改めて、自分のブログを見返した時に気付いたことがあります。

 2019(平成31・令和元)年と2021(令和3)年の記事がありません。

 月別に見ると、他にも2013(平成25)年6月から2014(平成26)年8月までの15か月が空白になっていて、この3回が「1年以上投稿のなかった期間」です。
 そもそも、このブログを始めたのが2013年の2月でした。そこから3月と5月に少し記事を書いた後、翌年の9月まで放置していたことになります。

 それ以前にも、実は別のブログをやっていました。

 しかし、次々と発覚していく長男の身体、そして発達の障礙への対応に迫られ、書いている暇がないうちに、そのブログサービスが終了してしまいました。
 放置せざるを得なかったため、記事のエクスポートなどもできないまま、全て消えてしまいました。

 そこで、記憶が残っているうちに、と7年ほど前、長女と長男が10歳になる頃に「振り返り」の記事を6本にわたって「連載」しています。

 

 

 

 

 

 

 

 恐らく、現在のこのブログを書き始めるきっかけになったのが「身体障害者手帳」の取得だろうと思います。

 2012(平成24)年の暮れに「身体障害者診断書」を外科の主治医(は15条指定医ではないので名義は指定医になっている部長)に書いてもらい、年末ギリギリに福祉事務所で申請しています。
 恐らくどこの自治体(福祉事務所)でも、各種「障害者手帳」の交付日は申請日に遡って発行します。この交付日が「法的に障害者になった日」になりますので、税控除などを考えると極力早く申請したほうが有利です。特に、このような「年」が変わるかどうか、という時期では、その差が大きくなります。
 長男の場合も、年内ギリギリで申請したので、2012年分の所得税などから「障害者控除」が適用されました。

 ただし、実際に「手帳」ができあがって受け取るまでには1か月半から2か月ほどかかります。
 長男の「身体障害者手帳」を受け取ったのも、翌年の2月に入ってからだったと思いますが、「確定申告」の時期には間に合いました。また、手帳を受け取ってからでないと「駐車禁止除外指定者標章」の申請や「有料道路料金割引(ETC含む)」の手続きなどもできません。交通機関の「障害者割引」も、実際に手帳を受け取ってからしか使えません。

 

 

 また、長男の場合には、審査の結果によって「第1種・3級」「第2種・4級」「非該当」のいずれにもなり得ると思いましたし、申請した時点ではまだ5歳でしたので(6歳になったのは手帳の受取後少ししてからです)、手帳が交付されたとしても「再認定」が必要になるのではないか、と思っていました。
 3級と4級での違い以上に、第1種と第2種の違いはとても大きいです(3級と2級の差はもっと大きいですが)。
 長男の場合は「内部障害」ですので「駐車禁止除外」は3級以上が条件ですが、交通機関(特に鉄道)の場合は第1種と第2種で介護者も割引になるかどうか、短距離でも割引になるか、という点で違いがあります。

 ちなみに2級になると、税法上「重度障害者」になり、より大きな控除が受けられ、当地では医療費も無料になります(地域によっては3級から、という所も少なくないようです)。また、就労に関しても、雇用者側から見た場合「重度障害者」1人を2.0人としてカウントできる、という「強味」もあります。
 ただし、内部障礙の場合は「単独の区分」で2級があるのは「肝臓」と「免疫不全」だけなので、区分をまたがった「複合障害」でないと2級になることはありません。3級の上は「1級」になります。
 また、内部3級以上は「郵便による不在者投票」制度の対象になります。4級は対象外です(内部障礙は4級以上しかありません)。とはいえ、長男は(物理的に)問題なく学校に通えていますので、お世話になることはないと思います。

 そんなことがあり、実際に手帳が交付されて「第1種・3級」かつ「再認定なし(不要)」だったことは、「一発満額回答」と言えるでしょう。


 勿論ですが、決して「障礙」の程度が重くなることを望んでいるわけではありません。
 現にある「障礙」は、事実として存在していて、それは「不変」ではないでしょうが、短期間に大きく変わるものではななく(変わるようであれば「再認定」が付くでしょう)、動かしようのない「事実」です。
 それに対して、どの程度の「障害」であるか、と判定されるに当たって「手帳のメリットとデメリット」を理解したうえで申請しているのですから、より広範囲な福祉的サービスが受けられるに越したことはない、という趣旨です。


 そんな経緯を経て、手帳が交付されてからしばらくは、小学校入学と、それに伴って勤務先を自宅や学校、放課後児童クラブから近い支社に異動してもらい、親子とも新しい環境になれるまでの間、記事を書くことが難しかったんだろう、と思います。
 振り返ると、何も書くことがなかったわけではないですし、むしろ「書きたかった出来事」はいくつもあるのですが、時間の経過とともに、正確に書くことが難しいな、と思って諦めました。
 それが、2013年から2014年にかけての「空白」になったんだと思います。

 2019年と2021年の空白は、中学校の1年と3年に相当します。

 もちろん、何もなかったわけではありません。
 むしろ、色々なことがありました。
 ただ、やはり「激動」の時期だったので、記事を書くゆとりがなかなか持てなかった、ということだと思います。

 大きな動きとしては、小学校から中学校、中学校から高校という移り変わりに関連したものが中心です。

 放課後児童クラブから放課後等デイサービス(内容としてはかなり違いますが)という変化。
 「習い事」的なものとしては、スイミングと空手からボウリングへと変わりました。
 中学卒業後の進路として、これまで漠然と(高等)特別支援学校を考えていましたが、一般の全日制普通科の高等学校への進学も考えるようになり、しかもその中にも複数の選択肢がありました。
 2019年に関しては、中学校に進学したこともありますが、それ以上に自分の勤務する部署が支社内で変わり、これまで経験したことのない分野になってしまったことが大きかったかも知れません。
 一方で、2021年については、その中学卒業後の進路選択に向けて、特別支援学校も全日制普通科の高校も「説明会」などへの参加が必要(更に「双子」なので必然的に同級生になる長女の進学先も考える必要がありました)だったりして、それに忙殺されたことも大きな要因ですが、それ以上に「新型コロナウイルス感染症」の影響もあったと思います。

 これを逆に、その「間」である2020年に書いた記事から見てみます。

 3月に、やっと筆を執ることができたようで、中学校に入ってからの1年間を振り返っています。

 

 

 4月に入ると、妻の乳癌が発覚し、入院・手術という事態になりますが、その直後に「保護ネコ」をもらい受けたりしています。

 

 

 

 一旦途絶えて、8月に自分の「大腸憩室炎」が再発した、というところで、また途切れます。

 

 

 そんなには書いていませんが、新型コロナウイルス感染症の影響で自宅にいる時間が長くなったこともあって、時々は記事を書く時間があったのかな、とも思います。

 本当は、2021年にあった出来事を、詳細に書いておきたかった、という気がしています。

 というのも、長女と長男が同時に中学校を卒業するに当たって、その先の進路に関し、様々なことをする必要があったからです。

 

 

 

 その一部は、2022年になってから、つまり中学3年の「3学期」にかいつまんで書いてはいますが、あまり詳細には触れられずに終わった気がしています。

 (高等)特別支援学校などや、インクルージョン教育の実践校の特例選抜などを志願するためには、それらの学校に何度か行って、指定された説明会や体験などに参加することが必要だったりします。

 実際に長男が進学したエンカレッジスクールなどの制度についても、あまり情報がなかったことと、本人が納得して理解できるか、という面からも説明会に行く必要がありました。
 この高校の説明会は、実は複数回行われていて、最後の最後に「念のため聞いておこう」的に「最終回」への参加となったのですが、秋口に実施された説明会には「部活動体験」もあって、現在入部している(どころか長男本人が「部長」だったりしますが)ボウリング部も受け入れをしていました。
 この時期には、もう長男も「マイボウラー」でしたが、これには間に合いませんでした。もし間に合っていれば、その時点から「有望株(何しろ競技人口が少ないので……)が入学・入部するかも」と期待されていたかもしれません。そのため入学後にいきなり(マイボールを持って)入部したので、先輩部員たちはさぞ驚いたようです。

 その他にも、(高等)特別支援学校への進学も視野に、療育手帳の取得に向けた動きがありました。

 

 

 同時に、長女の進学についても、色々と対応する必要がありました。
 長男とは異なり、学校との折り合いが悪く、成績の割に内申点が極端に低くなってしまったため、受験できる学校が限られてしまいました。自宅から近い高校で、本人の学力に見合うような学校がなかったため、隣接もしていない遠方の市にある高校を選ばざるを得なくなりました。

 また、万一私立高校に通うことになった場合に、夫婦を合算すると、いわゆる「高校無償化」の対象にならないこともあり、いわゆる「ペーパー離婚」の可能性も考えて、自分が一度「都道府県外(の親類宅)に転出する」という「技」を使ったりもしました。
 結果的に、二人とも公立高校に通うことになったので、元に戻すことになりました。

 紆余曲折があり、実はいわゆる「マイナンバーカード」を持っていないのですが、「個人番号通知書」はあるので、「マイナンバー」はわかります。
 しかし、他の家族はともかく、自分は一度、区市町村外に転出しているため(というより住所が変わった時点でダメなのですが)、この「個人番号通知書」は「マイナンバー」の証明には使えなくなっています(実際には「元の住所」に戻っているので、一見使えそうですし、事実使えてしまいそうな気もするのですが)。

 話が飛んでしまいますが、自分は「マイナンバー」の必要性や意味については理解していますし、どちらかと言えば「支持」しています。
 ですが「マイナンバーカード」となると、みんながみんな持つ意味がわかりません。
 重要なのは「マイナンバー」そのものであって、「カード」は選択肢の一つとしてならわかりますが、必須であるとは思えないのです。

 例えば、運転免許証には既にICチップも入っているのですから、これに「マイナンバー」もデータとして持たせてしまえば「マイナンバーカード」として使うことはできるはずです。
 健康保険証だって、費用が掛かり、保険者の負担はあるでしょうが、IC化させて「マイナンバー」も記録させれば、立派な「マイナンバーカード」になり得ます。保険者の費用負担に対して公的な助成金でも制度化すれば、どうにでもなるのではないでしょうか。
 そもそも、生活保護受給者でもなければ、健康保険証を持っているのが「普通」です。何らかの事情で健康保険証が持てないとか、一つだけしか「証明書」がないのが不安とか不便な場合にだけ、いわゆる「マイナンバーカード」を申請すればいいのではないでしょうか。
 どうしても、全国民(国籍問わず)に「マイナンバーカード」をあまねく作成することによって、何か「利権」が生まれているのではないか、と勘繰ってしまいます。

 「マイナンバーカード」については本旨ではありませんので、このくらいにしておきましょう。

 そういうことがあって、2021年には記事がないのですが、2022(令和4)年に入ったところから、そこまでの経緯も含めて記事の投稿を再開しています。
 二人の「高校受験」だけではなく、長男の高等特別支援学校の志願と受検、更にはそこからの「辞退(取下)」の経緯、中学校の卒業式、そして二人の15歳の誕生日など、その「3学期」の間には色々なことがありました。
 まだ新型コロナウイルス感染症の影響は続いており、修学旅行も延期につぐ延期の結果、とうとう中止になってしまいましたし、卒業式も「一家族1人まで」しか家族の出席が認められなかったため、自分は出られませんでした。「双子」なんか3組しかいない(3組もいる、とも言えますが)ので、「卒業生一人につき1人まで」としたところで、参加者は最大3人までしか増えないのです。明らかに「狙い撃ち」されているような気がしてなりませんでした。

 今でも中学校に対しては「不信感」しか残っていません。
 特別支援学級の担任の先生は、色々と良くしてくれましたが、特別支援学校以外の進路についてはほとんど知らず、この部分は自分で調べて確かめるしかなかったです。

 2022年になり、高校に進学してからは、時々思い出したようにちょこちょこ投降するようにはなったのですが、2023(令和5)年に入ると、前半は一時途絶えてしまいました。
 これは、2022年の夏に新型コロナウイルス感染症(長女が高校の部活の合宿でもらってきた)、暮れにはインフルエンザA型(これは自分がどこかでもらって長男にも感染した)と立て続けに罹患して(コロナは発熱がなかったため検査すらしてもらえず「疑い」のまま終わりましたが)、更に腰椎の「爆弾」が活動を開始したり、ということなどが影響したかも知れません。
 秋には、二人とも「修学旅行」があり、長男のには医療処置の関係でついて行きましたし、長女は今度はインフルエンザをもらってきたりして、ネタができたので投稿しています。

 そしてその後、長男はボウリング部員として「全国大会」への出場が続くようになりました。
 「競技ボウリング」の世界は狭いので、他の都道府県の選手や、自校OBを含めた何人ものプロボウラーからも憶えてもらえるような存在になりつつあります。
 余談ですが「ボウリングマガジン」という非常にニッチな月刊誌がベースボールマガジン社から発行されていて、実はこれに長男が写っている写真が載ったことがあります。名前までは載りませんでしたが、いつか名前が載る日も来るかもしれません。

 こんな感じで、時々、途切れ途切れになったりもしますが、できる限り書き続けて行こうと思います。