偉人散歩

偉人散歩

日本人って素晴らしい

幕末維新の偉人と問われて

勝海舟や西郷隆盛、大久保利通など有名偉人が数多くいます。

幕臣、小栗上野介忠順(おぐり、こうずのすけ、ただまさ)

と聞いて、「誰」と思う人も多いと思います。

あまりにも有能であった幕臣、小栗は

明治新政府に怖れられ悲運の最期をむかえた偉人

僕は、幕末偉人3人挙げよと言われれば、

真っ先に小栗の名が浮かびます。

小栗上野介忠順

 

産業革命以降、西欧と日本 技術の差を埋めよ

1839年アヘン戦争以降 清国(中国)は西欧列強国に

虫歯まわれ、あの強かった清国は面影も無い

東アジアの国々もイギリスをはじめ西欧列強国に植民地化され

残るは日本だけの状況

1854年(嘉永7年)ペリーが下田で日米修好通商条約を締結

日本にとっては不利な条約

西欧列強国としては、生産性が低く軍事力も弱い

日本と平等な条約なんて結ぶ気も無い

不平等な条約を締結して日本から利益を吸い取る事を考えていた。

 

日本が植民地にされず、西欧列強国と渡り合えるには

日本の産業、軍事、政治体制などを近代化しなければ

それも短期間のうちに

西欧列強国の進んだ技術を学ぶ事から始まる。

産業を盛んにし、軍事力を強化する事が早急に求められている。

 

一本のネジに込められた近代化への道

群馬県 東善寺所有

ここに一本のネジがあります。

このネジは、小栗がアメリカから頂いたもの

1860年(万延元年)、幕府の使節団を乗せたポウハタン号が

一路サンフランシスコへ出港

ポウハタン号 模型

その中に小栗の姿があった。

小栗の使命は、アメリカと結ばれていた

金銀交換比率の見直しという大仕事を熱く胸に抱いて

(ポウハタン号の護衛艦として随行したのが有名な咸臨丸)

小栗はアメリカに入って近代化した風景に驚きの連続したものの

西欧から学ぶ思いは太陽よりも熱く燃え滾っていた。

 

ワシントンにあるワシントン海軍工廠(造船所)を見学

日本の製鉄技術との歴然たる差に驚愕

とてつもない大きな蒸気マシーンの数々

日本もいち早く巨大マシーンを取り寄せ産業を強化しなければ

と強い思いが湧いてきた

小栗は、記念にネジをもらった

ネジを握りしめ

「巨大なマシーンを作るにも、この小さく精巧に作られたネジが無ければ

巨大マシーンは作れない」

 

小栗は日本に帰国後、直ぐ老中に

ネジを見せ

「我が国は、ネジ一本も作れない 精巧なネジを作り

大きな軍艦をも造らなくては日本の未来はない」

と力説

しかし、老中の顔には危機感が無い、ネジを見せられても

変わった釘としか見ていないであろう。

小栗の近代化の想いは上層部には伝わらなかった。

それほど「平和ボケ」していた。

根気強く、熱心に、製鉄所、造船所の建設が日本の近代化の原動力になる事を訴えた

莫大な資金が必要でOKを出す上層部はなかなかいない

でも、小栗の努力が実を結ぶ時が、

1865年(慶応元年、11月15日)

横須賀に製鉄所と造船所の建設が着工

当時の製鉄所

横須賀製鉄、造船所の絵図

ここに、世界有数な製鉄、造船所ができる

横須賀造船所で戦艦比叡、航空母艦飛竜、信濃など多くの

戦艦が造られ現在では、

横須賀米海軍が、160年も昔のドックを利用している。

現在のドック

 

無知なる者の大罪

徳川慶喜が大政奉還して鳥羽伏見の戦いへ

小栗は慶喜に、「徳川の陸軍と海軍をもってすれば

薩長に勝てる勝算があります」と慶喜の脚に縋り

訴えた

しかし、戦う意思の無い慶喜は小栗を罷免する。

小栗は、政から身を引き

故郷の上野国群馬、権田村へ隠居

しかし、新政府は反逆勢力分子と言いがかりをつけ

小栗と家臣を捕縛

若干20歳の新政府の隊長の命で

斬首

小栗上野介忠順 42才

ここに日本の宝が無残にも散った。

20歳の隊長は、小栗がどんなに大切で

有能で新政府の高官に抜擢すれば貢献できるか

知らない

知らないで徳川の残党としか考えていない

知らない事が、愚かな事態を招くか

歴史は悲運がつきものでしょう。

あの時、20歳の隊長ではなく

西郷や桐野が対処していれば明治になっても小栗は

日本の為に尽力、多大な貢献したであろう。

小栗上野介忠順の終焉の地

群馬県高崎市倉渕町権田

 

明治の元勲、涙ながらの感謝

日露戦争を勝利に導いたといっても過言ではない

日本海海戦

日本聯合艦隊VSバルチック艦隊

日本聯合艦隊の圧倒的勝利で日本の勝利に終わった。

司令長官、東郷平八郎は戦後、明治45年

自宅に小栗の遺族を呼んで

「軍事上の勝因の第一として、小栗殿が

横須賀造船所を建設してくれた事が、

どれ程、役に立ったか計り知れません」

東郷平八郎

 

 

 

僕の母は1月2日に亡くなりました。

87才  母本人も長生きで満足した人生を送ったと思います。

母は生前、僕に向かって一言

「私が死んだら、遺品は全部捨てて」と

親子ですから、母の一言の意味、心情は理解できます。

母は家族の事を優先にして自分の要望は口にしない

「私は、こうしたいけど家族がそうしたいのであれば

私は、家族に従う」という人格の持ち主

決して、私が私がと出しゃばる事はしない。

「利他主義」の中に幸せを感じる人生を送った母でした。

この「利他主義」は日本人だったら誰でも

持ち合わせている素晴らしい文化だと僕は思います。

 

 

東日本大震災 一人の少年が世界を感動の渦に

上皇上皇后(当時、天皇と皇后)東日本大震災

2011年3月11日 未曽有の震災

多くの尊い人命と財産が喪われた。

人々の心に深い傷跡を残した。

震災直後は、家族を喪い家屋を津波にもっていかれ

小学校などで一時避難した人々も多くいた。

 

とある避難場所の一幕

3月16日

援助協力(JICA)の派遣

一人の在日ベトナム人警察官が物資の配給、治安維持

などで目が回る程多忙であっても

「人助けをしたい」という信念を胸に働いていた。

ベトナム人警察官が、ふと配給の長い列の最後尾に目が止まった。

寒い東北の地で、Tシャツで短パン姿の少年が最後尾にポツン立ていた。

 

ベトナム人警察官は、「少年まで配給が渡るのか?」と心配になり

やりきれない気持ちになり、自然に声をかけた

「お父さんは、お母さんは?」

少年は悲しそうであったが、確りした声調で

「地震直後、お父さんは僕を心配して小学校まで来てくれたが

お父さんと目が合った、

しかし、自然の猛威は非常なもの、お父さんは軽トラごと

津波に流された、

母と妹と弟は海岸近くの家ごと津波に」

不安を振り払うかの様に顔を振り

滲む涙を拭きながら声震わせて精いっぱいベトナム人警察官

の問いに答えた。

ベトナム人警察官は涙に溢れ着ていたコートを少年の肩に

思わずポケットに入っていた食料パックを少年の手に握らせた

「ありがとうございます」 少年の幼気な姿に目が離せない。

 

遠慮なく食べてとの思いが、衝撃の光景が

ベトナム人警察官の目に写った光景は

少年が配給箱に口にする事もない食料パックを寄付する姿

ベトナム人警察官は少年に駆け寄り

「腹ペコなんだろう、遠慮せずに食べればいいのに」

少年「他の多くの人が僕よりもおなかを空かしている だから」

両親も兄弟もいっぺんに喪い

心も体も窮地に立たされている9歳の少年が

他人の事を思いやられる

他人の為に自分を犠牲にする事ができる日本人の素晴らしさを

ベトナム人警察官は心に刻んだ。

 

少年の逸話が世界を感動の渦に

「この感動話を自分だけのものにしてはいけない」

ベトナム人警察官は友人に少年の逸話に

感動した事、日本人の素晴らしさを力を込めて語った

友人も涙を流し感動し新聞記者に伝える

Vietbao紙に次のような記事が

「日本人の人情と強固な意志を象徴する

小さな男の子の話に

我々ベトナム人は涙を流さずにはいられない」

と少年の逸話を記事にした。

ベトナム国内が感動の渦に

SNSを通じ世界の人々に

「日本人の素晴らしい思いやりの心」

を知る事になった。

 

 

 

 

 

日本書紀に記された

日本書紀に、天孫降臨の際「日本は知らす国」と記されています。

「知らす」とは、反対語の「ウシハク」(主ウシ 佩くハク)とは?

 

「知らす」は人の上に立つ者は、民が生活で困っている事、楽しい事

などを事細やかに「知る」事

知った上で話し合い(討論になる事も)日本の行く末を決める。

民の幸せの為にトップは激論を繰り返し政策を決め、実行する。

 

天皇は民を大御宝とし愛する

権力者は天皇に頭が上がらず、大御宝である民を幸せになる様に

政治に励む

 

一方、ウシハクとは

ヨーロッパや中国の歴史で見られる様に、

主(皇帝、王)が民の命や財産を私物化し奴隷化して

国王が利益を欲しいままにする国

国王は武力を以て民を従わせる

この様な事が長く続く訳がなく

幾度となく王朝が潰され新しい王朝が君臨する

事の繰り返し。

 

日本は、天皇をトップにした「知らす国」

真の民主主義国家と思えてなりません。

 

上皇は「知らす」

東日本震災の避難所にて、避難民の苦労を分かち合う

上皇と上皇后(当時の天皇と皇后)

2011年3月11日未曽有の東日本大震災が起き、

幾多の尊い人命が喪われた。

各地で多くの避難民が体育館などで不自由な生活を余儀なくされた。

上皇は(当時、天皇)、侍従長に

「どこそこの避難所には、どんな生活用品が足りていないか」

「避難所に行く物流は流れているか」など

事細やかな情報を問う

侍従長は直ちに調べ天皇にお知らせする。

天皇が事細やかに知るまでもないと

疑問が出てきそうだが

日本は「知らす国」だから

天皇が民の細やかな要望、困っている事、を知る事は

非常に大切。

天皇は、知れば知る程、民が愛しくなり

自然に「民の苦しみが無くなります様に」と祈る

「天皇は祈る」所以であります。

天皇が祈っているのに、政治家が、うかうかしていられない

民が幸せになる為に尽力を尽くさなくてはいけない。

 

今日の政治家は

終戦後、日本にアメリカから民主主義が輸入された。

自由、権利は主張するけれども責任は問わない

ひねくれた民主主義が輸入

戦時中の軍国主義、全体主義を排除し、

民主主義をもってきたアメリカは救世主の様に

思われているが、本当にそうだろうか

 

元々、日本には古来から「知らす国」

民が幸せになる様な国家の形があった。

無理して輸入された民主主義をもってこなくてもいいだろう。

 

輸入された民主主義の悪弊が政治家に宿る

自民党の「金、金、金」 私利私欲を満たす為に

大切な政治を利用する政治屋

立憲民主党、共産党など「日本が長年築いてきた形」を

ぶっ壊し赤化しようと企む反日勢力

堕落した政治屋は「日本は知らす国」と言う事も

知らないであろう 勉強不足です。

 

これからの、若者に求められるのは

日本の歴史をよく勉強して

「民の幸せの為の政治」に尽力する

真の政治家が若い世代から現れて、

戦後失われてきた「知らす国」日本を取り戻してほしい。

その為に、老人は若者が行動し易い様に

道を整備しなくてはいけないでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

「海ゆかば」軍国主義の歌ではない 愛国の歌

大阪護国神社にて 若き女性が「海ゆかば」を熱唱

前回の、投稿「ヨゼフ・トランペールドール」の焦点になった

「祖国の為に死ぬ事ほど名誉なことは無い」

と書いて「軍国主義」「戦争賞賛」との

反論が耳に入りそうです。

ですが、国家とは我々が幸せに暮らすために大切なもの

 

日本は、諸外国と比べて恵まれています。

「事件事故に巻き込まれても、救急車やパトカーが

直ぐ来てくれる」

「病気になっても、法外な治療費がかかって

何日も待たされることは無い」

「役所へ行っても親切に対応してくれる」

「レストランで差別なく、笑顔で接客してくれる」

など日本人が恵まれている事例は星の数ほどある。

そんな、「恵まれている日本」は良き社会

成熟した国家があっての事

 

その国家が揺らぎ、崩壊したら日本人の幸せは吹き飛ぶ

まして、外国に支配されたら日本人は

ウイグル人やチベット人の現状の様に

奴隷化され臓器売買、粛清の地獄化になる。

国家を愛する心、大切にするという考えが

国の根幹に必要不可欠ではないでしょうか

国家を身を挺して守る事は

社会を守る、愛する人(妻、兄弟、隣人など)を守る

事に直結する事は間違いないでしょう。

国家が大ピンチの時、命を捧げてでも

国家を守る行為は必然な事でしょう。

 

武士道精神、自己犠牲の歌

記念艦「三笠」にて海上自衛隊による「海ゆかば」

「海ゆかば」をご存じの方も多いと思います。

「海ゆかば」は軍歌というよりも鎮魂歌です。

亡くなわれた軍人の魂を安らかにと鎮める歌です。

 

♬海ゆかば、水漬く屍

 山ゆかば、草生す屍

 大君の、辺にこそ死なめ

 顧りみはせじ

詩は万葉集から引用しています。

大伴家持の代表作で延暦二年(783)の詩です。

曲は昭和12年に信時潔氏によるもの

戦時中、兵隊さんが亡くなって来るのを

心痛めて、心こめて歌われた歌。

 

歌詞の意味を知る事が大切

海ゆかば、水漬く屍

海軍が海に出れば、水に漬かった屍になる

「屍」とは腐乱して悲惨な状態の遺体の事

 

山ゆかば、草生す屍

陸軍が、山に行けば屍に草が生える悲惨な屍になる

 

大君の、辺にこそ死なめ

大君(天皇)の側で死ねるなら幸せな事

天皇を守るため、国家を守るため、

社会を守る為、愛する人を守る為

自らの命は屍になっても

 

顧りみはせじ 

悔いはありません。

靖国神社にて「海ゆかば」

 

実際、戦争になって目の前で愛する人が

殺されそうになっていたら

自らの命を犠牲にしても守るというのが人情

 

愛する人の為なら自らの命は無くなっても本望

自己犠牲、利他主義、武士道精神とも言うべき

美しい日本人の心

この美しい心が日本を強くする

 

国家の大ピンチの時、戦えるか

現在、日本近隣のならず者国家が、

「いつか、今か」と日本を支配しようと

うずうずしている現状

そんな、危機的状況に置かれた日本

黙って、ならず者国家の奴隷になるか

命をかけて国家を守り、

愛する人を守り独立を維持するか

皆様方の判断に委ねられています。

 

 

 

 

「自衛隊のみなさん どうか帰らないでください」

ゴラン高原に住む人々の切実なお願い、

1996年(平成8年)髭の隊長(佐藤正久氏)率いる国際平和協力隊

のゴラン高原派遣から2013年(平成25年)の間、

自衛隊員が命をかして住民の為に、尽力した結果

地元民の感謝と敬意に満ちた念に繋がっています。

 

その自衛隊の前身 日本帝国陸軍と「イスラエル建国の父」

と言われた片腕の英雄との感動逸話がここにあります。

 

片腕の英雄

1904年(明治37年)日露戦争勃発

日本とロシアは激戦を繰り返し、日本が各戦地で連戦連勝を重ねていった、

日本の乃木希典大将が率いる第3軍とロシア、ステッセル司令官が率いる

旅順要塞守備軍が血で血を洗うが如く肉弾戦が続く中、

日本第3軍の砲台

一人のロシア兵の近くで砲弾が炸裂

そのロシア兵は目を覚めた時、左腕が爆風で吹き飛ばされた事に

気付く。

そのロシア兵の名は、ヨゼフ・トランぺルドール

後に、「イスラエル建国の父」と敬される人物。

トランペルドール

ユダヤ人の地位向上の為に

ロシア国内はポグロム(ユダヤ人を差別、迫害)が横行

差別も酷くユダヤ人は学校も行けず、職業も制限

信仰の自由も認められない(ユダヤ教の礼拝は人目につかない地下で行われていた)

トランペルドールはユダヤ人がどんなに頑張っても報われない社会

そんな社会を報われる社会にしたいと希望を持っていた。

「日露戦争で勇敢に戦って貢献すれば、ユダヤ人の地位向上に役に立つ

かも知れない」と兵役に志願した。

(ロシア兵200万人のうちユダヤ兵3万人、 ロシア兵捕虜1万人

のうちユダヤ兵捕虜500人)

トランペルドールが旅順要塞攻防で最前線で勇敢に戦っていたが、

上述の左腕を失った状態、

上官から、「ロシアへ帰れ」

トランペールドール「いや、治療が終わったら最前線に出してください

右手にピストルで戦います。」

上官は、彼の気迫の嘆願に根負け、再び戦場に送った。

戦いは、日本第3軍の203高地占領を皮切りに

旅順要塞は陥落

トランペルドールは捕虜となった。

ここが、彼の人生の分岐点となった。

 

地獄から天国へ

日本の捕虜となった、トランペルドールは死ぬ事ばかり考えていた

「捕虜となってしまった、どんな拷問、処刑が待っているのだろう」

大阪の濱寺捕虜収容所へ連行された

捕虜収容所

 

トランペルドールが目に見たものは

想像していた捕虜生活とは正反対の光景が、

収容所には電気が通っていて明るい

しかし、民家は真っ黒

収容所は優遇されている。

毎日の食事は新鮮な肉と野菜とパンが支給される。

驚いた事に、違った宗教がケンカしない様に

宗教ごとに生活の場が分かれている

捕虜にも給料が支払われ、将校には3円、兵には50銭

宗教の礼拝の自由は認められ、堂々と礼拝ができた。

トランペルドールは、「嘘だろう、あり得ない」

と狐に化かされた気分であっただろう。

隈部潜所長

思い切って、隈部潜所長に「ユダヤ教には大切な過越しの祭りを開催したい!」

所長は奥の部屋に行った

暫くして、所長は「横浜のユダヤ社会に連絡をして過越し祭りに必要な

種なしパン粉とかまどを取り寄せられる」と過越し祭が実現

収容所内の過越し祭

 

当時の、日本は貧しかったけれども国際法に準拠して捕虜達に

最大限の待遇を与えた。

トランペルドールにとって、いや全ロシア兵捕虜にとって

日本の捕虜生活は天国(ヘブン)の地にいる気持ちであっただろう。

 

一人の日本兵の発言に、ユダヤ建国の信念が

「日本は、なんて文明国なんだ?」

「電気も無い貧しい日本が。世界最強の陸軍を持つロシアに勝てたんだ?」

「日本兵はなんてあんなに勇敢なのだ?」

「何故、捕虜を差別しないで親切にしてくれる?」

トランペルドールの頭の中は?でいっぱい

進んでコミュニケーションをとり短期間で日本語を学び

日本が勝利した理由を探り続けた。

答えは身近なところで見つかった。

収容所の警備日本兵に?を問いてみた

日本兵「国の為に死ぬほど名誉な事は無い」

その一言にトランペールドールの頭の中に衝撃が走る

「日本が勝った理由、原点は 日本人の規律の正しさ、

高い志、公につくす姿勢、天皇への忠誠心、国を愛する心」

「残念ながら、ユダヤ人には祖国が無い、志をつくし愛する

祖国が無い」

ユダヤ人はディアスポラ(飛散民だから)

「ユダヤ人も国家を持とう、日本の様な国家を」

ユダヤ国家の実現に邁進する事に決めた。

 

明治天皇との出会い

トランペルドールは所長に掛け合う

「学校をつくりたい」

ユダヤ兵捕虜達にロシア語、算術、地理、歴史、を教え

教師としてトランペルドールは就いた

学校、工場、図書館、劇場まで作ってくれた。

トランペルドールの努力と行動力は評判となった。

明治天皇の耳にも評判話が入り

明治天皇

「捕虜収容所の中に素晴らしい人物がいるんだね

是非、会ってみたい」

天皇とトランペルドールが会う前代未聞の事

天皇は彼の信念と行動力を讃え

署名入りの義手をプレゼント

義手の左腕が見られる

 

「志」半ばにして

1905年講和条約締結によってトランペルドールは帰国した。

ユダヤ国家実現に向け直ぐ行動

建国前の、イスラエルの地に移住

ユダヤ人を守る民兵組織を立ち上げ建国へと一歩一歩前進

民兵隊

この民兵隊が、今日、中東最強のイスラエル国防軍の源流

1920年トランペルドールはアラブ人の襲撃を受ける

一発の銃弾が「志」を断ち切った

トランペルドールは瀕死の中、最後の言葉

「アイン・タバル!トプラムット・ビアード・アルゼヌ!」

「俺に構うな!国の為に死ぬほど名誉な事はない!」

 

ヨゼフ・トランペルドール終焉の地にて

トランペルドール記念館

銃弾に倒れた地には

「片腕の英雄 建国の父」を顕彰する記念館があります。

記念館の遺品の中に「新しく生まれるユダヤ国家は日本的な国家となるべき」

と書かれている。

イスラエル建国に明治日本の精神が反映している。

トランペルドールが銃弾に倒れた場所

トランペルドールの志は盟友ジャポチンスキーに受け継がれ、

その弟子ペンザイオン・ネタニャフに継承

ペンザイオンの息子は長年首相を務めたベンヤミン・ネタニャフ

と「志」は引き継がれている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

11月23日は勤労感謝の日です。

11月23日は日本にとって最も大切な「新嘗祭」でもあります。

勤労感謝の日は知ってても、新嘗祭は知らない

という人も多いのではないでしょうか。

何故、

戦前、戦中までは新嘗祭の日は天皇を中心に

全国にある神社、国民総出で

その年の収穫に感謝し祝ったものだが、

戦後、アメリカGHQが日本を占領支配していた時

GHQは天皇と国民を切り離そうと

天皇の色が強い「新嘗祭」をアメリカ流の

勤労感謝の日に変えた

その後、「新嘗祭」を口にする人が少なくなった。

日本人が「日本の形」を忘れている現在

もう一度、見直しても良いと思います。

宮中で行われる新嘗祭

 

歴史、文化は人々が置かれていた自然環境によって「形」づけられる。

日本は、四季折々がはっきりしていて

温暖な気候、栄養たっぷりな土地があり

農作物も豊かに実る

自然災害も多いが自然の恵みも大きい。

恵まれた国であります。

 

縄文時代から「山や巨石、巨木などに神々が宿る」と信じ

災害の無い様に、農作物がいっぱい採れます様に」と

神々に手を合わせ祈ってきた文化をもつ民族

しかし、自然は時には災害を起こし、また不作の時もある

自然の力を正しく怖れ、恵みを感謝の気持をもって享受してきた

 

日本書紀によれば

飛鳥時代 皇極天皇(在位642~645)の時に

「新嘗祭」が始まった

天皇自ら収穫に感謝し儀式を行う事が現在に至っても続いています。

 

徳仁(なるひと)天皇

天皇陛下にとっても新嘗祭は一年で

最も重要で最も過酷な公務

天皇が自ら、国家と国民の安寧と繁栄を祈って

神や先祖を祀りその年の収穫に感謝の念を送る祭り

神事は2回にわたり行われます

1回目 23日夕方6時から 2回目夜中の11時から

天皇は最も清浄かつ神聖な白い服装をまとい

(純白の絹地で複雑に作られており、尋常でない重さ)

お米を含む食物を一つ一つ神にお供えした後、

重くて身動きが困難な服装で長時間の正座。

想像してください

身動きが取れない重い服装

長時間の正座

深夜の寒さ

体力的にも精神的にも耐えられない辛さ

(僕だったら5分ともたない)

天皇は辛さに耐えて、国家、国民の幸せの為に祈る

 

神々と天皇と国民が「食」を通じて感謝する祭

「新嘗祭」をもう一度見直してはいかがでしょうか。

新米は11月23日以降に食べましょう

食べ物に対しての感謝の形ですから。

 

 

 

 

歴史上の人物でヒール(悪者)として後世に伝わっている人も多い。

しかし、100%ヒールの人もいない、100%善人もいない。

大切なのは、その歴史上の人物の一面だけを見て判断せず

違った面からも見て評価する事。

ここでは、東京裁判(極東国際軍事裁判)で断罪された

東條英機の意外な一面についてお話します。

東條英機

 

人道主義を貫いた日本人

日本人にとって「人種差別」は理解し難い

何故なら、日本人には「人種差別」の概念が無いから

肌の色、異民族という事だけで差別する

最悪になると強奪、強姦、殺人になるまで差別が横行してゆく。

ヨーロッパや支那などの大陸でユダヤ人、人種差別が横行し

ホロコースト(大虐殺)、ポグロム(ロシアで起こったユダヤ人迫害)

が起こり、ユダヤ人は命からがら逃亡する。

そんな悲惨な20世紀の世界で

ユダヤ人救出に尽力した日本人は多い。

杉原千畝、樋口季一郎、松岡洋右、安江仙弘

その中に、東條英機がいます。

 

「真面目過ぎた首相」が大東亜戦争を拡大していった

東條首相を評して、周りの人は「真面目過ぎる」との評価

「東條は堅物、頑固」と揶揄する人も

石原莞爾から言わせると「無能な軍人」なのでしょう。

真面目過ぎる故に、思い切った判断、行動が出来ない。

軍部の暴走を許し

日本の国力をはるかに超えた戦争拡大を許した。

それが故に終戦が遅れ、戦争の傷は甚大なものに

国民の尊い命が亡くなっている中

東條は首相として一早く戦争を終わらせなければ、いけない立場

最終的には、鈴木貫太郎首相が終戦に導いた。

東條は東京裁判でA級戦犯(政治上の戦犯)になり絞首刑に処された。

 

その後、後世の日本人からはヒールとして認識されている。

 

東條英機参謀長の決断が無かったら

時は、1938年3月

ソビエト(現ロシア)と満州国(日本統治)の国境線沿いにある

ソビエト・オトポール駅

ドイツ・ナチスのユダヤ人迫害やソビエトのポグロムから

逃れてきたユダヤ人1万人以上がオトポール駅で足止めされていた。

3月とは言ってもマイナス30度が当たり前の極寒の地

寒さと飢えで尊い命が亡くなっていく

「一日も早くこの地を脱出しなければ」悲願がユダヤ人を覆っていた。

樋口季一郎はユダヤ人救出の為、いち早く行動

樋口は参謀長だった東條にユダヤ人救出の許可を貰いに

樋口「ドイツのユダヤ人迫害という国策は、人道上の敵であり

   日本と満州国の両国が、これに協力すれば人の道に外れる

   ヒットラーのお先棒を担いで弱い者虐めする事が

   正しいと思われますか」

東條は樋口の訴えを不問にし、ユダヤ人救出に{GO」の指示を出した。

これから来るドイツの圧力を覚悟して

満州鉄道はユダヤ人を乗せ上海などへ特別列車を走らせた。

ドイツは怒り

ドイツ外務省は満州国に猛抗議

東條は「人道以上の配慮によって行われた」と一蹴

ドイツの圧力に屈せずユダヤ人救出に尽力

 

樋口は満州鉄道株式会社、松岡洋右に協力を依頼

松岡も人道主義者 二つ返事で了解

運賃無料で特別列車を用意

とりあえず、5日間の満州ビザ発給

松岡は「私は、ナチ党の反共(反共産主義)の協定には

     支持するが、反ユダヤ主義には賛成しない」

 

樋口は安江大佐に依頼して、ユダヤ人入植者の為に

土地や住居の斡旋、最大限の支援

 

ユダヤ人1万人以上の尊い命が救われたのは

樋口季一郎、松岡洋右、安江仙弘らの

私心を顧みない貢献が背景にあった

あの時、東條英機参謀長の{GO」の指示が無かったら

ユダヤ人救出は絵に描いた餅になった。

トップの決断、指示は扇の要になる事は否めない。

 

     

 

 

 

 

 

 

 

歴史を学んでいくと もし、あの時異なった事が起きたら

今日の日本は存在したのだろうか?と疑問を抱く事が多々あります。

特に、激動の時代ちょっとしたボタンの掛け違いで

世の中は大きく変貌する。

昭和時代の動乱期

終戦を迎えて日本の都市が焼野原で

国民が家も無く生活に困窮している非常時

裕仁天皇(昭和天皇)とアメリカGHQ連合国軍最高司令官

ダグラス・マッカーサーの会談がありました。

昭和天皇とマッカーサー

その日、日本は大きく舵を切りました。

 

世界の王の歴史に当てはまらない天皇

西欧や支那の歴史に登場する王や貴族は

権力と権威 両方手にして

「民」から利益を奪い、時には奴隷下にして

自らは贅沢な生活を謳歌している。

また、贅沢な生活をしたいが為に

既存の王を滅ぼし自らが王になって君臨する。

その歴史の繰り返し。

一方、日本の天皇は「民は大御宝」「民の幸せは朕(天皇)の幸せ」

の国 国民の生活が苦しい時は、

天皇自らボロボロのサンダルを履き、継ぎ接ぎだらけの服を着る

「苦しい時を共にする」天皇

だから、国民は天皇を尊敬し、愛する。

 

日本を恐れ、憎悪でいっぱいのリーダー

男はフィリピンで司令官だ

ダグラス・マッカーサー

フィリピン陸軍司令官に任命され日本軍を迎え撃つ

1941年12月8日 アメリカフィリピン軍15万VS日本軍4万3000人

マッカーサーは圧倒的な軍事差に

「日本軍なんて蹴散らしてやろう」と楽観視していた。

いざ、開戦 日本軍の強さは予想をはるかに超えていた

日本軍の快進撃は続き、1か月で首都マニラを占領

マッカーサー率いるアメリカ軍はマニラから追い出され

マニラ近くのバターン半島で交戦するも

日本軍の勢いは止められず

マッカーサーの命さえ危ない状況に

アメリカ参謀本部から伝達が

「マッカーサーはフィリピンから逃げよ、君がいないと誰が指揮するのか」

それを聞いたマッカーサーは「兵を置き去りにして自分だけ逃げれるか」

と言って拒否するが

参謀本部からの命令には反抗できず

オーストラリアへ逃げた。

マッカーサーは思った「日本軍は少ない兵力なのに、なんて強い」

日本に対する恐怖感と憎悪で頭がいっぱいになった。

 

その後、日本軍は連戦連勝していたがミッドウエー海戦で惨敗して以降

勢いが無くなり、敗戦へと転がっていった。

マッカーサーにフィリピン奪還のチャンスが

アメリカ軍125万 日本守備隊40万(補給が絶たれ、武器や食料がぜんぜん足りていない)

弱っていた日本軍とはいえ勇猛果敢に戦ったが力尽きて

フィリピンはマッカーサーの手に落ちる

マッカーサーの日本への恐怖と憎悪は凄まじく

その後の日本への空爆に繋がる。

 

戦後、マッカーサーは滅びゆく国王は命乞いをすると

GHQ連合国軍最高司令長官にマッカーサーが就任

敗戦国、日本をどうするかはこの男の手に委ねられた。

マッカーサーは恐怖と憎悪で頭がいっぱい

日本人の精神を骨抜きにして

アメリカに盾突かない様、日本を創るために

「日本の形」を変えていく

まず、日本の戦争指導者は断罪する。

戦争指導者の頂点にいる天皇を極刑にして

アメリカに膝まつかせると考えていた。

昭和天皇とマッカーサーとの会談が決まった

マッカーサーは「西欧や支那の歴史を見ても

滅びゆく国王は自分の命だけは助けてと命乞いをする

部下に責任を擦り付け保身に走る」とタガをくくっていた。

 

天皇とマッカーサーの会談 マッカーサー激変

「今回の戦争責任は日本のトップである者が

それ相応の報いを受けるべき」

その処遇はマッカーサーに委ねられた。

運命の日、昭和20年9月27日

アメリカ大使館公邸 天皇とマッカーサーの初会談

マッカーサーは天皇の言動を予想した

「天皇も他の国王と同じく国民を犠牲にして、命乞いをするだろう」

公邸玄関で天皇を迎えたのは部下

天皇が司令長官室に入ると

マッカーサーはマドラスパイプをくわえソファーにドーンと座って出迎えていた。

常識にはあり得ないが どちらが上か思い知らせてやろうとの思い

マッカーサーは天皇に着席を促すが

天皇はそれを良しとせず、直立不動のまま話し出す

「それには及びません、本日は一つお願いに来ました」

これを聞いたマッカーサーは命乞いをしに来たと思った。

天皇のお言葉は彼の想像を絶するもの

私は、この度の戦争に伴う全ての責任を負います。」

マッカーサーは言葉を失う 天皇は続ける

「また、全ての軍人、政治家の行動にも 直接に責任を負います

全ては私の命で行われた事

日本には一人の戦犯も存在しません

私は、絞首刑はもちろん どの様な極刑に処されても

それに応じる覚悟です。

しかしながら、罪なき国民が住む家も無く、着る衣無く、

食べるに食無き姿に於いて まさに深憂(シンジュ)に耐えんものがあります。

この上は、どうか国民が生活に困らぬようご高配賜ります様にお願い申し上げます」

マッカーサーは感涙し目から鱗が落ちた。

「このように優しく美しい心をもった国王が存在するだろうか」

「いや、歴史的にみても天皇以外いない」

急いで立ち上がり天皇に着席を促すと

それまでの無礼を詫びた

天皇の真の姿を知り考えが一変する。

退出時にはマッカーサーは天皇を玄関までお見送りした。

その後も11回に渡り会談が行われた。

 

天皇の全国巡行 マッカーサーは日本の為に

計り知れない程の人々「万歳」の大合唱

日本各地で国民は天皇を涙と感謝の念で迎える

天皇と国民の信頼関係を目の当たりにしたマッカーサーは

「天皇を大切にして存続し、日本国民が生活できる様に尽力する」

と心に刻み

アメリカ本部からの残忍な指令は全て無視

日本の為に奔走し戦後直後の日本人の窮地を救った

 

マッカーサー帰米、日本国民からの感謝

マッカーサーが「日本の形、姿」を理解してくれなかったら

日本は植民地化されたか

1951年4月16日 マッカーサー帰米

大勢の日本人が感謝の念を抱きマッカーサーを見送った。

マッカーサーのもとには50万通の感謝の手紙が

 

「卑怯な振る舞いには怒り」「正々堂々」には賛美し認める

アメリカ人気質が強いマッカーサー

真の日本を理解し奔走したダグラス・マッカーサーと

私心が全く無い裕仁天皇(昭和天皇)が

日本の窮地を救い発展する礎をつくったと言っても言い過ぎではない。

天皇とマッカーサーだからできた大仕事

もし、マッカーサーでは無く他のアメリカ指導者や

ソビエト、支那の指導者が天皇の相手だったら

今日の日本は無かったと確信しています。

天皇とマッカーサーで良かったと思えてなりません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「戦争」と聞いて誰もが悲惨、暗黒と思い、もう二度としてはいけないと思える。

しかし、覇権主義を振りかざし領土野心が強く

他国を侵略しようと企てを図る「ならず者国家」が存在する。

現在、日本の周囲にも中国、ロシア、北朝鮮は

隙あれば日本に侵略しようとする

危険国である、ましてや核保有国

日本の歴史を振り返れば「ならず者国家」との戦争が続いていた。

日清、日露戦争、大東亜戦争と「ならず者国家」の暴挙に対する

自衛の為の戦争を強いられていた。

戦争は勝つ事が大切

敗ければ植民地化され悲惨な将来が待っている。

勝負の優劣に「トップ人事」が大きく左右する事は否めない。

トップ人事に有能な人材が就けられるか

それとも、無能な人材が就くか

戦争の勝敗はトップ人事にかかっている事は

歴史が証明している。

「トップ人事」に見る戦争の歴史2つご紹介します。

 

明治時代、日露戦争に勝てた人事 日本海軍の父、山本権兵衛

山本権兵衛 1852年(嘉永5年)10月15日 薩摩(鹿児島)で生を受けた。

戊辰戦争を戦い抜いた強者

武骨精神の塊で

海軍兵学寮ではケンカ三昧の日々

 

明治維新後の日本は「西欧に追いつけ、追い越せ」の精神で

急激に近代化の道を登っていった。

日清戦争に勝ち、ロシア帝国との戦争が避けられない時代

世界の軍事は日進月歩

軍事技術や戦略が進歩している中

日本海軍のトップは古い頭でしかなかった。

明治維新の功労者が海軍トップの座に居座り

時代の変化に追いついてゆけない考えに固執していた。

(海軍は兵隊、兵器、食料の運搬だけの役割、制海権という概念が無い)

 

西郷従道と山本権兵衛の絶妙なコンビ

海軍トップの人事を大リストラしなければ日本はロシアに負ける。

10年間でロシアに十分対抗できる海軍をつくる事が必須

大リストラこの大仕事を任された西郷従道(西郷隆盛の実弟)

部下に山本権兵衛が具体的に人事改革を任された。

山本権兵衛と(右)西郷従道

西郷従道は

認めた有能な部下に全てを一任

部下がやり易い様に道筋を立てて

根回しに専念し、全ての責任を自分が背負う

薩摩武士の典型な人物

山本権兵衛は西郷従道がバックについて

大リストラ、大変革がやり易くなり

思いっきり大ナタを振るう

 

山本権兵衛は新海軍人事リストを西郷従道にチェックしてもらう

西郷従道が認めた人物にはをつけた

加藤友三郎参謀長 独創的な秋山真之作戦参謀

秋山真之

最後の人物に西郷従道のが止まった

聯合艦隊司令長官 東郷平八郎の名のところで

当時の東郷平八郎は病気がちで

周りの人から「お調子者」と揶揄されて

武勇識見が高く評価されている訳でもないからだ

山本権兵衛は東郷平八郎の

「ものに動じない性格」

「日清戦争時に国際法を通用させた」

「敵の砲弾は当たらないが、自分の撃った砲弾は全命中

という強運の持ち主」

を高評価しての抜擢

西郷従道を説得して認めさせた。

そして、日露戦争勃発

日本陸軍が全戦全勝する中

日本聯合艦隊はバルチック艦隊を完全撃破する快挙

山本権兵衛が考えた「トップ人事」がうまく歯車が

噛みあい大きな力となって勝利した。

 

東條英機の真面目過ぎる事が失敗

時は流れて昭和時代

石原莞爾

石原莞爾 「五族協和」五つの民族が協力して

差別の無い満州国をつくった。

しかし、石原莞爾は満州国を退く事になり

東條英機が満州国の指導者に就いた

東條英機

東條英機は満州国を日本の準植民地化にした

石原莞爾の理想郷満州国は形骸化した

その後、石原莞爾は再び満州国に

東條英機の下に赴任

石原莞爾の理想郷を認めない東條英機との確執は大きい

 

東條英機が中心となってつくった「戦陣訓」

石原莞爾は否定的

「こんな戦陣訓は兵に必要か?

東條英機は中将の分際で大将にまで訓戒を垂れるのか

何事か」

石原莞爾は戦陣訓を配布せずに山積みに放置した。

東條英機と石原莞爾の人間関係は修復不可能

石原莞爾クセが強いせいか出世できない

一方、東條英機は陸軍次官、陸軍大臣、総理大臣と昇進してゆく

石原莞爾は東条英機の怒りを買い

1941年3月に石原莞爾は予備兵役に追い込まれ

実質上30年の軍人生にピリオド

1942年の暮れ東京で東条英機と石原莞爾の会見があった。

東條「戦争をどうしたら良いものか?」

石原「君には戦争指導はとても無理、一刻も早く

   総理大臣を辞めるべき」

 

そもそも、普通の凡人努力派の東条英機と

破天荒な変人、天才肌の石原莞爾とは根本的に合わない

石原莞爾が戦争指導者なら勝てたと思うが

東条英機は石原莞爾を指導者から外した

この時点で敗戦が決まったと言っても過言ではない。

 

上記の様な、日露戦争時と大東亜戦争時のトップ人事に於ける実話

明暗がはっきり分かれる

平和な時は、「真面目過ぎる」「空気を読める」「長いものに巻かれる」

人材はそれなりに機能するが、

非常時(戦争時)に於いては、平和時の人事は足かせになる。

クセが強くても有能な人材が非常時には必要不可欠

と考えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「勝てば官軍、敗ければ賊軍」と言われる通り

大東亜戦争、日米戦争に負けた日本は

アメリカの言いなりを、強いられた。

戦中は、「鬼畜英米」と戦争を鼓舞していた

戦争指導者は敗戦とともに萎縮し

「アメリカの言う通り」と手のひらを返す者もいた

日本人の風上に置けない愚者といえる。

 

裁判の体を成していない東京裁判に「俺を出させろ」

1946年(昭和21年)5月3日~11月12日

極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷

アメリカの本音は

「ある事無い事でっち上げも辞さず

戦争犯罪者を極刑にし、もう二度と日本人がアメリカに

盾突かない様に劣等感を刷り込ませる為の裁判」

「日本人に日本軍は取り返しのつかない罪を

犯した」と思い込ませる事を狙っていた。

 

残念ではあるが、日本軍の指導者の中には

自らの戦争責任を問われない様に、部下に

責任を押し付け保身に奔走する者もいた。

 

そんなアメリカの一方的で身勝手な裁判に

「喝」と吠えた人物が山形にいた

石原莞爾「何故、俺を戦犯にしないんだ、

この戦争の発端は満州事変、

満州事変を起こしたのは、この俺だ」

と出廷を大声で叫んだ。

アメリカの考えは「石原は危険人物、

法廷に出したらアメリカの不利益な事を

どんどん発言する、こんな人物を法廷に呼べるか」

であった。

 

石原の正論に涙、喝采

東條英機を何としてもA級戦犯にしたかった

アメリカが一人の軍人に目を向ける

石原莞爾だ

石原と東條とは犬猿の仲

東條英機を極刑にする為には石原の証言が必要

アメリカは石原に証人として東京裁判に出てほしいと要請した。

石原「俺は病気(膀胱がん)療養中だ、東京にいけるか

そんなに話が聞きたければお前たちがこっちへ来い」

1947年(昭和22年5月1日~2日)山形県酒田市で特別法廷が開廷

特別法廷に向かう石原莞爾

裁判長 「この裁判に関して言いたい事はありますか?」

石原 「もちろんある、なぜ、俺を戦犯として裁かないんだ

    この度の戦争は満州事変が発端、満州事変を起こしたのは

    この俺だ」

裁判長 (狼狽)「あなたは証人として呼ばれたのだから、その様な発言はなさらぬ方が」

石原 「まだある、アメリカは日本の戦争責任を随分古くまで遡っている

    様だが一体いつまで遡るのか」

裁判長 「日本の行った侵略戦争全てです できる事なら

      日清、日露戦争まで遡りたい」

石原 (ニヤリと微笑んで)

    「ならば、ペリーを連れてこい 日本は鎖国をしていた

    それを、無理やり開国させたのはペリーだ」

法廷内静まり返る

ペリーの事を言われて動揺した裁判長は話題を変える

裁判長 「石原さんあなたは、21倍もの支那軍に大鉄槌を下し

      勝利した 自信はあったのですか?

      私には到底、無謀としか思えません。」

石原 「いや中鉄槌を下した(法廷内爆笑)

    勝算はあった 君に教えてあげよう

    戦争は数の勝負ではない 大切なのは

    作戦だ。

    もしも、この戦争で私が指揮を執っていたならば

    裁判長あなたの席に私が座り ここには、あなたが立っていた」

裁判長も他の裁判官も何も言えなかった

何故なら、石原は戦争の天才と全員知っていたから

気が付けば、石原さんと呼び、後半では石原将軍と呼んでいた

東條英機をA級戦犯にする為の裁判本題に移る

裁判長 「あなたは、東條英機と思想上の対立があったと聞きますが」

石原 「ない」

裁判長 「いやいや、そんな事は無いでしょう あなたは東条英機と

      対立してた筈」

石原 「ああ、対立していたさ しかし、そんな思想上の問題は無い

    何故なら、東條の馬鹿には思想なんてものは無い

    私には少なからずあるけれども」

裁判長 「最後の質問として

      今回の戦争最も罪深い戦争犯罪者は誰だと思いますか?」

裁判長は「東條に決まっている」との言葉を導くものと確信していた。

 

石原は眼をランランと輝かさせ

石原 「それなら、アメリカ大統領トルーマンである」

余談であるが(僕は、トルーマンに加えてフランクリン・ルーズベルトも)    

全員耳を疑った

構わず続ける

石原 「そうであろう、なんの罪の無い民間人を原爆で殺しまくり

    何十万人も殺して それが正義と言えるのか

    トルーマンこそ最大の戦犯だ」

 

裁判長は裁判記録の破棄を命じそのまま裁判を終わらせた。

 

裁判後、裁判を傍聴していたA新聞記者が石原に駆け寄り

その眼に涙を浮かべながら

「将軍、私は非常に嬉しかった 日本が戦争に負けて

かつて、偉そうにしていた指導者が手のひらを返すように

オドオド、ペコペコして答弁する様子を見て

それは、悲しい光景でした。

ですが 今回の裁判の様子

将軍の発言を聞いて胸がすく思いでした ありがとうございます。」

 

石原 「私は、もう将軍ではないよ」

 

現在、責任を回避して保身に傾ける政治家、起業家

も多いですが石原莞爾の様な責任を一身で受け

日本人の誇りを守った偉人の功績を知る事が大切と思います。

 

石原莞爾は数年後の8月15日に旅立った

何か運命を感じます。