私は引きこもりなので、必要最低限の用事でしか外に出ない。
 出かける場合にも、できるだけ「ついで」に処理できる目的を重ねたうえで外出する。

 今回、いくつか用事が重なったので出かけることにしたのだが、ついでに献血でもしてくるかと雑念をもってしまった。
 これが過ちだった。

 以前、成分献血でいやなことがあったので、しばらくやめておこうと決めていたのだが、そろそろいいかなという「赦し」のターン。
 などと言い条、前回から期間的にまだ400ができなかったので成分献血を選んだだけ、というのが真相ではあるが。


 献血じたいは、予約や事前問診をしていたので、まあまあスムーズに進んだ。
 すると検査のところで、こんなことを言われた。

 お時間がかかってしまって申し訳ないのですが、今回、倍の献血をお願いできないでしょうか。
 お時間があればでよろしいのですが、70分くらい……。

 通常10単位のところ、20単位いただきたいらしい。
 まず気になったのは、「お時間があれば」を連呼されたことだ。

 倍も取られたくねーよ、という理由で断りたくても断れない。
 なぜなら彼らは、こちらに「時間があれば」協力してほしいからだ。

 時間はあるので了承してしまってから、時間はあっても断りたいときはどうするんだろう、と考えた。
 とはいえ、これも「ついで」だしいいかと、この時点ではそれほど不快感はない。


 速やかに奥の席へと誘導される。
 たいへん数字がよいので……血管もとてもいいですね、これはスカウトされますよ。

 そういうお世辞だかなんだかわからん言葉を聞かされているうちに、なんとなく萎えてくる。
 私はコミュ障なので、この手の「会話」が苦手だ。

 おざなりな「社交辞令」や「感情」に、あまり意味を見いだせない。
 一方で「事実」や「情報価値」の高い会話は、とても好きだ。

 よって、こちらの機械は新しい機械です、以前に使われていたタイプと異なるんですよ、という話には興味をもった。
 これまではカフがついていて、一気にとって一気にもどすタイプを使われていたと思うんですが、この新しい装置はそれを同時にやってくれるので速いんですよ──。

 その年かさの看護師による前段の軽口はどうでもよかったが、後段の新規的な情報には価値を見いだした。
 それはよかった、ありがとうございますと応じた。

 倍も血液を採るんだから、最新型の機械を割り当ててくれたのだろうな。
 と、そのときは、そう思っていた。


 まずはテレビを消し、ふて寝を決め込む。
 寝るといっても献血中にマジ寝はできないので、目を閉じて「思考」する。

 現在執筆中の小説のアイデアなどを練ってみる。
 まとまった思考はできず、そのうちバカげた茶番劇になってくる。

 ずっと俺のターン! 赦さないターン!
 もうやめて! とっくに彼の血小板はゼロよ!

 ……どうやら脳に悪影響が出ている。
 唇が微妙にしびれるような違和感もあったが、まあ通常とは比率の異なる血液が流れているわけなので、各細胞が異常を知らせてきてもおかしくはない。

 もちろん看護師に訴えるほどではないが、なんとなく目を開ける。
 開始から1時間ほどたっていた。


 いつもなら終わっている頃合いだが、採血装置のゲージはまだ残り半分くらいあるようにみえる。
 近くにいた若い看護師に残り時間を問うと、あと40分くらいですね、時間かかってしまってすいません、と言われた。

 なにが70分だよ、100分コースじゃねーかこの野郎、と不快レベルが増す。
 まあ個人差というものもあるし許容範囲ではあるが、最新機器というメリットはあまり感じられない。

 この機械は新しくて速いんですよね、と若い看護師に訊いたところ、彼女は一瞬ぽかんとしてから言った。
 こちらは採血と還流を小刻みにするタイプで、一気にとって一気にもどすタイプと方式が異なるだけです、機械の製造日まではわかりませんが性能は同じですよ……。

 たしかに見まわしてみると、最新型? という話には疑問符だ。
 ババア、テキトーなこと抜かしやがったな。


 正直あとで考えてみても、どちらの言葉が正しかったのか判断はつかない。
 採血装置について検索してみたが、ざっくりしすぎて装置の種類までわからない説明か、専門的すぎてそこまで知りたいわけじゃないんだよ、という情報しか見つからなかった。

 とりあえず若い看護師の言葉が正しいと仮定して、年かさの看護師の言葉を好意的に解釈すれば、「心理的に楽にしてあげるためにつくウソ」だ。
 それ以前に積み重ねられていた言動からも、彼女ならそういうことを言ってもふしぎではない、ような気はする。

 世の中には「やさしいウソ」というものがある、らしい。
 困難な状況や、どうしようもないとき、ある種の気休めや慰謝が必要とされることもある、という理屈は理解する。

 治療の見込みのないガンの場合は告知をしないなど、そういう文化圏は海外にもある。
 しかし正直、そういうウソはどうかと思う。


 正しい情報を伝えずして、なにが医療か?
 正確な情報を伝えないのは、「履き違えた憐憫」か「傲慢な怠け者」ではないか。

 こう言っておいてあげれば気が楽になるはず、いいことをしたわ、という一方的な思い込み。
 あるいは、正確なことを伝えてもどうせこの相手には理解できないだろう、めんどうなだけだ、という怠け心に発する説明不足。

 献血ルームという特定環境にいた短い時間のなかからも、そういうフラクタルな世界のありようを想像できた。
 そもそも私の考え方のほうが少数派で、世界はより多様で一方的な思想のバランスのうえに成り立っているのだろう、という推認も含めて。

 そこまで考えることのできる能力は、すぐにもどってきた。
 献血ごときでクリアな思考を失っていたのでは、割に合わない。


 今回の外出の感想は、まあそんなところだ。
 やはり私は性格的に、最短時間で400献血しておくのが性に合っている。

 今回は成分を倍とられたが、400の倍、800採られたらどうなるのかについては、すこし知的好奇心がそそられたりもする。
 私の体重だと、致死量がたぶん1500くらいなので、死にはしないはずだ。

 だが出血性ショックに近い症状は出るかもしれない(20%=0.96リットル)し、ずっとベッドで寝ていられればいいが、下手に行動すると貧血くらいは起こすだろう。
 採血中、死んじゃうツモォ~、という妄想に駆られるかもしれない。

 もちろんそんな危険な献血を依頼されることはない。
 採血は適量ならば健康にいいという意見もあるが、それが中世ヨーロッパで「瀉血」という迷妄につながった史実を軽視してはならない。


 結論──ひとたび外出すると、世の中からは示唆的な啓示を多く受け取ることができる。
 これからも、たまには外出しよう。

 そう、たまにでいい。
 私は引きこもりなのだから……。