九世紀建立の天台宗の古刹・慈恩寺。
慈覚大師(円仁)が岩槻の地で開基し、武蔵国有数の大寺として、坂東札所巡りの札所の一つともなった由緒ある寺院です。

郷土史の資料にあたっていると、豊臣秀吉の小田原攻めの際、岩付城(岩槻城)を攻める徳川家康が、この慈恩寺付近の丘に本陣を構えた、という逸話をあちこちで目にします。
この伝説には、丘から岩付城を眺めた家康が、城の守備兵の肩に鳥が留まるのを目にし、「あれは人形だ」と見破り、一気に総攻撃を仕掛けた、という物語も添えられます。

しかし、調べてみると、徳川家康自身は豊臣秀吉と共に小田原におり、北条方の支城であった岩付城攻めには参加していません。岩付城を攻めたのは、豊臣配下の浅野長吉(長政)と、徳川家臣の本多忠勝らの連合軍です。

では、なぜ、家康自身が慈恩寺付近に本陣を置いたという伝説が生まれたのか。

謎を解くヒントは、昨日訪ねた郷土資料館(入館無料・撮影OKのありがたい資料館です)にありました。

資料館にあったのは、家康自らが発行した慈恩寺当ての寄進状。天下人家康から直接寄進状をもらい受けたことを、同寺は、自らの権威付けのために大いに利用したようです。

この寄進状が、インスピレーションを与えてくれました。
伝説の真相は、慈恩寺が家康との関係が浅くないことを喧伝するために、寄進状だけではなく、家康自身が同寺を訪ねたことがあるとの逸話を創作した、というところではないでしょうか。
その逸話は、旧支配者である北条氏を、新支配者である徳川氏が倒すプロセスに慈恩寺が貢献したことを示唆するものになっています。

地域の人々から自然発生的に生まれた伝説と見ることも出来なくはありませんが、地域の古い権威たる慈恩寺と、新たにこの地に藩主としてやってきた徳川譜代家臣の合作と見た方が自然に思えます。

そして、千年を越える歴史を持つ大寺ならではの強かな生き残り術が垣間見える気がします。



(家康が出した慈恩寺宛の寄進状)