先日、国際女性デーとやらがあったらしい。
 ジェンダー平等に戦争反対とか権利拡張を絡める、いくつかの記事を読んだ。

 ジェンダーギャップ指数で、あいかわらず日本の順位は低いらしい。
 とある女性キャスターが、悲しそうに報告していた。

 あんたは勝ち組だろ、とは思いつつ全体としての問題点は理解する。
 いわゆる「女性問題」についての私見をまとめたい。

 今回のエントリーは、とくにポリティカリーコレクトを重視する方々は読まないほうがよいかもしれない。
 私は男女を「区別」すべきだと思い、それを「差別」だと決めつける方々にとっては、そうとう不快だろうからだ。


 前提として、私は男女を明確に「区別すべき」だと思っている。
 この手の主張に対し、女権論者がヒステリーを起こしてブッたたいている番組や論旨は、いろんなところで見てきた。

 その姿は、「共産主義に同意しない反革命者どもは人民の敵」と叫ぶ「主義者」と、あまり変わらないように見えた。
 新興宗教の「狂信者」にも似ている。

 そんな「ウーマンリブ」と対峙する私は、ある種の人々にとっては「敵の敵」となる。
 よって「同志」かもしれない、と保守派が期待しかけていたら、あらかじめ冷水を浴びせておく。

 私は、男女は明確に区別すべきだと思っているが、保守的なわけではないのだ。
 女権論者の主張に対しては「総論反対」だが、彼らの言うことの多くには「各論賛成」であることが多い。


 女性が働きやすい制度づくりをしろ──まったくそのとおり。
 賃金格差とかバカなのか、むしろ女性特有のコストを社会が負担すべき──まったくだ。

 一方、女性の能力は男性と同等である──は?
 同等じゃねえよ、明確に「異なる」わ、寝言は寝て言え。

 微生物ではないわれわれが、生物として「性的二型」を選択している時点で、両者のタイプが異なるのは自明だ。
 男女が異なるという「科学的正解」と、女権論者が振り回したがる絶対平等という「政治的正解」が異なるために、私はいつも苦々しい思いを抱いている。


 日本のジェンダーギャップ指数は、146か国中125位らしい。
 低い最大の理由は、政治参画(138位)と経済参画(123位)だという。

 この時点で、私には多くの感慨が生じている。
 だったら解決は「簡単なこと」だからだ。

 本ブログでもよく書いているとおり、私にとって「政治家」と「商人」は二大仇敵である。
 その職務のほとんどを男が占めているので、日本は男女平等ではないらしい。

 であれば、答えは簡単だ。
 そもそも(私にとって)低劣な二大職業である政治家と商売人を、女どもに任せてしまえばいい。


 誤解を恐れず、わかりやすく言おう。
 政治家とか商人とか、くだらねえ仕事は全部、低能な女どもに任せときゃいいんだよ。

 だいぶ偽悪的に表現したが、それが「異なる」男女に適当な「配分」だと思っている。
 この道を選択するだけで、ジェンダーギャップとやらは著しく解消するだろう。

 むしろ女のほうが、男よりうまく政治や商売をまわす、と私は信じている。
 すくなくとも民主主義社会においては、そうなりやすい。


 とくにクソガキどもを見ていると、成長速度の問題もあろうが、相対的に女子の性能が著しく高い。
 男子のバカさかげんについては、もはや絶句するレベルだったりもする。

 まあ子どもを引き合いに出して全体を語るつもりはないが、両者の適性が明確に異なっているという事実には、留意すべきだ。
 教育者などが「男女平等」を連呼する記事を読むかぎり、異なるものを無理やり同じ鋳型にはめ込もうとする狂気が、そこはかとなく透けて見える。

 生物としてベーシックなのはメスであり、オスはそれに依って立つもの、よけいなものをつけ足した「ミュータント」のようなものだ。
 よって基本、女が世界の中心に立つことは、正しい。

 まれに圧倒的カリスマ性を誇る最高性能の男が誕生することがあり、その場合は支配をゆだねてもいいかもしれないが、人類史上に刻まれてきた「英雄」の賞味期限は言うまでもなく短い。
 結局、女に任せておいたほうがいいと思う。


 端的に表現すれば、小学校の学級活動から国会の政治まで、日常の「くだらないこと」は女子がやればよい。
 男子はもっぱら日常を遊離して、とてつもなく「すごいこと」か、とてつもなく「バカなこと」をやっていればよい。

 じっさい男に任せておくと、どこぞの国のように戦争を起こしたり、国民を弾圧したりという「バカなこと」をする。
 このような男たちの職業適性は、政治家ではなく「芸人」か、せいぜい二流の「学者」だ。

 より能力の高い男は、政治とか商売とかくだらないことをやっていないで、もっとクリエイティブでオモシロイことをやるべきだ。
 そして能力のない私のような男は、底辺の生活に順応すればいい。


 ノーベル賞受賞の天才、ペンローズも言っている。
 特段の才能に恵まれない連中の最後の逃げ道が政治家だ、と。

 個別の「天才」の話をするつもりはない。
 どう考えても圧倒的に天才なのは、男だからだ。

 だから男が優秀?
 そうではない、ただ男の能力が「偏っている」だけだ。


 大きな枠組みで、男女の差のもっともはっきりした点は、能力値の「分布」である。
 正規分布曲線というわかりやすいグラフがあるが、これほど男女の差を明確に表すデータはない。

 男は統計的に、能力の「偏差が大きい」。
 逆に女は「中央値が高い」、これは「事実」だ。

 つまり、偏差値50の周辺に、著しいボリュームゾーンがあるのが女。
 大多数の女が平均的な能力をもっていて、飛び抜けて有能とか無能という女は、絶対数として少ない。

 一方、男は能力に「格差」が大きい。
 偏差値75もいれば25もいる、つまり「超すげえ男」と「クソ野郎」の両極端に、分布が広がっているということだ。

 中央値が高いということは、より一般的な判断に向いている。
 政治とか商売など、ポピュリスティックな選択が重視される業界においては、これほど向いた適性はないと思う。


 私は集団行動に向いていないので組織に属したことはあまりないのだが、働くなら、できれば女の上司のところがいい。
 面倒見のいい女なら、私のような狂った男も御していけるのではないか、と思う。

 もちろん「すごい男」はけっこういるので、そういう上司ならいいが、同じくらい「ゲス野郎」もいる。
 狂った男がゲス野郎のもとに配属された場合、殺し合いに発展する恐れがある……。

 よって女たちには、寝転がってワイドショー見てないで働いてもらえるとありがたい。
 めんどくせえから男に任せときゃいいわ、とカウチでポテチ食ってる奥様方、申し訳ないが社会のほうに出てはくれまいか。


 総論。
 男女に平均的な差はほぼないが、特異的な差異は著しいので、両者は異なるものとして扱うべきである。

 各論。
 政治家や経営者ごとき駄仕事は、その適性からいっても半分、できればそれ以上を女が担うべきだ。


 一般の生物界に比べて、人類社会は特殊だとは思う。
 だがわれわれは、逃れがたくホモサピエンスという種でもある。

 統計的なデータ、科学的知見にもとづいて、人間を生物として判断することは、ごく自然な見地だ。
 たとえばライオンにおいて、日常的な食糧確保をメス、ただ兵役をこなすだけのオス、という分業が成立しているように。

 女に働かせておいて、男は代わりにもっと好きなことをやって生きるべきだ!
 とまで言うつもりはないが、『髪結いの亭主』や『厩火事』には示唆的な先見性(高収入の妻にまつわる話)がある。

 そのために制度の変更が必要なら、がんがん変えていくべきだ。
 つまり「各論賛成」。

 男女の能力は等しいから、あらゆる意味で平等にすべきだ。
 いや、男女は完全に異なるので「総論反対」。


 要するに、低能な男どもを排除して、ふつうの女たちに天下を取ってもらいたいのだ。
 じっさい男たちの「メス化」は進んでいるし、これは種としての順路なのだろうとも思う。

 そのとき「標準」から弾かれた男たちは、どうしたらいいのか。
 好きなことをして、生きていけばよい。

 極端化した変態は、それはそれで興味深いこともある。
 じっさい「バカな男」が飛び抜けて「おもしろい」ことはよくあるし、だったらある程度は泳がせておいてもいいと思うのだ。

 いずれ井の中の蛙が道を究め、すごい泳ぎ方を開発したりするかもしれない。
 未来のための投資として、一定の遊びはあっていいだろう。

 これが私の「ジェンダー」に対する姿勢である。
 このほうが世の中はもっとおもしろくなるし、じゅうぶんに妥当な選択肢であるとも思っている。