セルフケアを教える介護講師
花野ほほ美です
アロマケアを受けて下さったお客様とパチリ(去年の写真)
コロナコロナで、
自粛生活が続く中、
家族と上手く折り合いを付けられなくなって
虐待や離婚騒ぎになる人が
たくさんいらっしゃる。
メンタルが落ちて
どんどんストレスが溜まって
免疫力が落ちるケースが多い。
/
そんな状況を
心からどうにかしたい!
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私の持っているメンタル系の資格を活かして
コロナ自粛による家庭崩壊や
免疫力の低下を防ぐことで
私に縁のある人だけでもいいから
今まで以上にHAPPYな生活を送って欲しい!!!
心からそう思い、
母と2人で電話お話サービスを始めた次第です。
私と母は、
今でこそ仲良し親子として
一緒にお仕事をしていますが、
5年くらいまでは大げんかして
完全に絶縁状態であったのです
理由としては簡単な話。
「お互いのことを
理解することが出来なかった。」
からです。
お互いのことを理解することが
出来なかった一番大きな原因は、
「私が自分に自信を持つことが
出来なかったこと」
「私が母の自分に対する深い愛情を
理解することが出来なかったこと」
であると、
今では考えています。
順を追ってお話させてもらいますね
私の母(以下・洋子)は、
幼い頃から治療家の祖母と一緒に
毎日行動していたため、
自分も祖母のように
病気の人を助ける仕事がしたい!
出来ることなら医者になりたい!
そう思いながら成長してきました。
それでも現実は厳しくて。
洋子の両親は貧乏で、
小さい借家暮らしでした。
洋子の父は
「このままでは洋子を
大学まで出してやることが出来ない。」
と一念発起して
小さな工場を立ち上げて
自営するようになります。
その工場の手伝いをしていた洋子。
小さい時から旋盤を回し、
鉄くずにまみれながら仕事をして
勉強をしている時間は全くありませんでした。
それでも家は貧しかったために
結局念願の医学部に行くことは
到底叶わなかったのです。
悔しい気持ちを抱いた洋子は、
「教師」
という道を選択します。
学生の勉強をサポートすることで
その学生の夢を叶えるチャンスを与えたい。
そう考えた洋子は
家庭教師のアルバイトの中で
「絶対、私立の中学なんか無理」
と言われていた生徒を
私立の中学に合格させて
自分の信念と教育方針に自信を持ちます。
その頃から
「自分に子供が出来たら
絶対にしっかりした教育を受けさせて
医学部に行かせてやるんだ。」
と、心に決めていたのです。
そんな洋子の元に
長女として生まれて来たのが私です
ほほ・1歳 小さな頃からお茶目なの
私は、母・洋子が教員として
中学校で働いている時にお腹に宿りました。
お腹の中からすでに胎教はバッチリで、
私は毎日のように授業を聞いて、
家ではクラシックや英語のテープを聞いて
母の教育方針に沿ってスクスクと育ちました。
産まれてからは、
何故か私はすぐに
洋子の父である私の祖父によって
病室から連れ去られて、
祖父の知り合いの家で
見せびらかされていたようです笑
私はとても幼い頃からの記憶がありますが、
常に数字や漢字、俳句や英語に
触れていたような気がします。
4歳の頃にはすでに
分数の掛け算・割り算の問題を
解いていました。
その頃は、
特に母は私の将来の話をしていませんでした。
私は、
絵や文を書くのが好きだったので
将来は
「小説家になりたい。」
「漫画家になりたい。」
などと、
はしゃいでいたような気がします。
他の子供が
「看護師になりたい。」
「医者になりたい。」
「保母さんになりたい。」
などと話している中で
自分は
「出来れば大人になったら
勉強をしないで生きていける職業がいいな。」
なんて、
勝手な夢を抱いていたのです。
何故ならば、
「勉強勉強の生活を
さっさと終わらせらかったから!」
私、勉強が嫌いではなかったのですけど、
大人になってまで
勉強していたくなかったのですよ。
「今勉強しておけば
もっと大きくなってから
勉強する苦労をしなくていいんだよ。」
なんて、
父や母の甘い言葉に乗せられて、
先に勉強してさっさと楽に生きたいと
思っていた私。笑。
この大きな勘違いが
将来的に母と私の関係性を
大きく狂わせて行くとは
その時は思いもしませんでした。
私は母に喜んで貰いたくて
勉強をしていただけだったのかもしれません。
その後、
医学部を目指して勉強していた私は
勉強について行けなくなって
躁鬱病になって家出。
その後の母と私の関係性は
こちらの記事をご覧下さいね
↑私の半生をまとめた記事になります。
↑母の経営する葬儀会社を手伝っていた頃