■ 嵐の日には沖へ出よ (※大型船に限る)

 

先週の台風21号で、関西空港連絡橋にタンカーが激突してた件。

私のド素人目線でも、不思議に思ったことが一つ。

 

「あのタンカーは、どうしてそんなところに停泊していたのだろう?」

 

空港島と、大阪岸の間に停泊してたんだね。

しかも連絡橋からもけっこう近い海域で。

大嵐の退避場所としては、不適切だよね。

 

(読売新聞)  船長「安全と思った」…「走錨」多発の関空周辺

 

しかも海保から二度も注意を受けていて、この事故になったという。

賠償責任はいかほどか……は、私の考えることではないからスルーして、

本題に入ろう。

 

【今回のもくじ】

 

・ 嵐の日には沖へ出よ (※大型船に限る)
・ 船舶と人間をおきかえて考えてみる
・ 多数派に盲従してはならない
・ 神の声(正しい導き)は、ふつうの手段で届けられる
・ 救いの岩である神にアンカー(錨)する
・ ぼんやりしないで、目を覚まして生きなさい

 

■ 船舶と人間をおきかえて考えてみる

 

台風など、海が大シケになることが分かっている場合、

大型船は、陸から離れた沖合へ退避するはずなんだよね。

 

以前にもそういう記事を書いたな~と思って探してみたら、

2015年1月5日に書いてた。

 → ハガル(ハガラズ):嵐の日には沖へ出よ。

 

 大型船はむしろ、岸壁から離れて沖合にいる方が安全です。
 港の中にいると、うちよせる波に揺られて、

 船が岸壁にぶつかり船が破損する恐れがあります。
 もし船が流されて他の船舶にぶつかりでもすれば損害賠償問題が発生します。
 (何かにぶつかったときの衝撃は、

 船の質量とぶつかった速度の2乗に比例しますから、
 大型船になるほど破損リスクが高まります。)

 

 ……台風が来るときは、港湾管理者側から、
 大型船は港から出ていってくださいという命令(勧告)が出されることもあるようです。

 

↑3年前のこの記事は、

天災を現すルーン文字解説の一環として書いた。

今回はそこから一部借用しつつ、あらためて神と聖書という視点から見ていきたい。

 

■ 多数派に盲従してはならない

 

地震はいきなりやって来るから避けようがないのだけれど、

台風はじめ、悪天候ということなら、遅くとも数時間前には予測ができるはずなのだ。

これは人生の嵐も同じ。

 

嵐が来そうな気配を感じたなら(事前に必ずいくつかの予兆があるはずだ)、

適切な退避・避難行動をとらないといけない。

 

私がルーン魔女KAZ活動をやめたのも、

嵐を避けるための退避行動だと思ってもらってもいい。

なんとも名状しがたい違和感・予兆・気配を感じていたところに、

ペオース(パース)でもはっきりと勧告されたから、勧告に従うことにした。

  (参考) その日時は誰も知らない … エゴの世界が崩壊する日/私がルーン魔女活動をやめた理由

 

で、私のことはともかくとして、

人生の嵐を察知した時に、どこへどのように避難するのが正しいかについては、

大きな個人差があると思っておいた方がいい。

 

 台風が直撃してくるときは……

 海上にいる船舶は、どこにどのように避難すればよいのでしょう。

 海事関係者ならご存知のことかと思いますが、
 船舶の大きさによって、避難する方向がまったく逆になります。

 ■ 小型船 ―― 個人クルーザー、小型漁船、ボート、ヨットなど
 …… 港湾内の船着き場に退避。岸壁にロープでしっかり係留する。

 ■ 大型船 ―― タンカー、貨物船、フェリーなど
 …… 港湾から出ていく。水深の深い沖合でアンカーを降ろして停泊。

 素人感覚だと、嵐で海が大シケになるときは、
 船は防波堤の内側、港の中にいる方が安全なように思います。
 それは小型船の話です。 

 

 海が大シケのときには、大型船は沖合で停泊して、天候が落ち着くまで待っています。
 大型船は重量と大きさがあって安定していますから、
 沖合で波と風にゆられても、転覆することはないのです。

 

 ……自分が今、どんな大きさの船に乗っているのか。
 小型船か、大型船か。
 それを把握してから、避難方法を決めましょう。

 まちがっても、考えなしに他者の後についていくようなことはしないように。

 多くの人が港湾内へ退避していく流れを逆走して、
 あえて一人で沖合へ出ていかなければならないことも、じゅうぶんにありえるのです。

 

他者のまっとうな意見・アドバイスはありがたく聞くべきだが、

それに従うかどうかは、自分で判断しないといけない。

相手が善意で間違ったアドバイスをしている場合もあるのだから。

 

もしみんなが東に向かっていても、

自分は西に向かうべきだと判断できる確かな事情があるなら、

「みんなと同じ」という流れから抜け出さなきゃならない。

 

新約聖書のイエスもまた、世界の終末についての注意点として、

「多数派に扇動されること」の危うさを指摘している。

 

 惑わされないように気をつけなさい。

 わたしの名を名乗る者が大勢現れ

 『わたしがそれだ』とか、

 『時が近づいた』とか言うが、

 ついて行ってはならない。

 

 戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。

 こういうことがまず起こるに決まっているが、

 世の終わりはすぐには来ないからである。

 

 ……民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。 

 そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、

 恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。

                     

 ――『ルカによる福音書』 21章8-11節

 

大きな天災が起こるたびに、デマも流れる。

だましてやろうという悪意はなくても、恐怖で勘違いが増幅された結果、

あたかも事実であるかのように広がってしまうデマ情報もある。

 

ともかく、非常時には、他者の言いなりになるのではなく、

自分で情報を精査する冷静さが必要になる。

そのためには、平時から「多数派に盲従しない」という習慣をもっておくしかない。

 

多数派の正しさには何の根拠もない。

歴史をみれば……いや、今日のニュースを見るだけでも、

多数派の支持する内容にはおかしなものが多分に含まれていることがわかるよね。

 

多数派に盲従しないで、自分で判断する。

 

しかし、自分の判断が、「自分のエゴの判断」になってしまうと、

先日のタンカーのような事故を起こしてしまうから要注意だよね。

 

関空連絡橋に激突したタンカーの船長は、

 

 海域外だと認識していたが、「安全だと思った」と説明している

 

とのことだ。   (読売新聞)  船長「安全と思った」…「走錨」多発の関空周辺

 

退避場所としては正しくない海域だけど大丈夫という、

「自分のエゴの判断」に固執すると、

避けられたはずの難がふりかかってくることになる……

 

■ 神の声(正しい導き)は、ふつうの手段で届けられる

 

多数派に流されず、己のエゴにも引きずられないようにするには、

神としっかりつながるのが一番安全で確実だと思う。

 

具体的には、

 

 「自分の判断には必ずバイアス(偏見)が混じっている」

  という、自分の不完全さを認めること。

 

・ 聞くべき声には素直に聞き従う姿勢。

 

先日のタンカー事故の場合も、事前にちゃんと神の声が届けられていた。

「退避場所をもっと沖合へ移せ」という海上保安庁からの注意。

 

海上保安庁は神じゃない。

それはわかっている。

でも、誰でも、どんな事象でも、神の声の代弁者にはなりうるのだ。

神の声の代弁者のことを「預言者」ともいう。

 

私も今夏は、「熱中症に厳重警戒を」という神の声をさんざんスルーしたあげくに、

熱中症で倒れるというおバカな事態を招いてしまった。

 (参考) 熱中症になりました((+_+)) … 預言のオオカミ少年化、警報を聞く側の心がけ

 (参考) いちばん重要な神業(カミワザ)はどれ? … 神意を正しく理解して受けいれること

 

だから、なおさらこう思う……

 

神の声を聞くのに特殊な霊能力はいらない。

神の声に聞き従う素直さが求められるのみ。

 

素直に神の声に聞き従うという点で、

小利口な大人よりも、子どもの方がはるかに優れているし、イエスもそう言っている。

 

 「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。
 これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、
 幼子のような者にお示しになりました。
                      
 ――『マタイ福音書』 11章25節

    (参考) 生命の樹への道であるキリスト … 受けいれる(QBL・カバラ)/信じる(AMN・アーメン)

 

イエスはしばしば、話の最後に
聞く耳のある者は聞きなさい」と言っている。
もちろん物理聴覚は関係ない。
「聞く耳」とは、イエスの話を受けいれる心の在り様のこと。
「神の声に心を開いている状態」といってもいい。
 
どれだけ神の声を聞いて、その内容を理解したとしても、
その声に従わなければ聞こえていないのと同じ。
 
「安全な避難場所はここですよ」と教えてもらって、
「わかりました。そこへ行きます」と言っても、
実際にそこに行くという行動が伴わなければ意味がない。
 
 わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。
 わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。
                        
 ――『マタイ福音書』 7章21節
 
■ 救いの岩である神にアンカー(錨)する
 
関空のタンカー事故の原因は、
 
 ・停泊場所が不適切 (海保の警告を無視)
 
 ・走錨 (錨を降ろしたまま船が流される)
 
とのことで。
「走錨・そうびょう」という専門用語を初めて知ったよ。
 
走錨……アンカーは船が流されないための道具なのに。
アンカーごと流されてしまうのではどうしようもない。
 
ただ、このタンカーが停泊していた海域は、海底が砂地?で、
過去にも走錨が多発しているという情報もあるみたいね。
 
もしそれが事実なら、タンカーは避難海域のチョイスを間違っただけでなく、
アンカーポイントも間違っていたことになるね。
 
そりゃ、砂地にアンカーしてたのであれば、強風と荒波に流されても不思議はない。
それこそ、4歳のお友だちでも理解できる物理現象ではないかと思う。
 
イエスは山上の説教で、家を建てる土台のたとえ話をしている。
砂地と岩と、どちらを土台とするべきか。
家をアンカーにおきかえても、結論は同じになる。
 
 そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、
 岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。 
 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。
 岩を土台としていたからである。 
 
 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、
 砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。 
 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、
 倒れて、その倒れ方がひどかった。
                  
 ――『マタイ福音書』 7章24-27節
 
最初は不適切な海域に停泊していたとしても、
海保の警告に従って、停泊場所を変えていれば助かったんだよね……
関空沖の海底は、きっと砂地ではなくて岩なんだろうね。
 
まあ、停泊する海域がどこであろうと、
アンカーは、不動の岩に噛ませるから、船の漂流を防げるわけで。
砂地にアンカーしてもしょうがない。
 
旧約聖書では、神ヤハウェを「岩」と表現することが多い。
とくに『詩編』に目立つ。
大岩、砦の岩、救いの岩、逃れの岩、心の岩……等々。
 
古代ユダヤ人にとって、岩というシンボルは、
何があっても崩れない、安全な神シェルターのイメージなのだと思う。
 
イエスの人間職業は大工だった。
建築家イエスは、平素から物事の土台には強いこだわりがあったに違いない。
だから「神という岩を土台とせよ」という話になおさら説得力がある。
 
ちなみに日本の国歌「君が代」も「岩」にこだわりのある歌詞だ。
 
 君が代は 千代に八千代に さざれ石の いわおとなりて 苔のむすまで
 
巌(いわお)は大岩のこと。
日ユ同祖論では、君が代の「君」は天皇ではなく、神YHWH(ヤハウェ)であり、
「千代」は「シオン」のことだという。(シオン=エルサレムの別称)
 
君が代の意味は、こう考える。
 
神の治める代は、千代にシオンに立つ大岩のように、ゆるぎなきもの」。
 
あるいは 「シオンの岩なる神の治世は千代に及ぶ」。
 
イエスや君が代のいうとおり、
家を建てる土台だけでなく、船をつなぎとめるアンカーも、
やはり本物の神YHWHという岩、永久不動のシオンの岩に定めるべきだろうね。
(※あくまで霊的なシオンであって、地球の現世的シオニズム運動や地理的イスラエル国とは無関係)
 
各種スピリチュアル事に頼ったり、あちこちの神社仏閣をはしご参拝するのは、
頼りない砂地にアンカーするのと同じ。
砂地にアンカーしても、クラゲのように流されるのを止められない。
 
神道は八百万神を祀ってしまったために、焦点がぼやけている。
アンカーすべき対象としての神をうまくイメージできないという欠点を抱えている。
 
だからいざという時になっても、
確信をもってアンカリング(心を定める錨をおろす)するポイントが絞れない。
とりあえずこの辺だと目したポイントにアンカーしても、
堅い岩にアンカーできたという安心感がえられない。

その不安を解消するために、複数の霊的テクニックや神社仏閣をはしごして、
それぞれのご利益・加護を期待するということになる。
でも、そのやり方では、永久に心が落ち着かない。
そういう砂地に何本アンカーを降ろしたところで、大嵐には対応できない。
 
砂地にアンカーしても、ちょっとの強風や大波なら耐えられると思う。
日常レベルの嵐なら、それでとくに不都合はないのだと思う。
 
でも、砂地アンカーでは、先日の台風21号のような大嵐には耐ええない。
砂地にアンカーするとどうなるかは、あのタンカー船が証明してくれたとおり。
タンカーの船名は「宝運丸」……ずいぶんな皮肉だなあ。
 
霊的に敏感な人は、嵐を予感して、
安全な所に退避して、アンカーすることは上手だと思う。
 
しかし退避場所が不適切だったり、砂地にアンカーしていたのでは、
大嵐には対応できないね。
早めに退避しよう、アンカーしようという判断は正しくても、
アンカーすべき場所と対象を誤ると、激しい神風に翻弄されて大破……
 
タンカー船の事故は、人的被害がゼロだったのがまだ幸いだったね。
事故の責任問題は当事者で話し合ってもらうことにして、
私のように外野の者は、これを教訓として、各々の日常に活かせばよいかと思う。
 
 神を愛する者たち、
 つまり、御計画に従って召された者たちには、
 万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
                
 ――新約聖書 『ローマ人への手紙』 8章28節
 
■ ぼんやりしないで、目を覚まして生きなさい
 
今夏のお天気ニュースでは、
 
「数十年に一度の……」
「想定外の……」
「前例のない……」
「異例の……」
「観測史上初の……」
 
という表現を連日聞かされたような気がする。
東から西に進んできた台風12号なんてのもいたね。
 
前例があろうがなかろうが、起こるものは起こる。
 
という事実を、くりかえし学習させられた夏でもあったような……
 
通常なら大丈夫だけど、想定外の事態が起こったので対応できませんでした」
 
という弁明を何回も聞いた夏でもあった……
 
いつそれが起こるかは、神の采配による。
人はそれを知らない。
人間が言う「大丈夫☆」という言葉には何の保証もない。
神の手は「人間の大丈夫」などスルーして、いくらでも「想定外」を起こせる。
 
 身分の低い者から高い者に至るまで
 皆、利をむさぼり
 預言者から祭司にいたるまで皆、欺く。
 
 彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して
 平和がないのに、『平和、平和』と言う
                   
  ―― 旧約聖書 『エレミヤ書』 6章13、14節
 
古代ユダヤの預言者は実に正しかった……
彼らは口先で唱えるコトダマや、先祖の言い伝え等を否定して憎まれた。
各種神像はキュウリ畑のかかしのようなものだと断言して反感を買った。
ポジティブシンキング等のメソッド類を容赦なく粉砕して迫害された。
エゴの急所を突いて、逆恨みされた。
彼らが伝えた預言は神の言葉だから、今もリアルタイムで心に響く。
 
「天災は忘れたころにやって来る」ということわざがあるけど、
いまや「天災は忘れる暇もなくやって来る」だもんね。
 
私には昨今の天災が、預言者エレミヤ時代の雰囲気に似ていると感じられる。
ぼんやり眠ったような状態で生きるのをやめなさい」という神の声に聞こえる。
日々ぼんやりしていないで、注意深く生きなさいと。
 
天災が「忘れたころにやって来る」のでは目覚まし効果が弱いから、
「忘れる暇もないほど続けざまにやって来る」のかなと。
そうしたら、嫌でも多くの人の目が覚めて、意識が変わるでしょ。
 
今年のお天気ニュースでの注意呼びかけは、
かなり強い表現で、しつこいぐらいに繰り返し伝えているよね。
数年前までは、台風や大雨洪水警報ごとき
避難の呼びかけなんかしなかったと思うけど……
私は、大雨洪水警報とか、梅雨前線なんてのは、雑魚としか思ってなかった。
台風もほとんどがビッグマウスの雑魚というイメージで。
たぶん、こういう感覚でいたのは私だけではないと思う、マスコミもそうだったと思う。
でも、短期間に大きな気象災害が続いたことで、
マスコミもまた、お天気報道のあり方を見直したってことだよね。
警報が空振りになってもいいから、しかるべき注意喚起をするべし」。
 
まっとうな注意報はちゃんと聞くこと。
そして、何らかの方法で神の声を聞いたなら、ちゃんとそれに従うこと。
見直すべきことは見直して、あるべき様に変えていくこと……
どれも難しいことではない。
「聞く耳」さえあれば、子どもでも実行可能なこと。
 
宗教関係なし、霊能力関係なし。
神は今も、すべての人に、語っているはずなんだよね。
 
 オマエの言う「大丈夫」は、何を根拠とした「大丈夫」なのか?
 オマエがもたれかかっている「それ」は、本当に「大丈夫」なものなのか?
 
広域天災だけでなく、ごく個人的な範囲でも、
「人間の想定外のこと」はいつでも起こりうる。
 
日本の場合は、天災への備え・対応・被災情報をとおして、
日ごろの生き方そのものについて見なおしてほしいというのが、
神の意図ではないかと、私は思っている。
 
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私の好きな曲。
歌詞はマルコ福音書13章のラテン語。

【Vigilate ヴィジラーテ/目を覚ましていなさい】


 

 だから、目を覚ましていなさい。
     Vigilate,
 
 いつ家の主人が帰って来るのか、
 夕方か、夜中か、
鶏の鳴くころか、明け方か、
 あなたがたには分からないからである。
     nescitis enim quando dominus domus veniat:
     sero, an media nocte,
an galli cantu, an mane.
 
 主人が突然帰って来て、
 あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。
     Vigilate ergo, ne cum venerit repente, inveniat vos dormientes.

 
あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。
 目を覚ましていなさい。

     Quod autem dico vobis, omnibus dico : vigilate.

   ――『マルコによる福音書』 13章35-37節

 

 

 

※ 記事中の聖句引用元/日本聖書協会『新共同訳聖書』または『口語訳聖書』

 

※ イエスキリストの純粋な福音を知りたい人には
  『キリスト教放送局 FEBC』をお勧めします。
 
■ 「神と聖書と日ユ同祖論」 記事一覧&リンク →こちら
 
 

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