする。
だから「やってみなはれ」の精神でやっている昔の経営者とは、とても気が合う。
往時のパナソニックやサントリーといった企業には、プロジェクトⅩ的な郷愁を超えた共感がある。
やってみなければわからないのだから、やってみなはれ、と。
程度問題はあるが、これは正解だ。
別の経済番組では、迷ったらやりなさい、という企業風土が紹介されていた。
やるかやらないかを悩みぬいた末に出てきた案ならやりなさい、と役員会議で決めるような会社だ。
結果は失敗だったりするのだが、それをやった社員はその後、社長になっていたりする。
失敗作の山の中に宝がある、と知っている企業は日本にもまだまだある。
当たりか外れかは、八割がた、時の運だと思う。
その運を人為的につぶすのが、上記もろもろ苦言を述べ立てたタイプの経営者ではないだろうか。
「とりあえずボツ」にしておいて、なんか仕事をした気になる。
えらそうにふんぞり返りたい経営者が、経済番組には意外によく出てくる。
若手も正直「おまえになにがわかる」と思っている。
もちろんなにもわかっておらず、とりあえず「ダメ出ししたいだけ」なのだろう。
ボツにしておけばまた持ってくるので、仕事をしたフリができる。
そういう低レベルな思考は、残念ながら若手のほうも同じかもしれない。
どうせどんな企画をもっていっても最初はダメ出しするんでしょ、それで締め切り直前に、ちょっと調整してもって行ったらGOサイン出すんでしょ、と見透かしている。
それ最初に持ってきた味と同じだけど、あんたそんなこともわからないんだね、舌バカなんだね、と見下される上司も哀れではあるが。
しょせん「好み」の問題で、よほどまずいものでもないかぎり、売れるかどうかは時の運だ。
えらそうにしたいだけの経営者のお守りをするのも、なかなかたいへんだが、社会人というのはたいへんなのだなと、経済番組をみているとよくわかる。
こういうタイプは、おそらく政治家にも向いている。
とくに能力はなくていい、ただ世渡り上手で選挙だけ乗り切れれば、あとはえらそうにしほうだいだ。
──という人間観をもっているので、私はあまり「会社」や「組織」というものに所属することに向いていない。
おかげさまで、きょうもひとり、さみしくキーボードをたたいている。
AIからは、「自己完結型の人は、問題解決能力や自己決定能力などを持っていることが求められる現代社会において、非常に重要です」と褒められた。
一方「コミュニケーションになんらかの問題を抱えている可能性があります」と、的確な指摘ももらった。
おっしゃるとおり、あなたの時代がやってくる。
人間から選ばれなかった私は、AIからは評価される人間になりたい。