新年あけましておめでとうございます。
2026年は、飛馬の如く時代を駆け上るアグレッシブな
飛躍の年になりそうです。
午年と言えば
僕は、名馬ウラヌスを思い出します。
バロン西の愛馬です
バロン西改め、西竹一陸軍大佐と愛馬ウラヌスとの
ハンカチ無しでは語れない絆の物語

西竹一とウラヌス
西竹一は、1902年東京都港区西麻布で男爵、西徳次郎の三男として
生を受けました
1912年に父が他界、僅か10歳で後を継ぎ男爵となる。
その後、軍人となり希望していた騎兵隊に配属した
生まれながら裕福で気品溢れる家柄で育だち
大人になってからは、自由な考えを持ち、英語が流暢で
型に縛られない性格
エルメスのブーツを履きオープンカーでドライブ
カッコ良すぎる遊びを満喫していた
本筋の馬術の方は、天才的な技能を持つ反面
馬に対しては愛情深い心の持ち主
後輩、同僚、先輩たちには、憧れの眼差しもあったが
「カッコばかりで、いけ好かない」と言う嫉妬感が
混じった感情を抱く人も多かった
要するに、仲の良い人とは、とことんと付き合う
でも周波数の合わない人には、とことんと嫌われる人物であった
西竹一は人にも馬に対しても愛情深く
気の合う仲間全員にタキシードをプレゼントしたり
馬に対しても、調教、練習は厳しいが、馬が負傷すると
一日中、看病する、外見とは合わない心の豊かな持ち主であった。

ロールスロイスの上を飛び越える演技を披露する西竹一
ウラヌスとの奇跡的な出会い
1930年、ロサンゼルス五輪の馬術競技選手候補が選抜
西竹一も選抜された
そんな折、西竹一のもとに一報が入る
イタリアの今村安少佐から
「イタリア人も乗りこなせない馬体が立派で売れ残っている
障害競技用の馬がいる アングロ・ノルマン馬だけど血統書は無い
実力はありそう 名はウラヌス(天王星)」
それを聞いた西竹一はピーンときた
「これだ」購入を二つ返事で決め
大金を懐に入れ、ヨーロッパ行きの豪華客船に乗る
船内で思いもよらない出会いが
ハリウッドスター ダグラス・フェアバンクスとメアリーピックフォード夫妻
と気が合い放題 毎晩お酒を酌み交わし
プール上で、子供の様に全裸となりターザンごっこをする程、親しい仲になった

ダグラス・フェアバンクス、メアリーピックフォード夫妻

戯れる西竹一とダグラス
船がヨーロッパに着くと、イタリアへ速行した ウラヌスのもとへ
ウラヌスは体高が181cm 稀に見る巨馬
筋肉が発達していて肩は良い具合に傾斜しており
障害競技馬としては理想
イタリアでは、騎兵中尉が所有していたが
余りにもじゃじゃ馬ぶりに持て余していた された馬であった
西竹一の目には間違いが無かった
「私が求めていたのは、此れだ!」 一目ぼれだった
私費をもって500ドル(現在の価格では800万円程)
ポーンと一括で支払い購入
後、西竹一は手紙で「聞きに勝る大きさ、跨ってみると
これはまた駱駝の様」
試しの乗りとばかりに、そのままウラヌスとコンビを組み
欧州各地(イタリア、フランス、スイス、ドイツ)の競技大会に参戦
格式高く強豪ぞろいの本場の大会でも臆する事無く好成績を残した
「この馬とならいける」と手ごたえを胸にウラヌスと共に帰国
西竹一は40キロの距離をものともせず、ウラヌスが預けられている
千葉県習志野の騎兵学校へ毎日通い調教と練習を重ねた
ウラヌスは素晴らしい馬であったものの気性が激しく
なかなか西竹一の思う様には動いてくれない
でも西竹一は愛情をふんだんに注ぎ 愛情が伝わり
能力を十分に発揮し競技馬として実力を育んでいった
西竹一は「人には、なかなか理解できなかったが、ウラヌスは自分を理解してくれる」
名門の出でありながら、人からは理解しても貰えず孤独を味わっていた
西竹一の言葉であった。
品格ある優美な競技姿に世界が絶賛
一人と一頭 いや二人で勝ち取った金メダル

会場内での西竹一
1932年(昭和7年) ロサンゼルス・オリンピック開幕
馬術大障害競技は最終日
オリンピックの花形競技で世界中の人々が注目
優勝候補はアメリカのチェンバレン選手
チェンバレン選手は少しミスした様で減点12で競技を終えた
でもチェンバレン選手の優勝の予想は変わらない
西竹一とウラヌスの番が来た
じゃじゃ馬気質のウラヌスを「落ち着けと撫でながら
ウラヌスの実力を信じてやまなかった」
(堀の水は黄色、緑色に染めていたり、助走距離が短い
超難コース 出場者12名の内全てクリアしたのは5名だけ)
ウラヌスは西竹一の言う事を忠実に聞いて
人馬一心一体で難関を見事にクリア
一回、蔦を絡ませたハードルに躊躇したが、二回目で見事に飛んだ
西竹一とウラヌス 品格ある礼儀正しい競技姿に
会場内の観客はどよめき、そして歓声の渦を起こした
西竹一とウラヌスは減点8 見事金メダル
世界の人々は、東洋から来た西竹一を賞賛
流暢な英語力、誰とでも笑顔で接するコミ力、気品漂う姿
に惚れ惚れし「バロン西」という名を授けた
ロサンゼルス・タイムスも大体的に西竹一とウラヌスを取り上げ
そして、米国人の脳裏に西竹一とウラヌスは刻まれた。

二人で勝ち取った金メダルと報道した

ハリウッドのスター達にも人気の西竹一
時代の流れに翻弄 悲痛の別れ そして天国で

武子夫人と子供達
日本の戦争状態が泥沼化し 日本軍の快進撃もミッドウェー海戦を期に
敗戦が続く 物量に大きく勝るアメリカに押し出される形だ
日本中の都市がB-29によって空爆を受け、多数の民間人が死傷している状態
そんな折、硫黄島の存在が重要になってきた
東京から、およそ1250キロ南に浮かぶ硫黄島
日本がこの島をアメリカに取られると空爆に拍車がかかる
民間人の命を守る為に島を取られてはいけない
栗原忠道中将率いる日本兵21000人が死守する硫黄島に
西竹一大佐は戦車第26聯隊長として配属の命を受ける
西竹一大佐は、「日米の最終決戦地となるだろう この島が俺の死に場所か」
と軍人としての覚悟を決めていた
東京都 世田谷にある馬事公苑で余生を過ごしていたウラヌスに会う
「俺はこれで終わりかも知れない ウラヌスよ達者で暮らせよ」
と涙が溢れるのを堪え、形見にウラヌスの、たてがみを少し切り取り
ポケットに閉まった これが今生の別れ
硫黄島では、守備隊日本兵21000人火山地形を活かし
地下壕やトンネルを網目状に堀り、米軍の砲撃に耐える戦術を取った
(硫黄島は火山島、地下を掘ると60度の灼熱地獄)
米軍が島を取り囲む
航空母艦16隻、戦艦8隻、巡洋艦15隻、駆逐艦77隻 110000の兵力
74日間、空爆 艦砲射撃3万8000発を加え 島の形が変わった
米軍は、此れだけの軍事力の差が有る事に5日で落とせると予想していた
1945年2月19日、米軍が上陸してきた
栗林中将率いる日本兵は此れを待っていた
上陸部隊に雨あられの銃弾、砲弾の嵐を浴びせた
米軍の損害は日本軍を上回る様になった
西竹一大佐率いる戦車聯隊も大活躍
しかし、物量に大きく勝る米軍にじりじりと押されていった
戦車聯隊も、350m四方敵に囲まれ必死の状態
戦車を土中に埋めて砲塔として戦うも守り切れず
北部の本隊と合流しようとした時
西竹一大佐は致命傷を負う「これまでか」と
ポケットに忍ばせていたウラヌスのたてがみを握りしめ
「ウラヌスよあの世で待っている」とピストルの引き金を引いた
1945年3月21日バロン西こと西竹一大佐 硫黄島に散る (享年43歳)
戦場の混乱の中、アメリカ軍から拡声器を使って呼びかけられた
「バロン西、あなたの軍人としての名誉は保たれた 投降してください
我々は、あなたを失う事が非常に悲しい」
しかし、西竹一大佐は、誇り高い日本軍人として
両親や妻、子供の命を守る為に、自らはどんな悲惨な死に方でも良い
と云う武士道精神の持ち主
遠く離れた、馬事公苑にいるウラヌス
主人が戦死された事を感じ取っていたのだろう
西竹一の戦死から6日後、静かに眠る様に天国へ上った
天国では、西竹一とウラヌス元気で障害競技に励んでいるでしょう
西竹一とウラヌス、両者共に個性が強く よく似た者同士
天国へ行ってからも仲良くしているでしょう。
安倍総理が見せた心の叫び
平成25年4月14日
安倍総理が硫黄島に降り立った
総理はすかさず地面に跪き手で地面を優しくなでた

「この滑走路の下に、まだ遺骨が眠っています 足で踏んでしまって
申し訳ない 安らかに眠ってください」と言って
地下の灼熱地獄で亡くなった日本兵の無念さを安倍総理は感じ
申し訳ない気持ちと感謝の念で心いっぱいになったと思います。