共働きの両親にとって、「保育園」というのは大きな「課題」です。
 昨今では「待機児童問題」というのが、しょっちゅう取り上げられていたりします。

 よく、「0、1、3歳のハードルがある」などと言われますが、一部の保育園に(早いところは産休明けから)預けられる最初の「0歳の壁」、原則すべての認可保育園が預かるようになる「1歳の壁」、そして「幼稚園」または「幼稚園の預かり保育」と(原則2歳児クラスまでの)「自治体独自の認定を受けた保育所」の「シャッフル」が起きる「3歳の壁」、といった言葉も耳にします。

 当家の子供達は、3月生まれなので、0歳児から預けるのは物理的に不可能。年度途中からの0歳児なんて、まず空きが出ません。
 0歳から預かる認可保育所は、その「持ち上がり」があるので、1歳から預けるのは、かなり難しい。そこで、狙い目は「1歳からしか預からない認可保育所」か「新規開所する認可保育所」ということになります。
 また、駅から近い保育所は、多くの親の通勤経路に近くなるから人気が高く、競争も激しい。
 幸いなことに、家のすぐ近くにある保育園は、1歳児から。しかも、駅から少し離れているので、近隣に住んでいる人以外は、あまり希望しなさそう。ただし、1歳児の受入予定人数は「3人」。……そのうち2人を占めようというのか(笑)。
 実際には、4人が受け入れられましたので、半数は当家の子供達。何と、他の子も含め、4人全員が「3月生まれ」でした。しかも、当家の双子は当然同じ誕生日ですが、残りの二人は、その二日後の偶然にも同じ日が誕生日でした。勿論、残りの二人は双子などではありません。
 ちなみに、その8年後、子供達の学童保育に、3学年下の1年生として、双子の姉妹が入所しましたが、その二人の誕生日は、うちの双子と同じ日。学童の「誕生日会」がすごいことになるね、と言っていたのですが、その双子は、年度の途中で、親の転勤で引っ越していってしまいました。
 保育園では「1歳児といっても、3月生まればかりだから、実質0歳児クラスみたいなもんだよね~」と、保育士さんたちが言っていたのを憶えています。

 こうして、保育園は、大した「壁」を感じることもなく「通過」したのですが、今度は「小1の壁」が待っていました。

 共働き世帯の子供達の多くは、小学校に上がると、「放課後児童クラブ」を利用します。地域によって、若干呼び名が違ったりしますので、本稿では「学童保育」という単語が度々登場しますが、実質同じものです。
 この他に、放課後も学校施設を利用し、地域などのボランティアや委託会社が運営する事業もあったりしますが、放課後の「生活の場」という位置付けの放課後児童クラブとは違い、どちらかというと「居場所」や「遊び場」の提供、という趣旨です。それに、開設時間も短かったり、長期休暇などに対応し切れていなかったりします。
 なので、高学年になればまだしも、低学年のうちは放課後児童クラブのほうが現実的。

 当家のある学区の小学校の場合、学校のすぐ近く(と言っても、当家から見ると学校の反対側)にクラブがありました。主な対象は、その小学校と、そこから10年ほど前に「分校」した隣の(と言っても、本当に目と鼻の先にある)小学校の児童。
 同じ保育園を出た子の大半は、そのどちらかの小学校に行くので、ほとんどがこのクラブに申し込む筈。その他にも、近隣には多数の保育園があるので、結構希望者は多い。何しろ、この少子高齢化のご時世に、児童数が千数百人に達して2校に「分割」されたような学区です。

 受入予定約15人、という、そのクラブに申し込んだのは、30人を軽く超えていたらしい。

 

 それでも「面接」して、家庭状況などを総合的に勘案して受け入れを決定する、というので、面接に行きました。

 建物の前に着いても、長男は中に入ろうとしません。
 頑なに入るのを嫌がります。

 長男は、いわゆる「霊感(略)とかが強いタイプ」のキャラではありません。
 でも、その微妙に薄暗い感じの雰囲気、その他、色々な「何か」を感じ取っていたのだと思います。発達障礙ゆえに、その「何か」をうまく他人に伝えられない、そんな感じでした。
 何とか、中に連れて入っても落ち着かず、やけに「シュタイナー教育」とやらにこだわりを持つらしい指導員にも馴染めなさそうで、傍目から見ても「この子を預かったら、果てしなく大変そうだ」と思われるに違いない。

 もうこれは、ここに預けるのは最初から諦めよう、と思いました。
 正直、この時点で、筆者か妻、どちらかが退職ないし転職することも考えました。

 そんな時に、どこからか「隣の学区の学童保育は、まだ募集を受け付けている」という情報が流れてきました。その隣の学区というのは、あの「通級教室」のある小学校です。
 とにかく、説明を聞きに行き、「数的には受け入れ可能だから、入るなら申込書書いて」ということに。建物は決して新しくはないけれど、長男も違和感なく出入りできたし、何よりも「あー、発達障礙? これまでも自閉症の子とか、何人も預かったから、大丈夫っしょ」と、ほとんど抵抗なく受け入てくれそうなのが、決め手になりました。

 問題は、小学校から学童までの「移動」。学区内のクラブなら、目と鼻の先なので、歩いて行くのも問題ありません。下校時にも「学童班」があって、そこで一緒に行けばいいだけです。
 ところが、大人であれば歩くことも簡単な距離でも、6歳になったばかりの子供では、相当な距離です。路線バスを使って移動せざるを得ません。

 バスに乗る「練習」はしたのですが、何も起きなければ大したことがなくても、そううまくいく時ばかりでもないでしょう。
 実際、天候が悪かったり、道路交通事情によってバスが遅れたり、来ても満員で乗れなかったり、ということがよくあります。特に、バスルート上の手前にある高校がテスト期間になると、下校が集中するため、高校生でバスが満員になってしまう、ということもあります。
 元々20分に1本のバスですが、3本続けて乗れなかった、というようなこともあったり。そんな、大人なら絶対に徒歩に切り替えるような状況でも、子供達だけで判断できるようになるには、何年かかかりました。

 実際に、学童には他学区の児童が結構いたのですが、中にはバスで30分くらいかかる小学校から来る1年生もいました。その子は、身体も大きく、見た目も言動もしっかりしていて、とてもうちの子供達と同じ学年には見えなかったのですが、ある時たまたま、後述する勤務先支社の近くを泣きながら歩いている姿を見ました。
 聞くと、学童の近くのバス停で降り損ない、駅前のバス停まで来てしまったのだそうです。
 どんなにしっかりしているように見えても、やはり小学1年生。予期せぬ事態への対応は、なかなか難しいのだろうと思います。


 他にも、学区の学童に入れず、隣の学区の学童に通う子が何人かいたため、最初の1か月くらいは、学童の指導員が、迎えなど対応してくれました。
 が、それ以降は、自分たちだけで移動しなければなりません。

 こうなるとわかっていれば、そもそも小学校を隣の学区の小学校にする「学区外特例」を申請していました。両親の通勤経路などの要件が合致するので、適用できることは知っていたのです。
 そうすれば、仮に「通級教室」を利用することになっても、同じ学校の敷地内になる、という利点もあります。
 でも、毎日、大人の足でも15分、6歳児なら30分近くは見なければならない学校まで、それも交通量の多い道沿いに歩くのは、やや不安がありました。それ以上に、既に本来の小学校に、トイレの改造などをしてもらっていることもありました。
 今更、進学する小学校を変更することも難しくなっていたのです。


 たまたま、その「隣の学区の小学校」の近くに、勤務先の「支社」がありました。十数年前、まだ平社員だった頃の筆者は、そこに配属されていたこともありました。その頃に、現在の場所に転居したのです。
 色々と画策して、小学校進学に合わせ、その支社の「閑職」ポストに異動してもらいました。たまたま、そこが空いていたのです。
 元々、そのポストは、管理職でありながら、心身故障から回復しつつある人や、育休明けの人などがよく配置されるポストです。前任者は、そこでも更に故障してしまったらしく、総務部付になっていましたが、後任は置かず、他部署の管理職が兼務していました。それでも勤まるようなポストです。

 そんなポスト、そんな部署だったので、他の社員もシングルマザーとか、持病持ちの再雇用嘱託員とか、そういう状況。
 なので、そんな筆者の状況にも理解があり、昼休みをずらしてもらい、子供達の下校時刻に合わせて抜け出し、バス停でコンビニ弁当を食べながら待つ、ということを半年ほど続けました。

 最後は、学校の近くのバス停ではなく、学童の近くのバス停で待つ形に変え、1年生の12月頃には、子供達だけで移動できるようになりました。
 元々、乗物好きな長男。多少「パニック」になってしまうと固まりますが、そこは「多少どんくさいけど見知らぬ人とすぐに仲良くなる」長女と補完し合いながら、うまく乗り切っているようです。

 さて、その支社の「閑職」。忙しくないとは言っても、経理の一端も担っているので、これまで比較的「経理」とは縁遠かった筆者には、学ぶことも色々ありました。
 せっかくだから、3年くらい、子供達が低学年の間くらいは、ここできっちり勉強しよう、と思っていたのですが、1年で支社内での異動を言い渡されます。
 1ランク昇格させてやるから、と言われ、かつてその支社で担当していた部門へ呼び戻されました、その「閑職」ポストから「昇格」で転出する例は、ほとんど聞いたことがない処遇だったりします。
 が、その異動先は、繁閑の差がかなり激しく、暇な時はその「閑職」に匹敵するかそれ以上、忙しい時は、恐らく支社の中でも「最大のブラック職場」になってしまいます。

 それでも、かつて平社員として担当したし、他の支社などでも何度か関わった分野でもあるので、仕事の「波」のリズムはわかっているから、どうにかなるのかな、と思っています。

 そのまま3年が過ぎようとしています。

 どうにかこうにか、ここまで来ましたが、以前書いたように、2年ほど前には、筆者自身が「うつ」を再発したりもしました。それでも、これまでの経験で、どうにかそれも乗りきりました。

 この先、高学年となって、どのようなことが起こるのか。また、自分自身の身体だって、年齢を考えれば、結構ギリギリで無茶をしている気もしないでもないです。

 

 が、まあ、このブログが更新されているうちは、それなりに元気なんだと、思っていただければ幸甚です。

 (このシリーズ終了)