ルトワック『中国4.0』

話題の新書、ルトワックの『中国4.0』を読んでみました。

戦略研究家にして、戦略のアドバイザーでもあるエドワード・ルトワックが、中国という新たな大国の国家戦略を論じた、インタビュー語り下ろし本です。

ネット上には既に書評がたくさんあり、そこに加える新しい切り口があるわけでもないのですが、「面白かった」という感想は残しておこうと思います。

ルトワックの中国分析の面白さは、「中国は戦略に長けていない、むしろ下手だ」と断じているところ。
中国のカネと軍事力を使った大国外交に脅威を感じている日本人は(私も含め)、「中国は戦略的だ」「したたかな戦略を持って動いている」と思いがちです。

しかしルトワックは、
・リーマンショック以降の中国の戦略は失敗続きであり、
・・もそも内向的且つ、ネガティブ情報をトップに伝える仕組みの無い中国の権力機構は、対外戦略に向いていない、
と論じます。

最近の南シナ海判決の無効化に向けての中国外交の奏効ぶりを見ると、ルトワックの「中国は戦略が下手」論は、100%首肯できないところがあります。
しかし、中国の戦略には意外な程の拙さが散見されるのは間違いない、と確信させてくれました。

相手を過小評価するのは危険ですが、過大評価することもまた危険です。

『中国4.0』の価値の一つは、日本人の中の中国に対する過大評価傾向を少し醒ませてくれるところでしょう。



個別の論点で面白いと思ったのは、
・ベトナムの中国との戦い方
・大国は小国に勝てないというパラドックス

ルトワックは、ベトナムの中国との戦い方を称賛しています。
中国の海上で圧倒的な軍事力を見せつけられたベトナムは、戦いの舞台を切り替えて中国を苦しめます。
国民やマフィアによるベトナム国内の中国人への迫害の黙認という、その手段。道徳的には決して誉められたものではありません。
しかし、海上での優位を国内で打ち消された中国は、対ベトナム政策を緩和することになります。

相手の強みでは戦う必要はない。相手の弱みで戦い、勝てば、相手の強み領域での劣勢をキャンセルできる。
ベトナムが教えてくれる教訓です。



もう一つの大国は小国に勝てないというパラドックスも興味深いと思いました。

実際には大国が小国を飲み込む事例は歴史上に数多あるため、「ある条件下では、大国は小国に勝てない」が正しいでしょう。

その条件をルトワックは明示的には示していませんが、彼の説明を読むとおよそ下のようのものでしょう。

①その大国の台頭が周囲から脅威と見なされており、小国が敗北すればその脅威の度合いが一段高まると目されており、

②その大国を妨害する力を持った他の大国が周囲に存在し、

③その小国は、大国との戦いに仮に勝っても、新たな脅威となるには小さすぎる、

④その小国の国民には戦う気概があり、大国に勝てないまでも、その攻撃を一定期間防ぎきる国力はある。


ルトワックが典型例として示すのは、日露戦争と日中戦争です。
日露戦争では、勝った小国が日本、負けた大国がロシア。日中戦争では、勝った小国が中国、負けた大国が日本。

この考え方に沿って考えると、確かに現在の中国は、小国に勝てない大国の状況に追い込まれつつあるように思えます。

今後、人口減と高齢化により、経済力・軍事力がどんどん落ちていく日本ですが、むしろ大国に勝てる小国となるためには、好ましい条件なのかもしれません。

日本が中国に勝っても、勝った日本は中国に代わる脅威とはならない。
そのコンセサスが、中国と対峙する日本を救うことになるかもしれません。

日本人自身に、立ち向かう気概があることが条件ですが。

※ ※ ※

『中国4.0』が面白かったので、ルトワックの他の本も検索してみると・・・なんと、ビザンチン帝国(東ローマ帝国)の大戦争を論じた書籍を出しているではありませんか!

しかも、邦訳無し!!

最近サボっていましたが、「ビザンチン帝国史」は、「空手・武術」「さいたま市の戦国武将 太田資正」に並ぶ、我がライフワーク的探究のテーマ。

西欧とイスラム世界の狭間で、 1000年間持ちこたえた驚異の大帝国・ビザンチンの生き残り戦略。ルトワックがどう解き明かすのか、興味があります。

日本語訳が無いというのも、燃えますね(笑)。

入手して読んでみようと思います。

 



中国4.0 暴発する中華帝国 (文春新書)
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『富士は裾野』と知った日のこと⑬【前編】」の続き。

終わってしまうのが寂しくて、ちょっと筆が止まっていました。

今回が最後の回になります・・・の積もりでしたが、書いてみたらまた長くなったので、今回は【後編】ではなく、【中編】にしました。

クオーレディローマ
(代官山にあったイタリア料理店『クオーレ・ディ・ローマ』、私と妻の結婚披露宴の際に撮影)

※ ※ ※

13.代官山で語る富士(中編)

2007年8月19日、代官山。
場所は、惜しまれつつ昨年閉店したイタリア料理店『クオーレ・ディ・ローマ』。

私が初めて妻の実家を訪ねた日から一年と二ヶ月たったその日、私と妻、そしてお互いの両親は、結納を交わすため、その地に集いました。

実の父と義理の父。二人の父が初めて対面したのが、この日でした。
にこやかでした。
義父だけでなく、私の父も。

ほんの三ヶ月前まで、妻との結婚を巡って“冷戦”を続けた相手である父。その父のあまりに上機嫌な笑顔に、私はなんだか、夢でも見ている気分でした。



対面初日にも関わらず、父と義父は、すぐに意気投合しました。

歳は義父の方が少し上ですが、どちらも終戦前後生まれ。ともに戦後の復興期に少年時代を過ごし、揃って理系少年だったため、話が合ったのです。

最初こそ、結婚が決まったことを双方祝う挨拶があったものの、食事が始まると、二人の父たちの話は、共通する部分の多い互いの少年時代の話ばかりに。

「作りましたよね、鉱石ラジオ」
「あの頃、ラジコンが出てきて」

本題に入るための前座の雑談だったはずですが、次々出てくる共通の体験に話が弾み、この日いったい何のために集まったのかわからないほどでした。

私は、それを嬉しく思いました。
隣にいた妻も恐らく、そうだったはずです。

二人の会話が、本題である妻と私の結婚に戻ったのは、コース料理のセコンド・ピアット(メインディッシュ)でした。

オーナーの今泉さんが現れ、
「今日のセコンドは、※※さんの出身地である栃木県の和牛と、Rさんの出身地である静岡県の沼津港で水揚げされた金目鯛を使いました。気に入っていただけたら、披露宴本番でも使わせていただこうと思います」
と言うと、それを聞いた義父が、
「そうだ、そうだ、今日はその話でしたね」と、本題に会話を戻したのです。

義父は言います。
「この和牛と金目鯛のように、美味しいものの競演のような夫婦になってほしいものですが、うちの娘が※※君に見合うかのか、甚だ心許ない限りです」
そして、最後に、例の定番の一言を足します。
「未だに、※※君が、うちの娘のどこを気に入ったのか、皆目検討がつきませんよ」

妻は、またそれかと渋い顔。
「お父さんのそういう一言、要らない」

その時妻をなだめたのは、私の父でした。
「まあまあ、Rちゃん、お父さんは本気で言っていないから。言い方でわかるよ。本当は、自慢の娘だと思っているから」。

“ちゃん付け”で呼んで欲しいというのは、妻の頼みでした。
『さん付けは他人行儀で嫌なんです。呼び捨ても、ちょっと・・・。だから“ちゃん”で呼んでください』

息子の嫁を“ちゃん付け”で呼ぶことに、はじめは大いに戸惑っていた父。この頃にはだんだん慣れてきていました。いや、むしろ、そう呼ぶことを楽しみ始めていました。

父は、義父を向くと、
「お嬢さん程、うちの息子に合った人はいません。それは会った瞬間思いました。私も、妻も。妻は初めて会った時に、泣いてしまった程ですから。こんな素敵なお嬢さんと結婚できて、息子は幸せ者です。本当に感謝しています」

そうよ、そうなのよ、もっと言ってお義父さん、と言うかのように頷く妻。
私は、父のその言葉を聞きながら、2ヶ月前のことを思い出していました。

2ヶ月前、すなわち、2007年6月。
初めて妻の実家を訪ねた日からほぼ一年後のある日、私は、長き“冷戦”を続けた相手である父と、表参道で会ったのでした。
傍らに、妻を連れて。



回想の物語の中で、さらに回想を語るのはあまりよいことではありません。読んでくださっている方々を混乱させます。

しかしここでは、許してください。
2006年8月19日の結納に臨んだ私が、その2ヶ月前の同年6月某日に、初めて父に妻を引き合わせた時を回想することを。



きっかけは、父からの電話でした。
『会わせてくれないか、その人に』。

6月のある日曜日の夜に掛かってきた電話で、父はそう言いました。
次の週末、夫婦で表参道に買い物に行く。よかったら、お茶でも飲まないか、と。

父の突然の申し出に驚きつつ、近くにいた妻を見ると、彼女は拳を握って、“オーケー、ドンと来い!”と言いたげなゼスチャー。私は頷き、父に了解を伝えて、集合時間と場所を決めました。

当時、代官山の空手道場は借りていたバレエスタジオの閉店に伴い、表参道に場所を移していました。
新たに馴染みの場所となった表参道で、父と母に妻を見せる。なんだか妙にしっくるな、と当時感じたことを覚えています。

ただ、電話の向こうの父の、
『突然で悪いな。もう会おう、会いたいと、お母さんが聞かないものだから』
という一言には、正直なところ、カチンときてもいました。

妻が、つまり私にとっては母親が、耐えられなくなってしまったから、許して欲しい。
そんな物言いから、自分自身はそうは思っていない、とでも言いたげな雰囲気を、その日の私は感じ取ったのです。



当時父とは、一年に及ぶ“冷戦”を戦っていたところでした。

その一年前に聞いた『焦らなくていい』という義父の助言。それを額面通り、正直に受け止めた私は、作戦を変えていました。
父に妻を認めさせようと押し込むことをやめたのです。

かと言って、父と絶縁した訳でもありません。盆や正月、御彼岸は帰省し、両親とら普通に接しまていました。ただしその時、父が身構えていたであろう、妻の話は、一切持ち出さなかったのです。

父は逆にジリジリしたのでしょう。
時々、『ところで例の彼女とはどうなったんだ?』と尋ねてくることもありました。
それに対して、私は、『うん。よく考えながら付き合ってるよ』とだけ答えて、話を広げませんでした。

以前、『お前はもう少しよく考えるべきだ』と言って妻との結婚に反対した父。私の返事は、その父の言葉を踏まえた意趣返しだったのだと思います。

ある意味で父の“言い付け”通りであったこともあり、父もそれ以上は何も言いませんでした。
それが、“冷戦”期の私と父のやり取りでした。

義父の言葉が私を支えていたのでしょう。当時の私は、ある程度の達観を持つことができていました。
妻との一緒の生活が一年程度で破綻するのら、確かに父の言った『もう少しよく考えるべきだ』は、その通りだったと認めればよい。しかし、一緒に暮らし続けてみて、妻と合うなら、たとえ父が反対しようとも、結婚すればよいのだ、と。

父の電話は、そんな“冷戦”が一年に及んだタイミングで掛かってきたものでした。

遂に、母が落ち、父も引きずられることになったこと。それは私の時給戦の成功を意味していました。

しかし、一方で複雑な想いもありました。

作戦勝ちで父と母が折れ、妻に会う。会ったからには結婚を認める。しかし、父は心の中では認めていない。内心大いに不満を持ちつつも、私の努力に負けて結婚を許さざるを得なかった・・・

そんな結末が見えてきて、鬱々とした気分になったのです。



妻を連れ、父と母に会ったのは日曜日でした。
前日の土曜日には空手の稽古のために向かった表参道。同じ場所に、次の日は私の父と母に会うために出掛ける。
なんだか、不思議な気がしました。

母は、表参道交差点で、私の隣にいる妻を見た瞬間から、泣いていました。
喫茶店に入ってからもしばらく涙は止まらず、やっと少し納まったところで、
「なんて素敵なお嬢さん。うちの子に神様が取っておいてくれたのね」
と言います。

いつもは古着ばかり着ていた妻(この頃はアンデス地方のポンチョみたいな服をよく着ていました)ですが、この日は、気合いを入れ、育ちのよいお嬢さん風(実際、育ちはよいのですが)の格好。
言葉は交わさなくとも、隣の妻が心の中で“よっしゃ!”とガッツポーズをしていることが伝わってきました。

しかし、母は、妻の服装を見てそう言ったのではなかったのだと思います。
その次に母に会った時、妻はさっそくアンデス風の古着姿に戻っていましたが、母は、「Rちゃん、その服の方が、ずっと“らしくて”素敵よ!」と言っていましたから。

母は、涙がおさまると、今度は妻と私を質問攻めにしました。
質問は主に、いまどんな生活をしているのか、について。妻は、貧乏漫画家暮らしが永かったせいで、尖ったアート系を目指していたのとは対照的に、中身はとても家庭的な女性でした。

妻が話す、浦安のアパートでの生活の様子に、母は何度も頷き、安心したようでした。



女ふたりの話が続き、それぞれの伴侶の男同士は、基本的にそれを聞く側。そんな状態で一時間が過ぎた時、場に変化が訪れます。

母と妻が連れ立って席を外して手洗いに行き、男二人が残されたのです。

喫茶店のテーブルを挟み、父と二人で向き合います。その時、私は、この日まだ自分が父とまともに言葉を交わしていないことに気づきました。

それまで互いに伴侶の女性におしゃべりを任せ切りにしていたせいか、父も私も、何を話すべきか考える時間が必要だったのだと思います。数秒ですが、ぎこちない時間が父と私の間を流れました。

最初に口を開いたのは、父でした。



「なんだか、ずいぶん意気投合したみたいだな」
父は、女性二人が連れ立って去った方向をちらりと見やって言いました。そして、私の方を向くと、
「この一年のお前は、大したものだった。立派だった。お前の勝ちだ」
と言いました。

「なんだよ、それ」
私は、すでに頭に来ていたのだと思います。
父は、私の“作戦勝ち”を称えている。勝負に負けたから、本心では反対でも結婚を認める。
父の言葉の中にあるそんな真意を、私は見た気がしていました。

そんな私の様子に、父は気づいていたか、いなかったか。そのまま自分の思うところを話し始めました。

「誰が反対しようとも、絶対に通したい意志がある時は、熱くなってぶつかってはダメだ。失敗が許されない戦いは、一か八かの決戦を挑んだら負けだ。どこまでも冷静に、勝機を探る。焦らず、慌てず、浮き足立たず、相手に隙が生まれるのを待たなければならない」

教師であり、校長であり、教育委員会でも要職にあった父は、話がうまい人です。この日も、“聞かせる”話を展開していました。

「しかし、そういう戦い方は難しい。戦略観のある者はそれを早く試したがるからだ。そして失敗する。策もないままダラダラ戦うのもいけない。展望の無い戦いは疲弊するからだ。大切なのは、戦略を持って、確かな勝算を立て、その上で早く勝負をかけたい気持ちを抑えることだ。」

父は、自分の人生の何かを思い出しながら、語っているようでした。そして、テーブルの向かいの息子をすっと見据え、
「お前は、そういう戦い方をした。立派だ。そしてお前の勝ちだ」

父はそう言って、ひとり頷きます。
自分の想いを伝えて、少しスッキリした様子でした。

一方で私は、醒めた気分でした。
人生で初めて耳にし父の敗北宣言。実際にそれを目にして心にさざ波が立ちましたが、腹立たしい思いがそれを上回りました。

「なんだよ、それ」
私は、同じ言葉を繰り返していました。
そして、積もり積もった想いをぶつけたのでした。
「そんなこと言われて、俺が喜ぶとでも思っているのかよ?」

→ 【後編】に続きます。
親子での糸東流空手稽古も、早くも9回目が終わりました。

それなりに空手を好きになってくれた我が息子ですが、型(基本型第一)は、相変わらずグダグダです。

・下段払い→前蹴り→順突きの連続動作において、
①下段払いにキレがない
②前蹴りが蹴りになっていない (何故かただの歩み足運足になります)
③順突きに鋭さがない(へにゃっと拳を置きにいくだけ)
・後ろ足を軸にした180度回転が、移動稽古の「回って」号令の時の動作になってしまう(回転方向が逆)

本人は、ミット打ちが楽しくて稽古に通っているので、型が下手でも一切気にとめている風はありません(笑)。

親が指導すると子どもはやる気を失うことがままあります。そう思い放っておきましたが、さすがにそろそろ直さないと変な癖がつくかもしれないな・・・と思っていました。



そんな矢先、先日の稽古の最後に先生からこんな言葉が。

「本部道場との9月の合同稽古だが、私は全員連れていきたかった。しかし、 本部から『型がまだできない小さい子どもは今回参加は見送りに』と通達があった。残念だが、型の流れ、そして基本的な動作が身に付いていない小さい子は、今回は連れていけない。だから、みんな、心して稽古するように」

帰宅後、息子が「先生の話はどういう意味だったの?」と聞くので、少し噛み砕いて説明をしました。

型をちゃんと身に付けないと、今度の試合には連れていってもらえない。Kちゃん(幼稚園時代の友だち)は東京の試合に出るけど、お前はもしかしたら留守番かもしれない。と。

「それはいやだよ」と息子。
「でも、型ができないなら参加できないんだよ」
「できてるよ」
息子は強気です。

「できてない」と言うと、
「できてるよ」

そらなら見せてみろ、ということで、昨夜は寝る前に、にわかに家で型を披露してもろうことに。

しかし、本人はできているつもりですが、やはり、最初に書いたポイントがグダグダです。

カタチの違いを指摘しても直りそうになかったので、下段払い、前蹴り、順突きの3つをすべて“当て”させてみました。

膝立ちになった私が出す中段突きを下段払い、私の腹に前蹴り。そのまま追撃の順突きを私の胸に。
息子の前蹴りを私が手で払い、がら空きになった私の胸に息子の順突きが入るパターンもやってみました。

実際に当ててみての息子の第一声は、
「こういう意味だったんだ!」

どうやら息子も、
①相手の突きを払うには自分の下段払いはふにゃふにゃ過ぎた
②相手に当てて効かせるには自分の前蹴りは、蹴りになっていなかった
③相手に当てて効かせるには自分の順突きは、突きになっていなかった
と体感できたようでした。

この後で型をやらせると、技の力感が違ってきました。

「そういう意味ならこうする」
と言ってうった息子の型は、型としては、力み過ぎ、反動を使い過ぎなのですが、息子が相手をイメージし、そのイメージの相手を真剣に倒しに行っていることが伝わってく動きになりました。

型は、言わば達人の動き。
力まず、無駄な反動を使わず、押し込みをせず。重力を味方につけて、身体の構造を活用して得る、早くて速い、そして威力の乗った動作で構成された技の体系。

その意味では、息子が昨夜見せた動きは、力んで、反動を使って、押し込みまくる、とダメ身体操作の塊と言えます。
しかし、相手を想定して、彼なりに真剣に倒しに行く一連の動きは、親ながら、好感を持ちました。

最初からきれいな動きに合わせて行くよりも、最初はダイナミックに力を込めて、次第に型に合わせて洗練させていく、という稽古の進め方の方が息子には合っているような気がしました。



さてこの型で、息子は、9月の合同稽古会に連れていってもらえるか?

8月の稽古が鍵でしょうね。



・・

・・・・


ちなみに、来週の稽古は、キャンプがあるのでお休みです(笑)。
昨日は親子で空手の稽古に行ってきました。

いつもは、大きな武道専門の体育館(黒田鉄山先生も使っている!)を借りていますが、今回は公民館内の運動用スペース。

こういう所で稽古をすると、「伝統空手を親子でやってるって感じだなぁ」と、妙にシミジミします。


(相変わらず“前屈”してない息子の前屈立ち)

※ ※ ※

さて、稽古内容です。

◎柔軟体操
いつもブログでは省略している柔軟体操をですが、実は今習っている会派では、足首・爪先系の柔軟体操(足を4の字にして手で足首・爪先を動かすアレ)を、片足で立って行います。

いつもはフラフラしてしまうのですが、今回拇趾球に重心を乗せることを意識。すると、フラフラ感がなくなりました。

稽古前に、自分がちゃんと重心をコントロールできているかを確かめる良いチェックになるかもしれません。

◎基本稽古(突き)
・平行立ち正拳突き
・四股立ち正拳突き
・前屈立ち正拳突き(運足無し)
・前屈立ち正拳突き(前進上段→後退中段)
・四股立ち正拳突き(二度目)

◎基本稽古(蹴り)
・前蹴上げ/・内回し(後ろから前)/・外回し(前から後ろ)
・横蹴上げ/・横蹴上げ回し/・後ろ蹴上げ
・前屈立ち前蹴り
・前屈立ち回し蹴り
・前屈立ち下段足刀
・前屈立ち横蹴り
・結び立ち後ろ蹴り

書いている稽古メニューは毎回ほぼ同じですが、昨日は多少涼しかったせいか、どれも回数多め。

汗がドバドバ流れました。

ちなみに息子は、柔軟体操→基本稽古(突き)→基本稽古(蹴り)の間は、ぐっすり寝入ってしまい、稽古には参加していません。

前回もそうでしたが、15時スタートの稽古だと、ちょうど息子の眠たい時間に重なってしまうんですよね・・・


(稽古場に来るなり眠り始めた息子)

蹴りの基本稽古が終わった頃に、やっと起きた息子。次の移動稽古から参加しました。

◎移動稽古
・前屈立ち下段払い
・前屈立ち上段受け
・前屈立ち横受け(フルコンの内受け)
・前屈立ち横内受け(フルコンの外受け)
・前屈立ち追い突き
・前屈立ち逆突き
・前屈立ち前蹴り回し蹴り
・猫足立ち手刀受け
・組手立ち寄り足上段順突き
・組手立ち寄り足中段逆突き
・組手立ち寄り足ワンツー
(寄り足上段順突き→寄り足中段逆突き)

昨日は、移動稽古をみっちりやりました。
片道だいたい13号令(=13歩移動)で上のメニュー。体内の老廃物を一気に絞り出せた感じです。

移動稽古の中で組手立ちのステップをやったのは、今回が初めてかもしれません。
せっかく伝統空手に入門したので、この「寄り足で詰めて決める突き技」は是非身に付けたい思っていました。こうして反復させてもらえるのはありがたいです。

しかし、寄り足突き→寄り足突きを1号令でやる最後のワンツーは、足がもつれてグダグダになってしまいました。
まだまだ、考えながらでないと動けないということ。
反復あるのみですね。


◎型
・基本型第一

今回は、踵が浮いてしまわない(基本的過ぎる注意点ですが・・・)ようにすることを意識。だんだん“形”になってきたかな。

息子は、相変わらず180度転体の際の回転方向が逆。どうやれば直るのか・・・(笑)

※ ※ ※

今回稽古した公民館は、近くに日帰り温泉があります。息子の希望もあり、帰りに寄ってみました。

露天風呂で、夕焼けを眺め、少し幸せな気持ちになりました。