病封じの祈祷の帰りに、武州松山城址(埼玉県吉見町)に寄ってみました。

松山城の位置については、「地図で見る太田資正の世界 (8)武州松山城と河越城」をご覧ください。

戦国時代には、後北条氏が武蔵国を制圧していく中で、対抗勢力がこの城に籠って同氏の侵攻を食い止めようとします。それにより、多くの合戦が、この城の舞台に繰り広げられました。

我らが太田資正も、たびたびこの城に籠り、対北条氏の戦いを繰り広げます。
また、これを排除するため北条氏も、武田信玄に援軍を頼み、北条・武田連合軍を以ってこの城を攻めます。

武蔵国の覇権抗争において、是が非でも押さえておく必要のある城だったのです。

 ※ ※ ※

史跡案内版に書かれた松山城の縄張りを見ると、のけぞります。
まさに抗争相手との国境に築かれた実戦のための砦ですね。


(史跡案内板)

いつもお世話になっている国土地理院の地形図と、史跡案内版の縄張りを対照させてみると、↓のようになるでしょうか?

松山城の地形と縄張り

(武州松山城の地形と縄張り)

 ※ ※ ※

歩いた順に写真を並べてみます。

・市野川の対岸から松山城を遠望

松山城01


・松山城入口

松山城02


・入口の階段を登ります

松山城03


・親切にも道順案内がありました

松山城04


・こんな感じの道がひたすら続きます。

松山城07


・ある程度歩くと石段が見えてきます。(下の写真は上下二枚で一組)

松山城08-2

松山城08-1


・石段の上がかつての本曲輪(本丸)跡
天文15年、太田資正は奇襲によってこの城を後北条氏から奪還し、本曲輪(本丸)丸に入ったと言います。
太田資正が歩いた空間です。

松山城09


・本曲輪(本丸)跡の奥に松山城址の石碑が
一段高くなっているので、もしかすると案内板にあった本曲輪(本丸)横の物見櫓かもしれません。

10松山城


・空堀を下って二ノ曲輪(二の丸)へ
傾斜は非常に急です。

11松山城


・二ノ曲輪(二の丸)の碑

12松山城


・二ノ曲輪(二の丸)から南東側に下りる石段
藪に覆われていたので、踏み込みませんでした。

13松山城


・三ノ曲輪(三の丸)へ
二の丸から傾斜を下ったところに三の丸があります。
(途中から二の丸ではなく春日丸に入っていたのかもしれませんが、歩いていた時はよく分かりませんでした)

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前を進むご夫婦が映ってしまいましたので、ブラシでごにょごにょ・・・
城好きご夫婦のようで、「そっちは行き止まりですよ」等教えていただきました。

・三ノ曲輪(三の丸)の碑
写真右の傾斜もかなり急です。

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・三ノ曲輪(三の丸)を北へ
至るところに“堀切”があり、他の曲輪との間に空堀が作られています。

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・本曲輪(本丸)付近に戻り、南方を遠望
この城の南には、後北条氏の武蔵国支配の拠点・河越城があります。
太田資正は、この場所から河越城を遠くに眺め(空気の透明度が高い日は見えたはず)、対北条氏の戦略・戦術を考えたはず・・・

19松山城


 ※ ※ ※

まさに、ザ・山城、というお城でした。
堀切で各曲輪が相互に繋がりを絶たれているのは、居住性よりも防衛強度を高めることを強く重視したためでしょう。冒頭にも書きましたが、まさに抗争勢力との境に築かれた戦うための砦だったと言えます。


扇谷上杉氏は、河越城を後北条氏に奪われると、この松山城を拠点にしたそうですが、関東管領・扇谷上杉氏の当主の城としては、戦う城であり過ぎると感じました。
あくまで、少数の兵が籠り、敵を撃退するための城です。為政者の城としての余裕はどこにもありません。

後北条氏に追い詰められて、四の五の言ってられなかったのでしょうね。



※ ※ ※

【太田資正にとっての松山城】

太田資正は少年期の終わりに、この松山城を守る難波田善銀の婿養子となります。
青年期の資正は、義父・善銀とともにこの城を拠点として、後北条氏と幾多の小競り合いを繰り返す日々を送った2階に違いありません。

やがて、上杉側の乾坤一擲の対・北条戦“河越夜戦”で、扇谷上杉氏は滅亡。資正の義父・善銀も命を落とします。

残された資正は、善銀の養子として松山城の継承権を主張し、度々この城を奪取して、後北条氏への戦いを挑みます。

特に、上杉謙信(長尾景虎)の越山・関東入りと連動して行われた永禄4年の松山城奪取と、その後の北条氏との攻防戦が有名です。
遠く離れた岩付城(岩槻城)と、松山城が連絡をとるために、資正が、伝書鳩ならぬ伝書犬を使ったという「犬の入れ替え」の逸話もこの時のもの。

歴史家によっては、この時の松山城攻防戦を、武蔵国の覇権の行方を左右した決戦という意味で、河越夜戦と肩を並べるくらい重要な意味を持つ戦いであったと評する方もいます。(井上恵一「後北条氏の武蔵支配という地域領主」)

さて、一歩後ろに下がって、視野を広げてみたいと思います。
永禄年間当時、既に岩付城(岩槻城)を中心に、大宮台地のほぼ全域を支配していた太田資正は、なぜ、やや離れた位置にあるこの松山城を押さえることに拘ったのか?

その意図は、この城を資正が押さえることで、北条氏と上野国(群馬県)や武蔵国北部の領主との繋がりを断つことにあった、と私は見ています。

松山城の戦略的重要性

(武州松山城の戦略的重要性、青線は河越から上野国に伸びる当時の街道)

上杉謙信の越山(永禄4年)の直前、上野国・武蔵国北部の領主のほとんどは後北条氏に服属していました。彼らが上杉謙信に付いたのは、(もともと山内上杉氏の被官だったという背景もありますが)謙信が関東に現れ、圧倒的な軍事力を見せつけたため。
しかし、謙信が越後に戻ってしまえば、後北条氏の圧力に曝されることになり、再び後北条氏側に再服属してしまう可能性がありました。

上野国・武蔵国北部の領主らが再び後北条氏側に寝返ってしまえば、資正は、河越の北条氏と上野国・武蔵国北部の北条氏側の領主らに挟撃されることになります。

資正はこれを避けたかった。
むしろ上野国・武蔵国北部の領主らを、後北条氏という向かい合う自身の後詰めとしたかった。
そのため資正は、松山城を押さえる必要があったのではないでしょうか。

後北条氏が勢力を張る武蔵野台地と上野国・武蔵国北部を結ぶ街道は、松山城の麓を通ります。
ここを断てば、北条氏の影響力を上野国・武蔵国北部から排除し、松山城以北を上杉謙信の勢力範囲として保つことができると考えて。

逆に北条氏としては、松山城を太田資正に占拠させるわけにはいきませんでした。
それ故に、信玄を呼び寄せ、総勢4万の大軍で、この小城に押し寄せたのです。

松山城址を歩くと、太田資正や義父・善銀だけではなく、彼らを廃するために死力を尽くした北条氏の武将たちの思惑や息遣いが、感じられるような気がしました。

“兵どもが夢の跡”を、思わずにはいられません。

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