「岩槻城は誰が築いたか」を読む(中)の続きです。

岩槻城・成田氏築城説に否を突きつけた、小宮勝男氏の主張を、ひとつひとつ精査してみます。

なお、以下の(1)~(10)のまとめ方・ナンバリングは、はみ唐によるものです。
小宮氏のオリジナルの主張とは、表現や軽量の付け方が変わってしまっている可能性があります(実際、いくつかの主張は、派生的な話題に留まり、岩槻城の築城者の特定には関係無いと見做して省略しています)。
小宮氏のオリジナルの主張については、氏の著作「岩槻城は誰が築いたか」をご参照ください。


(1)
従来の定説は、享徳の乱で両上杉家と古河公方が合戦を繰り返す最中の岩付城の築城となるが、新説では両者が和睦し、古河公方が室町幕府から許されるように上杉側も尽力している頃の築城となる。これは不自然である。

従来説(太田道真築城説)の方が、岩槻城(当時は岩付城)築城の目的が説明しやすい、という主張。
それはそうかもしれませんが、成田氏築城説を覆すほどのものではありません。仮に岩槻城成田氏築城説が強固な証拠で立証されれば、次のように認識されるだけです。
上杉方も室町幕府に対して古河公方が許されるよう働きかけていたが、その裏で古河公方は上杉方を牽制するための築城も続けていた。室町幕府の仲介が入ったものの、古河公方側は、関東の抗争はまだ続くと見ていたのである

もっとも、これは、小宮氏としても軽いジャブ程度の指摘。
氏の成田氏築城説への反論は、この主張に依拠しているわけではありません。


(2)
新説が根拠とする「自耕斎詩軸並序」では、岩付城の築城者は、岩付左衛門丞顕泰の父・正等。顕泰は、「自耕斎詩軸並序」が書かれた1497年の時点で岩付左衛門丞と言われているので、岩付在住。成田氏の当主ではありえない。

この主張は、弱いですね。
小宮氏は、成田家の当主は、熊谷市や行田市の付近の領主だったのだから、「岩付左衛門丞」を名乗る顕泰は、成田氏当主の成田顕泰ではない、という主張ですが・・・
熊谷市や行田市の付近を本拠地とする成田氏の当主が、新たに南方に築いた岩付城に一定期間滞在したとしても、それほどおかしいことではありません、。規模は異なりますが、扇谷上杉氏の当主は、糟谷館が本拠地ですが、道灌が新たに作った新城である、河越城や江戸城にも長期滞在してます。
実際、成田氏築城説の提唱者・黒田基樹氏も、成田顕泰が、一定期間、新城である岩付城に滞在した、という解釈を示しています。

同城にはその家督(はみ唐註:正等の一族の家督)を継いだ、養子の左衛門尉(後に下総守)顕泰(実は山内上杉氏家宰長尾忠景の子)がそのまま在城し、少なくとも同六年(はみ唐註:延徳6年)まで同城に在城したことが確認されている。成田顕泰は、その後、永井六年(一五〇九)には本拠の忍城に在城しているから、その間に岩付城から忍城に移ったことが知られる」(黒田基樹『総論 岩付太田氏の系譜と動向』、「岩付太田氏」(岩田書院)、p.8)

もちろん、成田氏の規模の領主が、ある時は岩付城、ある時は忍城、と在城する城を変えるのはやや不自然な印象はありますが、小宮氏のように「顕泰は正等の子ですが、父正等の死後も1497年現在、岩付左衛門丞と記述されていますので、成田氏の当主ではあり得ません」(小宮勝男「岩槻城は誰が築いたか」(さきたま出版会)、p.26)とまで主張するのは無理があるでしょう。

せいぜい、「成田氏程度の規模の領主の動きにしては少々不自然」程度の指摘が適切です。


(3)
「自耕斎詩軸並序」には、正等について「自得逍遙し、東郊に作あれども」という一説がある。自得逍遙は、「自得は逍遙し」という読むべきである。 この時、自得は主語となる。
太田道真は、隠居した後、越生の住居を自得軒という名付け、自ら自得軒道真と称している。即ち、「自耕斎詩軸並序」の本文に、正等=自得=道真が示されている。

これは非常に興味深い指摘です。
確かに、「自得逍遥」は、「自得は逍遥し」と読めますし、太田道真が「自得軒」を名乗ったのも事実。
正等(自耕斎)=自得=太田道真、という指摘は、一定の説得力があります。

難を言えば、岩付城の築城者の名前が、①自耕斎、②正等、③自得(軒)と3つも出てきてしまうこと。
この内、①の自耕斎は「自耕斎詩軸並序」のタイトルに登場しますし、②の正等は本文に登場します。しかし、③の自得は主語とも修飾語とも判別できない形で登場します。名前が3つも出てくるならば、「自得」についてもある程度それが第三の名前であることを示してくれてもよいと感じなくもありません。
そうした配慮が本文中に無いことのを見ると、主語でなく修飾語と見るのが自然にも思えます。

しかし一方で、正等が太田道真であるならば、道真の第三の名である自得(軒)を、漢詩の中に修飾語的に登場させるのは、掛け言葉、言葉遊びとして面白いと感じます。当時の詩僧であれば、その程度の遊びを詩に織り込んだ可能性も考えられます。

ということで、(3)は、岩槻しても、太田道真築城説の“確証”とまでは言えないものの、非常にパワフルな支持材料であると、と私は見ます。


(4)
「自耕斎詩軸並序」には、「(正等は)平生洞下の明識月江老に参じて新豊の唱を聞く」とある。これは、正等が平生から曹洞宗の名僧・月江正文に禅を学んだことを指している。
月江正文は、寛正三年(1462年)に没している。岩槻城・成田氏築城説は、正等を成田顕泰の父・成田資員(すけかず)としているが、資員は、1484年に32歳で没しており、月江正文の没時にはわずか10歳だったことになる。
成田資員が正等だったとするのは、無理がある。

これもすごい指摘だと思います。
成田資員の没年と享年が、本当に小宮氏の記載のとおりであるならば、正等を成田資員に同定する岩槻城・成田氏築城説は、否定されたも同然でしょう。

しかし、小宮氏が参照した「成田氏系譜」は、どこまで没年・享年情報を信じてよいかはわからない、という指摘もあるようです。他の資料で没年・享年が確認されている当主について、「成田氏系譜」が誤った記述をしているケースが実際あるとか。

出所は分かりませんが、wikipediaには、応永30年(1423年)を成田資員の生年とする説も載せられています。これを採用するならば、成田資員が、月江正文の没年時の年齢は39歳となり、月江正文に指導を受けることも可能になります。

成田資員の生年について、もう少し確たる資料があればいいのですが・・・

いずれにしても、、成田資員の生年情報が複数あるため決定打とはならないものの、月江正文の没年情報から切り込んだ小宮氏の着想は、お見事です。
岩槻城・成田氏築城説を提唱した黒田基樹氏も、ここまでの検証はしていないのではないでしょうか。


(5)
月江正文と関連があったとわかる武将は以下の3氏のみ。
・長尾景仲、景信親子
・太田道真、道灌親子
・金子駿河守
成田氏との関連は見つからない。対して、太田道真・道灌親子との接点は多いため、月江正文に帰依した正等とは、太田道真と視るのが自然。

<太田氏と月江正文の関係>
・1449年、太田道灌の依頼で、月江正文は、江戸城万代永盛の祈祷法問を執行。
・1457年、再び道灌から江戸城修築の祈祷依頼があったが、月江正文は病気だったため、弟子の泰叟妙康に祈祷を代行させた。
・太田道真は月江正文に帰依し、太田道灌は泰叟妙康に帰依した。
・1532年に、道灌の孫・太田資頼が岩付の加倉に洞雲寺を創建した際は、越生の龍穏寺から、月江正文の弟子の系譜にあたる布州東播を招聘した。


これも説得力のある指摘です。
月江正文師とその弟子たちが、太田氏代々の当主とこうした関わりを持っていることを知ると、月江正文に師事した正等は、太田道真だと考えるのは確かに自然だと思えてきます。

“状況証拠”に留まるのではありますが・・・


(6)
「自耕斎詩軸並序」には、「自耕、底の田に非ず、廬傍に若し龍蟠の逸士あらば、予の為に指迷せよ」とある。「龍蟠」は、太田道真が隠居した越生の龍穏寺にある「蟠龍山洞昌院」に通じる。

これはどうでしょうね・・・?
正等=太田道真が別のエビデンスで立証されたなら、太田氏所縁の「蟠龍山」が、漢詩の中にアナグラムのように組み込まれている、という見方もできると思います。しかし、これを以って正等=太田道真とするのは無理でしょう。


(7)
岩槻城・成田氏築城説が、 岩付左衛門丞顕泰に同定している成田顕泰は、「長林寺長尾家系図」では、長尾忠景の三男とされている。これは、岩槻城・成田氏築城説の提唱者である黒田基樹氏も認めているところ。
この三男・顕泰は、長尾家と親しい太田道真のもとに養子に入り、岩付領を統べたので岩付を苗字としたのだろう。 それ故、顕泰は1497年までは成田氏ではなく、長尾氏出自の岩付氏ということになる。従って、岩槻上築城に成田氏は関係無い。

この主張は、非常にconfusingです。
「岩槻城は誰が築いたか」のp.38に登場する主張なのですが、それまで小宮氏の主張に賛同しながらページをめくった方も、ここで混乱するのではないでしょうか。

「自耕斎詩軸並序」に出てくる岩付城築城者「正等」は成田氏ではない、という主張を続けてきた小宮氏。
しかし、ここで小宮氏は、「正等」の養子の「岩付左衛門丞顕泰」は、後に成田顕泰になる人物だった、と主張するのです。
ただし、当時の顕泰は、正等=太田道真の養子であり、まだ成田氏の養子になっていなかった。成田氏の養子になったのは、岩付城築城の後であるから、岩付城築城に成田氏は関係ない・・・という論理展開。これには、なかなか着いて行けません。

小宮氏の主張から導かれるのは、「岩付左衛門丞顕泰」が、長尾忠景の三男 → 太田道真の養子 → 成田氏の養子、となったというもの。
養子入りをやり直す、ということが、当時できたのか?
確かに、太田道真率いる太田家は、道灌暗殺後に大混乱を迎えますが・・・それでも、一度養子に入った人物が、他家に再度養子入りするのは考えにくいのではないでしょうか。

「岩付左衛門丞顕泰」を、
A.黒田氏と同様、成田顕泰と同定する、
B.しかし、黒田氏とは異なり、成田顕泰は成田氏に養子入りする前に、太田道真のところに養子入りし、岩付という苗字を名乗っていたとする
それが小宮氏の見方です。

しかし、A.を採用し、「岩付左衛門丞顕泰」を成田顕泰とするならば、「岩付左衛門丞顕泰」の養父・正等は、成田顕泰の様子・成田資員と見るのが自然です。これを覆すには、相当の論拠がいるはずです。残念ながら、小宮氏はそうした論拠を示せていません。

私は、小宮氏はこの主張を捨てた方がいいと思っています。
「岩付左衛門丞顕泰」を成田顕泰に同定せざるを得ないのであれば(私にはそうとは思えません)、「しかし、『正等』は、成田顕泰の養父は成田資員ではなく、その前に養父であった太田道真」という主張は、虫が良すぎます。せめて、成田顕泰が二人の養父を持ったことの根拠を示す必要があります。

小宮氏は、「岩付左衛門丞顕泰」という名自体が、熊谷・行田の成田氏の当主時代の成田顕泰ではありえない、という一点でここを突破する考えのようですが、黒田氏の説のように当主自ら居城を変えていた期間があると考えれば、説明ができてしまうのです((2)参照)。

とにかく、問題の多い主張です。


(8)
普通、道号と法諱(法名)は、道号+法諱で意味のある言葉ができるようになっている。
太田道真が、正等であれば、道真+正等という組み合わせから「真正」という意味のある組み合わせが得られる。
やはり、正等は、太田道真と考えるのが自然。

これも、正等=太田道真が別のエビデンスで立証されたなら、「なるほど、そう言えるかもしれませんね」というレベルの話。これを以って正等=太田道真とするのは無理でしょう。


(9)
「自耕斎詩軸並序」には、「(正等は)白羽扇三軍を指揮して、その中を守る。中扇といふもまた宜なるかな」とある。ここから、正等が生前、白羽扇を愛用したことが伺える。
白羽扇と言えば、諸葛孔明。当時、武州(武蔵国)周辺で、自身を諸葛孔明になぞらえることができる程のビッグネームは、太田道真・道灌親子以外には考えられないのではないか。(少なくとも、成田氏は、諸葛孔明になぞらえることができるような有名な武将は輩出していない。)

この主張も、気持ちは分かります。
この時代、諸葛孔明を引き合いに出しても笑われない名将と言えば、確かに太田道真・道灌親子が思い浮かびます。
しかし、名将であれ愚将であれ、白羽扇を使うのは当人の勝手です。
それに、「自耕斎詩軸並序」はパトロンの親を讃える漢詩です。諸葛孔明の白羽扇を持ち出してパトロンの親を讃えてもおかしくありません。

これを以って正等=太田道真とするのは無理でしょう。


(10)
白羽扇については、太田道灌も、生前の道灌と交流のあった万里集九の漢詩において白羽扇を愛用したことが伝えられている。父・道真が愛用した白羽扇を、嫡男・道灌が父に倣って愛用したと考えるのは自然。とすれば、白羽扇を愛用した正等は、太田道真である可能性が高い。

道灌が白羽扇を使ったのは、父に倣ったからだろう、というのがそもそも推測、想像に過ぎません。
ここから、白羽扇と言えば太田道真、即ち白羽扇で戦ったと讃えられた「正等」は太田道真、とするのは無理があるでしょう。

 ※ ※ ※

降り返ると、
(1) → × 弱い
(2) → × 弱い
(3) → △ 一定の説得力あり
(4) → ○ 非常に説得力あり。ただし成田資員の生年・没年情報の精査が必要。
(5) → △ 一定の説得力あり
(6) → × 弱い
(7) → ● 逆に、岩槻城・成田氏築城説を有利にしてしまう主張
(8) → × 弱い
(9) → × 弱い
(10) → × 弱い
というのが、私の評価です。

説得力のある主張もある一方、「弱い」論拠での主張も多い、さらにはむしろ成田氏築城説を有利にする(7)のような主張にしている。
それが、小宮説の問題点だと思います。

仮に私が、小宮氏の主張に基づき、岩槻城・成田氏築城説への反論を再構築するならば、
・論拠は、(3)(4)(5)に絞ります。
・(7)は捨てます。
(岩付左衛門丞顕泰を成田顕泰に同定する必然性は無いように思えますし)
・そして、「弱い」とした(1)(2)(6)(8)(9)(10)は、おまけの扱いにします。
 即ち、(3)(4)(5)の論拠で結論を出してから、
 その結論を採用すると説明しやすい事柄として紹介するにとどめます。

こうしないと、小宮説の良さは、問題点によって潰されてしまうと思います。


しかし、市井の郷土史家が、本職の学者よりも明らかに深く史料を検証し、学者が見落としたポイントを焙り出した点は、本当にすごいと思います。
史学界の関係者には、小宮勝男氏の主張の内、検討に値する部分には、きちんと対応してほしいと願います。
また、地元・岩槻の関係者は、小宮説を不可触のドグマとは捉えず、自由闊達に批判してより良い仮説に練り上げる方向で議論をしてほしいところです。

 ※ ※ ※

ところで、私自身は、岩槻城(岩付城)の築城者は太田道真だったのではないか、という見方です。
月江正文と太田道真の関係の深さは、「自耕斎詩軸並序」に出てくる「正等」が道真であったとする考え方に説得力を与えますし、成田氏築城説が「正等」に同定する成田資員が月江正文に師事できる時間軸を生きていなかった(生年・没年要検討ながら)、という小宮氏の発見もとてもインパクトがあります。

ここに加えて、地形から考えた岩槻城(岩槻城)の機能を考えれば、この城が、北・北東・東方向の敵と対峙するための要塞だったのは、否定するのは困難です。
北・北東・東方向の敵と対峙しての岩槻城築城となれば、敵を南方や西方に見る成田氏築城は非常に考えにくいのです。

 ※ ※ ※

【関連】地形から考える岩槻城(岩付城)
岩付城(岩槻城)が睨む方向
「岩槻城は誰が築いたか」を地形から考える
地図妄想:「敵は騎西城にあり」ならば・・・

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