※ 「岩槻城は誰が築いたか」を読む(前)の続きです。

さて、岩槻城・成田氏築城説の根拠は、「自耕斎詩軸並序」という同時代史料における次の一節です。

武州崎西郡有村、曰岩付、又曰中扇、附者傳也、岩付左衛門丞顕泰公父故金吾、法諱正等、挟武略之名翼、有門蘭乃輝、築一城

武州の崎西郡(騎西郡)に、岩付という地があり、 岩付左衛門丞顕泰公の父・正等(法諱)は生前優れた武略を見せた。そして、この地に城を築いた。
そんなところでしょうか。
(それにしても格調の高い漢文です。我らが岩槻城(岩付城)が、まるで三国志に出てくる名城のような気すらしてきます。だから、詩僧って、需要があったんでしょうね(笑)。)

黒田基樹氏は、岩付左衛門丞顕泰を、成田顕泰であるとし、その父・正等を、成田資員であると同定します。

これに対して、「岩槻城は誰が築いたか」の小宮勝男氏は、以下のような反論を展開します。

なお、以下の(1)~(10)のまとめ方・ナンバリングは、はみ唐によるものです。
小宮氏のオリジナルの主張とは、表現や軽量の付け方が変わってしまっている可能性があります(実際、いくつかの主張は、派生的な話題に留まり、岩槻城の築城者の特定には関係無いと見做して省略しています)。
小宮氏のオリジナルの主張については、氏の著作「岩槻城は誰が築いたか」をご参照ください。


(1)
従来の定説は、享徳の乱で両上杉家と古河公方が合戦を繰り返す最中の岩付城の築城となるが、新説では両者が和睦し、古河公方が室町幕府から許されるように上杉側も尽力している頃の築城となる。これは不自然である。



(2)
新説が根拠とする「自耕斎詩軸並序」では、岩付城の築城者は、岩付左衛門丞顕泰の父・正等。顕泰は、「自耕斎詩軸並序」が書かれた1497年の時点で岩付左衛門丞と言われているので、岩付在住。成田氏の当主ではありえない。



(3)
「自耕斎詩軸並序」には、正等について「自得逍遙し、東郊に作あれども」という一節がある。自得逍遙は、「自得は逍遙し」という読むべきである。 この時、自得は主語となる。
太田道真は、隠居した後、越生の住居を自得軒という名付け、自ら自得軒道真と称している。即ち、「自耕斎詩軸並序」の本文に、正等=自得=道真が示されている。



(4)
「自耕斎詩軸並序」には、「(正等は)平生洞下の明識月江老に参じて新豊の唱を聞く」とある。これは、正等が平生から曹洞宗の名僧・月江正文に禅を学んだことを指している。
月江正文は、寛正三年(1462年)に没している。岩槻城・成田氏築城説は、正等を成田顕泰の父・成田資員(すけかず)としているが、資員は、1484年に32歳で没しており、月江正文の没時にはわずか10歳だったことになる。
成田資員が正等だったとするのは、無理がある。


(5)
月江正文と関連があったとわかる武将は以下の3氏のみ。
・長尾景仲、景信親子
・太田道真、道灌親子
・金子駿河守
成田氏との関連は見つからない。対して、太田道真・道灌親子との接点は多いため、月江正文に帰依した正等とは、太田道真と視るのが自然。


<太田氏と月江正文の関係>
・1449年、太田道灌の依頼で、月江正文は、江戸城万代永盛の祈祷法問を執行。
・1457年、再び道灌から江戸城修築の祈祷依頼があったが、月江正文は病気だったため、弟子の泰叟妙康に祈祷を代行させた。
・太田道真は月江正文に帰依し、太田道灌は泰叟妙康に帰依した。
・1532年に、道灌の孫・太田資頼が岩付の加倉に洞雲寺を創建した際は、越生の龍穏寺から、月江正文の弟子の系譜にあたる布州東播を招聘した。



(6)
「自耕斎詩軸並序」には、「自耕、底の田に非ず、廬傍に若し龍蟠の逸士あらば、予の為に指迷せよ」とある。「龍蟠」は、太田道真が隠居した越生の龍穏寺にある「蟠龍山洞昌院」に通じる。



(7)
岩槻城・成田氏築城説が、 岩付左衛門丞顕泰に同定している成田顕泰は、「長林寺長尾家系図」では、長尾忠景の三男とされている。これは、岩槻城・成田氏築城説の提唱者である黒田基樹氏も認めているところ。
この三男・顕泰は、長尾家と親しい太田道真のもとに養子に入り、岩付領を統べたので岩付を苗字としたのだろう。 それ故、顕泰は1497年までは成田氏ではなく、長尾氏出自の岩付氏ということになる。従って、岩槻上築城に成田氏は関係無い。



(8)
普通、道号と法諱(法名)は、道号+法諱で意味のある言葉ができるようになっている。
太田道真が、正等であれば、道真+正等という組み合わせから「真正」という意味のある組み合わせが得られる。
やはり、正等は、太田道真と考えるのが自然。



(9)
「自耕斎詩軸並序」には、「(正等は)白羽扇三軍を指揮して、その中を守る。中扇といふもまた宜なるかな」とある。ここから、正等が生前、白羽扇を愛用したことが伺える。
白羽扇と言えば、諸葛孔明。当時、武州(武蔵国)周辺で、自身を諸葛孔明になぞらえることができる程のビッグネームは、太田道真・道灌親子以外には考えられないのではないか。(少なくとも、成田氏は、諸葛孔明になぞらえることができるような有名な武将は輩出していない。)

(10)
白羽扇については、太田道灌も、生前の道灌と交流のあった万里集九の漢詩において白羽扇を愛用したことが伝えられている。父・道真が愛用した白羽扇を、嫡男・道灌が父に倣って愛用したと考えるのは自然。とすれば、白羽扇を愛用した正等は、太田道真である可能性が高い。


※ ※ ※

小宮勝男氏による反論は、およそこのようなところ。
他にも論じられていることはあるのですが、派生論点に過ぎないと見て、ここでは省略しています。
(詳しくは、小宮氏の著書をご参照ください)

さて、物好きにもここまで読んで下さった皆様は、この(1)~(10)を見て、どのような感想を持たれるでしょうか。
「お!」と思わせる鋭い指摘もあれば、「それは理屈になっていないとでは?」というものまで、あったのではないでしょうか。
少なくとも、私はそういう感想を持ちました。

まさに、玉石混淆です。

こうした玉と石の落差の大きな指摘が、同じようなってトーンで紹介され、その都度、「だから成田氏築城説はあり得ない」と繰り返すのですから、読み手が混乱するのも仕方ない面があります。

ひとまず、(1)~(10)を書き出すことで、私の頭の中はスッキリしました。

次稿で、個々の主張に、私の論評を加えたいと思います。
「岩槻城は誰が築いたか」を読む(後)

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地図妄想:「敵は騎西城にあり」ならば・・・


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