お読みいただきありがとうございます。
人生の彩どり師・関みゆ紀です。
宇宙の真ん中で愛智を学ぶー160「宇宙の為の菊理媛」より続いております。
天台宗の本拠地「比叡山延暦寺」に所蔵されている、
「日吉山王本地仏曼荼羅」は、他の疑問も解消してくれました。
2021年の秋分の期間中には、
「水のアメーバ観音様」が現れました。
観音様なのに、シルエットが「地蔵菩薩」だったのが
不思議でならなかったんです。
宇宙の真ん中で愛智を学ぶー93「匂ひ起こせよ梅の花」
宇宙の真ん中で愛智を学ぶー104「西方浄土からの使者」
真ん中の行の一番下は、地蔵菩薩となっていて、
「樹下宮 鴨玉依姫」となっております。
真ん中の真ん中は、薬師如来となっていて、
「東本宮 大山咋神」となっております。
(宮は、日吉大社内の山王七社に由来する)
この「鴨玉依姫」って、高瀧神社の御祭神なんです。
高瀧神社ってどこ?って、烏大結集の森の神社のことです。
しかも、大山咋神と鴨玉依姫は、ご夫婦なんですね。
『古事記』では、近江国(淡海)の日枝山=比叡山を神体する
大山咋神であり、そう、最澄の天台宗です。
笠森観音へ行ってくれって、
サイン(暗示)を送りまくっていたというわけです。
この高瀧神社の構造は、能の舞台に繋がっておりました。
これは、2019年11月18日に
(結婚記念日=パートナーシップの問い掛け)
魔女っ子メンバーと宮島で観た能の本舞台に繋がっており、
演者は、「出雲兄弟」と
(ご来光のレイラインの西の結びの出雲大社)
演目は「高砂」という夫婦和合の物語。
(ご来光のレイラインの東の開きの玉前神社に「高砂」彫り物があります。)
この時、既に、ご来光のレイラインの東と西の端と端を
示唆されていたということになります。
神芝居が巧妙です。
偶然と思わされた神仕組みで、世の中って動いてるんだろうなぁって。
その方が新鮮味があって「氣付き」のシステムが作動しやすいから。
忘れてるけどプログラム・シナリオは確実にあるのでしょう。
だから、私のエゴに偏った雑味溢れた振舞いだと、
神芝居のタイミングがドンドンずれていくので、
丁寧に動いてほしいと望んでいる三五太郎さん。
肉体には寿命がある、時間のリミットがあるからね。
では、太陽が昇るご来光のレイラインの起点「開き」である、
玉前神社の御祭神「玉依姫」は、どんな由縁がある女神だったでしょうか。
まず、「玉依姫」の名を掘り下げます。
日本神話・神道の女神であり、
タマとは霊(神霊、霊魂)のことで、ヨリとは憑り(依り)つくことを指し、
「神霊の依り代となるヒメ(巫女)」を意味しているので、
この名を持つ女神は複数存在しているということにもなります。
「玉依姫」=「巫女の姫・女神」ということは、
生者と死者を繋ぐシャーマン(巫女)の女神
母性と父性を繋ぐ「菊理媛」と意味合いが重なります。
玉前神社の玉依姫のストーリーを、
木花咲耶姫と磐長姫の伝言-53「幸魂・玉依姫」に書きました。
玉依姫って、自分が育てた男子(甥っ子)と結婚するんですね。
しかも、この夫(鵜葺草葺不合命・ウガヤフキアエズノミコ)との間に生まれた子が、
初代・神武天皇とされています。
国の根幹を産んだということですよね。
おまけに、西の結び「出雲大社」の御祭神は誰か。
これまた、国の統治者、大国主命なんです。
「大きな国の主」ですよね。
「家」から「国」へ、
ミクロとマクロの話を、東から西へ、
北緯35度のご来光のレイラインを通し、問うているのです。
夫も子供も育てた玉依姫=巫女が、
玉前神社の御祭神であり、「開き」となっているわけです。
巫女=35です。
これのことなんですよ。
私であり、貴女(巫女・35)の、
太郎(男性)の受け入れ方を問うているということです。
先日、とある一文を目にしました。
「夫や子供の面倒を見つつ仕事をバリバリ始めます。」
なぜ、私はこの一文が氣になるんだろうと。
私への問い掛けですね。
面倒とは。
1 手間がかかったり、解決が容易でなかったりして、わずらわしいこと。
2 世話。
3 体裁がわるいこと。見苦しいこと。また、そのさま。
これを全部引き受けると、行き過ぎた母性の発動となります。
母性オンリーだと、夫も子供も、
「子供のまま」女性に対して振る舞い続けるから、魂の成長が遅れるのです。
玉前神社がある起点は、東のポジションです。
東って、「開き・拓き」なんですね。
それって、「父性」の問い掛けだと私は捉えています。
何でも受け入れてたら、それが当然のことになって、
大人(魂の成長)にならないんですよ。
自分のお母さん、お父さんがやったことを、
夫が、妻が、やるのが当然だと思うこと。
または、自らが、同じようにやるのが当然と思うこと。
それは、本当に当たり前なのでしょうか。
自立するって何か。
経済的に自立することだけが自立では無いんだと思うんですね。
まず、自らが、自らを、蔑んだ状態に置かせないこと。
自分自身を、蔑んだ状態に置いておくと、
他者に蔑んだ存在として認識されるんです。
だからいつまで経っても真の意味の同一線上に居ることにはならない。
腰「かなめ」って来た~!
木花咲耶姫と磐長姫の伝言-82「腰「かなめ」って来た~!」
同一線上に居るってどういうことか。
互いの「リスペクト=尊重・敬意・価値を認めること」が前提にあるのか、
なんでしょうね。
それがあると、感謝が湧き上がってくる。
三五太郎さんは、それが足りない私に対して憤ってる。
リスペクトでは無くて、夫に「罪悪感」を抱かせようとしているから。
とすると、「面倒を見る」って行為の本質って何から来るのか向き合う必要がある。
なぜ、こういうことを書いているかというと、
私たち50代、もしくは、40代以降の世代かなぁ、
歴史が積み上げてきた男性性優位の社会による
「母性」と「父性」の親に育てられ、
その呪縛から逃れられず、四苦八苦してる人が多い世代だと感じてるんですね。
自らも、知らぬ間に、その母性と父性の在り方を、
何の疑問もなく、または、疑問に蓋をして、踏襲しちゃってるんですね。
書いている私も同じなんですよ。
痛いなぁって思いながら、これを書いています。
この一番目のビジョンの問い掛けは、さあ、麒麟(私)よ、
笑った顔(母性)と怒った顔(父性)の統合は出来ていますか?です。
間に挟んだ、石川県の震度5は、吾に還れと、
石川県とは私にとっての「 正しく覚え、覚えて正す(質す)」という、
「父の解き」の問い掛けです。
木花咲耶姫と磐長姫の伝言-39「正覚」白山編
木花咲耶姫と磐長姫の伝言-43「覚正」白山編
二番目のビジョンは、その意識があってこそ、
真のパートナーシップ、太郎(夫)を受け入れることができるんですよ、
だからです。
書いてることそのまま自分に還ってくるからね。
痛みを感じながら書いてますよ。
それでも書くのは、今までが当たり前であったことを
丁寧に丁寧に掘り下げて解していかないと、
同じことずっと繰り返すことになるからなんですよ。
「女性性」「男性性」「母性」「父性」という「SAGA・サガ」
を認めて統合した存在が人間だということ。
それには「親和性=神和性」という、
見守るだけ、手出ししないってことも、
必要なのだということです。
これは、無視ではなく、沈黙です。
日本の太郎は、こんな感じになってます。
多様性の海で溺れています。
その中で、プライド、固定観念、重たい「思い」手放さないと、
浮上して真の意味の主体性(自立)を持つことが難しいのです。
海里(乖離)って来た~
女性が先に、海(膿)から顔を出して、
「ア」という声を上げること。
その声の中には、自分にとっての「ならぬことはならぬこと」も含めた
「望」の意志表示することも入っています。
イザナギとイザナミの真実
それをやると、溺れた太郎も、浮上してきます。
麒麟である和多志たちが「玉依姫の再生」をすることです。
そうすると、黄泉の国へ行ったイザナミが再生します。
真の神性の復活です。
宇宙の真ん中で愛智を学ぶー162「S・A・G・A サガ~♪」に続く
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よろしくお願い申し上げます。