岩付城(岩槻城)の北を守っていた新正寺曲輪(しんしょうじくるわ)。
曲輪の名となった新正寺は今はありませんが、お隣の久伊豆神社は今も立派に残されています。

豊臣秀吉の北条攻めの際、北条側の城として浅野長政(当時は浅野長吉)に落とされたこの城。徳川勢の進入を許したのは、この神社のあたりだったと言います。元荒川の川底にスノコを敷いた隠し道を浅野勢に見つけられた、という話が伝えられています。

この神社には、普段はお参りしかしていなかったのですが、今回は新正寺曲輪の跡を見つけてみようと、主に裏側を探ってみました。

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二枚目の写真は、神社の一番奥の社のそのまた奥の敷地の端。写真にすると分かりにくいのですが、奥に向かって下り坂になっています(私の下手な写真ではよくわかりませんね・・・)。
緩やかな台地の上に、神社が乗っているのが分かりました。この台地が、新正寺曲輪に使われていまのでしょう。

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神社の参道を出て、外の道から神社敷地の側面に回ってみたのが三枚目の写真。社殿改装工事のためにやや雑然としていますが、神社が乗る台地を確認できました。

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しかし、公園として整備されている南こ新曲輪に比べると、土塁と呼ぶにはなだらかすぎる斜面の傾斜です。

本丸に至るには、この曲輪の北側を流れる元荒川と、南にあった大きな堀を越えねばならず、この曲輪自体は、川と堀の間に浮かぶ島のような存在だったため、あまり守りを固める必要はないと思われていたのかもしれません。

あるいは、寺や神社が並ぶ一種の聖域だったため、「曲輪」と言いつつ、城側の勝手で土塁を高くしたりは、できなかったという事情もあったのかもせれません。

神社の裏側をもう少し歩いてみました(続く)。

岩付城(岩槻城)址を歩く~新正寺曲輪(続)~