BEN MEMOの偉人散歩 日本人て誇り高く素晴らしい (裕仁天皇 ダグラス・マッカーサー) | 偉人散歩

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日本人って素晴らしい

歴史を学んでいくと もし、あの時異なった事が起きたら

今日の日本は存在したのだろうか?と疑問を抱く事が多々あります。

特に、激動の時代ちょっとしたボタンの掛け違いで

世の中は大きく変貌する。

昭和時代の動乱期

終戦を迎えて日本の都市が焼野原で

国民が家も無く生活に困窮している非常時

裕仁天皇(昭和天皇)とアメリカGHQ連合国軍最高司令官

ダグラス・マッカーサーの会談がありました。

昭和天皇とマッカーサー

その日、日本は大きく舵を切りました。

 

世界の王の歴史に当てはまらない天皇

西欧や支那の歴史に登場する王や貴族は

権力と権威 両方手にして

「民」から利益を奪い、時には奴隷下にして

自らは贅沢な生活を謳歌している。

また、贅沢な生活をしたいが為に

既存の王を滅ぼし自らが王になって君臨する。

その歴史の繰り返し。

一方、日本の天皇は「民は大御宝」「民の幸せは朕(天皇)の幸せ」

の国 国民の生活が苦しい時は、

天皇自らボロボロのサンダルを履き、継ぎ接ぎだらけの服を着る

「苦しい時を共にする」天皇

だから、国民は天皇を尊敬し、愛する。

 

日本を恐れ、憎悪でいっぱいのリーダー

男はフィリピンで司令官だ

ダグラス・マッカーサー

フィリピン陸軍司令官に任命され日本軍を迎え撃つ

1941年12月8日 アメリカフィリピン軍15万VS日本軍4万3000人

マッカーサーは圧倒的な軍事差に

「日本軍なんて蹴散らしてやろう」と楽観視していた。

いざ、開戦 日本軍の強さは予想をはるかに超えていた

日本軍の快進撃は続き、1か月で首都マニラを占領

マッカーサー率いるアメリカ軍はマニラから追い出され

マニラ近くのバターン半島で交戦するも

日本軍の勢いは止められず

マッカーサーの命さえ危ない状況に

アメリカ参謀本部から伝達が

「マッカーサーはフィリピンから逃げよ、君がいないと誰が指揮するのか」

それを聞いたマッカーサーは「兵を置き去りにして自分だけ逃げれるか」

と言って拒否するが

参謀本部からの命令には反抗できず

オーストラリアへ逃げた。

マッカーサーは思った「日本軍は少ない兵力なのに、なんて強い」

日本に対する恐怖感と憎悪で頭がいっぱいになった。

 

その後、日本軍は連戦連勝していたがミッドウエー海戦で惨敗して以降

勢いが無くなり、敗戦へと転がっていった。

マッカーサーにフィリピン奪還のチャンスが

アメリカ軍125万 日本守備隊40万(補給が絶たれ、武器や食料がぜんぜん足りていない)

弱っていた日本軍とはいえ勇猛果敢に戦ったが力尽きて

フィリピンはマッカーサーの手に落ちる

マッカーサーの日本への恐怖と憎悪は凄まじく

その後の日本への空爆に繋がる。

 

戦後、マッカーサーは滅びゆく国王は命乞いをすると

GHQ連合国軍最高司令長官にマッカーサーが就任

敗戦国、日本をどうするかはこの男の手に委ねられた。

マッカーサーは恐怖と憎悪で頭がいっぱい

日本人の精神を骨抜きにして

アメリカに盾突かない様、日本を創るために

「日本の形」を変えていく

まず、日本の戦争指導者は断罪する。

戦争指導者の頂点にいる天皇を極刑にして

アメリカに膝まつかせると考えていた。

昭和天皇とマッカーサーとの会談が決まった

マッカーサーは「西欧や支那の歴史を見ても

滅びゆく国王は自分の命だけは助けてと命乞いをする

部下に責任を擦り付け保身に走る」とタガをくくっていた。

 

天皇とマッカーサーの会談 マッカーサー激変

「今回の戦争責任は日本のトップである者が

それ相応の報いを受けるべき」

その処遇はマッカーサーに委ねられた。

運命の日、昭和20年9月27日

アメリカ大使館公邸 天皇とマッカーサーの初会談

マッカーサーは天皇の言動を予想した

「天皇も他の国王と同じく国民を犠牲にして、命乞いをするだろう」

公邸玄関で天皇を迎えたのは部下

天皇が司令長官室に入ると

マッカーサーはマドラスパイプをくわえソファーにドーンと座って出迎えていた。

常識にはあり得ないが どちらが上か思い知らせてやろうとの思い

マッカーサーは天皇に着席を促すが

天皇はそれを良しとせず、直立不動のまま話し出す

「それには及びません、本日は一つお願いに来ました」

これを聞いたマッカーサーは命乞いをしに来たと思った。

天皇のお言葉は彼の想像を絶するもの

私は、この度の戦争に伴う全ての責任を負います。」

マッカーサーは言葉を失う 天皇は続ける

「また、全ての軍人、政治家の行動にも 直接に責任を負います

全ては私の命で行われた事

日本には一人の戦犯も存在しません

私は、絞首刑はもちろん どの様な極刑に処されても

それに応じる覚悟です。

しかしながら、罪なき国民が住む家も無く、着る衣無く、

食べるに食無き姿に於いて まさに深憂(シンジュ)に耐えんものがあります。

この上は、どうか国民が生活に困らぬようご高配賜ります様にお願い申し上げます」

マッカーサーは感涙し目から鱗が落ちた。

「このように優しく美しい心をもった国王が存在するだろうか」

「いや、歴史的にみても天皇以外いない」

急いで立ち上がり天皇に着席を促すと

それまでの無礼を詫びた

天皇の真の姿を知り考えが一変する。

退出時にはマッカーサーは天皇を玄関までお見送りした。

その後も11回に渡り会談が行われた。

 

天皇の全国巡行 マッカーサーは日本の為に

計り知れない程の人々「万歳」の大合唱

日本各地で国民は天皇を涙と感謝の念で迎える

天皇と国民の信頼関係を目の当たりにしたマッカーサーは

「天皇を大切にして存続し、日本国民が生活できる様に尽力する」

と心に刻み

アメリカ本部からの残忍な指令は全て無視

日本の為に奔走し戦後直後の日本人の窮地を救った

 

マッカーサー帰米、日本国民からの感謝

マッカーサーが「日本の形、姿」を理解してくれなかったら

日本は植民地化されたか

1951年4月16日 マッカーサー帰米

大勢の日本人が感謝の念を抱きマッカーサーを見送った。

マッカーサーのもとには50万通の感謝の手紙が

 

「卑怯な振る舞いには怒り」「正々堂々」には賛美し認める

アメリカ人気質が強いマッカーサー

真の日本を理解し奔走したダグラス・マッカーサーと

私心が全く無い裕仁天皇(昭和天皇)が

日本の窮地を救い発展する礎をつくったと言っても言い過ぎではない。

天皇とマッカーサーだからできた大仕事

もし、マッカーサーでは無く他のアメリカ指導者や

ソビエト、支那の指導者が天皇の相手だったら

今日の日本は無かったと確信しています。

天皇とマッカーサーで良かったと思えてなりません。