私はミニマリストなので、昔のものはほとんど捨ててしまった。
断捨離のススメではないが、生きるとは捨てることだ、と思っている。
形あるものは、かなり早い段階で捨てた。
教科書やアルバムや服やゲーム機類、実家を出たときに残してきたものは別として、現在手元にあるのは日常的に使うものばかりだ。
リアルな話、たとえばエロ本みたいなものは、20代の早い段階で捨てて以来見ていない。
ビデオはしばらく持っていた気がするが、いつの間にかネットという代替手段に取って代わった。
そのころ熱中していた自作のミュージックビデオクリップを、VHSで段ボール3箱くらいつくったが、これも30になった瞬間に捨てた。
30代で捨てたものは多く、パソコンのソフトや大量の本、CDなども、大阪時代にほとんど捨てて(売って)しまった。
現在、私の「荷物」はカート一台で足りる程度になっている。
ロマンスグレーになって冒険の人生に旅立つときも、バッグひとつにまとめるのに、それほど苦労はしないだろう。
日々の活動データ、旅行の動画や写真などは、ほとんど重さのないデータとなってオンラインに眠っている。
黒歴史になりそうな違法コピーなどもあった気がするが、あるときまとめて消去したので、データ自体もオンラインの無料ストレージで事足りる程度に少ない。
さて、そんな私が執拗く手元に置いていたものが、昨今発掘された。
先述のとおり持ち物は少ないので、物体としての容積は小さい。
よくとっといたな、と正直感心している。
約30センチ四方の収納スツールひとつにまとめられて、それはあった……。
このブログにも何度か書いているが、私はかつて小説家になろうと努力していた。
とくに20代、気が狂ったように本を読み、調べ、勉強し、書いていた。
そのころの「メモ」が、30センチ四方の箱にまとめられていたのだ。
最初その収納ボックスを開けたとき、どこぞの宴会で使おうと思って使わなかった金髪のカツラとか、どうでもいい小物とか香水が出てきて、くだらねえなと思っていた。
が、表面を覆っていたそのカモフラージュを除けたところに眠っていた「資料」が見つかって、嘆息した。
そういえばあったな、これ……。
バインダーやノートやファイルにまとめて、十数冊。
神経質そうな文字が狂ったように書き連ねられているかと思えば、パソコンでプリントアウトしたまとめ資料など、必死だった時代の自分が唐突に脳裏によみがえってきた。
問題は、底のほうにあったプラスチックのケース。
フロッピーディスクが、百枚以上。
どんだけ書いてんだ、俺……。
あぜんとして、しばらく開いた口がふさがらなかった。
いや、すこし誇張した。
当然、まあ知ってはいた。
自分のやったことだし、そうとうの労力がかかっている。
保管した事実を思い出す機会がなかっただけで、完全に忘れていたわけでもない。
それにしても狂ってるな、自分、と思う。
なにかをはじめたら、ともかく徹底的にやる、というタイプの人間は一定割合で存在するが、まちがいない、私もその一味だ。
たとえば小説に登場する企業を設定するとき、会社の沿革から重役から製品から売り上げまで、ともかく細部にいたるまで事細かに決めていた。
なんの役にも立ちはしないが、リアリティを出すというのはそういうことだ、と当時は思っていた。
設定資料だけで辞書ができるような努力の結果は、まあお察しなのだが、そのときに積み上げた知識が現在、役に立っては……いない。
当然だ、そんなニッチな情報が、日常の役に立つわけはない。
さてどうするか、と考えた。
もし私が、これからまちがって大物に出世した場合、この収納ボックスの価値は億になるだろう。
だれが評価してくれなくても、私が億を出して買い取る。
30年近く昔のフロッピーディスクが正常に読み込めるのかという問題もあるが、ある意味で黒歴史でもあるこの記録媒体、放置はできない。
もちろん冷静に考えれば、私が大物になる未来はほぼない。
つまりこの収納ボックスの価値は現状、ゼロに等しい。
いっそ燃やすか、と思ったが、紙の資料はともかくフロッピーディスクを野焼きするわけにもいかない。
一部金属を含むフロッピーディスクについて、自治体の推奨する分別ルールを調べつつ、とりあえず押し入れにもどしておくことにした。
収納ボックス1個分くらいなら、思い出の品を持っていても、ミニマリスト失格の烙印を押されるほどでもあるまい。
私が突然死したら、自治体のルールにしたがって、ゴミに出してもらってかまわない。
私は、なにももたずに生まれてきた。
なにももたずに死んでいく、それでいいのだ。
ふと電気代を見ておどろいた。
前年同月比でわずかに使用量は低下しているのに、料金がほぼ1.5倍になっている。
いくらなんでもおかしいだろ、激変緩和措置とかどうなってんだ?
ふざけんな政府、と内心さけんだが、選挙に行かないタイプなので、これ以上強くは言えない。
ヨーロッパのエネルギー価格は、さらに激変しているらしい。
為替の問題もあるが、電気代10万とか、もう生活設計を変更するレベルだ。
しかしここは日本。
産油国とも仲良しのお国柄、1.5倍はおかしいだろ、と言いたい。
複利計算でも、インフレ率2%で元利合計1.5倍になるには20年以上かかる。
1年で50%も上昇するなんて、ここはトルコか、とひとしきり突っ込んでやりたい。
トルコといえば22年10月、前年同月比CPI(消費者物価指数)で85.5%というインフレを記録し、現在も高い水準を継続している。
エルドアン大統領の財政政策には、おどろくばかりだ。
まあ国民が支持をして大統領に選んだのだから、受け入れる覚悟はあるのだろう。
金利は悪、と言いたい気持ちは、個人的にはわからないでもない。
とはいえ、場末の飲み屋でクダをまいているおっさんが言うなら、まったく同感と言ってすませられる。
問題は彼が、人事権をもった大統領であることだ。
経済合理性を完全に無視した「利下げ」は、世界中から信頼を失う結果となった。
三選を果たしたのち、経済政策については姿勢を転換、定石どおりの対応をしているにもかかわらず、リラ安に歯止めがかからない。
これは彼が「市場からの信頼を失った」ことを意味する。
どんなにまともなことをはじめようと、いつ豹変して中銀総裁や財務大臣を更迭するかわからない、という懐疑を拭えないということだ。
やらかした人間の言うことなど、もう信用できない。
経済合理性にのっとって、行くべきところまで行かせてもらう。
現状、それが市場のコンセンサスになっているようにみえる。
リラ安がどこまで更新されるかはわからないが、トルコ経済の受難はしばらくつづくことだろう。
一方、日銀に対する信頼は、ある意味ですさまじい。
一部のヘッジファンドにとっては、ほとんど「恐怖」の対象といっていいだろう。
日銀は、やると言ったらやるし、その規模も徹底している。
ゴールデンウィーク中、薄商いのなか160円までオーバーシュートしたドル円に対し、政府日銀はキッチリと落とし前をつけた。
もちろんこれからどうなるかはわからないが、すくなくとも短期的には、積み重なった円売りポジションを巻き戻さざるをえない状況となっている。
10兆円規模の実弾、それも何発撃ってくるかわからないとなると、さすがのヘッジファンドにとってもお安い「戦費」ではない。
一度、歴史的な160円のストップロスを巻き込んだことに満足して、撤退してもいいんじゃないかな、と個人的には思っている。
日銀を敵にまわすのは、かなり危険な賭けなのだ。
円安局面における為替介入の場合、理論上は外貨準備高が上限となる。
実質的にはさらに低く、何度も撃てるわけがない、と高をくくっている人々もいる。
たしかに介入の原資を調達するためには、おもに米国債で保有している資産を売却しなければならない。
相手国の金融当局、今回の場合はFRBの同意なども得ておく必要があるだろう。
それでも、投機的な動きに対しては「無限に介入する」という財務官の意志は、確固たるものであるように思える。
ヘッジファンドの心胆たるや、私以上に寒からしめられているのではないだろうか。
金利差というファンダメンタルズは、もちろん重要だ。
円で資金を調達して、高金利の国で運用したい動機は、十二分に理解できる。
しかし現状、さすがに売られすぎの感はある。
ここからさらに売られるというのは、ちょっと考えづらい。
マーケットは生き物なので、周期的に変動する。
永久に同じ方向に進むということは、あり得ない。
80円から160円。
それが長期的な円相場の変動範囲だと、私は思っている。
心地いいのは120円前後。
国内経済状況などとのバランスも考慮しながら、最適の運用をはかろうとすれば、おそらくそのあたりに落ち着くのではないだろうか。
どこぞの大統領のように無茶をする相手には、ある程度の無茶は返してあげてもいいだろう。
しかし常識的に売られすぎているものを、さらに売り浴びせる無茶には、日銀砲によるお仕置きが必要だ。
などと言いつつも、170円、180円までいかないともかぎらない。
経済に絶対はないので、経済合理性や原則論についてはともかく、水準についての言及があったら、眉に唾をつけて聞いておいたほうがよい。
私なら年内のどこかのタイミングでドルショートを仕掛けたいところだが、まだロングでいけると思っている投機筋は少なくないだろう。
一応記録だけはしておくが、ひとつ聞き流しておいていただきたい。
昔のっぽさんというすごい人がいて、ゴン太くんのために、いろいろな工作をしていた。
ゴン太くんはよくしゃべるやつだと思っていたが、あれはナレーションの「おしゃべり」という役の声らしい。
ゴン太くんは、鳴き声と思われる声しか発していない、とwikiに書いてあった。
マジかよ、とカルチャーショックを受けた。
のっぽさんの死去が公表されたのは、最近のような気がする。
同じくwikiによると、22年に亡くなり、当人の希望で23年の誕生日5月に公表されたらしい。
「昭和」がつぎつぎ終わっていく感じは、なかなか寂しいものがある。
ご冥福をお祈りする。
さて、私は地味に、この手の「工作」的な作業が好きだ。
模型づくりの動画など、好んで眺めていたりする。
ジャンクのパソコンなどを買って、直して使うこともよくある。
最近はめんどくさくなって新品ばかり使っているので、これはいかん(?)と、ジャンクのタブレットPCを買った。
Win11世代で、通常中古なら2~3万、これがジャンクで1万円だった。
直して使えば、お財布にも優しい。
ジャンクの理由は、OSなしでバッテリーの膨張だけ。
そもそもバッテリーが高いので、直すより使えるものを買ったほうが安上がりという気もするが、使えるといっても中古、おそらくバッテリーもそれなりにヘタっている。
そこで大容量の新品バッテリーを購入し、交換することにした。
OSのインストールは簡単だし、この程度なら、ふつうはトラブルもなく完了するものなのだが……今回は、そうはいかなかった。
いわゆる2in1のタブレットPC。
見たところ、会社などで低負荷の決まりきった作業に使われていたが、バッテリーが膨張したのでお払い箱、という端末だろう。
分厚いフィルムも貼られていて、傷はほとんどない。
私はケータイもPCもケースとか使わない「裸族」なので、フィルムを剥がしてみたところ、とてもきれいだ。
つまり唯一の問題を解決すれば、かなりの良品ということになる。
その問題の解決が高くつくので、お安く買えたわけだが。
新品バッテリーの到着を待って、作業開始。
まずは液晶パネルが接着されているプラスチックのフレームを、本体側から取り外す。
本体とフレームをつないでいるのはプラスチックのツメで、それを精密ドライバーなどで1個ずつ外していく感じだ。
そうして貝のように開いた状態にしてから、バッテリーを交換する、という流れだと思っていた。
途中まではその通り進んだのだが、どうしても外れないところがある。
そこで作業が一時中断した。
同じ型番の分解動画が見つからず、近い型番の動画ではフレームごと外している。
が、私の手元にある端末では、それができない。
壊す覚悟で無理やり外すのは最後の手段として、他の方策を考える。
脳内に「でっきるっかな、でっきるっかな」と流れてきて、この時点で、ちょっと楽しくはなっている。
膨張したバッテリーのおかげで、液晶パネルがすこし浮いているのを利用した。
同様にマイナスドライバーで、両面テープで接着されている液晶パネルをすこしずつ剥がしていく。
すると……謎が解けた。
なんと、プラスチックフレームと本体が、一部、ネジ止めされていたのだ。
これではツメのように外せるわけがない。
しばし茫然としたが、とりあえずその2個のネジを、すでに半分以上剥がしている液晶の隙間から、精密ドライバーを入れて外そうと試みた。
1個は外れたが、もう1個のほうがどうしても外れない。
幅広の輪ゴムを使い、ネジ穴がナメないように気をつけながらやったが、細い隙間からでは力も入れられず、無茶すると壊れると判断し、方策を変更した。
両面テープで接着されている液晶パネルだけ、すべて外す。
すると、あとはフレームごと外したのと同様、バッテリー交換の作業ができた。
バッテリーのネジの1個も、どうしても外れなかったが、どうせ交換するものだしこちらは無理やりねじ切った。
バッテリーの型番は調べていた通り、ぴったりだった。
さて、ここからは元に戻す作業になる。
が、またしてもトラブル発生だ。
インカメラ部分に、フレームと一体化して組まれたパーツがあって、それを無理やり剥がしたので、とっ散らかっている。
元の位置に戻さねばならない。
試行錯誤していると、小さい部品が外れた。
カメラ関係の部品かと思ったが、どうやらwi-fiらしい。
パーツを見ると、アンテナを支える台座の1個らしい。
ネットがふつうにつながれば、まあ戻さなくていいかなと、とりあえずそのままにした。
組み立てたところ部品が余る、というギャグ漫画のような結果だが、実用上の問題がなければさしたる支障もない。
緩衝材のような2ミリくらいの金属部品、なくてもいいだろう、たぶん。
とりあえず両面テープは貼り直さず、見た目だけは元通りになった。
充電し、動画を垂れ流して6時間以上もつことを確認後、新しい両面テープで固定した。
トータルの作業時間は30分少々。
なんならこの文章を書くほうが、時間がかかった。
たかがバッテリー交換、されどまれにハードルが高い端末もあるが、それほどむずかしくはない。
コスパもいいので、工作が苦にならない方はお試しあれ。
外したバッテリーは、みごとにぷっくりと膨らんでいた。
酸化してガスが発生しており、圧力がかかるなどすると発煙、発火のおそれもある。
このような危険物は、自治体のルールにしたがって廃棄しましょう。
ふつうの燃えないゴミの日に出してはいけません。
私はたまに、オークションサイトを使う。
ヤフー、メルカリ、ラクマ、ひととおりのアプリは入れている。
ミニマリストなので、それほどたくさんの買い物はしない。
ただ必要なものを安く、できれば「商人」に儲けさせない方法で買うために、オークションは便利だと思っている。
あるとき、購入する前に自己紹介を見て、げんなりした。
そのままは書かないが、要するに「きちんと挨拶できない人とは取引しません」的なことが書いてあった。
アプリ内のメッセージ機能で、なにやら濃厚な会話ができない人には売らない、という姿勢らしい。
彼がオークションに求めているものと、私のそれは合致しない。
よって、そっ閉じた。
そういう「関係性」を求めるのは彼の自由だが、当方が求めるのは「説明に合致した商品を迅速に」だ。
オークションやフリマサイトで、私はほとんど購入者の側に立つが、メッセージを送ることは基本ない。
そんなものは必要ない、と思っているからだ。
質問などはあってもいいが、質問する必要がない程度の情報を出品時点で記載しておくことが望ましい。
売れたら発送し、買ったら着荷を確認・連絡する──お互いにやるべきことをやれば、それでよい。
トラブルになりたくないので、あまり出品はしないのだが、いまでも、たまに売ることはある。
売り手の側に立つときは、必要な連絡はもちろんする。
いつ発送するのかや、ありがとうございました、くらいだ。
べつに返事がなくてもよい、むしろ必要ない。
ところで先日、こんなメッセージが届いた。
速やかな発送ありがとうございます、きれいな商品でした、祖母が喜んでいます、お金がなくて安いのを探していました、などなど。
私はこれも、そっ閉じた。
そういうメッセージは、冒頭のタイプの方にでも送ったら喜ばれるのだろう。
私は不要なものを売っている。
あなたは必要なものを買っている。
その関係を成立させるために求められるのは、正確な情報と迅速な行動のみ。
やるべきことをちゃんとやるのは必要不可欠だが、それ以外の会話やメッセージはオマケみたいなもので、基本的には必要ないと思っている。
だからオークションマスターから、返事をしてくださいとか、あいさつしましょうなどと要求されると、イラッとする。
それは「商品の売買」にとって、必須事項ではないからだ。
私は正確な情報を記載して載せている。
よって質問されることはほとんどない。
たいていは質問などくる前に売れるが、たまにニッチな商品の場合は数日ほど売れない。
質問されれば返すが、値引き交渉がほとんどだ。
質問をしてくる相手というのは、だいたいろくでもないことが多い。
正確な情報を書いて、売ったあと、それでも文句を言ってきたりする。
傷があると書いてあるのに、この傷は深いので返品だと。
以前このブログでも書いたかもしれないが、まったく腹立たしい。
その場合、こう行動するようにしている。
べつに返品するのはいいが、あくまでも見解の相違なので、たとえば私は送料と落札手数料を損するが、相手にも送料くらいは負担してもらう、などと提案する。
すると相手は、それだとコストがかかるので、値引きしろ、などと言ってくる。
私だけが損をして、相手だけが得をする取引だ。
値引きはゼロサムゲームなので、たとえば私が1000円損すると、相手が1000円得をする。
そんな結果になるくらいなら、私は2000円損してもいいので、相手にも2000円損してもらう、それならば応じますよ、と伝える。
その商品を再出品してもらって、私が落札すれば簡単だ。
そういう取引が可能かどうかは、オークションサイトのルールを調べる必要はあるが。
自分が得をしたいだけの相手は、そういう提案をするとたいてい引き下がる。
その手のヤバイ相手には1、2度会っただけだが、それ以来、あまり出品しないようになった。
私はあいさつや会話を好まないので、いい出品者ではないかもしれない。
だがやるべきことを迅速に、必要なことをきちんとやるという点では、わるい出品者でもないはずだ。
いい人間でも、わるい人間でもなく、中道を生きたい。
日々そんなふうに思いながら、ひっそりと生きている。
定期健診にいってきた。
歯科医の定期健診だ。
日本人の受診率、たったの2%という選ばれし民のひとり。
ちなみにスウェーデンは90%、アメリカ80%、イギリス70%が受けているらしい。
ことさら歯を大事にしているから、というわけではない。
詰め物が取れたので受診し、その後なんとなく定期健診も受けるようになった、というだけの話だ。
べつに歯医者が好きというわけでも、定期健診を勧めるわけでもない。
ただ、2000円くらいできれいな歯になれるので、コスパはいいような気はする。
話は変わる。
最近、よく世界史のチャンネルを見て学び直している。
以前、中国史の三大悪女についてイジってみたが、今回はヨーロッパ。
神聖ローマ帝国という、わけのわからない国について。
受験のタイミングなどで、名前くらいは聞いたことがある方も多いだろう。
現在のドイツあたりを中心に、1000年ほどもつづいた長寿の国だ。
この神聖ローマ帝国。
じつのところ「神聖」でも「ローマ」でも「帝国」でもない。
「神聖」というのは、ローマ教皇のお墨付きをもらっているというだけのことで、べつだん聖地があるわけでも、聖人にゆかりがあるわけでもない。
そう呼ばないことには、宗教色があまりにも足りないから、しかたなく名乗っている。
もちろん「ローマ」ではない。
一部でもイタリアに領土があるんだろうな、と思ったら大きなまちがいだ。
帝国?
まあ多数の国を統合するという意味では帝国なのかもしれないが、それにしても皇帝に権威がなさすぎる。
現在でたとえればアメリカ合衆国のようなもので、各州がそれなりの力を持っていて、大統領がそれを統括する──とは言い条、皇帝には大統領ほどの権力はまったくない。
あまりにも権力がなさ過ぎて、皇帝がイジケるレベルのなんちゃって「帝国」だ。
ある意味、北朝鮮のほうがマシ、という稀有な例のひとつである。
北朝鮮の正式名称は、朝鮮民主主義人民共和国。
言うまでもなく、どこが民主主義なのかわからない。
君主制の代表的システム「世襲」だから、人民の共和国でもない。
しかし、朝鮮ではある。
全部まちがっている神聖ローマ帝国に比べれば、2文字だけは真実なので比較的マシではあると思う。
さて、歯医者に話をもどそう。
私自身のコミュニケーション力の低さが、対人関係を露骨に悪化させる例だ。
20年以上も昔、詰め物が取れたので歯医者に行った。
親知らずも痛かったので抜いてもらうなど、2か月くらい通ったと思う。
なかなかいい先生で、会話も弾んだ。
私自身、まだ小説家を目指してよく本を読んでいた時期だったので、アカデミックな話が弾んだように記憶している。
たしか古代ローマの話をしていたのだと思う。
アレキサンダー大王とか初期キリスト教のころ、ロマンがありますねえ、などと。
そこで先生、ちょっとした失言をした。
私もスルーしておけばいいものを、「いや神聖ローマ帝国はドイツでしょ」と、やや品のないツッコミをしてしまった。
先述したとおり、ローマなどと名乗っていても、イタリアとはなんの関係もない。
先生、すぐにまちがいに気づいたが、その後、なんとなくいやな雰囲気になった。
とりあえずその日で治療も終わり、歯医者には行かなくなった。
さらに数年後、また詰め物が取れたので、別の医者に行った。
そこでドクターが驚いていた。
前回の最後の治療で、歯と歯の間に詰め物をしたのだが、それを「切り離していなかった」らしいのだ。
つまり2本の歯がくっついたまま、数年間、暮らしていたことになる。
恥ずかしながら、まったく気づかなかった。
じっさい、くっついていたからといって、とくに支障はない。
むしろ歯間掃除の手間が省けていい、という見方もできる。
歯を「ブリッジ」、つまり「つなげて」使用するような治療もある。
実用上の問題は、たしかにない……が、ふつうは切り離すもののようだ。
それをつなげたまま、治療を終えたドクター。
どうやら最後に、なかなか害のない報復をしてくれた。
ふりかえればいい思い出……でもないが、まあさほどの害もない。
私自身、あまりひとを小ばかにするような物言い(そのつもりはなかったのだが)は、厳に慎んだほうがいいという教訓にしている。
言うまでもないが、私はなにも知らない愚かな人間だ。
そんな私が他人をバカにするなど、おこがましいにもほどがある。
先日、クルマで地方都市の夕暮れを走っていた。
私が暮らしている峠のふもとは限界集落だが、すこし街に出ると若者が歩いている。
この国にもまだ若者っていたんだなあ、などと思いつつ、子どもたちが横断歩道のところで待っていたので、クルマを止めた。
こちらが止まったのを確認し、反対方向を見る子どもたち。
私にとっては対向車線になるが、そのとき走ってきたクルマは……止まらなかった。
平気で加速し、すれちがう小型車。
まだ子どもたちは渡りはじめておらず、もちろん事故にはならなかったが、私はあのときすれちがっていった「じじい」の顔をよくおぼえている。
自分さえよければいい人間の顔だ。
さて。
私は作業中に流す動画として、淡々と料理したり建築したり走行したり、という「環境動画」を愛用している。
最近は海外の都市などを自動車で走行する動画も、よく見ている。
撮影中なので当然ではあるが、きわめて安全運転だ。
どの国にも「横断歩道」というものがあって、横に歩行者が待っていれば必ず停車する。
信号機がない場所での「横断歩道は歩行者優先」というルールは、おそらく世界共通なのだろう。
しかし世の中には、このルールを知らないバカがいるらしい。
べつに交通法規について、微に入り細を穿つように知り尽くす必要もないとは思うが、横断歩道の意味くらいは基本中の基本だ。
残念ながら、道路に描かれた「白いひし形」マークの意味は、半数の人が知らないらしい。
彼らは、この先横断歩道があります、というお知らせを、平気で無視しているわけだ。
由々しき事態である。
が、そんなことを知らなくても横断歩道の前で止まれれば、それでいい。
すくなくとも、横断歩道は歩行者優先。
たぶん世界中、小学生でも知っている。
守れない連中には強い言葉で反省をうながし、ルール違反に対しては罵詈雑言を並べ立ててやりたい……気はするが、そこまではしたくない。
なぜなら、じつのところ私も、かつてはバカだったからだ。
このブログのタイトルにもあるとおり、今日より明日は、おりこうになりたいという思いで日々を生きている。
そんな私にとって、かつてバカだったころの記憶は、トラウマであり宝でもある。
最近しょっちゅう、むかし自分がバカだったころの思い出が記憶をかすめて、しばしばいやな気分に陥る。
自業自得なのでしかたないのだが、じっさいバカは、バカなことをする。
あれはまだ20代のころだ。
たしか引っ越しかなんかで、急いでいたのだと思う。
午後の住宅街を、やや前のめりに走っていた。
そのときだ、横断歩道の傍らに立つ少年の姿を見つけたのは。
その姿が、いまでも忘れられない。
何十年もたっているのに、どうしても忘れることができない。
彼の目は他人を信頼していて、クルマが停車するのを待っていた。
しかし私はブレーキではなく、アクセルを踏んだのだ。
遠ざかっていく少年の姿が、バックミラーに映る。
彼は、はっきりと私を見ていた……気がする。
過ちを犯した記憶が、何十年後まで私を苦しめる。
横断歩道は歩行者優先だと、知っていたはずなのに。
それなのになぜ私は、あそこでブレーキを踏むことができなかったのか?
たった十数秒程度のために、なぜアクセルを踏んだのか?
理由ははっきりしている。
バカだからだ、私は、バカだったのだ。
さいわい何十年後かのいま、比較的、交通ルールは守るようになっている。
バカだった20代をやり過ごして以降、事故を起こしたことは一度もない。
とはいえ、免許の色は青だ。
ルールを守っていないからと言われれば、たしかに認めよう。
正直、無駄なルールをわざわざ守るのはアホらしい、とも思っている。
見通しのいい場所で、クルマも歩行者もいないことが自明であるにもかかわらず、わざわざ一時停止とかいう無駄な行為を強いるのはなぜだ?
踏切の一時停止も、田んぼの一本道、どう見ても列車などいないのに、なぜ止まる?
せいぜい徐行くらいでいいだろうと思っているが、どこぞのだれかの点数稼ぎのためには、こういうルールも必要なのだろう。
なにをもって「無駄」と決めるかはむずかしい問題だが、四角四面のルールに縛られる必要はない。
が、まちがいなく言えるのは、歩行者優先の横断歩道に歩行者がいるときに止まるのは、あきらかに、どう考えても無駄ではないことだ。
ところで、あのとき私とすれちがったあのじじいは、いつまでバカのままでいるつもりなのだろう。
横断歩道の意味くらい、なぜ学ぶことができないのだろう。
道路はあなたのものではない、みんなの共有物だ。
自動車、バイク、自転車、歩行者、みんなが使用していいことになっている。
たいせつなのは優先順位だ。
「車道」はたしかにクルマ優先で、高速道路をババアが時速100キロで走っていたら、轢いてもいいかもしれない……いや、私は逃げるが。
一方、「横断歩道」は歩行者が優先だ。
クルマは歩行者がいない場合に限って、通過することを許されているだけなのだ。
優先順位を守らないバカは、行列に割り込むバカのようなもので、一定数いる。
残念ながら、この手の人間がいなくなるということはないのだろう。
私を含め、人間はバカである。
だが全員、今日より明日、おりこうになることができる。
りこうになる努力をやめてしまった時点で、バカは永遠のバカとなる。
加齢により能力が低下していくのはやむを得ないとしても、努力によっていくらかマシにはなるはずだ。
精神論は好きではないが、じっさい気持ちの問題はかなり大きい。
最善を尽くすという意味で、昨日よりもバカにだけは、なりたくないものだと思う。
私はミニマリストなので、古いものはほとんど手元にない。
日常的に使用するものでないかぎり、たいがいのものを捨ててしまった。
最近、スーパーファミコンというものを買った。
骨董品趣味というわけではなく、遊ぶためだ。
やりたいゲームがあるたびにゲーム機ごと買い、クリアしたら売り払うという生活をつづけている。
ある日、なんとなくスーパーファミコンの『真・女神転生』をやりたくなって、ソフトごと買った。
結論から言うと、遊べなかった。
どうせ1回しかやらないしな、と思ってフリマで本体「動作未確認」を買ったのがまちがいだった。
アダプタがないので動作未確認、という商品だったが、日本の製品力なら動くんじゃね?
と期待したが、どうやらハズレだったようだ。
起動しない。
カセットふーふーしてみたが、ダメだ。
一瞬だけ電源ランプは点灯したので、内部掃除してグリス吹いたらいけそうな気はするのだが……。
分解して修理という考えも一瞬浮かんだが、そのための道具をそろえるくらいだったら、ふつうに新品の互換機を買ったほうが早い。
PCはジャンクを買っても、biosが起動さえしていればパーツだけ変えてOSを入れれば動く、ということはよくある。
ファミコンでも似たような修理マニュアルはあると思うが、そこまでやりたいか、という点が問題だ。
だいたい性格的に、一度ゲームをはじめてしまうとやめられない。
大量に時間が食われる。
それでもやりたいゲームはもちろんやるが、そんなゲームはほとんどない。
そもそも私は、一度クリアしたゲームや、一度読んだ本を再び手に取ることは、あまりないタイプだ。
それでもやりたいのか、と問われると自信がないので、起動しない時点で「やるなということだな」と、あきらめた。
もともとあまり執着しないタイプなのだが、年をとると、さらにあきらめがよくなっている自覚がある。
しょせん全部で1万円ていどだ。
スーファミセットを段ボールにもどし、なかったことにした。
代わりにスイッチ版の『真・女神転生3』を買った。
6月には『5』の新作も出るらしい。
『3』はPS2で出たときに本体ごと買ってプレイしたので、それほどやりたいわけではないが、スイッチを買い直す「ついで」にやってもいい気はする。
それにしてもニンテンドー・スイッチ、まだほとんど値崩れしていないのは、ほんとうにすごいと思う。
さて、世の中ではレトロゲームが流行っているらしい。
ファミコンはもちろん、メガドライブやプレステなど、けっこうリバイバルしている。
私を含め、当時クソガキだった層が参入していることは想像に難くないが、どうやら若者の一部も乗っかっている。
名作と言われるゲームであれば、たしかにどの世代がやろうと、おもしろいものはおもしろい。
とくに『スーパーマリオブラザーズ』は、もはや1985年のゲームではない、と私は思っている。
現在進行形で新しいステージがつくられ、日々消費されているからだ。
『スーパーマリオメーカー』シリーズ。
私自身はプレイしていないのだが、動画はよく観る。
最近は、アメリカの若者がすごいテクニックで高難度のステージをクリアする姿を眺めながら、感心して飯を食っていることが多い。
食事中のちょっとした休憩動画に、マリオは最適だ。
レトロゲームのプレイ動画も、けっこう見てしまう。
子どものころにクリアできなかった『魔界村』『ドルアーガの塔』『スペランカー』など、現代の若者が攻略している動画は、それなりにおもしろい。
ちなみに作業動画は、前面展望やドライブ、料理、工場など、淡々と作業している動画を流していることが多い。
この文章を書いている横の画面では、アルプスをサイクリングしていたりする。
ゲーム画面は、思わずそちらに集中してしまうので、作業には向かない。
車窓とか、自然な動画を流しておくくらいが、ちょうどいい。
先日、献血に行ってきた。
すると、トミカをくれた。
そのトミカが手元に5、6個ほど、たまってきた。
また売り払おうかな、と思ったとき、転売禁止という文字が目にとまった。
……え?
もらったもの、売っちゃあかんの?
私は元来、「転売屋」が大きらいだ。
コンサートのチケットや人気のゲーム機など、力ずくで押さえて高額転売する「やから」は、社会の害悪だと思っている。
私自身、たとえどれほど欲しくても、正規の値段でなければ買わない。
だから尊敬する江頭さんのポテトチップスも、転売屋からは断じて買わなかった。
さて、そこまではいいのだが、献血グッズ。
いわゆるノベルティだと思うのだが、なぜこれを売ってはならないのか?
調べたところ、弁護士先生の見解は以下のようになる。
「謝礼品を売る行為は公益目的に反する。高値で取引されれば『売血』につながる恐れもあるため、対策を強化するべきだ」
──待てと。
高値で売買されるかどうかは、売り手の問題ではない。
能動的に「くれる側」が、みずから効果などを考えてノベルティを設定している。
ところが受動的に「もらう側」であるわれわれが、いらないものを売ることが『売血』につながり公益目的に反する、などと決めつけられてはとうてい看過できない。
いらなければ、もらわなければいいじゃない? という指摘には、こう答えよう。
だいたいいらないものばかりだが、比較的マシなのでトミカをもらってきたところ、たまってしまった。
あげたくないなら、どれにしますか?
と職員に問わないように、指導したらいかがか。
そもそも、くれるというものをもらうかどうかを、他人に決めてもらうつもりはない。
すくなくとも私は、そういうのを「よけいなお世話」と感じる。
こんな意見もある。
「献血により献血者が取得した記念品は、血液センターの予算で購入されたものであるにも関わらず、転売サイト等への出品により個人的利得の手段になってしまっている」
どこぞのパブリックコメントらしいが、たいへんゾワゾワするものを感じる。
どういうつもりなのか、推し量るだけで気持ち悪くなるレベルだ。
──待てと。
ではなぜ、献血者の協力によって築かれている血液センターの予算が、そこで働く看護師などの個人的利得を得る手段になっていることには疑義を唱えないのか?
彼らは労働力を提供し、われわれは血液を提供している。
どちらにも一定の利得を手にする資格があるはずだ。
厚労省は「献血は本来、金銭の授受を伴わないものとされている」と言っている。
だから、べつに金銭を受け取ってはいない。
パチンコで交換した景品を買い取ってもらうのがよくて、ボランティアのお礼にもらったものを売るのがダメな理屈が、まったく整合しない。
まあパチンコはそうとうグレイゾーンらしいが、どう考えても、比較にならないほど献血のほうがマシに思われる。
そもそも問題視されているのは、「高額転売」のはずだ。
ではなぜ、たかが千円、二千円レベルのトミカに「転売禁止」と印刷するのか?
典型的なお役所仕事に、「だれかが転んで落ちたので全員立入禁止」というような対応は、日本ならずとも散見される。
とくに世界遺産などで、その手の制限には枚挙にいとまがない。
一部の問題あるノベルティに対応すればいいだけなのに、関係のないものまで転売禁止とは、まさにお役所仕事。
一部のバカなユーザーをきっかけに、管理能力の低い運営者の低能をも暴露する事態だ、と私は思う。
これらの「意見」を見ていて率直に思ったのは、最近よく見かけるようになった「偽善者」と「狂信者」の姿だ。
他人の自由を必要以上に制限しようとする連中への反発と違和感を、強く感じる。
彼らは自分が正しいと思って、これらの発言をしている。
この手の連中が、安楽死における自己決定権に反対したり、中絶の権利を剥奪するというような「狂信的行動」に走る姿は、想像に難くない。
そう、私がこの問題にゾワゾワする最大の理由は、彼らの発言の根底に「偏った正義感」があるからだ。
自分が正義だと思っている人間の語る正義ほど、眉に唾をつけて聞かなければならないものはない。
自分が「いいことをしている」と信じて、したり顔で他人の行動を制限したり断罪したりする連中は事実、一定割合で存在する。
じっさい私も小学生のころ、彼らから強烈なトラウマを植えつけられた。
昔このブログでも書いたが、ここでは長くなるので語らない。
要するに、自分が「正義」とか「善」だと思い込んでいる人間ほど始末がわるい、というアノマリーは健在ということだ。
だいたい私が献血している目的は、自分の健康診断のためだ。
善行でもなんでもない、なんなら「いつか返してもらうため」である。
人間、いつどこで大けがをするかわからない、場合によっては輸血を必要とすることもあるだろう。
そのとき、もし自分が「だれかに血をあげたことのない人間」だったら、胸を張って「だれかがくれた血」をもらえない。
だから私は「貯金」ならぬ「貯血」をしている。
すべては自分のためで、偽善者よろしく、みんなから感謝してもらいたいとか、いっさい思っていない。
そんな私の動機や目的について、ごちゃごちゃ言われる筋合いはない。
さらに言えば、私がもらったものについても、ごちゃごちゃ言われたくない。
もちろん非常識な金額での転売は、どうかとは思う。
そんなものをばらまく運営こそ、指弾されるべきだろう。
だからこそ逆に、トミカくらい売ったっていいとも思う。
前述したとおり、せいぜい千円とか二千円のレベルだ。
ちなみに日本赤十字社によると現在、「400mLに由来する赤血球に血漿約120mLを混和した血液1袋:『27575円』/袋」らしい。
非常識な価格なのはどっちだよ、と思いながら、やけに増えてしまったトミカをどうしようか考えている。
たしかに私は自己利益のために献血しているが、金銭目的でないことだけはたしかだ。
が、これを売るとそういう目的に思われる気がして、不快感がぬぐえない。
いらないものを、欲しいひとに、常識的な価格で売りたいだけなのに……。
それすらも「やらせねえよ」と、やたらに他人の行動を制限したがる「狂信者」との戦いは、まだまだつづきそうだ。
タイトルからして、そうとうくだらない話だ。
私が苦手とする二大職業について、すこし私見を述べたい。
国会議員が高圧的な態度でCAに接したとかで、プチ問題化していた。
なにさまのつもりか知らないが、態度わるいですよ、と某有名歌手が指摘したところから端を発したもののようだ。
私にとって政治家は「そういうもの」なのでとくにおどろきはないが、偶然近くにいたら不快だったろうことは想像に難くない。
指摘された当人は、ブログでなにがしかの主張はしているらしいが、世間の反応は冷ややかである。
そもそも末端のCAに対して、大きな流れであるフライト計画の全体について、高圧的に主張したところでなんの意味もない。
あなたの態度が問題なのであって、言いたいことがあればもっと上のほうに直接、話を通したらいかがか。
と、多くの人々が私と同じ意見をもっているようで、個人的には安心している。
問題は、残念ながらこの手のタイプが、一定割合で実在することだ。
問題化したのは、彼が国会議員だったから、という部分もそれなりに大きい。
カスハラという言葉があるが、末端の従業員やサポート係相手に、ストレスを発散する客は多いのだ。
カスタマーの対義語は、サプライヤーだ。
商品やサービスを供給して利益を得る人々、すなわち商人である。
ここでひとつ、個人的な経験を語ろう。
「客」の視点でも、営業主体に対してイラッとすることは、たしかにある。
つい先日、とあるGSでオイル交換無料券を使ったときのことだ。
ちなみに無料券は半年前、車検をしたときにもらった。
まず前段として、当時の状況を踏まえる必要がある。
どこの業者もそうだと思うが、まずは見積もりを出す。
これが交換、あれも交換と、最安価格の倍くらいの価格を提示された。
いやそれはいりません、と何万もする高額なパーツの交換などを順に断っていくと、だんだん利幅の薄い最安価格に近づいてくる。
表情がうつろになる担当者のことが、しだいにかわいそうになってきた。
思わず仏心を出し、数千円単位のエアコンとか電装関係の部品や消耗品の交換については、じゃあまあ、それはやってもらっていいですよ、と伝えた。
そのときの彼のうれしそうな表情を思い出すと、なかなか自分もいいことをしたな、という気分になったことをおぼえている。
ビッグモーターのような極悪なノルマはないだろうとはいえ、彼らも商売なのだ。
さて、半年後。
同じGSでオイル交換無料券を使った。
いっしょにフィルター交換はいかがですか、と言われた。
いや車検から半年だし、距離みても1000キロも乗ってないし必要ないだろ、とこの時点ですこしイラっとはしている。
しかしそのGS、そもそも価格がお安い。
オイル交換も無料でやってもらっているので、じゃあお願いしますと言ってしまった。
価格は1200円、と聞こえた。
店内の値段表には工賃550円と書いてあり、フィルター自体はいつも800円くらいのやつと代えていたので、まあそんなものだろう、と思っていた。
おかげさまで、カチンときた。
支払いの段になって、2200円と言われたのだ。
2200円ということは、フィルター本体価格は1700円くらいする高級品、ということになる。
……もちろんわかっている、彼らはこうしてこつこつと利益を稼ぐお仕事なのだ。
ビッグモーターにかぎらず、必要のない整備をやらせるという商慣行は事実ある。
レシートを眺めると明細はなく、単にフィルター交換代金として計上されていた。
あんた1200円って言ったろ!
などと声を荒げることなく、もちろんすなおに支払った。
たしかに聞き違えた私もわるい。
だが、おそらく必要ないだろうフィルター交換を提案した、あなたはどうなんですかとも問いたい。
とりあえず私は、二度とここで車検をしないと決めた。
営業主体に対する顧客の態度としては、これがベターだと思っている。
ただ文句を言いたいだけの人々というのは、事実いる。
社会問題になっているくらいなので、まちがいなくいる。
商人は商人で、クソみたいな連中が多いので文句を言わざるを得ないこともある。
あきらかに相手側に問題がある場合は、自分の正義を貫く場合もあっていい。
が、私の場合、二度とその店、その会社、そのサービスを使わない、という結論に落ち着くことのほうがはるかに多い。
そのほうが、お互いに時間の無駄が省けるからだ。
まっとうな仕事をしているだけの商人、従業員も多数いる。
彼らに対してモンスターになっていい理由は、なにもない。
それでもいやなことがあったら、二度と使わなければいいのだ。
すると、しだいに行ける店が減っていくことになるが、自分で選んだ道なのでしかたない。
で、冒頭の話、そういう判断ができなくても、政治家は務まるらしい。
あるいはその店やサービスに、執着する理由があるのかもしれない。
彼らを顧客とする運輸・宿泊系の会社などには、要注意人物として、何名かの凶状持ちが手配されているようである。
全体のコストを引き上げる客なので、営業主体としてもできれば来ないでほしいだろうが、彼らは基本的に相手の気持ちが理解できないので、やってくる。
──私が搭乗するときは、必ず枕を2個用意するように。
予定が詰まったいそがしい身の上なので必ず定時運行しなければならない、1秒でも遅れたら機長と並んで完璧な状況説明とともに頭を下げにこい。
というタイプの顧客は、くだんの政治家ならずとも一定数いる。
ご家庭では、気温25度湿度50%じゃないとヤダヤダヤダ、などとママンに駄々をこねていたりするのかもしれない。
そういえば昔、カメラにむかって、ボクちんがんばって議員になったでちゅ、と泣き叫んでいた御仁もおられた。
実家でママンにオーヨチヨチしてもらうのは勝手なのだが、この手のタイプはできればあまり目立つところに出てきてほしくはない。
と、彼らを突き放して終わるつもりはない。
そういう人間にも務まる仕事は、たぶんあるのだ。
いろんな障碍者が、それぞれの能力の範囲で社会の役に立っている。
すべての人間が、それぞれにふさわしい場所で輝くべきだ。
私は基本的に、障碍者の社会参加を推進すべきという考えをもっている。
だから私を含め、社会性の低い人々にも活躍の場は与えてもらいたい、とも思う。
とはいえ、それは彼らを甘やかそうという意味ではない。
やりたいことと、その能力があることは、イコールではないからだ。
しょせんタカが知れている人間の能力で、甘やかされた知障はしばしば分不相応の妄言を吐く。
バカに不釣り合いの権能をもたせてはならない。
冷静で的確なオリエンテーション。
「己が分限を知る」ことこそ、人間に必要な「基礎」能力だと思う。
政治家という職業に「身の程知らず」が多いかどうかは、正確な統計を取ったことがないのでわからない。
しかし定期的にニュースを騒がせる醜聞をみるかぎり、政治という業界には、その手の障碍者に対する一定の受け入れ枠があるらしい。
ただ文句を言いたいだけの人々が実在するように、ただ偉そうにしたいだけという人々も事実いる。
生まれつきの性格なので、ある程度はしかたない。
彼らには、できるだけ小規模なコミュニティの仕事などを、あっせんしてあげたらよいと思う。
分相応の仕事であれば、私なんかより、よほど世の中の役に立つだろう。
田舎に引きこもって静かに暮らす、という人生の目的を早々に達成した穀潰し。
役立たずの私からのお願いである。
最近、寝ながら観る動画に、「世界史」が増えた。
宇宙、生物(自然)に次いで、3番目によく観るジャンルになっている。
理系以外で楽しいと思えるジャンルのすくない私だが、世界史は別腹だ。
執筆に役立つという意味においても、学び直しは重要である。
最近、印象的だったのが中国史。
受験のとき歴代王朝名を記憶させられたという、いやな思い出がよぎる方々も多いかもしれない。
私はべつに受験するわけではないので、王朝名や人名や年号など、あやふやな記憶のままでよい。
重要なのは、「そこでなにが起こったか」だ。
ある程度、テーマを決めて学ぶ。
今回は「中国の三大悪女」について、私見を述べたい。
キャッチーなワードなので、解説するサイトも多い。
まず正解から、呂雉《りょち》、武則天《ぶそくてん》、そして西太后《せいたいごう》だ。
悪女といわれるからには、たしかにそれにふさわしい悪事が、歴史書にはいろいろと書き連ねられている。
劉邦の嫁、呂后の政敵などに対する「拷問」はすさまじいのひと言に尽きるし、則天武后の所業も血にまみれていると言わざるを得ない。
が、そもそも清廉潔白で一滴の血も流さない為政者など、ありえない。
歴史は勝者が書くの格言どおり、彼女らに虐げられた人々が、彼女らを邪悪きわまる存在として悪口雑言を書き連ねているだけ、という見方もできる。
彼女らの「業績」の部分を見直して評価する声も、一定程度ある。
とくに則天武后など、多くの政策において「善政」だったという評価は疑いないようだ。
歴史上、優秀な女はいくらでもいる。
古代のシヴァの女王やクレオパトラの業績には謎が多いが、近世のマリア・テレジアやエカテリーナは、まあ優秀だった。
彼女らは、ともかく頭がいい。
言語、内政、外交、啓蒙──その事績を読むと、もう「すげえ」のひと言だ。
もちろん優秀なスタッフが周辺を固めてもいたのだろうが、優秀な人間を登用できるかどうかは支配者の資質にかかっている。
劉邦や劉備あたりが典型だが、当人が無能でも部下に恵まれれば、たいていのことは可能になる。
優秀な組織を築き、最低限の抑制でコントロールすること。
為政者に求められる、ほとんど唯一の才能がそれだ。
そんななか、ほぼ完全な「悪役」としての名をほしいままにしているのが、西太后である。
彼女の行動には、どうにも擁護する余地が少なく、悪事を働いた代わりにこれだけの善行も成した、という業績があまりにも少ない。
管見のかぎりとはいえ、西太后は邪悪、という印象はいかんともしがたいところだ。
とはいえ私の知識も、一般書や小説、解説動画や歴史サイトなどで読んだ程度にすぎないから、あまり自信をもっては言えない。
そんななか、彼女を擁護する数少ない意見を、とある予備校講師が述べていた。
興味深いので、その内容を略記する。
──いや、彼女はそんなにわるくないんですよ。
たしかに彼女には自分の欲望を優先するようなところはありますが、引くところは引く奥ゆかしさもありました。
自分のために再建した頤和園に引退して、あとは改革派の皇帝に任せようとした。
そこで困ったのが、政権中枢の取り巻きと宦官ですよ。
自分たちの利益が損なわれると、あわてた彼らに泣きつかれ、しかたなく再び政治に乗り出したんです。
彼女がやらかしたとされる悪事の数々も、息子を暗殺したとか妃を惨殺したとか、真偽が定かではありません。
たしかに浪費は認めます。
日清戦争に負けたのは、北洋艦隊のための費用を彼女が使ってしまったせいもあるかもしれない。
自分の隠居所や誕生日パーティのために、日清戦争の戦費の5倍を浪費したとか、ひどいと思いますけどね。
それを言ったら裏切り者の袁世凱だって、じゅうぶん悪徳じゃないですか。
ぜいたく品を売ったり、豪華な邸宅を建てて、生活をしている業者もいるわけです。
彼らは仕事をしているだけであって、だからわるいのは、そういう商人とつながって利益誘導をはかる宦官なんですよ、すべては宦官のせいなんです。
……いや、ダメだろ、宦官の言うこと聞いてたら。
悪と悪が手を組んで、ただの巨悪になっただけじゃないか。
突っ込みながら見ていた画面のなか、かたくなに西太后を支持する予備校講師は、決め手とばかり美しい女の写真を出して言った。
「いやあ、きれいだと思いませんか。私こういう顔の女の人、とても好きなんです」
…………。
……なるほど。
西太后の「悪」を最大化したのは、多数の宦官。
そして現在、彼女を擁護するのは、アイドル的に彼女を崇めるただのファンらしい。
まあ、しょせんは世界史なので、いろいろな見方はあっていい。
そもそも正解はない、というのが文系のいいところだ。
試験では「正解とされるもの」を書かなければいけないが、私は受験勉強をしているわけではない。
私による私なりの世界史の見方を、これからも育てていきたいと思っている。