岩付城(岩槻城)の築城者・築城目的に絡む地図妄想をもう一つ。

1.【前提】築城に関する2説の確認

◎旧来説
・長禄元年(1457年)、太田道灌の父・道真が、主家・扇谷上杉家の敵・古河公方を牽制するために築城。
・根拠:江戸時代の軍記物「鎌倉大草紙」等 

◎新定説
・文明10年(1478年)、古河公方側の成田氏が築城
・根拠:同時代資料「自耕斎詩軸並序」


2.今日見つけた興味深い記述

新定説の提唱者・黒田基樹氏の「図説・太田道灌」(戎光祥出版、2009年)の『江戸・河越・岩付を築城したのはだれか』(p.51)より。

「扇谷上杉氏にとって当面の敵は下総千葉氏であり、さらに古河方の武蔵における拠点になっていた崎西城(埼玉県騎西町)への備えが必要とされた。そのため武蔵に軍事拠点を構築する必要が生じ、河越・江戸両城が築城されたと考えられる。そして河越城には当主持朝と家宰の道真が、江戸城には道真の嫡子道灌が入部した」

崎西城とは、騎西城。
道灌親子の敵は、千葉氏と騎西城だった。

古河公方が騎西城を支配下においたのは、wikipediaによれば、康正元年(1455年)。


3.河越城は騎西城への抑えとなったか?

河越城は騎西城への抑えとなったか


河越城と騎西城の間には、入間川、大宮台地、そして江戸期の西遷以前の荒川が。
河越城は、騎西城に対しては、天然の障害物に3重に守られた堅城として向かい合った。

騎西城の脅威をモノともしない河越城だが、騎西城への牽制とはなれたか?

河越城と江戸城のみだと、荒川に沿って、古河公方勢が葛西あたりに下りて来るのを防げなかったのではないか?
千葉氏と、葛西城は自由に連携できることになったのではないか?


4.岩付城があったなら・・・

旧来説どおり、長禄元年(1457年)に岩付城が、太田道真によって築城されていたなら・・・

河越城は騎西城への抑えとなったか


岩付城があったなら、騎西城から荒川に沿った南下が防がれ、千葉氏と古河公方の連携を防げそう・・・


4.岩付城と騎西城の関係をもう少し詳しく見る

騎西城と岩付城


騎西城と岩付城は、(かつての)荒川を挟んで対峙する関係。
騎西城から荒川に沿って南下する場合、武蔵国側に入るには、岩付城付近から江戸城方向に伸びる(大宮台地の岩付城以南部の尾根を辿る)旧・奥大道を通りたい。
ここに、荒川を濠とした城があり、荒川北岸を睨んでいると、騎西城側はかなり嫌。

もちろん、騎西城から出る勢力が、岩付城よりも北の位置で、大宮台地に分け入ってしまう手もある。

しかし、そうすると河越城の標的になる?
騎西城が空になると、岩付城→古河城の攻めが可能になる?


5.築城年を考える


旧来説の岩付城築城年=長禄元年(1457年)は、古河公方の騎西城入手の年=康正元年(1455年)の2年後であり、タイミングはばっちり・・・


 ※ ※ ※

なんら決定的な話はないものの、
「敵は騎西城にあり」ならば、太田道灌・道真親子にとって、岩付城は欲しい城。
あっても不思議ではない城。


6.あえて逆も考えてみる


岩付城は、古河公方側が、
・太田道灌親子のいる河越城や江戸城の圧力をあまり受けない大宮台地の反対側に、
・騎西城から荒川沿いに南下して辿り着きやすい位置で、
・荒川西岸に最初の一歩を踏み入れるための橋頭保、
・これによって千葉氏との連携も容易になる・・・

という完全に逆の見方もできるかもしれない。


この見方で辻褄が合わないのは、岩付城と、濠代わりの荒川や、その内側の濠が警戒する方向と合わないこと・・・。

しかし、どこまでこのポイントに頼っていいかは不安もある。

岩槻城・岩付城の防衛ライン


岩付城の地形

 ※ ※ ※

結局、地図で妄想しながら遊んでみたが、答えは見えないなぁ。

・・・と書いてみてから思いました。

やはり、騎西城の勢力が岩付付近にゼロから城を作ったなら、荒川の北岸(東岸)の慈恩寺付近だったはず。

慈恩寺側には城を作るのに適した丘があります。慈恩寺側からでも、街道を押さえることはできます。

一度は岩付城を居城としながら、岩付太田氏に城を追われた古河公方側の豪族・渋江氏が慈恩寺周辺を占拠したのもそのためでしょう。

古河公方や騎西城勢力が荒川を航ったところに城を作るのはやはり無理がありそうです。

古河公方側の渋江氏が岩付城に入った事例があるではないか、と言われたら、
・それは既に城があったから。あっま城を活用したまで。
・実際、抗争が始まると、古河側の渋江氏は、荒川北岸の慈恩寺側に逃げたではないか。
と答えることが、できそうです。



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