さいたま市が誇る戦国の名将・太田資正(法名は三楽斎)ゆかりの地を歩いた投稿を、内容別に整理し、インデックスページにしました。
【注意点】
- テーマ『地元歩き(主に岩槻城周り)』の投稿を再整理したものです。最新投稿はまずテーマにヒモ付けてアップされ、ある程度たまってからこちらで整理します。
- 以前、太田資正関連投稿のインデックスの「太田資正のこと」にまとめていた内容を、移しました。(字数オーバーになってしまったので(笑))
- 散歩モノではない投稿も混ざっていますが、ご容赦。
整理の構造は、
1.岩槻城
1ー①.岩槻城址公園
1ー②.街中に残る岩槻城の地形
1ー③.岩槻城を語る(築城者問題等)
2.岩槻城以外の岩槻史跡
3.埼玉県内の太田資正関係史跡
3ー①.さいたま市内(岩槻以外)
3ー②.さいたま市外
4.埼玉県外の太田資正関係史跡
4ー①.東京都
4ー②.栃木県
4ー③.群馬県
5.その他
※ ※ ※
1.岩槻城(岩付城)を歩く
太田資正の居城、岩槻城(埼玉県さいたま市、資正の時代は「岩付城」)。今は本丸跡がガソリンスタンドになっている悲しい城跡です。
しかし、出丸を公園化した城址公園にはかつての土の城の土塁・空堀が良好に残っていますし、街の中でもかつて威容を誇った巨大な大構(城下町ごと城を囲む堀と土塁)の跡の高低差を至るところで確認できます。
岩槻城は、公園内の保存された土の城の地形と、街の中にひっそり残された縄張りの高低差を「ブラタモリ」的に楽しめる、実に面白い城なのです。
例えば、岩槻城絵図に現在の地名を重ねると・・・
現在の地図にかつての岩槻城を重ねると・・・
実際に歩いてみると・・・
こんな感じの散歩録です。
1ー①.岩槻城公園を歩く
岩槻城の言わば出丸だった「鍛冶曲輪」と「新曲輪」。その跡地が、今日の岩槻城址公園になっています。公園の中には、土の城・岩槻城の地形が、想像以上に残されていました。
・岩槻城絵図を片手に城址公園を歩こう
城址公園に残る地形を、江戸時代に描かれた岩槻城絵図と対照させながら歩きました。事前に考えていた以上に絵図の地形がそのまま残されていることが分かり、驚きました。初めて岩槻城址公園に行く人に読んでほしい自信作です。
↑岩槻城絵図を見て土塁・空堀の地形を確認しながら公園散策
・武具蔵跡から新曲輪を望む
この眺め↓、好きです。
・岩付城(岩槻城)址を歩く ~多目的広場~
・岩付城(岩付城)址を歩く
最初期の岩槻城址公園散策。
まだ、「鍛冶曲輪」や「新曲輪」の地形が頭に入っていない段階での散策なので、ぬるい感想を述べています(笑)。
1ー②.岩槻の街に残る城の地形(高低差)を探る
岩槻城は、城を城下町ごと囲んだ「大構」によって守られた城。その跡の高低差は、今も岩槻の町中に残されています。
この跡を探すのも、岩槻城散策の楽しみ。
岩槻城址公園だけが岩槻城址ではないのです。
・「ブラタモリ」的 岩槻城の地形を味わうドライブ
岩槻城絵図と県道2号線を対照させてみました。県道2号線(旧国道16号線)をクルマで走るだけで、かつての岩槻城の地形が味わえると分かってもらえるはず。
・岩槻城と「丸ケ崎」
・『岩槻城并侍屋敷城下町迄惣絵図』の加倉口・大手門
岩槻城絵図と現在の地形図を重ね、加倉口や大手門があった場所を探りました。大手門付近の造りは、敵を櫓から攻撃しやすく導くものとなっていて、感動しました。
結構自信作です。
・久伊豆神社の裏で元荒川の川筋を探る
岩槻・久伊豆神社は、岩槻城の北の守りであった「新正寺曲輪」跡に立っています。かつてはこの神社の裏を、元荒川が流れて、岩槻城の外堀の役割を果たしていたと言います。
その跡を探りました。
(久伊豆神社の裏手にある、かつての元荒川川筋の跡?)
・岩槻・浄安寺を歩く&岩槻城の隠れた楽しみ方
岩槻の浄安寺と言えば、江戸時代の儒学者・児玉南柯の墓が有名ですが、見所はそれだけではありません。ぜひ、この寺の裏手に回ってみてください。
・久伊豆神社散歩
・岩槻城(岩付城)の大構を探る
岩槻城の大構(城下町ごと城を囲む土塁・空堀)のまとめ投稿。大構の跡は愛宕神社にのみ残る、という説明をよく目にしますが、私に言われせれば、あれはウソです。
・元荒川から見る岩付城(岩槻城)
これも好きな眺めです。
平林寺跡付近に残る「シンボリ」という地名。
岩槻城が乗る台地・岩槻支台を横断するこの巨大な堀は、この城の“堀切”だったのではないか・・・と妄想しました。
・幻の合戦・加倉畷の戦い
岩槻城の玄関だった「加倉口」付近を歩き、江戸時代末期に書かれた軍記物『岩槻巷談』にのみ出てくる幻の合戦・加倉畷の戦いに思いを馳せました。頑張って考察したので、本人としては力作のつもり。
(現在の加倉口付近)
・岩付城(岩槻城)址を歩く ~城米蔵~
「本丸」という地名の住宅街には、かつての「城米蔵」の地形が、しっかり残っていました。
・岩付城(岩槻城)址を歩く ~鎧宮・八幡神社~
「鎧宮」という別名を持つ八幡神社。その由来は、豊臣秀吉の小田原征伐の際、豊臣・徳川勢の鎧武者たちがこの神社に集結したことにあります。それから400年以上を経た現在も、この神社には寒気がするような不思議な気配があります。
(鎧宮こと八幡神社)
岩槻郷土資料館には、岩槻城のジオラマが展示されています。
好きな眺めの一つ。岩槻城が、起伏に富んだ岩槻支台の上に築かれたことがよく分かります。
(知楽院から岩槻城址公園方向を臨む)
・城址を歩く(城南の大構)
・城址を歩く(大構(おおがまえ)から大手門)
・岩付城(岩槻城)址を歩く ~新正寺曲輪(続)~
・岩付城(岩槻城)址を歩く ~新正寺曲輪~
久伊豆神社が鎮座する岩槻城の北の出丸「新正寺曲輪」の地形を求めて歩いた、初期の散歩です。
(久伊豆神社の裏手にある、かつての元荒川川筋の跡?)
(岩槻城の堀の淵を走る東武野田線)
(岩槻城の大構の土塁跡として知られる愛宕神社)
・岩付城(岩槻城)址を歩く ~おまけ~
岩槻公民館(温水プール)前の交差点から久伊豆神社を眺めると、かつての岩槻城の沼濠だった地形が今もそこに残っていることが分かります。
・『真田丸』に岩槻城、登場!
我らが岩槻城が、NHK大河『真田丸』に一瞬だけ登場しました。
・豊臣秀吉は、岩槻城(岩付城)をどう見ていたか?
天下人・豊臣秀吉は、岩槻城をどう見ていたか。それは秀吉が加藤清正に送った小田原征伐を報告する書状からわかります。太田道灌築城説が崩壊しても、岩槻城は誇れる城。そのことを、今の岩槻の人々に知ってほしいと思います。
↑岩槻城の巨大な大構(城下町ごと城を囲む土塁・空堀)
・いまの岩槻城址に魅力が無い訳
史跡としての岩槻城の打ち出し方には「ストーリー」が足りないと思います。上杉謙信や豊臣秀吉も訪れた城、という点にもっと光を当てるべきです。・・・という論考。散歩録ではありません(笑)。
・「岩槻城は誰が築いたか」を読む(前) 、(中) 、(後)
岩槻城には、築城者を巡る論争があります。
伝統の太田道灌・道真による築城説を否定したのは、NHK大河『真田丸』の時代考証も担当する日本中世史の大家・黒田基樹先生。これに対して反論を挑んだのは、岩槻在住の郷土史家・小宮勝男氏。この論争を整理しつつ、自分の考えも少し整理してみました。
・「岩槻城は誰が築いたか」を地形から考える
地形から考える岩槻城の築城者。素人が地形図を眺めながら妄想の限りを尽くしてみました(笑)。
・岩付城(岩槻城)が睨む方向
日本中世史の大家・黒田基樹先生により、太田氏による岩槻城築城説は否定され、現在は成田氏が築城者だったとの説が定説に。この新定説に私自身が始めて違和感を覚えたのは、岩槻城絵図を眺めていた時でした。
(岩槻城は北東方向(写真奥)に仮想敵を置いて築かれた城に見えます)
2.岩槻史跡(岩槻城以外)
・久伊豆神社文化圏
・岩槻の「時の鐘」
・岩槻・平林寺跡を訪ねる
現在、新座市野火止に鎮座する平林寺は、かつて岩槻にありました。現在は、石碑しか残されていません。
・岩槻・芳林寺を歩く
クーデターにより、父である太田資正を追放した嫡男・太田氏資の菩提を弔う芳林寺。太田氏と岩槻とのつながりを示す寺であるため、太田道灌の銅像も建てられています。
しかし、太田氏の菩提寺は本来は養竹院(埼玉県川島町)。養竹院に位牌が置かれることのなかった太田氏資とその母を弔うこの寺に、道灌像が立つその光景は、私の目には皮肉なものに映りました。
(芳林寺の太田道灌像)
太田資正の父・資賴が開基した寺院。資正が生きた時代の山門が今も残されています。
太田資正による寺領安堵の判物を大切に保管する慈恩寺。古代に築かれた大寺特有の風格を感じます。
・深夜の慈恩寺サイクリング
・慈恩寺の家康伝説
3.埼玉県内の資正&岩付太田氏関連史跡など
3ー①.さいたま市内(岩槻以外)
さいたま市は、その全域が、かつての太田資正の領国の中枢部に当たります。
大宮氷川神社と対を成す武蔵国一宮。
太田資正は、北条氏との抗争の必勝を祈願して、この神社で大般若経の真読を行わせました。
清河寺も、太田資正の書状を大切に保管する寺院。
北条氏の拠点である川越(河越)と向き合う場所にあるこの寺に、資正はなんどか書状を出しています。
(寿能城址の碑)
3ー②.さいたま市外
さいたま市の周辺の市も、太田資正の領国の一部であったり、抗争相手であった北条氏の拠点であったり、争奪戦の舞台であったり。
(さいたま市外の太田資正領国)
友人と森林公園に遊びにいった帰りに、ふらりと寄ったコンビニの目の前の交差点が「上八ツ林」でした。我らがさいたま市の戦国武将・太田資正の家臣、道祖土図書助が治めた「八林郷」です。
(やまだうどんのある風景。これぞ埼玉)
川越市・南古谷付近は、戦国時代には太田資正が統治した「古尾谷荘」。
2015年12月に他界した妻は、ここの病院に入院していました。
岩付太田氏の菩提寺・養竹院は、静かな寺でした。
(太田資正と北条氏、抗争の舞台)
武州松山城は、永禄年間の太田資正と北条氏の抗争の最激戦地。
この城を固く守った資正は、一定期間、北条氏の攻撃を寄せ付けませんでした。しかし、最後は武田信玄も加勢して5万騎以上に膨れ上がった北条・武田同盟軍の前に敗れ去ります。
ある意味で、居城の岩槻城以上に、太田資正の人生で大きな存在。資正の人生を決めたと言ってもよい要害を歩き、考察しました。
地形図を使った考察等、力作のつもりです。
騎西城は、係争地・武州松山城を北条氏に奪われた際、上杉謙信が八つ当たりで攻めた城です。
(宿命の敵・北条氏の拠点)
・鉢形城早朝散歩
北条氏邦の居城・鉢形城は、実に雄大な天下の名城でした。
・川越散策
川越は、北条氏の武蔵国制圧の拠点。
(川越城。映っているのは、闘病中の妻の後ろ姿)
(東明寺の川越夜戦の碑)
なぜ、河越城(川越城)が、北条氏の武蔵国制圧の拠点となったのか? また、河越に対抗する拠点として、武州松山城が選ばれたのは何故か?
河越城と武州松山城が、それぞれ北条氏と反北条勢力にとっての重要拠点となったのかを、地形図から考えます。
河越(川越)の地形の妙を説明するこの投稿は、自信作です。
(河越は北に突き出す武蔵台地の最北端、しかも川の二重濠付き)
4.埼玉県外の資正&岩付太田氏関連史跡など
4-①.東京都
永禄年間に、太田資正と北条氏の間で繰り広げられた一連の抗争の中で、武州松山城と並ぶ係争地となったのが、葛西城。その跡を訪ねました。
太田資正にとっての主家であった扇谷上杉氏勢力にとって、葛西城はどのような意味を持つ城だったのか。 葛飾区郷土と天文の博物館地域史フォーラム(2001年)『葛西城とその周辺』(たけしま出版) が示唆する内容を、地図で検証。
4-②.栃木県
北条氏の猛攻を受けた宇都宮氏が、もはや宇都宮城ではもたないと判断して籠った巨大な山城。晩年の太田資正も鉄砲部隊を率いて助っ人として参戦。宇都宮氏を助けて大きな戦果を挙げたことが一次資料からも確認されます。
・鹿沼城(栃木県鹿沼市)を歩く
「片野の三楽斎」時代の資正が仕えた佐竹義重の猛攻を受けても持ちこたえた城。私が少年期を過ごした街の城は、予想を超えた堅城でした。
4-③.群馬県
太田道灌も「天下の名城」と称えた新田金山城。我らが太田資正も、河越合戦の大敗の後、一時この城の城主・横瀬氏に匿ってもらったことがあります(太田資武状)。おそらく、この山城のどこかに、資正もいたのでしょう。
5.その他
※ ※ ※
残念なのは、まだ、資正が後半生を過ごした片野(茨城県石岡市)周辺に全く行けていないこと。機会を作って訪ねたいと思っています。