私は趣味で小説を書いているが、それを「売り込む」という行為が苦手だ。
 自分が好きで書いている作品なので、満足のいくクオリティのものが書ければ、だれより自分がうれしいし、基本的にそれでいいと思っている。

 お金をもらって書いているわけではないだけに、お金をもらって書いている人々の生み出した作品が「えー」という出来だと、萎える。
 仕事よりマシなクオリティの趣味が、世の中にはあるかもしれませんよ、と伝えたい。

 とはいえ仕事としてそれをやる側が、そう簡単に受け入れない現実については、私自身それなりに知っている。
 それが「社会」の厳しさというものだ。


 持ち込んだ企画が通ったためしがない。
 編集長や編集者は、だいたい文句を言う。

 彼らに理解してもらうコストが、私にとっては著しく苦痛だ。
 そもそも静かに暮らしたい私が、彼らに理解してもらう努力を払う必要があるのか?

 というわけで、メールを送るとか、企画書を見せる程度はするが、反応がなければそれで終わる。
 私は「しつこいやつきらい」なので、相手に対してもそれをしない。


 その作品や企画に価値があるかどうかは、それを読んだ相手が判断する。
 採否を判断する人々が、長い作品を読むコストをかけるわけがない。

 採用してもらうために、これから就職しようとする若者たちは、わかりやすい行動で努力する。
 そういう既存のルールが苦手だ。

 だから私はここにいるし、そのことを受け入れている。
 自分を満足させるものが趣味、という定義からいっても、まちがいではないはずだ。


 もし私を評価してくれる人があれば、その人には利益を得てもらいたい。
 すくなくとも賞レースなどで作品を評価するということは、それによって得られる利益を手にするという意味だし、それが彼らの仕事だ。

 逆もしかり。
 その作品はおもしろくない、いらない、と評価する人物は、それを売ろうとして被る損害のリスクを回避できる。

 ただし同時に、売れた場合に得られるリターンを、すべて拒否しなければならない。
 やがて大ヒットする作品を読んで、出版を拒否したすべての出版社や編集者たちと同様に。

 その価値を判断できる人間が、それによって生じる利益(あるいは損失)を受け取ればよい。
 そういう思想に落ち着いて以来、私の精神は安定している。


 私はただ、私がおもしろいと思ったものを書く、なぜなら「趣味」だからだ。
 それをどう評価するかは、私の仕事ではない。

 ──売り込むことを苦手とする自分を説明するための言い訳としては、秀逸だろう。
 もちろんただの言い訳だが、完全にウソでもない。

 たまに私を評価してくれる少数派に対して、どう報いていいかが喫緊の課題ではある。
 それなりの評価は得るが受賞しない、という何十年来の経験値の活かし方がわからない。

 売れ筋の作品を書けばいいのか?
 もちろん多くのクリエイターが、そうして生活している。

 正解だと思うが、私は脳がイカレているので、同じことができない。
 頭のイカレた、偏った人間をどう扱うか、これは世間一般の人々にとっての課題でもある。


 私は他人に迷惑をかけないように生きている。
 その意味では、イカレた人間のなかでは「マシなほう」だと思う。

 自分が評価されないことでブチ切れ、アニメ会社に火をつけた犯罪者がいた。
 あそこまで狂っていると、逆に感心すらおぼえる。

 もちろん犯罪者は社会にとってマイナスだが、そこに一定の才能があったとしたら、それを生かす道がなかったのは残念だ。
 そういう評価が正しく行われる社会は、SDGsか……。

 むずかしい問題だが、きれいごとにも聞こえる。
 才能とは、社会とは、人間とはなにか?


 ──どうでもいい。
 私はただ書いて楽しみたいし、それを読んで楽しんでくれる人がいれば幸せだ。

 そのために書く。
 いてもいい場所、そこに逃げ込みさえすれば、それなりに幸福な場所を築ける、そういう「居場所」が大事なのだと、どこぞのSDGsな団体も言っていた。

 それも、どうでもいい。
 私はただ、おもしろい小説を書き残したいだけなのだ。


 私自身、返報性の塊みたいな人間なので、たとえば私の作品を評価してくれた小説家の作品については、残りの人生かけてすべて読むと決めている。
 一方、私を酷評した編集長のいる会社の出版物については、なるべく触れ合うことのない人生を送りたいと思っている。

 そんなにいやなら、遠ざければいい。
 あなたが拒絶したものが、あなたの残りの人生に、いっさい、かかわることがありませんように。

 低レベルな個人的遺恨と思われるのはしかたないが、状況を俯瞰したとき、これは蓋然性の問題であるという見方はあっていいと思う。
 私の作風がきらいな編集長のいる会社が出版する作品よりは、そうではない編集長のいる会社の出版物のほうが、互いに「趣味が合う」確率は高いのではないか。

 確率の問題なので「絶対」はないわけだが、ただでさえ選択肢の多いなかで、あえてその出版社を選ぶ必然性はありませんよ、という程度のバイアスはかけていいと思う。
 かの編集長には、ぜひともその「個性」を貫いていただきたい。


 そう、結局は趣味の問題なのだ。
 私が偏った人間であるのと同様、世の中には偏った人間が一定数いて、その偏りを満足させられる作品というのは必要とされている。

 彼らにとっての仕事が、私にとっては趣味。
 あるいはその逆という現実は、世の中ままある。

 犯罪を除いて、好きなことをやっていればいい。
 そう思いながら、好きなことを書いている。