静岡の知事が、リニア新幹線を妨害している。
 そんな話題が数年前から、ちらほらニュースサイトのヘッドラインに乗ってくる。

 興味本位で、たまにクリックする。
 じつにおもしろい……。


 最近たまたま、おもしろい表現を見つけた。
 知事は会見で、少数の「消極的」な「少数派」の意見として、水を「戻す」ことを「しない」という考えに「反対」は「しない」という地域の声を紹介した。

 否定的な表現がくりかえされすぎて、もう肯定しているのか否定したいのか、よくわからない。
 一読して、これがどっちの味方かを理解できた人の読解力は、すばらしいと思う。

 工事のときに流れた水を「戻」せ、というのは静岡県知事の要求だ。
 それを「しない」のは、JR東海にとって有利だろう。

 それに「反対」するとしたら知事の味方だが、反対を「しない」のでJR東海の味方なんだと思う。
 この意見を、知事が「消極的」な「少数派」の意見として紹介していた。

 ええと、つまり……わかりません。
 要するにこの知事は、自分に都合のいい意見、情報を伝えること以外に興味はないんだな、という部分だけはなんとなく理解した。


 工事で出た水をもどせ、調査のボーリングも許さない、と騒ぐ「県」の知事。
 そんな水、もどさなくていいから早く調査を進めて、と「地域」の首長が反旗を翻した。

 県と市町村。
 いわゆる「ねじれ」だ。

 ある記者が、知事はいったいだれを代表しているつもりなのですか、と問うた。
 すると知事、なんと「国民の総意だ」などと答えていた。

 思わずアプリゲーム「ぐんまのやぼう」を思い出した。
 日本や世界、果ては宇宙まで「ぐんまけん」に変えようという、シュールなゲームだ。

 ゲームならいいが……この知事やべえな、と一瞬思った。
 まあ、よく読むと主語が「南アルプス」だったりするので(それもどうかとは思うが)、結局なにも言っていないに等しい。


 言語明瞭意味不明瞭、という言葉がある。
 発音や滑舌はいいが、なにを言っているのかよくわからない、という意味だ。

 歴代の首相では、竹下登氏についてよく言われた。
 はきはきと発言するが、全体の意味がつかめない、つまり野党に言質を与えない。

 そうなると当然、あまり「まともな議論」にはならない。
 それぞれ重要視するモノの優先順位が異なるので、片方の当事者が「議論したくない」と思えば、まあそうなるのもしかたない。

 自分の意見を通すためには議論などしてはいけない、大きな声で叫びつづけろ、というやり方の思想集団も事実ある。
 反対した時点で取り囲み糾弾、総括するような組織は、戦後の日本では左派に多かった。

 最近では、共産党の新党首が異論をつるしあげてパワハラだ、という騒ぎになっていた。
 自由主義陣営にとってはパワハラでも、権力を「集中」することが正義の共産主義陣営にとっては、あくまで平常運転なのだろう。


 都道府県の「保守」「革新」の勢力図を参照する。
 知事と県議のバランスなどもあるが、とくに沖縄県は「革新王国」として有名で、静岡県もどちらかといえばそちらに寄っている。

 現在の知事も、当時の民主党の支持を受けて当選した。
 多数の失言などにより、県議会の自民党会派とは対立している。

 政治の本質は、利益誘導である。
 この前提で静岡の顛末をとらえると、非常にわかりやすい。

 まず人間の本質として、理屈ではなく利益を優先する人々は、実在する。
 その場合、全体的に理屈に合わなくても、自分的に利益の出る事業の誘導を最優先することになる。

 左はこのへん下手で、右ばかりが利益を吸っている。
 いきおい右派が強化され、左派はシュリンクせざるを得ない。


 たとえば保守王国である群馬では、みごと「秘境駅」を生み出すことに成功した。
 どう考えてもマイナスのほうが多い、あまり必要のない駅だ。

 地域住民の私ですら、興味本位で一度しか使っていない──安中榛名駅。
 なぜなら高崎駅か、なんなら軽井沢駅を使ったほうが、はるかにマシだからだ。

 この、人口密度ほぼゼロの山のなかに駅をつくる……という、ばかばかしい計画が私の住む安中市では実現している。
 一方、空港絡みの街づくりで、「いずれ必ず駅ができます」とぶちあげた静岡の知事は、JR東海などの抵抗で進んでいない。

 一部の人々を除いて、マイナスしかないだろう駅をつくること。
 相互の力関係にもよるのだが、それができやすい県と、やりにくい県はあるようだ。


 利益誘導政治家としては、つくってもらわなければ困る。
 たとえ「国民」が損をするとしても、自分たち側の「事業者」が得をすればいい、という考え方の人々にとっては目先の利益こそがすべてだ。

 「地価が上がります」と断言してしまった知事をはじめ、静岡県の利害関係者が大騒ぎする、空港新駅。
 知事自身、新幹線の駅で「岐阜羽島というところがあるが」と、成功した案件を引き合いに出している。

 群馬県の安中榛名駅と同様、岐阜県の政財界が強く要求してつくられた「政治駅」として有名な、岐阜羽島駅。
 保守の政治家が動けば、こういうこともできる。


 リニアつくらせてやるから、空港新駅つくれよ。
 このふたつをバーターにしているつもりの利害関係者にとって、応じないJR東海は断じて許せない。

 だから、どこまでも「JR東海のリニア」に、いやがらせをする。
 やめてもらいたければ、駅をつくればいい、簡単なことだ。

 そのために重要な看板「自然保護」だが、自分を「南アルプス」になぞらえる知事が、リニア関係以外で環境に配慮している姿は、あまり見受けられないという。
 まさにわかりやすい、これが「政治家」の姿だ。

 県議から「悪徳不動産屋」などと揶揄されることもあるらしいが、政治家が悪徳じゃなくて、だれが悪徳なのか。
 彼に必要なのはただ、なぜ自分が失敗しているのか、冷静に顧みる時間だけだろう。

 静岡県を見ているだけで、いろいろな「政治」の態様がほうふつされておもしろい。
 「静岡劇場」──これからも楽しみにしている。
 


 先日、国際女性デーとやらがあったらしい。
 ジェンダー平等に戦争反対とか権利拡張を絡める、いくつかの記事を読んだ。

 ジェンダーギャップ指数で、あいかわらず日本の順位は低いらしい。
 とある女性キャスターが、悲しそうに報告していた。

 あんたは勝ち組だろ、とは思いつつ全体としての問題点は理解する。
 いわゆる「女性問題」についての私見をまとめたい。

 今回のエントリーは、とくにポリティカリーコレクトを重視する方々は読まないほうがよいかもしれない。
 私は男女を「区別」すべきだと思い、それを「差別」だと決めつける方々にとっては、そうとう不快だろうからだ。


 前提として、私は男女を明確に「区別すべき」だと思っている。
 この手の主張に対し、女権論者がヒステリーを起こしてブッたたいている番組や論旨は、いろんなところで見てきた。

 その姿は、「共産主義に同意しない反革命者どもは人民の敵」と叫ぶ「主義者」と、あまり変わらないように見えた。
 新興宗教の「狂信者」にも似ている。

 そんな「ウーマンリブ」と対峙する私は、ある種の人々にとっては「敵の敵」となる。
 よって「同志」かもしれない、と保守派が期待しかけていたら、あらかじめ冷水を浴びせておく。

 私は、男女は明確に区別すべきだと思っているが、保守的なわけではないのだ。
 女権論者の主張に対しては「総論反対」だが、彼らの言うことの多くには「各論賛成」であることが多い。


 女性が働きやすい制度づくりをしろ──まったくそのとおり。
 賃金格差とかバカなのか、むしろ女性特有のコストを社会が負担すべき──まったくだ。

 一方、女性の能力は男性と同等である──は?
 同等じゃねえよ、明確に「異なる」わ、寝言は寝て言え。

 微生物ではないわれわれが、生物として「性的二型」を選択している時点で、両者のタイプが異なるのは自明だ。
 男女が異なるという「科学的正解」と、女権論者が振り回したがる絶対平等という「政治的正解」が異なるために、私はいつも苦々しい思いを抱いている。


 日本のジェンダーギャップ指数は、146か国中125位らしい。
 低い最大の理由は、政治参画(138位)と経済参画(123位)だという。

 この時点で、私には多くの感慨が生じている。
 だったら解決は「簡単なこと」だからだ。

 本ブログでもよく書いているとおり、私にとって「政治家」と「商人」は二大仇敵である。
 その職務のほとんどを男が占めているので、日本は男女平等ではないらしい。

 であれば、答えは簡単だ。
 そもそも(私にとって)低劣な二大職業である政治家と商売人を、女どもに任せてしまえばいい。


 誤解を恐れず、わかりやすく言おう。
 政治家とか商人とか、くだらねえ仕事は全部、低能な女どもに任せときゃいいんだよ。

 だいぶ偽悪的に表現したが、それが「異なる」男女に適当な「配分」だと思っている。
 この道を選択するだけで、ジェンダーギャップとやらは著しく解消するだろう。

 むしろ女のほうが、男よりうまく政治や商売をまわす、と私は信じている。
 すくなくとも民主主義社会においては、そうなりやすい。


 とくにクソガキどもを見ていると、成長速度の問題もあろうが、相対的に女子の性能が著しく高い。
 男子のバカさかげんについては、もはや絶句するレベルだったりもする。

 まあ子どもを引き合いに出して全体を語るつもりはないが、両者の適性が明確に異なっているという事実には、留意すべきだ。
 教育者などが「男女平等」を連呼する記事を読むかぎり、異なるものを無理やり同じ鋳型にはめ込もうとする狂気が、そこはかとなく透けて見える。

 生物としてベーシックなのはメスであり、オスはそれに依って立つもの、よけいなものをつけ足した「ミュータント」のようなものだ。
 よって基本、女が世界の中心に立つことは、正しい。

 まれに圧倒的カリスマ性を誇る最高性能の男が誕生することがあり、その場合は支配をゆだねてもいいかもしれないが、人類史上に刻まれてきた「英雄」の賞味期限は言うまでもなく短い。
 結局、女に任せておいたほうがいいと思う。


 端的に表現すれば、小学校の学級活動から国会の政治まで、日常の「くだらないこと」は女子がやればよい。
 男子はもっぱら日常を遊離して、とてつもなく「すごいこと」か、とてつもなく「バカなこと」をやっていればよい。

 じっさい男に任せておくと、どこぞの国のように戦争を起こしたり、国民を弾圧したりという「バカなこと」をする。
 このような男たちの職業適性は、政治家ではなく「芸人」か、せいぜい二流の「学者」だ。

 より能力の高い男は、政治とか商売とかくだらないことをやっていないで、もっとクリエイティブでオモシロイことをやるべきだ。
 そして能力のない私のような男は、底辺の生活に順応すればいい。


 ノーベル賞受賞の天才、ペンローズも言っている。
 特段の才能に恵まれない連中の最後の逃げ道が政治家だ、と。

 個別の「天才」の話をするつもりはない。
 どう考えても圧倒的に天才なのは、男だからだ。

 だから男が優秀?
 そうではない、ただ男の能力が「偏っている」だけだ。


 大きな枠組みで、男女の差のもっともはっきりした点は、能力値の「分布」である。
 正規分布曲線というわかりやすいグラフがあるが、これほど男女の差を明確に表すデータはない。

 男は統計的に、能力の「偏差が大きい」。
 逆に女は「中央値が高い」、これは「事実」だ。

 つまり、偏差値50の周辺に、著しいボリュームゾーンがあるのが女。
 大多数の女が平均的な能力をもっていて、飛び抜けて有能とか無能という女は、絶対数として少ない。

 一方、男は能力に「格差」が大きい。
 偏差値75もいれば25もいる、つまり「超すげえ男」と「クソ野郎」の両極端に、分布が広がっているということだ。

 中央値が高いということは、より一般的な判断に向いている。
 政治とか商売など、ポピュリスティックな選択が重視される業界においては、これほど向いた適性はないと思う。


 私は集団行動に向いていないので組織に属したことはあまりないのだが、働くなら、できれば女の上司のところがいい。
 面倒見のいい女なら、私のような狂った男も御していけるのではないか、と思う。

 もちろん「すごい男」はけっこういるので、そういう上司ならいいが、同じくらい「ゲス野郎」もいる。
 狂った男がゲス野郎のもとに配属された場合、殺し合いに発展する恐れがある……。

 よって女たちには、寝転がってワイドショー見てないで働いてもらえるとありがたい。
 めんどくせえから男に任せときゃいいわ、とカウチでポテチ食ってる奥様方、申し訳ないが社会のほうに出てはくれまいか。


 総論。
 男女に平均的な差はほぼないが、特異的な差異は著しいので、両者は異なるものとして扱うべきである。

 各論。
 政治家や経営者ごとき駄仕事は、その適性からいっても半分、できればそれ以上を女が担うべきだ。


 一般の生物界に比べて、人類社会は特殊だとは思う。
 だがわれわれは、逃れがたくホモサピエンスという種でもある。

 統計的なデータ、科学的知見にもとづいて、人間を生物として判断することは、ごく自然な見地だ。
 たとえばライオンにおいて、日常的な食糧確保をメス、ただ兵役をこなすだけのオス、という分業が成立しているように。

 女に働かせておいて、男は代わりにもっと好きなことをやって生きるべきだ!
 とまで言うつもりはないが、『髪結いの亭主』や『厩火事』には示唆的な先見性(高収入の妻にまつわる話)がある。

 そのために制度の変更が必要なら、がんがん変えていくべきだ。
 つまり「各論賛成」。

 男女の能力は等しいから、あらゆる意味で平等にすべきだ。
 いや、男女は完全に異なるので「総論反対」。


 要するに、低能な男どもを排除して、ふつうの女たちに天下を取ってもらいたいのだ。
 じっさい男たちの「メス化」は進んでいるし、これは種としての順路なのだろうとも思う。

 そのとき「標準」から弾かれた男たちは、どうしたらいいのか。
 好きなことをして、生きていけばよい。

 極端化した変態は、それはそれで興味深いこともある。
 じっさい「バカな男」が飛び抜けて「おもしろい」ことはよくあるし、だったらある程度は泳がせておいてもいいと思うのだ。

 いずれ井の中の蛙が道を究め、すごい泳ぎ方を開発したりするかもしれない。
 未来のための投資として、一定の遊びはあっていいだろう。

 これが私の「ジェンダー」に対する姿勢である。
 このほうが世の中はもっとおもしろくなるし、じゅうぶんに妥当な選択肢であるとも思っている。
 


 うちは山間地なので、たまに雪が降る。
 そんなときには家に引きこもり、外出しない。

 まあ外出しないのはいつものことだが、たとえ食料が尽きていたとしても、いつも以上に引きこもる。
 最近もちょいちょい降っているが、たとえ食料が尽きても、雪の気配が残っているかぎりクルマで外出はしない。

 徒歩圏に買い物に行ける場所がないし、そもそもタイヤがノーマルだ。
 走れるわけがない。


 さて、ことしのある雪の日、ノーマルタイヤで走っているアホがいたらしい。
 それに注意を促すSNSに、こんなふうに絡んでくるドアホがいた。

「スタッドレスに履き替えるお金がないひとは、雪の日は走るなってことですか!?」
「そうだよ、走るな!」

 と、即答されていた。
 まちがいない、雪の日にノーマルタイヤで走るとか、キチガイだと思う。

 お金がないことは恥ずかしいことではないが、それを理由にした行動までもが正義だと勘違いしている貧乏人が、まれによくいる。
 恥ずべき低能だと思う。


 私も若いころ、雪の翌々日くらいにノーマルタイヤで走ったことがある。
 路面はほとんど溶けていたのだが、日陰にはまだアイスバーンが残っていて、完全にコントロールを失った。

 事故にならなかったのは、ただただ運が良かっただけだ。
 この危険性は、明確に強い言葉で周知しなければならないと思った。

 だいたい、ただ歩くだけですら、慣れていない関東の人間は平気でコケる。
 それを、クルマという殺人兵器に乗って、雪の日にノーマルタイヤとか……完全に狂っている。


「点灯しないヘッドライトを交換するお金のないひとは、夜には走っちゃいけないってことですか?」
 と、問われたと考えてみてほしい。

「そうだよ、走るな! てかおまえ、もう乗るな!」
 自動車というものの危険性──そうとうの重量を、そうとうな速度で動かすことの意味を理解できないドアホは、より強い言葉でたしなめるべきだと思う。

 うっかりツルっとすべったら、もうしわ毛ェないじゃ済まへんのやで!
 頭を丸めて失った毛は生えてきても、生えてこないひともいるんやで!


 うちは峠道のふもとなので、爆音をとどろかせて山に向かうヤンチャなクルマがよく通る。
 せめて死ぬときはだれも巻き添えにせず、ひとりで逝ってくれと思う。

 若いころは私も「何事も経験」と、派手なスポーツカーに乗ったり、改造したり(合法の範囲)していた時期がある。
 いま思えば、黒歴史に近い。

 そうして恥ずかしながら、何度か事故を起こしたこともある。
 すべて物損で人身事故がなかったのは、ただの幸運にすぎない。

 被害者になったこともある。
 小学生のころ、信号のない変則交差点の横断歩道を渡っているところ、轢かれた。

 最近、その現場を通りかかって当時を思い出そうとしてみたが、残念ながら記憶はあいまいだ。
 おぼえているのは病院に収容されたあと、ブッ刺された注射針が異常に太かったこととか、その程度だったりする。

 結局、こうして生きているのも、ただの偶然だと思う。
 被害者であれ自爆事故であれ、いつ死んでいてもおかしくはなかった。


 現在、私は自動車というものがあまり好きではなくなった。
 上述した危険性ももちろんだが、それにまつわる人間群像にも嫌気がさしている。

 いぜんとして日本経済に占める自動車業界の力は強く、その高品質な「製造」について否定するつもりはない。
 しかし、われわれ末端にとって接する機会が多い「販売」は、どうか。

 昨今、ビッグモーターが話題になった。
 下劣な商魂の顕著な例だと思うが、しかしあの程度は、クルマ屋にとっては日常茶飯事だとも思う。

 もっとエグイことをやっているクルマ屋は、いくらでもいる。
 個人的経験からいっても、昭和末期の空気を温存していた平成初期くらいまでのクルマ屋には、いやな記憶が非常に多い。

 ちゃんとした店も、もちろんあるだろう。
 が、この令和のご時世、大手でもあのありさまだった現実を鑑みても、あとは推して知るべしだ。


 どんな業界も、8割がたの商人は「まとも」だ。
 あたりまえだが、ふつうに商売をしている。

 残り2割のうち、いい商人だな、りっぱだな、と思う人間も必ず一定数いる。
 しかしクルマ屋業界には、いい人間の倍、クソ野郎がいる。

 なんの統計でもない、これは体感だ。
 とくに若いころ、変なクルマに乗っていたせいもあるのだろうが、思い出すのを拒否したくなるような苦い記憶はかなり多い。

 あまったパーツを勝手に買わせるとか、クラッチが死んでるとか、ブレーキがヤバイとか、やたら吹っ掛けるとか、謎の諸経費とか。
 彼らにとっての客は「雑巾」だ、絞れば絞るほど彼ら自身の仕事が進む。

 とくに私のように、走り屋的なクルマに乗りたがるのは脳みその少ないチンピラ、という前提の思い込みが、いま思えば透けて見える。
 クルマ屋のおっさんの目に、私たちはただの「お金を運ぶ袋」にすぎない。

 こいつらどうせ社会のクズだし、テキトーなこと言ってガラクタ買わせて吸い取れるだけ吸ってやるわ、と。
 クズどうしがたたき合う構図を、なぜ当時もっとちゃんと気づかなかったか。


 自動車そのものに距離を置きたい理由として、個人的にはじゅうぶんだ。
 なくて済むなら、できればもう乗りたくない。

 残念ながらここは自動車大国・群馬なので、なかなかそういうわけにもいかない。
 晴れた平日の昼間、すいた田舎道をまったり走って買い物に出かける生活は、しばらくつづくだろう。

 だが買い物さえなければ……いや、とくし丸を利用するという手もあるな……。
 もはや老後であると自認しつつ、最近そんなことを考えはじめている。
 


 私は宇宙が好きだ。
 だいたいそんなことを言っている人々の半分にとっての理由を、私も共有していることを否定しない。

 ──宇宙のことを考えると、自分の悩みなんてちっぽけだと思える。
 まさにこれ、鉄板といっていいだろう。

 そりゃあ宇宙と比べたら、だれもがクソみたいなもんで、気にする意味など塵に同じだ。
 その点は認めたうえで、すこし考えを進めてみた。


 自分を慰めるという用途から、一歩進んで掘り下げる。
 ……宇宙ってなんだ?

 世界の天才たちをして説明できない概念なので、私ごときにわかるわけはないのだが、個人的な印象を言語化する程度のことはできる。
 あまりにも広大な範囲から、とりあえず「ブラックホール」をチョイスしてみよう。

 みんな大好き、ブラックホール。
 無限の密度をもっていて、重力が無限大、現代物理学がさじを投げる、特異点の犯人。

 無限……。
 だが待て、その無限はおかしくないか。


 数学の無限は、とても便利な概念だ。
 高校生はもちろん、こざかしい中学生さえ数式で表現できる。

 だが、われわれが暮らしているのは「物理」世界だ。
 そこに無限が存在する、と言われると反射的に違和感をおぼえる。

 宇宙は無限!
 そう言いたい気持ちはわかる……いや、たしかにわれわれ塵のような人間からしてみれば「事実上の無限」ではあるのだが、ほんとうに無限か?

 そもそも「密度無限」の物体に「大小」がある時点で、意味が解らなくないか?
 数学的には、無限は無限でしかないはずだ。


 巨大ブラックホールとか、小型のブラックホールとか……。
 とある物体が、質量を「無限」に詰め込めるとしたら、それは大きくなったり小さくなったりしないのではないか?

 極大とか極限ならわかる。
 それ以上、物質が詰まらない状態で、さらに物質を詰め込もうとすれば全体としての範囲が大きくなっていく、というのは実感としてもわかりやすい。

 せめて「極限(lim)」といってくれれば、脳内の違和感も多少は収束してくれる。
 収束せずに発散するのが「無限」なわけだが、これは数学的にはともかく物理的にはどんな状態なのか、まったくわからない。

 ブラックホールの密度は、無限なんでしょう?
 だったら、ものすごく小さい一点に、無限の質量を詰め込んでくださいよと、要するにそう突っ込みたいのだ。


 数学でよく使う例で、「無限ホテル」というものがある。
 無限個の客室があるホテルは、たとえ「満室」でも、新たな客を泊めることができる。

 これは「ヒルベルトの無限ホテルのパラドックス」という項目でwikiにあるので、一読いただけるとよいかもしれない。
 かなりくわしく記述されているが、私が言いたいのはつぎの一点だ。

 無限に客室がある無限ホテルに、無限人数+1の客がやってきたとき、無限ホテルはその客を受け入れられるか?
 答えは、受け入れられる。

 無限ホテルの名を「無限+1ホテル」に改称する必要はない。
 無限+1だろうが無限×2だろうが収容可能、それが「無限」の意味だ。

 だったらブラックホールの密度が無限の時点で、なにもかも受け入れてほしい。
 無限なんだから、大きくなったり小さくなったりしないでほしいのだ。


 と、宇宙の動画を観ながら、ちょいちょい思ったりしている。
 素人に毛が生えた、やっかいな視聴者というそしりは免れまい。

 無限という言葉遣いをやめろ、と言っているわけではない。
 無限は無限で、一般名詞としてとてもわかりやすいことは理解している。

 視聴者の対象が一般人のときと、専門家のときでは当然、解説の質も変わるだろう。
 その意味で、私はかなり中途半端だ。

 このエントリー自体、「無限の意味」への自問自答だったりもする。
 自己をマネジメントできない炎上しがちな人々と同レベルにならないために、ある程度は自己解決してから書いているつもりだ。


 これおいしいですね、無限に食べられますよ、と笑顔で宣う人物に絡んでいくつもりは、さらさらない。
 プテラノドンは恐竜でいいし、宇宙は無限でもいい、世の中には「いろいろな無限」があっていい。

 そのくらいゆるい思考に到達すると同時に、たまに突っかかりたくなる気持ちを保つことで、私のなかに住む人格たちのバランスをとっている。
 物語を書くために最適化している気もするし、そもそも他人の気持ちを理解できなくなったら終わりだとも思う。

 そのうえで、自分の分限をわきまえ、必要以上に絡まないこと。
 中途半端、ノンポリ、ニュートラルの人間は、あまり目立ってはいけないのだ……。
 


 父親が、ガソリンスタンドでプリペイドカードを盗まれた、と私に訴えてきた。
 新しいカードを買って取り忘れたところ、あとからやってきた男に盗まれた、問い詰めたが知らないと言い張った、らしい。

 実家のクルマには、私が後付けのドラレコをつけている。
 証拠が残っていないか、と問われた。

 エンジンがかかっていて正面であれば残っているかもしれないが、店の防犯カメラを確認してもらったほうが早いんじゃないの、と答えた。
 現行犯じゃなければ、あきらめたほうがいい、自分もわるいんだし、とも。

 しかし偏屈な父親は翌日、ガソリンスタンドに行ったらしい。
 防犯カメラを確認してもらい、場合によっては警察沙汰の勢いだ。


 結論からいえば、父親の完全敗北である。
 新しく買ったほうのカードを、古いものだと勘違いして自分で捨てていた、ということのようだ。

 いまいち理解しづらい文脈だったが、その解釈でたぶんまちがっていない。
 要するに、わるいのは全部オヤジ、というオチだ。

 防犯カメラ見せろと要求された店側も災難だし、おまえ盗んだろ、と言われた他の客もたいがい災難である。
 わが父親ながら、猛省を促したい。


 私自身、老化にともなう性能の「劣化」について、最近よく考える。
 肉体も脳髄も、若いころと比較にならないありさまについて、ここでも慨嘆している。

 あまりにもポンコツな自分自身にひどく落ち込んだものだが……やはりどう考えても、親の劣化のほうが早い。
 自分がわるいのに、他人のせいにする、という行動原理は代表的な例だろう。

 著しく記憶力を喪失した老人が、被害妄想に取り憑かれて、世話をしてくれている人々を責めさいなむ。
 介護分野では、よく聞くケーススタディだ。

 と、そこまで考えを進めて、待てよと。
 自分のせいなのに他人のせいにするという「性格」の人間は、年齢にかかわらず一定割合でいないか? と。


 自分が恵まれていないのは、世の中がわるい。
 もっと評価されるべきなのに、だれもわかってくれない。

 この手のザレゴトは、残念ながら、しょっちゅう耳にする。
 ただでさえ残念な彼らが老化したとき、おそらく手に負えない「モンスター」になるのだろう。

 そんなモンスター予備軍が、自分たちが犯罪を起こすのは社会のせいだ、という理屈をこねていた。
 とある振り込め詐欺師の理屈は、つぎのようなものだった。

 バブルなど見たことも聞いたこともない自分たちは、好景気を知らず年金ももらえず、不公平な社会制度によって搾取されている。
 不景気なのは年寄りが金を貯めこんでいるからで、だから年寄りから詐欺った金を使ってやるのは、日本経済を回すために正しい行為なのだ、と。


 そんなわけねえだろ……。
 さすがに犯罪者の理屈に説得されるほどの情弱は、若者のうちでもそうとうな底辺だとは思う。

 そんな彼らの仲間になったおぼえは、もちろんないのだが、うちのアホな父親のところに「お父さんオレ交通事故を起こしちゃって」と、「私から電話があった」らしい。
 さいわい母親が「あの子がそんなこと言うわけないでしょ」と、1200万の振り込みは回避されたようだが。

 その程度のことすら疑う能力も欠けつつある、劣化した父親には、もののあはれを感じる。
 しかし考えてみれば、この手の詐欺師たちは若いくせに、それ以上に劣化しているのではないか?

 自分勝手な理屈で、詐欺を正当化する犯罪者集団。
 あえて言うが、きみたちは「ボケ老人以下」だ。


 この手の詐欺師は底辺だが、バランスをとるため、世の中には「マシな詐欺師」もいることは書いておきたい。
 詐欺師という時点で「マシ」という表現もどうかとは思うが、詐欺を知的ゲームとして考えた場合、そう表現しても語弊は少なかろう。

 あらゆる業界で言えることだが、詐欺師も、行き着くところまで行けばすごい。
 現に、幾多の物語の主人公として数えられている。

 要するに「だましあい」だ。
 欲望にまみれた他のプレイヤーや、権力の権化である警察をだます詐欺師は、むしろ応援したくなるほど痛快だったりする。

 調子に乗っている金持ちや、相手をナメている自称情強の鼻を明かす構図には、悪をもって巨悪を裁くことの「理」が感じられる。
 「悪には悪を」といってもいい。


 日本のフィクションなら『ライアーゲーム』や『クロサギ』がすぐに思いつく。
 海外なら『アメリカンハッスル』や『マッチスティック・メン』あたりだろうか。

 とくに有名なのは『ユージュアル・サスペクツ』だろう。
 被害者だか参考人だかわからない謎の人物キントは、圧倒的物語力をもって警察を煙に巻く詐欺師として、20世紀を代表する悪役トップ50の一角を飾った。

 だましあいの舞台に立って戦うなら、これほど痛快な「必要悪」もない。
 知恵があると自認する者を、さらに上回る知恵で乗り越えていく──すばらしい。


 残念ながら、ほとんどの詐欺師連中は、自分より弱いものを探し出し、狙いすます。
 くだんの振り込め詐欺師たちを筆頭に、彼らは「けだもの」だ。

 しかし考えてみれば、弱い者がエジキとなって強い者が生き残る、という構図は、ごく自然な原理原則でもある。
 ケモノの世界では、そうやって何億年もの進化をくりかえしてきた。

 生きる力の弱い者が、相対的に強い者から順に食われていく。
 自然淘汰、適者生存は、たしかに「自然の摂理」だ。


 人間は、その域を脱した。
 ケモノであることを、やめた。

 だったらケモノじみたことはせず、より人間らしい生き方を模索すべきだろう。
 カナダ、日本、スイスなどは、その理想的な状態に近い「国ガチャ」トップランカーだが、そもそも「国」なんてものがある時点で、なにかがおかしい気はする。

 いや、そもそも「人間らしい」って?
 問われても、私にもよくはわからない……。
 


 確定申告の時期になった。
 引きこもり低所得者の私にとっては、一瞬で終えられる簡単なお仕事だった。

 早めに半分FIREして、死なない程度に生きている。
 ミニマリストの帳簿は、ほんとうにシンプルだ。


 さて、私は経理をしているので、赤字が▲であることには慣れている。
 慣れてはいるが、たまに観る麻雀の点数表示で、プラスの側は「+」なのに、マイナスの側が「▲」であることには、さすがに違和感をおぼえた。

 どちらかが「+」なら、もう一方は「-」でいいのでは?
 なぜわざわざ財務諸表の表示と、ただの点数表示をちゃんぽんにするのか?

 なんとなく、黒字こそが正義、赤字は悪、という世界線を思った。
 光の勢力が十字架に守護された神聖教国の軍勢で、闇の勢力は暗黒のトライフォースを掲げる帝国軍、という謎の戦国乱世を妄想して苦笑した。


 一般に、決算書の▲はマイナスを、株価は媒体によって異なり、「△」と「▼」でプラスとマイナス、という使い分けが行なわれているところもある。
 正直、わかりづらい。

 なんの統一感もなく、全体の表示から「察する」しかない。
 世界的にも独自のルールで、マイナスを△で表示するのは日本だけらしい。

 グーグル先生に訊いたところ、大正時代に税務署が数字の偽造防止のために「△」での記載を指導したことに由来している、ということだ。
 たしかに「-」だと、偽造しやすい可能性はある。

 ちなみに上向きの▲には、ギリシャ文字のデルタの意味もあるらしい。
 数学のΔ(デルタ)は変数、または関数の変量を示す記号だ。


 たとえ違和感があっても、この「日本式の表記」に慣れればいいだけの話、というのは理解している。
 だが直観を重視する私にとっては、いぜんとして不満が残る。

 せめて下向きの三角にしてくれれば、まだ受け入れられた。
 成績がマイナスなので「▼」は下を向いているんだな、と。

 しかし現実は、上向きの「▲」が「赤字」である。
 どう考えても、直観に反しているとしか思えない。

 たまたま観ていた航空機事故番組の「ローガンエア6780便」に、とても似たものを感じたので記しておこう。
 これは「人間と自動操縦が戦う」という、航空機インシデントのめずらしいケースである。

 結論からいえば「設計思想の問題」だ。
 経理のルールも同じ、その当時の人間が良かれと思って設定した。


 ローガンエア6780便は、機体が自動操縦になっているとき、画面に緑色の「AP」という文字が表示される。
 自動操縦が解除された場合、文字の色が「白に変わる」という。

 特段のエフェクト、サイズ変更などはない。
 言われて見ればわかる程度の差でしかなく、色弱だとパイロットになれない理由は、たぶんこれだ。

 ……いや、わかりづらすぎるだろ! いやがらせ?
 と、まずは突っ込んだ。

 番組内の検証班も、不親切すぎる設計だと指摘していた。
 緊急事態に見舞われたパイロットが、画面の端に小さく「AP」と表示されている、その文字の色が白か緑かで状況を判断しろというのは、さすがにひどいと。


 さらに問題は、事故機のSAAB2000だけにみられる特殊性だ。
 なんとこの機体、トラブルが起こってパイロットが強制的に操縦に介入した場合にも、自動操縦が解除「されない」。

 ──飛行機の安全を保つのは、自動操縦である。
 パイロットなどオマケにすぎない、えらい人にはそれがわからんのですよ。

 と考えるエンジニアが設計した飛行機では、当然に自動操縦が優先される、ということのようだ。
 しかし現在の飛行機の常識では、パイロットが無理やり操縦桿を動かせば、自動操縦は解除されるようになっている。


 たとえば高速道路で、自動クルーズを設定しているクルマがあったとしよう。
 人間が危険を感じてブレーキを踏めば、その設定は解除され、減速する。

 これは常識だが、もしそのような人間の操作に逆らって、走りつづけるクルマがあったとしたら……。
 それこそが、まさにSAAB2000という飛行機の設計思想だった。

 信念をもったエンジニアが、わが道を行った結果である。
 否定はしない。


 人間はまちがってばかりいる、ろくでもないやつらだ。
 彼らの操縦と自動操縦がぶつかった場合、自動操縦の選択を優先すべきなのだ!

 と、この飛行機を設計したエンジニアは信じて行動した。
 要するにこれは、人間の判断より機械のほうが信頼できる、というひとつの設計思想なのだ。

 一方、現実にほとんどすべての航空機には、なんらかの形による自動操縦の強制解除機能がある。
 すべからく、ほとんどのパイロットは、そういう飛行機に乗っている。

 あまりにも異なる種類の飛行機の操縦には、別のライセンスが必要とされることもあるが、この飛行機は説明書に一行あるだけで乗れたらしい。
 ただし「SAAB2000を除く」と。

 説明書を読まないタイプの私にとって、これはかなりやばい事実だ。
 これをパイロット側のミスとして追及するのは、さすがに酷ではないか。


 たしかに、だいたいの「事故」は人為的なミスで起こる。
 だから機械のほうを信頼すべきだと、考えたくなる気持ちもわかる。

 人間の判断より機械の判断のほうが正しいことは、航空機においても少なくない。
 じっさい異常接近や失速警報などの情報を、コクピットから人間が正確に判断することはむずかしい。

 よって設計思想自体、けっしてまちがいではない。
 アラームを信じて行動したことで、空中衝突を免れたというエピソードもある。

 しかし残念ながら、今回のケースにおいては「設計」が原因となり、重大インシデントを引き起こしてしまった。
 安全にかかわる問題で「独自すぎる」のは、やはりまずい。

 AAIB(イギリス航空事故調査局)の最終報告書では、操縦桿の操作で自動操縦を解除できないような飛行機には、そもそも型式証明を出さない、という勧告が行なわれた。
 妥当な判断だと思う。


 ▲▼も同じではないか。
 大正時代には正しかったかもしれない表示だが、直観に反することによって、かえって物事がわかりづらくなっている。

 かたくなに▲を使っている方々に、心から申し上げたい。
 せめて赤字(マイナス)は▼にしてくれないかな!

 と、叫んでみたところで、しょせん命にかかわる問題ではない。
 変わらないだろう……。
 


 うちの親がボケつつある、という悲しい話をしようかと思ったが、まだその時期ではないと判断した。
 近いうちに書くとは思うが、とりあえずきょうは、私がボケている話をしよう。

 といっても、ネット大喜利の話だ。
 その手のサービスの草創期から、お題にボケる、という娯楽をたしなんでいる。

 しばらくやっていなかったが、最近思い出したように、「ボケて」のまとめサイトなどを見るようになった。
 すごい発想をするな、と感心するばかりだ。

 現在は見る専門で書き込むことはないが、昔よく参加していたころの成績は、中の上といったところ。
 高打率で上質のボケを飛ばしている常連たちに、学ぶべきところが多いと考えていた。


 そこで、ふと思った。
 このジャンルでAIはどの程度すごいのか、と。

 かのchatGPTが世間を騒がせてから、およそ1年。
 うまく導入することで、AIによるボケの生成もうまくいくのではないか。

 その手のサイトを見たところ、なるほど……うまい。
 お題「君の名は」ボケ「また君か」などは、メタ視点ではあるが、よくできている。

 多様な発想を瞬時に、ランダムに混ぜる、しかも厳密性は問われない。
 人間特有だったスペックも、もはや再現可能だ。

 じっさいAIは、すでにアイデア出しや企画まとめにも使われている。
 もう芸人はいらないんじゃないか、とまで言うひともいるくらい「使える」。

 ただ「メタ」的である以上、その抽出された笑いを受け入れる「人間側の能力」も、かなり問われるとも思う。
 現状はAIがすごいというより、人間がAIのすごさを見つけている段階、と言っていいかもしれない。

 テキトーなウソをつく、という悪評も高い大規模言語モデルだが、そのテキトーさが大喜利には向いている。
 ラインなどでサービスされているので、気になった方は見てみるのもいいだろう。


 つとめて人間的である「笑い」すら、もはや自家薬籠中のAIについてはともかく。
 私自身は上述のとおり、理屈っぽいボケで中の上ていど、というアスペ傾向の強い凡人だ。

 昔のお笑い番組をたまに見返すと、あまり笑えなくなっていることに気づく。
 分析的な視点で「へえ」と思いながら見てしまうせいもあるだろう。

 考えてみれば、うちの母親は昔から、お笑い番組については「ぜんぜんおもしろくない」と言い放っていた。
 あんた自身が天然でボケてるせいだろ、と思っていたが、この遺伝子の呪いが私にもかかっているのかもしれない。


 かつての「笑い」は、芸人を笑いものにする、変なことをする芸人を観客が笑う、という構図が一般的だった。
 現在の「笑い」は、その芸人のおもしろさを理解できるかどうか、という点で差別化が図られているように思う。

 かつては絶対多数の「バカに合わせてそれ以下のバカを演じ」ればよかった。
 異論はあろうが、昭和のお笑いの多くには、その傾向が強かったように思う。

 戦時中の国民一体化、総中流化という均一性のバイアスに対して、業界全体が「バカに合わせる」という比較優位の選択肢をとった結果だろう。
 が、現在はその笑いを「理解できる層」を個別にターゲッティングしていく、という手法へと移行しつつある。

 もちろん昔から「わかる人間だけわかればいい」芸術領域は存在し、伝統芸能の多くもそちらのカテゴリであった。
 ある意味、国民全員が芸術家、という時代になったのかもしれない。

 


 私は基本的に、芸能・スポーツというジャンルに興味がない。
 どこのチームが勝ったの負けたの、どこの芸能人がくっついたの離れたの、そんなことは金輪際どうでもいい。

 メジャーの大谷サンは、たしかにすごいと思う。
 思うが、下手に記事をクリックしてしまったが最後、以降のレコメンドが大谷サンで埋まって辟易したことがあるので、最近はなるべく見ないようにしている。

 アイドルやスポーツ選手がデートをしたとかなんとか、そういう俗悪な記事の多い雑誌が、たまにタイムラインに乗ったりする。
 最適解は、ただちに「週刊〇〇の記事を非表示」だ。


 そんななか、文春の記事はけっこう推奨されてくる。
 彼らの名誉のために書いておきたいが、文春オンラインにはそれなりにいい記事があるのだ。

 一方で、芸人がどうの不倫がどうのと、クソどうでもいい記事もある。
 それも、これだけヘッドラインに乗ってくるくらいだから、世間ではそうとう騒がれているということなのだろう。

 残念な話だ。
 もっと丹念な調査報道や告発記事など、価値の高い仕事はいくらでもあると思うのだが。


 マスコミ自体、「公器」としての「力」をもっている。
 その力の使い方や、用いるべき方向については、さまざまな意見があるだろう。

 印象操作という目的に対して、マスコミほどプロフェッショナルたるべき集団はほかにない。
 その力があまりにも強いがゆえ、彼らにはやってはいけないタブーもある。

 安芸高田市長と中国新聞のバトルが、わかりやすかった。
 政治家ぎらいの私をもってしても、これはマスコミのほうがダメだろう、と思わせられた。

 たとえばバイアスをかけた質問で「市民の意見」を引き出す、などというやり方は「バレたら」まずい。
 どうやらバレた記者が、市長から詰められている動画を観て、思わず笑ってしまった。

 どう思いますか? という質問ならいいが、あの市長は良くないですよね? という質問はNGだ。
 それを、あなたやったんじゃないですか、というシンプルな問い。

 事実を確認します、あなたの取材方法は正しいと思いますか。
 もちろん正しくないので、記者もすなおに認めればいいと思うのだが、下手に粘るので昔の政治家のような泥沼になっていた。

 おぼえてません、相手はだれですか、何月何日何時何分ですか、地球が何回まわったときですか、みたいな言い訳をしているのをみたときは、さすがに笑った。
 認めるな、粘れ、そんな政治家にも似た「様式美」を感じてしまった。

 この動画じたい、そうとうバイアスのかかった編集だったので、これをもってどちらが正しいとかまちがっている、などと言うつもりはない。
 ひとつだけ言いたいのは、マスコミは反権力であり政治を批判しなければならないとは思う……が、目的は手段を正当化しないことだ。


 一方、安倍派の裏金疑惑への取材には、すこし感心したところもある。
 政治家ぎらいの私でなくても、こいつダメなんじゃないかな、という印象の政治家を辞職まで追い込む流れをつくった。

 カメラのまえで「頭悪いね」と言わせた質問者は、たぶん優秀だ。
 その言い方どうなの、という不快感を日本じゅうにばらまくことに成功した。

 現実にどんな取材だったのかはわからないが、そうとう「イラつかせる質問」をくりかえしたのかもしれない。
 わざと頭の悪い質問をして相手を怒らせ、「失言を引き出す」というテクニックは、たしかに存在する。

 相手が優秀なら、どこぞの市長のように反撃されることもあるだろう。
 しかし愚かな政治家であれば、すべからく退場の契機となる。



──白河の清き魚の住みかねて 元の濁りの田沼恋しき
──世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶぶんぶと夜も寝られず

 静岡のほうでは、うまく田沼になれなかった政治家が、リニアに対して抵抗をくりかえしている。
 JR東海がちゃんと自分に付け届けをして、新しい駅をつくればこんな抵抗はしなかったんだよ、という「田沼知事」の話の決着点は、まだはっきり見えない。

 金権政治はむろん、よろしくない。
 正論で通るなら、それで世の中をまわしたいという「理想」もあるだろう。

 その点、安芸高田市は松平定信のやり方でやっていくらしい。
 どこまでやれるのか、見ものだと思う。

 地方都市で「寛政の改革」をやり遂げることに、どんな意味があるのかはわからない。
 ただ地方財政などというものは、そもそも「超絶優秀な首長」あるいは「神のごときAI」なくして存続不可能だ、とは思う。

 ともかく政治家もマスコミも、いろいろなタイプがいるということだ。
 眺める価値のある「人間喜劇」だろう。

 考えてみれば性加害や不倫も価値のある……いや、それはやはり、どうでもいい。
 趣味嗜好は人それぞれだ。
 


 元旦の能登半島地震から一か月。
 若干の私見を記したい。

 ──人の不幸は蜜の味。
 この手の言葉は、どうやら世界中にあるらしい。

 私自身、日々なんとなく世界の不幸を眺めながら暮らしている。
 ただニュースを見ているだけで、けっこうそうなる。

 その手の「報道」を見る人々、みんながみんな「蜜の味」を感じていないとは思う。
 とはいえ、そういう部分も包含する事実は揺るがないだろう。

 なかでも感じるのが「被災地」報道だ。
 他人の苦労や悲劇を眺めて、自分がどんな気持ちになっているかを省察すると、ときおり気が滅入る。


 あらかじめ言っておくが、以下の考え方じたい、多数の同意を得難いことは承知している。
 気が滅入るような感情をおぼえてしまうからこそ、私は意識的に被災地報道を「見ない」選択をしているくらいだ。

 自分のいやな部分から、目をそむけたい。
 同時に他人のいやな部分が透けて見えることに、得も言われぬ不快感をおぼえる。

 経済番組を観ていたら、たまたま被災地が映された。
 わざわざスキップするのもいやなので、なんとなく見てしまって後悔した。

 登場した飲食店のおじさんのコメントが、ともかく泣き言のオンパレードだった。
 飲食店つらい、コロナつらかった、地震つらい、自分たちばっかり痛い目に遭う、助けてくれ……。

 もちろん理解はするし、多数の人々が同情しているのだろうとは思う。
 だがあまりにも露骨だと、むしろ逆効果になるのではないかと危惧する。


 とても厳しいです、支援をお願いします、物資は届いています、足りないのは現金です、継続的な支援をお願いします。
 要するに、金をくれ、カネをくれ、金をくれ、未来永劫、カネをくれ。

 見ていてげんなりした。
 じゃあやめればいいのに、飲食店なんて……。

 一瞬、そう感じてしまうほど、「要求」が多い。
 刹那の感情から離れ、客観的に判断すれば、彼がそういう答え方をしたのは質問のせいだし、彼が陥っている状況そのものは真実だろう。

 困っている人々を助けることじたいには、さほど文句はない。
 気持ちは理解できるのだが、まわりの状況については疑義が多い。

 「被災地支援」とやら、なかんずく「マスコミ」が、これでいいのかと思う。
 「マス」は、他人が弱音を吐く姿を、そんなに見たいのか?


 昔、阪神大震災というものがあった。
 その震災後10年だか15年だかの記念番組だったと思うが、まだ乗り越えられていない、災害は終わっていない、的な煽りの番組を観たことがある。

 つらいんだよ、PTSDで、支援が必要だ、自分たちは被災者だ、立ち直るためにはもっといい家を、手厚い医療と義援金を、未来永劫カネをくれ……。
 まあまあいいマンションに、たぶん無償か、むしろ金をもらって暮らしているだろう年寄りが、まだまだ足りない、被災者に終わりはない、的なことをおっしゃる。

 こういう老人をテレビに出すことに、いったいどんな意味があるのだろう?
 この老人より何倍も助けを必要としている人々のところに届くべきリソースを、その手前でガジガジと食い散らかしているひとがいますよ、という想像力を煽りたいのだろうか?

 障碍者など「配慮を必要とする」方々について、多めにリソースを割くことを否定はしない。
 が、それを吸い散らかす利害関係者の姿については、もうすこしオブラートに包んだほうがよいのではないだろうか。


 世界中どこもかしこも、この手の人々は一定数いる。
 彼らが助けを求める姿を否定するつもりはないが、彼らの相手をするかどうかを決めるのは、われわれであるべきだ。

 神戸を助けてくれと言いながら、助かりたいのはあんた自身だけだろう、としか見えない声の大きなご老人。
 別の意味で、神戸の人々にすこし同情した。

 同じ被災者であるという時点で、彼らと同列に見られるのはいやだろうな、と。
 被災者がみんな、こんな連中ばかりではないんですよ、と。

 そういう「一部の声」を、やたら大きく拡声して届ける番組が、けっこう多い。
 マスコミの問題点だとは思うが、他人の泣き言を聞きたがる市民側の問題点とも重なると思うと、げんなりする。

 より大きな支援を必要としているのは、ここに映っている声の大きい人々ではない。
 こんなテレビに出ている余裕もない人々を、できるだけ助けてあげてほしい。


 以前、生活保護で暮らしている人々が「ウナギ食わせろ」的な運動をしていた。
 これにはさすがに、批判的な意見が多かったように思う。

 土用の丑の日であることにも気づかず、必死に働いている人々。
 その耳に突然、生活保護で働かずに生きている人々が、開けた口に「ウナギを入れろ」と叫んでいる声が届く。

 さすがに違和感が広がった。
 これ煽ってる活動家はなにがしたいんだよ、とだいぶ突っ込まれていた。

 言うまでもないが、こういう人々は一部だ。
 そういう一部の声を放送することに、どんな目的があるのかは考えたほうがよい。

 マスコミの都合、活動家の都合、視聴者の都合、想定しておかねばならないことはいくつかある。
 お互いに利用し合うのが「マス」だとしたら、その輪に加わりたくない。

 だから私は、震災とか災害関係の番組は、なるべく見ないようにしている。
 必要な事実だけ伝えてもらえば、あとはこちらの想像力しだいだ。
 


 私の頭は狂っている、と去年の末ごろ書いた。
 飯が食えなくなって、年末には10キロ以上痩せていた。

 年が明けて現在、半分以上もどしている。
 これがいわゆるリバウンドというものかもしれないが、増えたのにはそれなりの理由がある。

 健全な精神は、健全な肉体から。
 そんな美しい言葉を頼りに、行動を変容した。

 肉体を正せば、脳の劣化を補えると信じて。
 要するに、過酷な筋トレを課した。

 そして気づいた。
 劣化が著しいのは脳だけではない、肉体もだ、いやむしろ肉体のほうが……。


 昔と同じように筋肉に負荷をかけ、がっつりプロテインを入れた。
 トレーナーがいるわけではないので自己流だが、それなりにワークアウトしたつもりだった。

 若いころのように腹筋を割って、マッチョのフリをしたい、という野望がほんのりなかったとは言わない。
 尊敬する江頭さんを倣って(?)、脱いでも恥ずかしくないようにしたいと。

 しかし結果、もう「若くない」ことを思い知った。
 髪の毛や体毛の減少で知っていたつもりではあったが、老いを否定する理由をまたひとつ失った。

 以前は贅肉が削げ落ちて、筋肉がはっきりと見えた。
 いまは……ただの「固太りのおっさん」にしか見えない。


 これが老化というものか……。
 残酷な現実に向き合い、しばし忘我する。

 たぶん「昔と同じように」したのでは、足りないのだ。
 老化は駆け足で肉体を衰微させ、それに追いつくようなトレーニングは夢のまた夢。

 筋肉は裏切らないという言葉があるが、あれはウソだ。
 もっと確実に裏切らないのは、年月による劣化である。

 人間は、いやほとんどの生物は、時間に逆らうことはできない。
 この鉄壁の真実に、いまさらながら逢着し、嗤った。


 もちろん筋トレは無意味ではない。
 とくに冷え性でお悩みの方には、積極的にお勧めする。

 私は地球にやさしく生きているので、部屋全体を温めるという発想があまりない。
 自分だけが暖かければそれでよく、着衣などで室温5℃までなら耐えられる。

 ただ室温が氷点下になることもままある田舎の寒冷地では、より重要なのが「筋肉」だ。
 体内で発熱してもらうと、衣服内に熱がたまるので過ごしやすくなる。

 風通しのいい古民家の室温0℃、湯たんぽなしでは眠れなかった私が、寝るまえに何度かスクワットするだけで、足先までポカポカで眠れるようになった。
 筋肉は、まちがいなく優秀な熱源だ。


 訂正しよう、筋肉はこちらの努力を完無視はしない。
 傷つけられた筋肉を修復するため、サイトカインを放出し、テストステロンやインスリン成長因子と相まって、供給されたアミノ酸が新たな筋組織となる。

 さらに徹底的に追い込めば、それなりのマッチョにはなるだろう。
 だがそんなことをやろうとする気力も、もはやなくなった。

 腕と腹と腿の痛みに、寝床から起き上がるのもひと苦労。
 身体を回転させ、息を切らせながら立ち上がらなければならなくなるような過剰な筋トレは、さすがにやめたほうがよい。

 これ以上の過負荷は、むしろさらなる劣化を促すような気さえした。
 やはり中道の美徳をもって、ほどよい筋肉量を保つのが吉だろう。


 あらゆる「劣化」が、おっさんを責めさいなむ。
 そもそもたくさん持っていたわけでもない中年の手から、さらに多くのものが失われていく。

 この始末で、なぜ生きているのか、このおっさんは。
 そんなふうに考えてしまっている時点で、必要なのはやはり脳に効くお薬なのかもしれない……。