やっと完成。

・いなり寿司
・しらすと海苔のおにぎり
・オーブン焼きハンバーグ
・レンコンのケチャップ炒め
・揚げ餃子(餃子は自作です)
・茹でブロッコリー
・蒸しトウモロコシ
・ミニトマト
・リンゴ
・キウイ
・ブドウ二種

ふー。

これから、運動会の各種連絡を読み込まねば。


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これか・・・
ジャワさんオススメのTina Brooksの「True Blue」という曲は。

息子が早々と寝てしまい、急に一人になってしまった夜(今日もそうです)には、確かにこういう曲がいいですね。

ん? これ、著作権周りきちんとした動画きな?

  • ノーマルチンニング(順手) 10回(6回+4回)
  • ノーマルチンニング(逆手) 10回(4回+6回)
  • 木刀正面打ち+フロントランジ 左右30本ずつ
  • スクワット 50回
  • サイドレイズ(ダンベル5kg) 20回

 

昔から弱点だった広背筋の強化に、少しずつ成功してきている気がします。

お互いの両親に内緒で行った尾道旅行。
そこに住む妻母方の祖父母に会ってしまったことで、事は妻両親の知るところに。
血の気が引く想いの中、妻の実家に“挨拶”に行く日取りは決まったのですが・・・

亡き妻との10年前の思い出。『「富士は裾野」と知った日のこと③』の続きです。



④ 銀座の大喧嘩

2006年6月3日の土曜日。
妻の実家に“挨拶”に行く前日のその日、私と妻は空手の稽古を終えて、銀座に向かっていました。

当時、妻と出会った空手道場は、まだ代官山にありました。
土曜日の稽古はお昼前後の時間帯。稽古の後は、道場仲間のトムさん達と一緒に代官山や渋谷界隈でお昼を食べるのがいつものパターンでした。

しかしこの日は、のんびりランチを楽しむ気持ちではありませんでした。
私はトムさんの誘いを断り、急いで銀座に向かいました。
明日、妻の実家に“挨拶”に行く際の手土産をきちんと選ぶためにも、私は時間を無駄にしたくなかったのです。

「気負いすぎだよ。お昼食べてからでも、十分間に合うのに」
と、妻はのんきでしたが、私は聞く耳も持ちませんでした。

明日の妻の実家への訪問は、ただの“挨拶”ではないのです。
内緒の婚前旅行、そして旅先で事前に断りもなく妻母方の祖父母に会ったことに対する“謝罪”のための訪問。
そして、今回のことを許してもらった上で「娘を任せられる男か」と義父からの“見極め”を受けることになる訪問です。

失敗の許されない一大イベントを翌日に控え、あの日の私は、相当にナーバスになっていました。



銀座につくと、ドトールでサンドイッチとコーヒーの軽い昼食を済ませ、百貨店へ。
ところが、そこでたくさんの選択肢を前目にした私は、“決められない人”になってしまいました。

“モノよりは食べ物がいいだろう。”
“食べ物だったら、やっぱり、日持ちするお菓子か?”
“いや、美味しいフルーツを持っていくのも、見映えがしていいかもしれない。”
“いやいや、こういう時こそ、老舗の和菓子だ。いいものであることが分かりやすい。”
“いやいやいや、彼女の両親はまだそんなに歳じゃない。華やかな洋菓子の方が慶ばれるんじゃないだろうか。”
“でもなぁ、洋菓子って、日持ちするタイプの焼き菓子は、意外に地味なのが多いんだよな。”
“となると、やっぱりフルーツか・・・”
・・・

迷いの迷宮に入ってしまい、決められなくなってしまった私は、百貨店の中のお店を行ったり来たり。フロアを変えたり、時には外に出て路面店を覗いたり。落ち着きなく動く割には、買い物はちっとも進みませんでした。

久しぶりに銀座に来た妻は、最初の内は楽しんでいましたが、いつまでも決められない私に、途中からは呆れ顔でした。

「もう、何だっていいよ」と妻。「例えば、その菓子折りでいいじゃない?」
「あれは・・・ダメだ。何と言うか、華が無い。そんな風にいい加減には選べないって。喜んでもらおうと一生懸命選ばないと、そういうのは見透かされるんだ」
私はとにかく必死でした。

汗を吸って重くなった空手衣を入れたバッグ。それを持つのが辛くなってきた頃、ようやく、「これならいいぞ」と、思える洋菓子のセットを見つけました。

「納得できるのがあった? あぁ、よかったぁ。これで帰れるね」
私の手土産クエストの彷徨がやっと終わると、妻も安堵していました。

その直後でした。
後にも先にもない大喧嘩が始まってしまったのは。



きっかけは、その洋菓子セットのグレード選びでした。

一番大きな豪華なセットを選ぼうとした私に、妻が口を挟んだのです。
「高すぎだよ。それに大きすぎ。向こうは老人二人だよ。食べきれない程もらったって、困るだけだって」

「そうじゃない。」
私は引きませんでした。
「そういう実用的なことは、今はどうだっていいんだ。二の次なんだ。大切なのは、ちゃんとしたものを買ってきたことがわかる“形”なんだ。」

「大切なのは気持ちだよ。そんな風に形に拘っていたら、気持ちが二の次になっちゃうでしょ?」

「違う。そうじゃない。そういう理屈は、今回は通用しないんだ!」
私の口調は、いつになくキツくなっていました。
「普通ならそれでいい。でも、今回はダメだ。俺は、会う前から、君のお父さんに非常識な男だと思われているんだ。以心伝心なんて期待しちゃダメだ。気持ちは簡単には伝わらない。まずは、“形”にしなきゃダメなんだ」

ピリピリしている私に、妻は、少し嫌気が差していたのだと思います。
「はぁー。わかったよ。わかったけどさ。それでも高いよ。それにやっぱり大きすぎ。相手はたかが、うちの親だよ」

お互いの言葉のやり取りは、徐々にキツく攻撃的になってきましたが、仮に喧嘩になるにしても、それはまだまだ先。
私は、そう思っていました。
しかし、妻の言葉は、私の中の奥深くに仕舞っていた何かの蓋を開けてしまいました。

それは、『たかが、うちの親だよ』という一度でした。



「何が、『たかが、うちの親だよ』だよ! 」

百貨店の中だったにも関わらず、私は怒鳴っていました。

「君にとっては『たかが親』でも、俺にとってはそうじゃない! これから頭を下げて、非常識な行動を詫びて、本当はちゃんとした人間なんだって、認めてもらって、それで初めて結婚が許される重要すぎる相手なんだよ。なんで、それがわからないんだ!」

突然声を荒らげた私に驚く妻。
私も、自分の声の大きさに気づき、言いながら声量を抑えました。しかし、感情は抑えられていませんでした。
言葉が、次々と溢れ出てしまったのです。

「そもそも、なんでこんなことになったか、思い出せよ! 原因は、あの日、尾道で、約束を破っておばあちゃんに会ったからじゃないか。後々面倒なことになるから会わないって約束したのにさ!」

「それは謝るよ。私が悪かったよ」
妻は私をなだめようとしていました。
「でもね、私は後悔してないよ。会ってよかった。おばあちゃんは喜んでくれた。あの日会わなかったら、元気な内にあなたを見せることができなくなっていたかもしれないし。確かに、順番は狂ったけど、そういうことより、大事なことが・・・」

「そこだよ!」
私は再び、声を荒らげていました。

「『もっと大切なこと』とか、『もっと大事なこと』とか、君はいつもそう言う。それは正しいかもしれない。でも、君がそれほど大切じゃないって切り捨てたことも、やっぱり大切なんだよ。それを大切にできない人間に、もっと大切なことがあるなんて、言う資格は無い!」

そして、言わなくてもよいことまで、私は、言ってしまったのでした。

「君はいつも、そういう責任を問われることから逃げてきたんだ。『もっと大事なことがある』とか、『もっと大切なことがある』とか言って。そういうことを言う前に、果たすべき責任があるのに。だから、逃げずにそこに留まって戦わなきゃならない者のことが分からない。それがどれだけ大変かを理解もせずに。自分はもっと大切なことを見ているとか言えるんだ。分かってる? 尻拭いをしているのはこっちだ。お願いだからさ。逃げずに向き合えってくれよ。俺にばっかり、尻拭いをさせないでくれよ!」

あの時の私は、続けて「あの時も」、「この時も」と妻詰ったのでした。

特に、妻が少し前に、業務上のトラブルを理由にあっさり仕事を辞めてしまったことを、私は責めました。
「あれだって、君は、逃げたんだ」と。そして、「簡単に辞めないで、もっと踏ん張って欲しかった。そうしてくれなくて、俺は本当はガッカリしていたんだ」とまで言って。



妻の名誉のために言わなければなりません。
妻は「これ!」と決めた道を、簡単に諦めたりする人ではありませんでした。

以前も書いた通り、私と出会う前、妻はメジャー誌に作品を載せるプロの漫画家でした。
それは、簡単になれる職業ではありません。
アシスタント生活の中で自分の作品を描き、持ち込みを繰り返し、7年かけてプロの漫画家としてデビューした妻は、間違いなく執念の人です。
最終的に、漫画の夢を諦めることになりましたが、その決断に至るまでは、修行時代から数えて10年以上の年月がありました。
粘りに粘って、それでもダメだとわかった末の悔しい決断した。

漫画を捨てて、新しい何かを模索する中で妻が見つけたのは、空手とイタリア語でしたが、どちらも根気強く続けていました。
特に空手は、当時は“皆勤賞”で稽古し、実力をつけていました。師範からも、指導の一部を任されるようになっていた程でした。

しかし、一方で、「これ!」と思っていないことには、驚く程、淡白でした。
当時であれば、仕事がそうです。
仕事は、妻にとって漫画に代わる何かには、成り得ませんでした。
何の拘りも情熱もなく、ただ生活の糧を得るためにしていた仕事は、妻にとって、面倒になったら辞めてしまうものに過ぎませんでした。
そのことに、仕事に価値を置いていた私は驚き、残念に思っていました。

いや、残念に思っていたという言葉は正確ではありません。
「それでは困る」と、私は思っていたのです。
ある理由から。

考えてみれば、私の中に芽生えていたその思いこそが、埋もれた爆弾だったのです。

妻は、そのことを見抜いていました。



妻は、目に涙を溜めていました。

「あなたがそう思っているのは、わかっていたよ。まさか、こんな風に言う人だとは思っていなかったけど」

そう言いながら、妻は、とても冷たい目で、私を見ていました。
彼女にそんな目で見られたのは、後にも先にも一度もありませんでした。

「涙は出るけど、悲しくは無い。情けないと思うだけ」
まくし立てていた私とは対照的に、妻は静かでした。
「あなたは、今日いきなりじゃなくて、ちょっとずつ変わってきていた。わかってたよ。あなたが宇都宮の両親のところに行って、私のことを話した時から、あなたは変わっていったって。」

それは、私にとって予想もしない妻の言葉でした。
しかし、その内容は、“図星”でした。

「親に反対されたんでしょ? それも、相当強く。漫画家崩れで、学校もちゃんと出ていない、定職にもついていないような女と結婚したいなんて、お前、バカじゃないか、とか言われたんでしょ? それでうろたえて、なんとか私にちゃんとさせようとジタバタしているんでしょ? そんなのわかってるよ。でも、それだって、たかが親の反対じゃない。なんで、そんなにうろたえる必要があるの?」



妻の言っていたことは、言葉通りに正確だったわけではありません。
しかし、一ヶ月前、結婚したいと思う女性がいることを自分の親に伝えた時、その反応が、とても“ネガティブ”だったのは事実です。

父は「お前はもっとよく考えるべきだ」とだけ言い、それ以上、話を聞こうとしませんでした。
それは、息子の考えに強く反対し、何があろうと考え直せる時の父の典型的な反応でした。
そして、反応の理由は、使っている言葉は別としても、論旨は妻が指摘したものでした。

私は、妻に、そんな自分の親の反応を伝えませんでした。
実家から戻った時、私は、「もう少し、“地ならし”が要るな」とだけ報告。そして、「片方の両親と会って、先にどんどん関係が深まっていくのも、なんだか変だし」と、妻の両親に会いにいくタイミングも遅らせることにしたのでした。

当時の私にとって、親、とくに父親が反対しているという事実は、とてつもなく重いことでした。

息子の私が言うのもおかしな話ですが、父は、一種のカリスマでした。
社会的にも成功し、狭い世界ながらたくさんの表彰を受け、地位も頂点を極め、メディアにも革命児として取り上げられ、しかも全国に多くの信奉者がいました。

先を見通す力と、周囲の人々を心酔させ統率していく力において、父は傑出したものを持っていました。“傑物”と言ってよいと思います。

しかし、その能力と人を動かす影響力は、家庭内の父親としては、あまりに威圧的なものでした。

その頃、父が本気で反対した時、私がそれを覆せたこたは、一度もありません。
(結果的にですが、妻との結婚を認めさせたことが、最初の一回目となりました)
そして困ったことに、妻との結婚に対する当時の父の態度は、物腰は柔らかいものの、明らかに「本気の反対」だったのです。

もう少し、“地ならし”が要る?
我ながら、中身の無い誤魔化しの言葉をよくも思いついたものです。

そんな言葉で状況を誤魔化しつつ、その実私は、父の反対を覆す方法も思い付かず、強引に押し切る勇気も湧き上がらず、思考停止状態になっていました。

それが、2006年5月の私の偽らざる情けない姿でした。



「情けないよ」

そう、妻は言いました。

「あなたの親も、私も親も、相手に会ってもいない。話だけ聞いて、勝手に想像を膨らませているだけでしょ。だったら、『会えば分かってくれるよ』と自信を持ってほしい。そう思ってくれないことが情けない。うろたえないで。しっかりしてよ!」

いま、こうして思い出しながら、書きながら思います。
あの時の妻の言葉は、私を責めたというより、むしろ激励していたのもしれません。

しかし、その時の私には、そうは思えませんでした。

たかが親に反対されたくらいで狼狽する「情けない」男。それは自分自身が一番恥じて認めたくなかった自分の姿です。
人は頑なになり、そして反発します。指摘されたことが、図星であればあるほど。

「簡単に言うなよ! 全部俺に押し付けておいて。俺の親のことも、君の親のことも、全部俺任せじゃないか。先週の君のお父さんへの説明だって、あんなの全然説明になっていない。だから、俺が頑張らなきゃならない。全部、俺に任せ切りだ。そんな無責任な立場で、よくも言葉だけ、『会えば分かってくれるよ』だなんて言えるもんだ」

「任せきりにはしない。明日は私の方からも、もっとちゃんと説明する。 あなたが私の親に会いに行くように、私もあなたの親に試される。そんなの当たり前でしょ?」

「それが全然、頼れないからこんな風になっているんだろ!」

「じゃあ、私はどうすればいいの? 私は今から勉強して立派な大学に入ればいいの? 名前の知られた大会社に就職すればいいの? あなたの親に認めてもらうために?」

「そんなことは言ってない! 」

「言ってるでしょ。私がそうでもしないと、親に認めてもらえないと思っているでしょ? そう思っているなら、かっこつけていないで、言えばいいのに。」
そして、妻はもう一度、「情けない。」と言いました。

「そんなことは言われたくない」

「言われたくなくても、事実でしょ。私のことも信じてくれない、自分のことも信じられない。形や条件を揃えることばかり考えて。そういうのを、情けないって言うのよ」

「もういい。言いたいだけ言えよ。中身のない言葉を。俺だって、わかっていたんだ、こうなることは。」

私はそう言いながら、“もうダメだ”と思いました。
一呼吸し、「もういいよ。じゃあな」とだけ言って、私は、妻に背を向けました。

“こんなことをしてはいけない”という心の声は、頭の中で響くもっと大きな“もう無理だ”、“最悪だ”、“最初からこうなるとわかっていたんだ”という唸り声にかき消されていました。

私はそのまま歩き出し、階を下り、建物を出て、表の通りに出ていました。
そして、早足で駅に向かって、止まらず歩き続けました。

私は振り返りませんでした。
妻も追いかけてきませんでした。

(続きます)

※ ※ ※

今回は、書いていて辛くなりました。
こんな辛い思いまでして、10年前のこととは言え、自分と妻の恥を晒するなんて、なんとバカなことをしているのだろう、とも思いました。

でも、バカなことだけれど、書いておきたいと思いました。
私の視線からの一面的な思い出ですが、妻が私と一緒に真剣に生きてくれたことの証として。
それに、最後は“ハッピーエンド”。
書いていて辛くなりましたが、これはその“ハッピーエンド”に至るための過程なのですから。

銀座
(銀座、和光と三越百貨店) ※著作権フリー写真
今日は結構腰の調子が悪かったのですが、家に帰ってからストレッチをしていたら回復してきました。

そんな訳で、少しまとまった筋トレを。

・ノーマルチンニング 10回(7回+3回)
・腕立て伏せ(バー使用) 30回
・フライングドッグ 10秒ホールド×10回
・レッグレイズ 50回
・アブアイソメトリック 30秒
・片足カーフレイズ 左右40回ずつ
・サイドレイズ(6kgダンベル)20回
昨日は、大学時代の友だちとそのお子さん二人と一緒に、「岩槻城址公園」で遊びました

遊ぶ場所にこの公園を選んだのは、友人の長男H君(なんと6歳にして『真田丸』を毎週見ているそうです!)から、「お城が見たいから城址公園がいい!」と言われため。

嬉しいこと言ってくれますね!
これはH君の期待に答えねば、と俄然張り切る私でした。

しかし「岩槻城址公園」は、かつての岩槻城の地形の一部が保存されてはいるものの、来訪者にその地形を楽しんでもらう仕掛けがほとんど無い(!)という残念な史跡公園。H君に楽しんでもらうには、私自身が城址の地形を楽しめるように案内しなければなりません。

そこで今回は、江戸時代後期に描かれた岩槻城の絵図『岩槻城并侍屋敷城下町迄惣絵図』を片手に、城址公園を散策することにしてみました。

結果は・・・絵図の示す地形を実地に確かめながら歩くことができ、大人2人も、子ども3人も、とても楽しめる散策となりました。

予想以上に楽しめたので、
・H君とパパの復習用に、
・今後、岩槻城址公園に、城址の地形を求めて訪問する同好の士の参考資料として、
岩槻城并侍屋敷城下町迄惣絵図』と、実際の城址公園の地形について、本エントリにまとめようと思います。


1.絵図に見る岩槻城の全景

まずは、『岩槻城并侍屋敷城下町迄惣絵図』で見る、江戸時代後期の岩槻城の全景から。
この『岩槻城并侍屋敷城下町迄惣絵図』は、旧・岩槻市が発行した『岩槻市史(通史)』(1986年)の付録です。古本で入手しました。
沼に囲まれ、元荒川に突き出してる“舌状台地”に築かれた城、岩槻城の特徴は、この絵図を見るとよく分かります。

【絵図で見る岩槻城全景】
岩槻城并侍屋敷城下町迄惣絵図

ただし、この写真の解像度では絵図の文字は読めないので、城の各所の名称を書きこんでみました。↓

【絵図で見る岩槻城全景(城各所の名称付記)
岩槻城絵図

上図(↑)から、岩槻城が、江戸の将軍が日光詣をする際に使う街道「日光御成街道」が、元荒川と交差する地点に築かれた城であることが分かると思います。

戦国時代には、
・日光御成街道の前身・奥大道は、鎌倉と下野国(栃木県)~東北地方を結ぶ大街道でした。
・元荒川は、荒川の本流にあたる大河でした。

岩槻は大街道が大河を越える渡河点であり、同地が戦略的な要所として、争奪の対象となったのも当然です。

黄色で書いた「鍛冶曲輪」・「新曲輪」が、「岩槻城址公園」として保存されている部分です。この2つの「曲輪(くるわ)」は、岩槻城の南の守り。小田原北条氏が岩槻城を押さえていた時代に築かれたものと言われています。

ちなみに、城の中心部である「本丸」は、実は「岩槻城址公園」には含まれていません。
「本丸」跡は、現在、県道2号線で分断され、「マミーマート岩槻店」が建っています・・・。


2.岩槻城址公園はどこにある?

今日の「岩槻城址公園」はどこにあるのか?
上で書いた通り、「鍛冶曲輪」・「新曲輪」が、「岩槻城址公園」として保存されている部分です。
絵図に、「岩槻城址公園」をはじめとした現在の地名を重ねたものが、次図(↓)です。

【絵図で見る岩槻城全景(城各所の名称付記)(現在の地名も付記)



国土地理院の「地理院地図」で、「岩槻城址公園」の位置、「鍛冶曲輪」・「新曲輪」の位置を示すとこんな感じ(↓)です。

【地理院地図で見る岩槻城址公園(航空写真)】
岩槻城址公園の位置

【地理院地図で見る岩槻城址公園(地形図)】


新曲輪」のど真ん中には、ドーンと野球場が・・・(笑)。
野球場になっている城跡って多いですよね。

鍛冶曲輪」の方が、木々を残し、開発されずに済んでいることが分かります。
城址の碑が残っているのも、この「鍛冶曲輪」跡。
そして、今回、絵図を片手におっさん2人+子供3人で散策したのも、やはりこの「鍛冶曲輪」でした。


3.絵図に見る「鍛冶曲輪」
今日歩いた鍛冶曲輪を、岩槻城の絵図『岩槻城并侍屋敷城下町迄惣絵図』で確認します。
色の凡例は・・・
・緑色→土塁
・朱色→空堀
・青色→水堀
・黄土色→道

鍛冶曲輪は、土塁と空堀によって攻めてきた敵を、狭くて且つ複数の方向から狙い撃ち(城側から)できるような構造になっていますね。

【絵図で見る鍛冶曲輪】


“色凡例”を、絵図の中に書きこんでバージョン(↓)もつくってみました。

【絵図で見る鍛冶曲輪(色凡例を付記)】



4.絵図を片手に「鍛冶曲輪」を歩く
ここからが本題です。
実際に鍛冶曲輪を歩いて撮った写真を、岩槻城の絵図と対照させながら紹介したいと思います。

鍛冶曲輪の散策順路は、下図(↓)の通り。

【本日の岩槻城・鍛冶曲輪の散策順路】



写真①:新曲輪との境目の空堀

写真①は、新曲輪との境目の空堀。
私は、写真(↑)右手の急な斜面を「土塁」だと説明してしまいましたが、絵図と照合すると「切岸」ですね。
右手の「切岸」の上は、お隣の「新曲輪」ですが、ここから鉄砲や弓矢で狙われたらたまらんな・・・と感じました。
左手の土塁は、(かつては分かりませんが)現在は傾斜も高さも、それほどではありません。

ちなみに、写真の奥で小さく見えている青い服の少年のあたりで、北条氏が空堀の底に好んで作った障害物「障子堀」が見つかっています。

【写真①】


【写真①はどこで撮られたか?】



写真②:出丸?から狙い撃ちされる空堀

写真②は、写真①の先で空堀が左折したあたりを撮影したもの。
絵図と対照させると、写真①と同様、右手が切岸・左手が土塁です。

この右手の切岸の上は、「鍛冶曲輪」の「出丸」(?)のように見えるスペースです。
左手の土塁も、この辺りではかなり高くなっています。
両側から狙い撃ちされそうで、ちょっとゾッとしました。

【写真②】


【写真②はどこで撮られたか?】



写真③:出丸?との通路(土橋)

写真③は、写真②の先で空堀が右折したあたりを撮影したもの。
目の前に階段が出てきますが、絵図を見ると、ここに「鍛冶曲輪」中心部と「出丸(?)」をつなぐ通路としての「土橋」があったようです。

【写真③】


【写真③はどこで撮られたか?】



写真④ 出丸?との通路(土橋)の上から南の空堀を臨む

写真④は、写真③で見上げた「土橋」の上からの眺め。
南側の空堀を見下ろしています。

南側は敵が侵入してくるルートですので、この写真④の小1男子2人の視線は、戦国の岩槻城籠城衆が、敵勢を迎え撃つ時のそれに近かったはずです。

【写真④】


【写真④はどこで撮られたか?】


【写真④はどこで撮られたか?(拡大版)】



写真⑤ 元荒川側から臨む

写真⑤は、写真④で見下ろした空堀を進んで左折し、道路にぶつかったところで踵を返して来た道を戻っているところ。

今までの順路は、城の内側⇒外側でしたが、元荒川側からのこの眺めは、外側⇒内側。
岩槻城を攻める側の視点に近そうです。
右手の土塁の上が、「鍛冶曲輪」の中心部です。

【写真⑤】


【写真⑤はどこで撮られたか?】



写真⑥:鍛冶曲輪中心部から出丸(?)へ通じる土橋を望む

鍛冶曲輪の中心部に登り、写真④で通った「土橋」を望みます。
この土橋の先にあるのが、私が「出丸(?)」と書いてきた部分です。
この写真からは分かりにくいのですが、写真③と④で見た通り、土橋の左右は急傾斜の階段。戦国時代は切り立った「切岸」だったはずです。
肉眼では、この雰囲気がひしひしと伝わってきました。

(鍛冶曲輪の中心部は、子どもが走り回るのにちょうどよい広さと、傾斜があるので、息子が駆け回っていました。)

【写真⑥】


【写真⑥はどこで撮られたか?】



写真⑦:鍛冶曲輪中心部の広がり感

鍛冶曲輪」の中心部。
切り立った「土塁」・「切岸」の上に、これだけの空間があれば、かなりの兵士を詰めさせることができたことでしょう。

【写真⑦】と【写真⑦はどこで撮られたか?】を比べると分かると思いますが、本当に絵図のままの地形が残っています。驚きました。

【写真⑦】


【写真⑦はどこで撮られたか?】



写真⑧:城址の石碑は、鍛冶曲輪の土塁の上に

写真⑧は岩槻城址の石碑。
石碑では城の名前は「白鶴城」。太田道灌による築城伝説にちなんだ、岩槻城の別名です。
現在は黒田基樹先生に否定されてしまった岩槻城・太田氏築城説ですが、かつては岩槻民の誇りとなっていました。この石碑もそれを受けて建てられたもの。

北条氏が築いた「鍛冶曲輪」に、この碑が立てられているのは、少々皮肉な気がします。

今回の探訪では、この石碑が、「鍛冶曲輪」の土塁上に立っていることがよく分かりました。
(→【写真⑧はどこで撮られたか】をご参照ください)

【写真⑧】


【写真⑧はどこで撮られたか?】



写真⑨:鍛冶曲輪から菖蒲池を望む

岩槻城址公園名物(?)の「八ツ橋」。
岩槻城の歴史と何の関わりもないこの橋が架かる菖蒲池を、鍛冶曲輪から眺めます。
道は緩やかな下り坂です。

【写真⑨】


【写真⑨はどこで撮られたか?】



写真⑩:元荒川側の出丸?への通路?
今回の「岩槻城絵図を持って城址公園を歩こう」散策で、私が一番驚いたのは、この写真⑩の地形です。
これまで、公園と道路をつなぐ通路として、まったく気に留めていませんでしたが、絵図と対照とすると、岩槻城時代からの地形のようです。

絵図(→【写真⑩はどこで撮られたか?】)に示される、鍛冶曲輪の元荒川側の土塁の切れ目と、写真に見える土手を削って作られたかのような道路への通路は、“完全に一致”です。

おそらく、元荒川側の「出丸」への通路だったんでしょうね。

【写真⑩】
IMG_20160522_172642880.jpg

【写真⑩はどこで撮られたか?】



写真⑪:八ツ橋から見えるあの林は・・・

岩槻城址公園名物の「八ツ橋」。
岩槻城の歴史と何の関わりもないこの橋(←しつこい?)から見える、林のある小さな丘も、岩槻城絵図に描かれてる土塁のようですね。
城址公園内には、何の説明もないので、気づいた時はちょっとビックリしました。

【写真⑪】


【写真⑪はどこで撮られたか?】



5.絵図を片手に「鍛冶曲輪」を歩き終えて

今回はじめて、岩槻城絵図『岩槻城并侍屋敷城下町迄惣絵図』を片手に、城址公園を散策してみました。
その結果、「鍛冶曲輪」周辺の地形が、ほぼ絵図のまま残されていることが分かりました。

しかも、土塁/切岸/空堀の高さ・深さも立派なもの。
戦国時代の将兵の気持ちになって、「城を攻めるには?」・「城を守るには?」を考えながら歩くのに十分なレベルです。

これほど、江戸時代の絵図のままの地形が残っているなら、
①絵図と現在の地形を対応させるような案内表示を行う、
②戦国時代の攻城戦をイメージさせる案内表示を行う、
を行うことで、かなり「楽しめる」城址になるはず。

岩槻城址は、本来のポテンシャルを活かし切れていないですね。
ここは、もっと面白い場所になるはずです。
今日から糸東流空手教室に正式入門。
父子で汗を流してきました。


武道場。
子ども達が走り回ります。



武道館正面



二時間の稽古内容は、
・柔軟体操
・基本稽古(突き、蹴り、受け)
・約束組手 3種×左右
・ミット打ち
・型



基本稽古は、まだまだフルコン系との微妙な違いに戸惑いますね。
でも、四股突きや、前屈立ちで腰を残して蹴る前蹴りは、 とても気に入りました。



今日なんと言っても面白かったのは、約束組手。

相手の攻撃は、①追い突き、②踏み込み逆突き、③踏み込みワンツー、の3種。
これを、斜めに運足して捌き、その斜め角度から返しの突きを放つ、という内容です。

こういう斜めの運足を、いきなり入門レベルでもやらせてもらえるのが新鮮です。

フルコン空手に限らず、私が習ってきた空手では無かったこと。
私が習った前屈立ちの約束組手は、まずは相手の攻撃に対して、真正面を向いたまま受け技で攻撃を払います。
足運びは前後のみ。相手の突き蹴りが我が身に当たらないのは、手の受け技動作による払いの結果です。

斜めに運足して捌く技法は、約束組手で習うものではなく、自由組手の稽古の中で壁にぶつかる中で各人が工夫して編み出すか、先輩から教えてもらうものでした。

最初から、基本稽古の延長でこうして教えてもらえるのはいいですね。
しかも、立ち方は、前屈立ちのままなので、空手の伝統的な動作と、実戦での振る舞いのギャップが少なくと感じます。

素晴らしい指導体系だと思いました。



しかし、ミット打ちは、少し不満。
この教室に限らず、伝統空手は、「元立ち」スタイルでミット打ちをやることが多いと感じます。

先生にしっかり見てもらえる稽古法としてはよいのですが、打ち込み量は絶対的に不足にします。
フルコン空手やボクシング、キックで一般的な二人一組で行うミット打ちに比べると、やはり物足りない。

ミットを打ちながら、自分の中で強靭な軸を作り上げていく。あれは、フルコン空手ならではのいいところだったんだなと再認識しました。
ここは、自分で補わないとダメですね。

もっとも、打ち込み量の少ないこの方式のミット打ちでも、回し蹴りをやると腰椎周りがジンジン痛む今の私。
ヘルニア持ちはツラいですね。

そう考えると、「元立ち」式ミット打ちの打ち込み量が、今は適切なのかもしれません。



たくさん汗をかいて(実は一番汗をかいたのは基本稽古)、楽しい二時間でした。
今日は、大学時代の友だちがお子さん二人を連れて、岩槻に遊びに来てくれました。

一緒に訪ねたのは、岩槻城址公園。
前半は遊具で遊び、後半はマニアックに江戸時代の絵図を片手に岩槻城の鍛冶曲輪の遺構を辿ってみました。

こちらは小一男子ひとり、あちらは小一男子+年少女子のふたり。
どうなるかな?と見ていましたが、最初は互いに牽制しあったものの、途中から楽しそうに遊んでいました。

私自身にとっても、江戸時代後半の絵図の地形が、今もほとんどそのまま城址公園に残されていることが分かり(絵図と対照させて歩いたのは今日が初めて)、とても意義深い城址散策になりました。

あれ?
趣旨が変わっている?(笑)

(今回の岩槻城絵図と城址公園地形の照合結果は、追って別のエントリにまとめようと思います。書きました→岩槻城絵図を片手に城址公園を歩こう

楽しい土曜日でした。




岩槻城址公園。
この辺りは、戦国・江戸時代は岩槻城のお堀の底。


滑り台で、何やら変な遊びに熱中する小一男子ふたり。


岩槻城の南の守り、「鍛冶曲輪(かじぐるわ)」と「新曲輪(しんぐるわ)」の境目の空堀にて。


「鍛冶曲輪」の主郭と出丸(?)を結ぶ土橋から空堀を見下ろす小一男子ふたり。
押し寄せる敵勢を如何にして蹴散らすかを、相談する籠城衆ふたりにも見えます。


公園の池に走る小一男子と年少女子。


アハハ、ウフフ。


事前に岩槻城の絵図をチェック。


今回のお弁当。
レンコンのケチャップ炒めを頑張りました。