北条氏康、武田信玄、上杉謙信、太田資正らが戦った永禄年間の松山城合戦は、太田資正が同城を北条方の上田氏から攻め取ったことが発端となりました。

この太田資正による松山城奪還(もともと義父・難波田善銀の城でした)をより具体的にイメージするため、関連する記述を、主要な軍記物・書状から抽出してみました。

参照:梅沢太久夫「松山城合戦」
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①鎌倉公方九代記 → 記載無し

②鎌倉九代後記
(年号不明)太田氏による松山城奪還があったことを記述。
城主が上杉憲勝であったことも記載。

③北条記
永禄四年九月、太田三楽斎資正が、上杉輝虎(謙信)の下知を受けて松山城を攻略。
上杉憲勝を城主につける。

④上杉家御年譜
永禄五年三月、太田三楽斎が上杉政虎(謙信)の下知により松山城を攻略。
上杉憲勝を城主に据える。

⑤甲陽軍鑑
永禄五年正月、太田三楽が松山城を攻め取り、上杉則政の庶子友貞を城主とする。

⑥関東管領記
永禄五年春、岩槻城を追放された太田美濃守資政入道三楽斎は、上田又次郎が籠る松山城を攻め取る。
上杉新蔵人憲勝を城主に置く。

⑦太田資武状
(年号不明)松山城は、太田氏由緒により、謙信から資正に給されたと記述。
ただし、天文十五年のこととして、太田資正の松山城奪還、上杉憲勝を城主に付けたこと、岩付より二百騎を付けたことを記述。

⑧関八州古戦録
上杉輝虎の命を受け、太田三楽斎・赤井法蓮が松山城を攻め取る。
上杉憲勝を城主に付ける。
三田五郎左衛門、太田下野守(下総守とする異本あり)以下、騎馬二百、雑兵二千五百を置く。
二の丸には、広沢兵庫介信秀・高崎刑部左衛門利春を置いて守らせた。

※ ※ ※

(1)
年号はバラバラです。
永禄年間の松山城奪還と、天文十五年の奪還を混同する文書(⑦太田資武状)もありますが、同じ永禄年間とする文書間でも、時期にずれがあります。
最近の中世史学者の記述では 、永禄四年秋頃とするものが多いようです。

時系列としては、⑥関東管領記の記述はちょっとひどいですね。
太田資正が岩付城(岩槻城)を追放されたのは、松山城を北条・武田連合軍に奪われ(永禄六年)、さらに起死回生の国府台合戦で大敗(永禄七年正月)した後のこと。永禄七年七月だと言われています。
永禄四年秋と推測される松山城奪還を、永禄七年の岩付城追放後の出来事とするのは、無理があります。

(2)
ほとんどの軍記物が、太田資正が松山城を攻め取ったとしていますが、資正の三男・資武は謙信から給されたとしています。
父の戦果であれば自慢気に書くはずの資武の記述は、気になります。
天文十五年の松山城奪還と永禄年間の奪還が混同された結果として、資正の永禄年間の奮戦が天文十五年のこととして書かれてしまったのでしょうか。

(3)
奪還後の松山城の城主に、上杉憲勝を置いたことはほとんどの軍記物で共通しています。

(4)
上杉憲勝を助けるために、資正が松山城に精鋭を置いたことは、⑦太田資武状(ただし天文十五年のこととして記述)、⑧関八州古戦録のみ記述しています。
関八州古戦録が特に詳しく、三田三郎左衛門や太田下野守が配された記述も。
太田下野守は、異本小田原記で岩付太田氏の三人の武者大将の一人として紹介されている太田氏被官。鋭中の精鋭が松山城に配されたことが伺われます。

(5)
ちなみに、私が「太田資正のこと」で、太田下野守を天文年間の松山城時代から資正の傍らにいた腹心の家臣、としたのは、
・太田資武状の天文年間の精鋭配置の記述
・関八州古戦録の永禄年間の太田下野守配置の記述
を混同したことによる誤解から生まれた設定です。

下野守が、天文年間の時点で資正ともに松山城時代を過ごしたとする記録はいっさい存在しません。
しかし、資正に青年期からの腹心がいた方が話は面白くなるので、この誤解から生まれた設定は、今後も継続さようと思っています。

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