うちの親がボケつつある、という悲しい話をしようかと思ったが、まだその時期ではないと判断した。
 近いうちに書くとは思うが、とりあえずきょうは、私がボケている話をしよう。

 といっても、ネット大喜利の話だ。
 その手のサービスの草創期から、お題にボケる、という娯楽をたしなんでいる。

 しばらくやっていなかったが、最近思い出したように、「ボケて」のまとめサイトなどを見るようになった。
 すごい発想をするな、と感心するばかりだ。

 現在は見る専門で書き込むことはないが、昔よく参加していたころの成績は、中の上といったところ。
 高打率で上質のボケを飛ばしている常連たちに、学ぶべきところが多いと考えていた。


 そこで、ふと思った。
 このジャンルでAIはどの程度すごいのか、と。

 かのchatGPTが世間を騒がせてから、およそ1年。
 うまく導入することで、AIによるボケの生成もうまくいくのではないか。

 その手のサイトを見たところ、なるほど……うまい。
 お題「君の名は」ボケ「また君か」などは、メタ視点ではあるが、よくできている。

 多様な発想を瞬時に、ランダムに混ぜる、しかも厳密性は問われない。
 人間特有だったスペックも、もはや再現可能だ。

 じっさいAIは、すでにアイデア出しや企画まとめにも使われている。
 もう芸人はいらないんじゃないか、とまで言うひともいるくらい「使える」。

 ただ「メタ」的である以上、その抽出された笑いを受け入れる「人間側の能力」も、かなり問われるとも思う。
 現状はAIがすごいというより、人間がAIのすごさを見つけている段階、と言っていいかもしれない。

 テキトーなウソをつく、という悪評も高い大規模言語モデルだが、そのテキトーさが大喜利には向いている。
 ラインなどでサービスされているので、気になった方は見てみるのもいいだろう。


 つとめて人間的である「笑い」すら、もはや自家薬籠中のAIについてはともかく。
 私自身は上述のとおり、理屈っぽいボケで中の上ていど、というアスペ傾向の強い凡人だ。

 昔のお笑い番組をたまに見返すと、あまり笑えなくなっていることに気づく。
 分析的な視点で「へえ」と思いながら見てしまうせいもあるだろう。

 考えてみれば、うちの母親は昔から、お笑い番組については「ぜんぜんおもしろくない」と言い放っていた。
 あんた自身が天然でボケてるせいだろ、と思っていたが、この遺伝子の呪いが私にもかかっているのかもしれない。


 かつての「笑い」は、芸人を笑いものにする、変なことをする芸人を観客が笑う、という構図が一般的だった。
 現在の「笑い」は、その芸人のおもしろさを理解できるかどうか、という点で差別化が図られているように思う。

 かつては絶対多数の「バカに合わせてそれ以下のバカを演じ」ればよかった。
 異論はあろうが、昭和のお笑いの多くには、その傾向が強かったように思う。

 戦時中の国民一体化、総中流化という均一性のバイアスに対して、業界全体が「バカに合わせる」という比較優位の選択肢をとった結果だろう。
 が、現在はその笑いを「理解できる層」を個別にターゲッティングしていく、という手法へと移行しつつある。

 もちろん昔から「わかる人間だけわかればいい」芸術領域は存在し、伝統芸能の多くもそちらのカテゴリであった。
 ある意味、国民全員が芸術家、という時代になったのかもしれない。