定期的に、死を思う。

 人間が何千年も考えつづけてきた、メメントモリのほんとうの意味を。

 

 ──永遠に生きる、という研究が進んでいる。

 老化メカニズムを解明し、幹細胞技術を再生医療に応用しようとしている。

 

 ナノテクノロジーの活用や、意識のアップロードについても同様だ。

 人間が永遠に生きるという「物語」は、現実に近づきつつあるのかもしれない──。

 

 

 日々配信されてくるその手の記事を読みつつ、それでも直近でそのような「夢」が実現することは、ありそうもないと考えている。

 そもそも生物とは死ぬべきものであり、その摂理を変更するほどの倫理綱領を、われわれはまだもっていない。

 

 見果てぬ「夢」であるがゆえ、多くの「物語」にもなってきた。

 死は必ずやってくるからこそ、力を尽くして生きるべきだ──という言葉には、相応の説得力がある。

 

 個人的には、ゲームですらそう思っている。

 死んだら生き返らせればいいという世界観が、私はあまり好きではない。

 

 もちろん何度でもリプレイできるからこそゲームなのだが、死んだキャラクターの人生はそこで終わりのほうがいい。

 「そのまま生き返って」やり直すことと、「セーブポイントから」やり直すことは、似て非なるものだと思うのだ。

 

 

 死んだら、終わり。

 失われた生命は、ぜったいに蘇らない。

 

 これは生物の基本的なルールであって、断じてゆるがせにしてはならない。

 もっぱら「死」を取り扱う業界、宗教界の歴史的態度は参考にしていいだろう。

 

 宗教者が「奇跡」とやらを乱発すればするほど、そのデマには贖宥状ほどの価値もなくなっていった。

 宗教の衰退は、歴史的に認定される「奇跡」の減少に歩調を合わせている、とも言い換えられる。

 

 宗教者は冠婚葬祭の「儀式」を売るほか、人間の不安を取り除くことも「役務」である。

 文化的、社会的な背景を考えあわせる必要はあるが、なかでも「奇跡」と「死」を絡める手口は、効果的ではあるが「下品なマーケティング」だと思う。

 

 

 だからこそ、たとえ「物語」であっても、その禁断の果実に安易に手を出すべきではない。

 あくまでも「お話」という逃げ道は、みずからの価値を貶めるものだ。

 

 ほんとは死んでませんでした、生き返る方法がありました──。

 そんな話を見せられたとき、それが有名な物語であればあるほど、萎える。

 

 宿敵モリアーティ教授を道連れに、滝つぼに落ちた『シャーロック・ホームズ』を生き返らせた作家、コナン・ドイル。

 すばらしいキャラクターを創造してしまったら、それを殺してはならないというプレッシャーは、19世紀からあった。

 

 シャーロキアン(ホームズの熱狂的なファン)にとってシリーズの全作品は聖書だし、出版社にとってはドル箱だ。

 札束の輪転機のようなホームズを殺すなんてとんでもない、永久に使い尽くさなければならない、という利害関係者の要求にも責任はある。

 

 

 ──主役級が死んだら、モッタイナイ。

 だから生き返らせる。

 

 ゲスな理由とわかっていても、作家がその手の要請にしたがわざるをえない気持ちは、もちろん理解できる。

 だが安易な道に流れるまえに、やるべきことはあるはずだ。

 

 そもそも作劇上、生き返らせる「必要はない」と、私は思っている。

 主人公が死んだからといって、物語にならないわけではないからだ。

 

 『市民ケーン』や『嫌われ松子の一生』など、故人の過去を追う、というプロットは「死」という不可逆的な事実に立脚してこそ成立する。

 主役は死んでも、エンターテインメントにはなるのだ。

 

 二度ともどってこないからこそ、かけがえがなく忘れがたい。

 「死人を生き返らせる」というのは、この最後の垣根を超えることだ。

 

 これをやった瞬間、作品の質が変わる。

 わかりやすいのは、ギャグマンガだ。

 

 

 有名な『ドラゴンボール』の作者、鳥山明は「死」というものを極度に恐れていたという。

 その突然の死は世界を騒がせたが、彼自身にとっても青天の霹靂だったことだろう。

 

 故人の心象については、忖度するしかない。

 ゲスの勘繰りにすぎないことを申し添えたうえで、おそらく著者は死をおそれるあまり、そこから生き返る物語を描いたのではないかと愚考している。

 

 この展開だと、どうしても死なせるしかなかった。

 ──ま、いいか、生き返らせれば。

 

 そんな「作者にとっての理想」を否定するつもりは、もちろんない。

 事実、彼は天才だし、その作品は世界に大きな影響を及ぼした。

 

 

 ギャグマンガの範囲で死者が生き返ってくることについては、議論の余地なく認める。

 先週死んだ面白キャラが、今週も出てきたところで、なんの違和感もない。

 

 『スポンジボブ』はどんなに引き裂かれても生きているし、そもそも首がもげたり爆発四散した程度でいちいち死ぬカートゥーンはいない。

 そういう世界観なら、まったく問題はないのだ。

 

 しかし、そのキャラの死を悲しみ、怒り、以後の展開の契機とすればするほど、復活のハードルは極端に高くなる。

 硬派なマンガで、おまえあんとき死んだんじゃなかったのかよ、という主要なサブキャラが、つぎのシリーズで平然と再登場するような作劇手法には、強い違和感をおぼえる。

 

 顧みれば『少年ジャンプ』を卒業したころから、そんなふうに考えるようになっていた。

 死人(死んだと思われるキャラ)が適当な理屈をつけて、簡単に生き返ってくる少年漫画やゲームが、当時はけっこうあった。

 

 どうせ生き返ってくるようなものの死を、なぜ悲しまなければならないのか?

 それこそ死への冒瀆であり、死者を愚弄する物語ではないか。

 

 

 もちろん私の許容範囲と、世間のそれとは大きく異なるのだろう。

 自身が少数派であることは理解しつつも、なにより恐ろしいと思うのは、人の死がどんどん軽くなっているこの現実のほうだ。

 

 冒頭のとおり、科学がヒトを「永遠に生」かす時代は、いずれくるかもしれない。

 その禁断のテクノロジーにたどり着く可能性が、人類には……ある。

 

 そうして「夢」をかなえた人間が、無限の人生を謳歌するようになるとしたら。

 これほどおそろしい「呪いの物語」を、私は聞いたことがない……。