時は江戸時代。御三家のひとつ、紀州55万5000石として栄えた和歌山の地。政治の中心・和歌山城から50kmほど離れた日高のまちには、紀州藩主がたびたび訪れていました。
日々の仕事の忙しさから離れ、雄大な自然を感じられる場所。今でいうリゾート地として、歴代藩主から愛されていたのです。
今回は、日高のまちと紀州徳川家との関わりをご紹介します。
◆紀州藩主が建てた別荘
1619年、徳川家康の10男・頼宣(よりのぶ)が紀州藩主になります。父である家康は晩年まで頼宣を近くにおき、幼いころから特別扱いしていました。家康から直接武術の手ほどきも受けており、戦国武将の名残をもつ、覇気に富む人柄だったと伝わっています。紀州藩主としての治世は47年間にもおよび、幕末まで続く紀州徳川家の祖となるのです。
頼宣は、景勝地として知られていた網代(現在の由良町)に御殿を建て、たびたびこの地を訪れました。その屋敷は「網代御殿」と称され、現在その跡地には「御殿井戸」と呼ばれる大きな井戸が残っています。
◆紀州藩のリゾートコテージ
日高川町にある名刹・道成寺。1702年、紀州藩の寄進により境内に書院がつくられました。熊野への参詣などに向かう賓客をもてなすための施設で、完成の翌年には第3代藩主・徳川綱教(つなのり)も訪れたそうです。建物内のふすまには、日高周辺で活躍した絵師の絵が描かれています。
その後2回にわたって増築され、現在の形となりました。「300年前のリゾートコテージ」とも呼ばれ、県指定文化財となっています。普段は非公開ですが、イベント等で見学することができるそうです。
◆紀州藩主が保護した松林
美浜町にある広大な松林。長さ約4.5km、幅は最大500mにも及びます。江戸時代は「御留山(おとめやま)」と呼ばれ、日高平野の農作物を潮害や風害から守るため、紀州藩によって松の伐採が禁じられていたそうです。
しかし第6代藩主・徳川宗直(むねなお)の頃、和歌山城が火事で焼失するという事件があり、紀州藩は農民に木材を提供するよう命じました。それまで長い間守られてきた美浜町の松林も伐採が命じられたのです。周辺の庄屋たちは、紀州藩に対し伐採を撤回するよう請願。農作物の被害を未然に防いだと伝わっています。
その後も地元の人々の手で大切に守られてきた松林は、美浜町のシンボルになっています。
◆紀州藩主のアシカ狩り
由良町の沖合に浮かぶ海驢(あしか)島。その名のとおり江戸時代はこの島にアシカがやってきていたそうです。紀州藩主はアシカ狩りをするため、たびたび海驢島を訪れたと伝わっています。江戸時代中期の絵師・岩井泉流は、第6代藩主・徳川宗直による海驢島での狩りの様子を書き残しています(和歌山市立博物館蔵)。
これらのアシカはニホンアシカという種類と考えられており、昔は日本近海によく出現していたそうですが、乱獲などにより姿を見せなくなり、1970年代に絶滅してしまったとも言われています。
現在、海驢島には船で渡ることができ、休日は大勢の釣り客でにぎわっています。
◆日高と紀州徳川家
御三家のひとつとして発展し、2人の将軍を輩出した紀州徳川家と、彼らが好んで訪れた日高のまち。その足跡は今でも各地に残されています。
そんな歴史のロマンを感じるため、皆さんもぜひ日高にお越しください。