お読みいただきありがとうございます。
人生の彩どり師・関みゆ紀です。
おわりははじまり-135「ルーレットの赤と黒」の続きとなります。
フランスの作家、スタンダールの小説「赤と黒」の題名の由来を元に話を進めています。
Wikipediaの「赤と黒」には、3つ書かれていました。
1.主人公のジュリアンが出世の手段にしようとした軍人(赤)と聖職者(黒)の服の色を表している説
2.ルーレットの回転盤の色を表し、一か八かの出世に賭けようとするジュリアンの人生の比喩説
3.赤と黒が、愛と死を象徴している説
3つ目、最後の論点です。
3.赤と黒が、愛と死を象徴している説
これが「赤と黒」の「魚」とリンクするなぁと。
メッセージは言葉以外にも1~世界を構成する要素(心に降りてくる言葉)
一石何鳥が動くー110「イザナミBASEプロジェクト」
■ Kyrie eleison (キリエ・エレイソン)
※祝詞 (過去を遡っての祓いと結び直し)
■ ノートルダム
■ 三位一体 (≒三種の神器)
■ レクイエム
■ ギリシャ・ギリシャ語
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Kyrie eleison ~キリエ・エレイソン
(心に降りてくる言葉)
【QUOTE】
まきちゃんの所感
「 一連のワード群は、キリスト教に絡んでのもののように感じますが、
今現在 (≒現代) のキリスト教の捉え方や概念ではなくって、
もう少々時代を遡ったもののようです。」
【UNQUOTE】
このマークは「イクトゥス(イクテュス)」といいます。
ギリシャ語で魚を意味しています。
Wikipediaより引用いたします。
古代ローマにおける用法
「ミラノ勅令以前のキリスト教徒は、
迫害や処刑されるおそれがあったため、
信仰を公にできなかった。
そのため、 隠れシンボルとして
次のように用いられたといわれる。
まず、1人の人間が明らかにランダムな直線や曲線を砂の上に描き、
その線のうち1本を円弧にする(イクテュスの半分)。
もし、もう1人が地面に線を何本か描き足す中でイクテュスの形を完成させれば、
2人はお互いがキリスト教徒であると確認できた。
また、キリスト教はユダヤ教の流れを汲む宗教であるため、
当初は偶像崇拝を禁止していた。
そのため、3 - 5世紀頃の初期キリスト教美術では、
イエスやその信徒を表す場合には魚やヒツジなどの動物に置き換えて描かれた。」
これは、私の推測なのですが、
田中雅子/紫花さんを巡るこの件に関わる人々、
このブログを読んで、共感や共鳴を感じる人々、
コモンゲート~Common Gate=共有の関を潜る者
たとえば、まきちゃんや私も含めてのことで、
(二人ともキリスト教系の学校に通った経験がある)
迫害される側の過去世があったのではないかと思われるのです。
また、逆にいうと、迫害する側の過去世もあったのかも知れません。
どこかの国で、どこかの時代で、
信教(まつりごと)でか、政治(まつりごと)でか、
理由は、色々、あると思います。
何を言わんとしているかというと、
「殺った(ヤッタ)」「殺られた(ヤラレタ)」の
どちらの立場も経験しているということです。
対立する構図には、どちらも自分は「白」
(思いたいor思い込み)だと思っていて
どちらにも「正義」(思いたいor思い込み)があるから。
宇宙の真ん中で愛智を学ぶー154「押し寄せる"望"」
この「イクトゥス(イクテュス)」は、
互いに「砂の上」に弧を描いて「魚」として完成します。
悲しいかな、水の無い、「砂上に存在する魚」なのです。
だからこそ、風が吹いて、水が零れ落ちることの意味が増す。
片方の線だけでは成り立たないし、意味を成さず、
二本(日本と変換された)揃った時に、形と意味を成すのです。
「無双=表裏の纏り縫い(祀り縫い・待つ理縫い)」と同じに等しい。
アイは地球を掬ぶー5「帽子を超えてゆけ」
その行為は、古代ローマでは、処刑されるかも知れない
「死」の危険を冒す行為でもあり、
互いのカミの「愛」を確かめあう行為でもあった。
「一か八か」の生死を掛けたルーレットの「赤と黒」です。
また、かつて敵対していたかもしれない者同士が、
時空を超えて、肉体を持った意識体として、今生、転生したとしたら、
共同創造して、互いに弧を描いて「魚」を完成させる
出会い直しの機会が巡ってきたのかも知れない。
そういう意味・意図を含んだ
■ Kyrie eleison (キリエ・エレイソン)
※祝詞 (過去を遡っての祓いと結び直し)
のような氣がするのです。
十はプロセス、〇は信頼。
宇宙の真ん中で愛智を学ぶー169「イエスの目」
人生のプロセスの全てを信頼した上で。
宇宙の真ん中で愛智を学ぶー169「イエスの目」
「〇に十」=「これでいいのだ」の「愛と死」へ迎う「均し」の今ここ。
それが、11月4日という日付に象徴されていたように思えるのです。
おわりははじまり-121「両関と白鹿と弥勒菩薩と」
その「意」あっての 「寿ぎ・言祝ぎ (ことほぎ)」だったんだろうなぁと。
おわりははじまり-137「水を得た魚の予祝」へ続く。
大変申し訳ございません。
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