女司祭ー危機三部作・第三部/クレタクール
クレタクールの「危機三部作」は第一部が映画、第二部がオペラ、そして今回の第三部が演劇と表現スタイルがシリーズなのに変化するという面白いスタイル。この舞台もまた「たった一人の中庭」同様、今世界を分断させている何かを別のカタチで突きつけてくる。今も偏見や差別、境界線が世界中いたるところに引かれまくられ、状況は悪化している。インターネットで世界はつながりフラットになったつもりになっていた。そう実は何もわかっていないし、つもりになった人が増えただけだった。そしてメディアには流れないものが逆に増えているように感じてきている。コミュニティ回帰を都会では謳うが、田舎では閉鎖的な腐ったコミュニティが今もなお残っているのも事実だ。本当の意味で混じりあわなければならないんだと思う。隣人とも、国を越えても。観客も制作者も。大も小も。演出の部分では、観客を巻き込むレベルの舞台はよくあるが、この舞台では観客もある意味、出演者の一部で、自主的にではあるが、多少セリフを考えて言わなければならないところまできた。なぜなら子供たちに問われてくるからだ。しかも真剣な眼差しで迫ってくる。この世界的な危機の前では人類すべてが当事者なんだよと迫ってくる。グローバル資本主義が草も生えないほど荒らしまくった場所で、新しい今を捉える舞台やアートが出来上がってくる。しかし、荒らされた後のひどい経済状態の皺寄せでなのか、劇団は国からの助成金などが出ないたいへんな状況で作品を制作している。
たった一人の中庭
インスタレーションであり、映像作品であり、ファッションであり、演劇であり、そして見ている自分が、事件の中に入り込んでいるような感覚。しかも私たちの存在は無視される。もしくは大変な事件を目の前にしても何も行動を起こせない傍観者に仕立て上げられる。移民収容キャンプを再現した問題提起は、ヨーロッパだけでなく今、日本で起こっている近隣諸国との緊張関係や震災での避難を強いられる人々を想起させられるのに、それでも透明な野次馬はすぐそこにある危機への危機感の希薄さを、他の観客の姿で思い知らされる。眼や耳をふさぎ、世界的な危機を遠ざけて、うかれて踊り続ける異形の姿が滑稽なのは、まるで自分を見ているような気分になるからなのだろうか。
おいしいコーヒーの真実
毎日、何らかのカタチで飲むコーヒーの真実を先進国の人々はあまり知らなかったのではないでしょうか。この映画を観ると、コーヒーが飲める生活なだけでぜいたくな悩みなのですから…。できるだけ見せないようにきれいなパッケージでくるんで出していた情報もだんだんと露呈してきました。コーヒーだけでなくいろいろなことが、知らなければいいという時代ではなくなってきています。
トゥルーマン・ショー
久しぶりに観たくなって借りてきた「トゥルーマン・ショー」。リアリティを追求すると、すべてがフェイクだけど安全な世界になってしまうなんて、資本主義社会にどっぷり浸かった私たちを皮肉たっぷりに描いた作品でした。上映当時から時間もたってますので、すっかり内容を忘れていましたが、原発事故で放射能漏れを偽装したり、気候コントロールするシーンがあってちょっとドキッとしました。何だか別のメッセージが隠されているようです。まったく安全でもないのに、与えられたぬるま湯のように居心地のいいフェイク世界。まるでこの映画そのものに地球がなってる気がします。それから「トゥルーマン・ショー」でいつも想起するのが、手塚治虫さんの短編「すべていつわりの家」(メタモルフォーゼに収録)です。「すべていつわりの家」はこんなストーリー。久は近頃、地球最後の日の夢ばかりを見ていた。 しかも両親には町に出ては行けないと言われていた。 町の様子を双眼鏡で見た久は顔がヤギになってしまった人を見てしまう。そんな久の元に従姉妹のドラ子が遊びに来て、そっと久を連れ出して街に行く。 すると怪しげな連中に囲まれたところを久は父親に助け出されるが、父は人間でないことを知る。 実は世界中で核戦争がおこり、生き残った人間は久ただ一人だった。 しかし神は人類を見捨て、彼を助けたのは悪魔だった…。これまた何かメッセージめいた皮肉ですね。
紙の本
巷では、iPad miniやkindleで加速するであろう電子書籍の話題がニュースなどで見かけますが、下北沢では、どちらかというと紙の本に回帰してる動きが目立ちます。フィクショネスさんや古書ビビビさんや古本ほん吉さん(他にも!)が下地を作ったところに、また最近B&Bをはじめとして紙の本の本屋さんが続々できているのです。一時期、下北沢から普通の本屋さんがどんどん無くなっていた時期がありました。博文堂くらいしかなかった時もあったんじゃないでしょうか。ヴィレッジバンガードだって本屋ですし、ドラマの古本マンガは充実してます。大手三省堂も安心感として存在してますし、何だかうれしいことです。紙の本の所有に喜びを感じる若者も多くなっているみたいだし、すべてがデータ化されて便利になると文化は、天の邪鬼的に動いたりするものですね。
アンドロイド版「三人姉妹」

かつては家電メーカーの生産拠点があり、
大規模なロボット工場があった日本の地方都市。
円高による空洞化で町は衰退し、
現在は小さな研究所だけが残っている。
先端的ロボット研究者であった父親の死後、
この町に残って生活を続けている三人の娘たち。
チェーホフの名作『三人姉妹』を翻案、
日本社会の未来を冷酷に描き出す、アンドロイド演劇最新作。
こんな設定で始まるこの舞台、アンドロイド版「三人姉妹」を観てきました。アンドロイドが出演する舞台は初体験です。ここではロボットもアンドロイドも役者もすべて等しく監督に動かされていて、脚本、演出はプログラムのようなものとして機能してます。アニメなどは監督の演出通りに絵を動かしているわけだから、舞台の上でも命をふきこまれたのは、機械だけではないことになっちゃいます。だから作られた心なのか、本当の心なのかは区別がつかないということにもなります。ちょっと待てよ、そもそも私たちの心とやらが不確かに感じてきますよね。そんなことを考えながら観ているとぞくっとしてきます。人間の肉体を伴わなくても生々しさがあるだろうということは、未来のシミュレーションである舞台を観てちょっとわかってきたような…。人間が働かなくてもいい世界なら、その時の生きる意味や死の定義でさえも儚く消えてしまいそうです。まあ、この物語のような未来になるのかもまだまだわかりません。ラッダイト運動が起こって、もっと中世のような世界に逆戻りするかもしれませんしね。個人的にはロボットやアンドロイドがいる世界に興味ありますが、その時人類みんながロボットを買えるだけの経済力が、実際未来の世界にある気がしないのがこの物語のリアリティを揺らがせる気もしました。
ふぞろいの野菜たち
下北沢にある「OrganDo+W 種+食+農の研究所」にお昼ごはんを食べに行ってきました。そこは限定のランチとお茶が飲めるんですが、メインは何といっても野菜です。というか八百屋さんが限定でお店を出しているという感じでしょうか。固定種という日本古来の野菜を食べられたり、買えたりします。ここで店主の方に野菜にまつわるいろんなお話が伺えて味わってたいへん興奮しました。以下彼の言葉を引用させていただきます。
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公害反対運動やエコロジー運動の背景や様々な時代の流れにより、有機野菜とよばれる農産物が、年々、数多くスーパーマーケットの店頭に並ぶようになりました。しかし、それらの野菜は、栽培の効率性、生産性、低価格などの欲求を満たすがため、同じ形、同じ色、同じ重さの野菜が店頭に並んでいます。それらはF1種からできた野菜です。
本来の野菜は、人と同じように、ひとつひとつの野菜に個性があります。育った環境や風土によってそれぞれの味、形、色を形成し、すべて均一には育たないのが、本来の野菜の姿です。ですから、生産者の方々には、規格が揃う「F1種」の農産物ではなく、昔から受け継がれてきた自家採種、固定種での農産物を育ててほしいと願っています。生産者たちがその農法に取り組むためには、消費者の私たちが「食」と「種」への意識を深め、その有機農業生産者の生活を支えなければなりません。その結果、次の時代を担う子供達に「種」を繋ぐことができるのです。昔から受け継がれてきた「本物の種」から作ったお野菜を一度食べてみてください。命ある種から作った野菜は、なぜだかいつしか食べた事のあるような懐かしい美味しさを持ち、きっとみなさんの心も体も喜ぶはずです。
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こういう話を聞いて、何だか耳が痛くなりました。人間が楽するためにメンテナンス優先で、すべての物事を最大公約数的なものにし過ぎたツケが返ってきたようなものだと思いました。食べると昔食べた野菜の力強さが口の中に広がります。えぐみや甘み、青臭い香、こういう匂いや食感や風味を全部なくして、角の丸いあたりのいいものだけではダメでしょう。人間で考えたってそんな人間ばかりじゃつまらないじゃないですか。カタチがふぞろいでも、美味しいものを食べるという自然なことを、私たちはわすれてたんじゃないでしょうか。











