城址公園の南、国道16号線沿いの寺院・知楽院から、岩付城(岩槻城)の新曲輪(しんくるわ)を眺めた写真。

こんもりと森になっているのが、新曲輪です。

新曲輪も、知楽院も、それぞれ丘の上にあり、その間は大きく窪んでいます。




私がこの新曲輪を攻める側だったら、本陣はこの知楽院に置いただろうな、等と妄想してしまいました(笑)。

城攻めの時は、城の近くの小高い丘に陣を構えますよね。

後北条氏が、豊臣秀吉の小田原征伐に対抗して新曲輪を整備した時も、敵陣が知楽院の丘に置かれるだろうことを、想定していたのではないか。そんな気がします。

実際には、城は別の方向から攻められて落ちるのですが・・・

知楽院の名前は、太田資正の父である太田資頼の法名「知楽斎」にあやかったのかもしれない。そう思って訪ねたのですが、寺の由来などの説明板は無く、よく分かりませんでした。残念。

 ※

<追記>

新井浩文氏の『岩付太田氏の発給文書にみる動向と特質』(「関東の戦国期領主と流通」、岩田書院)には、「(太田)資正が古尾谷荘にある福浄寺を岩付城下にある資頼開基の知楽院に寄附する旨がわかる」とする資正の天文24年の書状が紹介されています。

知楽院という寺自体は、太田資正が岩付(岩槻)を領有していた天文年間に存在していたようです。



<地図画像追加>

岩付城(岩槻城)と知楽院の関係を地図(地形図)上で整理しました。
岩槻城・芳林寺・洞雲寺・知楽院・久伊豆神社
(クリックして拡大してください)

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