より良い世界にするために必要なのは『寄付によるお金の再分配』の定着化だという結論にいたった。

 

お金のパワーは結局ものすごく強い、という、まあいたって普通に考える結論に最終的にいきついたわけだが、

 

それは中国人の資本の動きなどを長年見聞きして、最終的によくわかったことがある。

 

 

お金のパワーの恐ろしさの一番の問題とは、

 

「世の中には、かならず『今は何よりも生きること』」という局面にいる人が必ずいる、というせいだ。

 

 

たとえば想像して欲しい。

 

たとえばパートナー、たとえば自分の子供が、重篤な病気にかかっていて、そのときに治療には数百万、数千万円かかるとする。

 

実際にこういう人は、いつでも必ず存在しているわけである。

 

そういうときに、誰かがお金をちらつかせて、

 

「○○すれば、このお金をあげる」と言われたら、

 

何よりもまず「お金」であろう。

 

 

たとえば、現実として、世界中にある中小零細企業だ。

 

「ここで資金繰りができなければ倒産。社員や家族が露頭に迷う」

「30年やってきて事業が十分な実を結ばない。あとこれだけの資金さえあればきっと・・・」

 

というときに、それを補うマネーを誰かが提供してくれる、、、ということになれば、恥も外聞も捨て、そのお金にすがりつくだろう。

 

溺れるものはワラをも掴むのだ。

 

それを、実際にやって、世界中の「悩める人」をどんどんマネーで操り、

知識、技術、資産、人・・・を特に手に入れてきたのがチャイナだ。

 

もちろん、誰にもそれを咎めることができない、という現実が存在するからだ。

倒産しそうな会社を他に誰が助けるというのか?

 

そういったお金のパワーと使いみちをよく心得ていたのが、そもそもモラルなき(誹謗中傷ではなく現実的な判断として)中国人であった。

 

もちろん、あくまで中国人が顕著なだけであって、

重要なのは、

『余剰にお金を持っている人にのみ、それが可能』

ということだ。

 

そうしてお金を持っている人は、どんどん「資産」、

つまり『価値を生み出すモノ』を手に入れていく。

 

彼がわかっているのはその「仕組み」であり、

「資産を持つことが大事」という考えである。

 

「たくさんのお金を持つ」

ということは、結局「人」を動かすこともできる。

 

そうなったとき、

「誰が彼らを止めることができるか?」

というのが問題だ。

 

モノや情報では、彼らは止められない。

なぜなら、それを彼らは「買う」ことができるからだ。

 

モノや情報には「根拠」がある。

根拠があるものは買うことができる。

 

だから、、、あまりにバカバカしい話だが、

(※ バカバカしいと思うのは、理屈として根拠が必要だから。それが「知的である」と教えられてきた。)

結局「資本(パワー)の集中」を止めることができるのは、

『根拠のない直感的な考え』

または、

『感情的に生まれた考え』

でしかない、ということが分かる。

 

「お金をもっているやつは再分配しろ!」

という、

まあようするに「ノブレス・オブリージュ」と言われるような、

そういう「理屈ではなく、有無をいわさず、人としてそうでなければならない感覚」のみが、

世界を極端な不均衡から救うのだ。

(※ さすがに昔の人は結局よくわかっているなあ、と思う。)

 

そこに必要なのは「寄付する人が人としてマトモな人」という考えのみだ。

税金は「制度」だから、買われるので、結局は再分配に至らない。

根拠なく、むしろ「搾取」ともなりうるくらいの

『富めるものに求める感覚』を、富めないものがみんな持って、「依存」することが世界を循環させる。

 

ちょっとだけ話は逸れるが、

はっきりいって僕は、

「自立すべき」というのは、支配者が支配のために作り出したコンセプトだと思っている。

 

自然を観察するときに、どこに「自立」の優位性があるというのか?

 

「自立と依存はセット」、コインの表裏であって、

自然の上では必ず両方存在するのである。

自立は「どうしようも依存しようがないときに、しかたなくしないといけないもの」であって、そもそも別に選んで目指すものではない。

頼るものがないときに生存を求めて「利用」するようになり、それがうまくいって習慣化すると「依存」になるのだから。

そのバランスが極端に偏るということは、そこにはかならず「人為」が入っているのだ。

 

世界中の人はもっと、依存もすべきだ。

富めるものに依存すべきである。

そして、「依存させない人」は非難すべきでもある。

 

もちろん、依存していることが精神衛生的には良いかというと、必ずしもそうではないとは思う。(※ 怠ける=能力を使えなくなる、から)

 

でもね、だからといって「自立、自立、自立が絶対に良!!!」とがなりたてるのは、

やっぱり僕がちょっとおかしいと思うのですよ。

 

世界の自立と依存のシーソーのバランスは、あきらかに人為的に崩れている。

「富めるものは再分配しろ!!!」と、今世界中のどこかで声が上がっている?

どうしてそれが起こらないのか?の不思議を考えてみて欲しい。

「お金を持っている人がいたら、ちょっとでいいから分けてほしいなあ」

なんて子供でも考える。

どうしてそれが起こらない・・・のだと思う?

不自然ですよね〜。

 

 

さて、話は戻って、

生活が十分にできるようになったものには、

とにかく「寄付」を求めること。

「十分に生活できるのに、その余剰分を寄付しないものは人間ではない。」

くらいで良いと思うのですよ。

 

 

投資家や資本家の人たちからの話を聞くと、

彼らは利回り5〜10%で投資をしているのは当たり前。

 

世界の富の82%を1%の富裕層が持つ。

「たったの62人」大富豪が全世界の半分の富を持つ。

その彼らがその富を利回り5−10%で回しているこの現実。

(※ 82%を1%、、、といった比率が年々極端になっているのは、この理由による。あと数十年もしたら、0.1%の人が99%の・・・といった話になっていくのは容易に想像できます。)

 

彼らは、その資本で、また資産を購入していく。

技術も、知識も、モノも、不動産も、情報も、、、暴力すらも、全部彼らのものになっていくだろう。

 

これは疑いようがない。

なぜか?

だってかれらの活動は合法であり、また違法であってもパワーでうやむやにし、批判する人を別の根拠をさりげなくおしつけて骨抜きにし、生活の基盤さえも「正しい経済活動」によって取り除いていけるからだ。

背に腹は替えられず、取るものものもとりあえずお金を必要な人たちに歩み寄り、そこからその核心を持っている人のところの土台を揺るがし、忍び寄って最後には収奪していく。

 

それにどうやって立ち向かう?

 

それは、

『おかしいからおかしい!富めるものは持たないものに資本をよこせ!』

という『感情論』でなければならない。

 

理屈なんていらない。

理屈でごまかされたりしてはいけない。

もっと直情的でなければならない。

自然に考える気持ちに従わなくてはならない。

 

 

・・・と僕は、富めるものの支配するまな板、いくらでも重い通りになり、かんたんに埋もれさせることができるソーシャルメディアのプラットホームの上で、誰も読まないような小さな小さな声をあげてみるのである。

 

僕は、誤解を招きやすいわかりやすい表現が苦手だから、

そういうことが上手な誰かが、この話に感銘を受けて世界中に広めてくれないかなあ、と心からそういった人たちの力に強く期待/依存するのである。

 

この話は「貧乏人のやっかみ」「努力していない人のひがみ」と、持てるものは評価するだろう。

これもまた当たり前で、僕が大金持ちだったら、絶対にこの話はそのままは受け入れたくないに決まっているのだから。

「だって私は勉強し、努力したんだよ」というでしょう。

 

でも、「持たざる人」がこういう考えを持たなければいけないのは仕方がない話。

それは、

この現実には「資産」=「もっているだけで富が発生する」というどうにもできない仕組みが存在しているから。

 

資産は資産をいずれ集中させ、富を吸い上げて「しまう」のです。

それを破壊するのは、結局、その磁力にひっぱられない「根拠のない考え」でしかないのです。

 

それはイヤでも・・・仕方がないことなのです。

 

まず、神霊の世界は「モノ」ではない世界である。

 

とくに神や意識の世界が影響するものは「運」、つまりは「確率」だ。

 

そして、運や確率が「何の?」かというと、「現象化」する確率である。

 

 

 

 

この世界の理は、まあこんな感じだ。

 

「+1,+2,+3、−1,ー2,ー3」の面があるサイコロを思い浮かべて欲しい。

 

まあ、簡易的に「+」はなんか創造的な良いことで「ー」は破壊的なことでだいたいの人はネガティブに感じることだとおもってください。

 

 

 

で、

 

まずサイコロが目をだすためには、

 

必ず必要なことがあります。

 

それは「サイコロを振って、目を出すこと」です。

 

 

 

これが私たち「人がすべき」ことになります。

 

「モノの世界」は私たちしか動かすことができないのです。

 

だから、突然にモノが飛び出してきたり、別のモノに変わってしまったりしないのです。

 

 

 

たとえば、

 

「+3」のサイコロの目が出る確率がすごく上がっているとします。

1/2になっているとしましょう。

 

でもそのときに、サイコロを誰かが振らないと、そもそも+3の目は出ません。

 

 

 

あと、一度サイコロを振って、別の目が出てしまったとします。

 

そのときにもう一度振りさえすれば「+3」の目が出るのに、

 

やめてしまえば出ませんね。

 

 

 

1/2という確率はあまりに高いものですが、

 

「+」の出現する確率がせっかく高くなっているのに、

 

サイコロを振らなければ、良い目に出会うことがなくなってしまうかもしれません。

 

 

 

だから私達は、

 

「たくさんの人と出会い、やれることをとにかくたくさんやってみる」

 

という必要があります。

 

「マッシブ・アクション」が必要です。

 

 

 

でも、運が悪い時にマッシブ・アクションをすれば、

 

悪い目ばかりが出てしまいます。

 

そりゃ、いつかは良い目もでるかもしれませんが、

 

その前に精魂尽き果ててしまうかもしれません。

 

あまり効率が良いとは思えませんね。

 

 

 

 

で、話は「確率」に戻って、

 

この世界の確率はおそらく+とー、それぞれ1/2で、結局「±0」です。

 

ただ、ここで私達によって重要なのは、

 

私たち人間の寿命は「有限」である、ということです。

 

 

 

たとえば、私の人生が100年あるとして、

 

「100年での+ーの確率」を取ろうとすると、1/2で合計+ーで「±0」になってしまいます。

 

でも、

 

「100年」で確率を取る必要があるのか?という問題です。

 

 

 

たとえば、サイコロは1度だけ振ってそれで終わってしまえば、それぞれの目が1/6ずつ出ることはありません。

 

「+3」が出れば、その「ゲーム」は+3なのです。

 

 

 

サイコロは数をたくさん振れば降るほどそれぞれの目の出現率は1/6に近づき、

 

上記のサイコロなら+とーは1/2に近づいていきます。

 

 

 

でも、目の出現率には必ず「波」があり、

 

「+」が続いて出るときもあれば、「ー」が続くときもあります。

 

サイコロを2000回振って、はじめに+だけ1000回出ても、その後にーが1000回出るのでOK、「1/2」だよね・・・というのが、

 

現実的に、この世界を支配している法則なのです。

 

 

 

しかし、

 

2000回振る予定で、はじめの1000回で+ばかりが出て、

 

それでサイコロを振るのをやめてしまえば、

 

そのゲームは「+」ばかりになります。

 

 

 

この2000回を振る予定があり、

 

そこで「はじめの方に+を持ってくる」というのが、

 

神や潜在意識などの働きで可能なことなのです。

 

 

 

2000回予定しておいて、

 

1000回でうまく人生の有限期間が終わってしまえば、

 

その人の人生は+ばかり、ということになりますね。

 

 

 

実際、ギャンブルでは「ツキ」があって、「勝っているうちに止めてしまう」のが勝利の方程式と言います。

 

だからこそ、本来は意図的に「(勝利の)確率に偏り」が(親に)あるはずのテーブルで、

 

勝ち続けるギャンブラーというのが存在するわけです。

 

 

 

あと、「物理的」で「線形的」で「実体のある」の私たちの人生には

 

「順序」というものが存在します。

 

人生のはじめの方で「成果」を出した人と、

 

人生の終わりの方で「成果」を出した人では、

 

できることが変わってきてしまいます。

 

 

 

物事の発生する確率が同じでも、

 

良い運のときに「できること」が大きい人の方が、

 

「大きい現象」を発生させられます。

 

なので、「+」が人生のはじめの方にまず集中的に起こった人は、物質的な意味では得なのです。

 

 

 

他の問題は、

 

上記の例でいう

 

「2000回振る予定」をどうやって決めるか・・・?

 

ということですが、

 

まあこれはまだはっきりしませんが、おそらく「意識」でなんとかなりそうです。(このあたりはとくに水口清一先生の仮説による)

 

ようするに、

 

「ここからここでひとまとまりね」と誰かが「決める」ことによって、

 

そこで+ーの確率が「±0」になるよう(普通のサイコロなら一つずつの目が1/6になるよう)辻褄が合うように「設定」される、ということです。

 

 

 

2000回を、「私一人」で振らなくても、

 

5人で振ることにしてもいいかもしれません。

 

私だけは1000回振って、私のところでは「+」がたくさん出ますが、

 

他の4人・・・ある人のところでは「ー」がとくにたくさん出て、

 

5人合わせて「±0」です。

 

でも、世界は実際にはたぶんこんな感じです。

 

 

 

総論として、

 

私たちは、

 

ただやみくもに行動するばかりでもダメで、

 

ラッキーなことを願ってばかりでもダメ、

 

ということになります。

 

 

 

「良いことが起こる確率=運を上げることをする」

 

と同時に、

 

「たくさんの人と出会い、できることを可能な限りいっぱいする」ことで、

 

『良いことがいっぱい起こる』という結果(=現象)を生きられるようになる、

 

ということですね。

 

 

 

テキストで記述するのは限界があるので、

 

なんとなくダラっと書いてみました★

 

 

 

PS.

ちなみに

 

「運命」

「宿命」

 

というものがあるようです。

 

 

 

上の話は

 

「運命」の話なので、

 

こっちは変更できるようです。

 

「運命」=「あなたはこれこれに関してこういう確率を持っている」

 

ということです。

 

 

 

「宿命」というのは、

 

基本的に変えられないと古代から思われていたようです。

 

「宿」なので、

 

「宿」をどうにか変えてしまえば変えられるんちゃうか?

 

というところですが、

 

誕生日・・・とかになってくるのかな?

 

そうなると、生まれるときから変えないといけないので、たしかにあとからは無理そうです。

 

・・・・で「帝王切開」・・・ということになってきたんでしょうねえ。。。

 

 

 

 

徒然と書く。

 

独り者またはパートナー持ちだけの人(Aとする)と、

 

子供を持った人(Bとする)とは、

 

必要とする心理学が違う。

 

 

 

独り者またはパートナー持ちは、

 

「自己実現または自己解放」の心理学で良いが、

 

子供がいる場合には、それは十分には可能ではない。

 

 

 

パートナー持ちは、

 

本当の責任関係にはないので、

 

実質独身者とあまり変わらない。

 

あくまで「大人と大人」の関係である。

 

 

 

AとB、なにが違うか、というと、

 

子供は100%、親(または保護者)に依存しているからだ。

 

 

 

親は必ず、

 

自分の人生の幾分かを、

 

こどものために使わないといけない。

 

 

 

自分の時間、お金、エネルギーといった資源は、

 

確実にこどもに使われる。

 

自分で使えていた資源は、

 

一人では使えなくなる。

 

 

 

こどもの一生に親の行動、親が与えたものは深く関与するから、

 

自分で考えて行動できる大人を相手にするときのように、

 

「私がどうしようとあなたの人生を決めるのはアナタ」

 

というわけにはいかない。

 

 

 

たとえば一人なら、

 

自分が好きなことに全財産をつぎ込んで、

 

あとは車で生活して、パンの耳で暮らしていく・・・ということも可能だが、

 

子供がいたらそうはいかない。

 

 

 

まあ、実際にそれを極端にやってる人はいて、

 

ようするに・・・いわゆる「虐待」をしている人なのだが。

 

ただ「やりたいことをやっていて」はいけない、のが子育てなのだ。

 

しかも、自分が「望まないタイミング」であっても躊躇なく。

 

 

 

このAとBの違いは、

 

本質的に大変に大きなものだ。

 

それゆえに、

 

まあ、「自己実現」や「個人主義」が猛威を振るう先進国では、

 

「少子化」が進んでいるわけだ。

 

 

 

「自己実現」は子供を減らす。

 

これは間違いがないといっていい。

 

 

 

ときに、自己実現の「優先度」的に、

 

「こどもがいる家族を持つ」

 

という意識が高い人の場合は問題ないが、

 

それ以外の場合は、基本的に子供は自己実現の「重荷」にしかならない。

 

 

 

「じゃあ、子供なんていらないじゃん」

 

と思うのがある種ロジカルではあるけれど、

 

いつも「未来」を運んでくるのは子供であり、

 

希望を運んでくるのは子供だ。

 

 

 

批判を覚悟でいうが、

 

子供を産まない人たちに未来はない。

(※1: なお、あくまで「集合的」に捉えることが大事で、個人個人に対して考えるべき問題ではありません。)

 

 

 

これは「不都合」かもしれないが、単純で揺らがない「自然の摂理」、現実だ。

 

ウ◯コをしなかったらお腹が痛くなって発生したガスが体中に回って最後には死んでしまうようなことと・・・なにも変わらない、極めて単純なこと。

(この例えも、たぶん怒られるんだろうな。苦笑 「どんなに面倒とか、したくないとか考えようとも」・・・という意味であえて。)

 

 

 

しかし、心理学は、個人主義の国で誕生したためであろうが、

 

家族持ちのため(家族を持つことを優先とした考えたをベースとした)の心理学、

 

というのは存在しないんだ、これが。

(旧体制の精神論的なものは残ってるが)

 

 

 

自己を犠牲にすること、

 

自分を抑えること、

 

自分ではなく「家族」という単位で考えて行動することなど、

 

それは決して「悪いこと」でも、「抑圧的なこと」でもないんだよ。

 

と僕は声を大にして言いたい。

 

 

 

それはただ、ぜんぜんきちんと欧米で研究されていないだけなんだ。

 

 

 

なんでこんなことをわざわざ書いているか、というと、

子育てをしている親が迷っているからである。

「自己実現」がメディアで流れるほど、

本来は尊い仕事をしているはずの子育てをしている親たちが自分のやっていることについて、自分の人生について悩むからだ。

 

子育てはあちこちで「邪魔モノ」扱いされ、

自己実現はただひたすらにもてはやされる。

 

日本社会でニグレクトなどの虐待が増えているのは、

間違いなく「自己実現」「自己解放」がひたすらに強調されることの悪しき側面だ。

 

子育て者が、

自分を抑え、自分を犠牲にしていることは、

子どもを産まなかった/産めなかった人を含めての「必ず訪れる未来」への、尊い貢献であることを決しては忘れてはいけない。

 

自己実現/自己解放は、決して「影なき太陽」ではない。

 

子育て支援は「社会福祉」ではない。

私たち未来に生きているすべての人への「投資」だ。

 

 

 

(※2:なお、この考えは、木全慎也個人一人のみに属するものであって、その周りの友人知人家族一切で共有・理解されているものではありません。)