『岩槻市史』の付録についていた『岩槻城并侍屋敷城下町迄惣絵図』を色々な方向から眺めています。

江戸からの街道を北上する目線(写真では下から上の方向)で岩付城(岩槻城)を見てみると・・・

見えてくるのは、元荒川を濠としてその身を守りつつ北東に向けて突き出したこの城の姿。やはり、北東に向けて睨みを効かせるための要塞だった、としか思えません。

南は味方、北が敵。
岩付城は、そういう城として築城されたはずです。


【関連】
・岩付城(岩槻城)の築城者に関する所説については、↓のエントリをご参照ください。
「岩槻城は誰が築いたか」を読む(後)
「岩槻城は誰が築いたか」を読む(中)
「岩槻城は誰が築いたか」を読む(前)
「岩槻城は誰が築いたか」を地形から考える
太田道灌の三城(河越、江戸、岩付)の戦略とその後継者
地図で見る太田資正の世界 (7)岩付城(岩槻城)とその地形
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