1. 空手の原点(=型)回帰

空手の型を見直す原点回帰の動きが、最近、とみに盛んです。
それも型競技のためではなく、武術的な用法や身体操作を求める原点回帰として。

なんどかこのブログでも書いてきましたが、この背景には、
1.「なんでもあり」試合の実現により、空手が最強幻想から解放されたこと
2.打撃技中心の競技化による空手の深化が、行き着くところまで行き着いた感があること
の2つがあるように思います。

1.については、最強幻想が喧伝されたことから、空手であることよりもまず最強であることが目指された時代がありました。最強であるはずの空手との信奉心から、「この方が強い」というロジックで空手の技術が作り変えられてきました。しかし、そうした競技空手界という内海での「この方が強い」など、「なんでもあり」の世界では有意差を生み出すほどのものではなかったのだ、と晒されました。
ならば最強のくびきを逃れ、空手本来の姿を目指そうとする動きが出てくるのも自然なことです。

2.については、「寸止め」、「フルコン」、「防具」、「グローブ」などさまざまなアプローチの競技化が、新しいスタイルを生み出す実験場であった時代がありました。選手達は個人対個人で戦うと同時に、スタイル対スタイルで戦っていました。しかし、競技として洗練されると共に、競技内で有効なスタイルはいくつかに絞り込まれています。もはや、新しいスタイルを産んで試合に挑むのではなく、今あるスタイルから自分に合ったものを探し、身につけていく時代になっています。
それは競技による空手の深化の終焉とも言えます。
さらなる伸びシロを求めた試みが、未解明な部分を多く残した型に向かうのもまた、自然なことです。

こうした流れは、個人的には非常に好ましいものだと思っています。競技で数十年間、血と汗を流した末に辿り着いた型の深化であれば、それは、形式だけの型武道ではないはずだからです。空手は、青春期を土台とした成熟の季節を迎えようとしているのだとも言えるでしょう。


2.取り残されるフルコン空手

こうした流れの中で心配なのは、特に型を軽視し、「実戦」性を追求してきたフルコンタクト空手は、型回帰の流れに乗れなくなるのではないか、という点です。伝統より強さ、型より実戦という考え方の最右翼に位置していたフルコンタクト空手は、型回帰の流れに最も不利な位置にいるとさえ言えます。

もちろん、著名な選手の中には、古伝空手を習ったり、棒術や居合いを学ぶことで、空手の武術性を回復しようと試みている人々もいます。また、完全に型を捨ててしまった流派もある中で、多くのフルコン空手は、まだ型を残しているので、そこを掘り下げることもできるはずです。
ですが、他流を習う余力や、改変されすぎたフルコン空手の型から原点に戻る試みは、一般の道場生にはハードルが高いことです。

フルコン空手の立場から原点回帰をするならば、もっと身近なもの、そして慣れ親しんだものを基点としなければ。
そう考えて思うのが、フルコン空手の「基本」です。
三戦立ちからの正拳、裏拳、手刀、貫手、そして種々の受け。
それらは、改変され、体操化されてしまったものではありますが、空手の原点とわずかに繋がった細い糸。しかも、道場にとって身近で慣れ親しんだものです。フルコン空手の道場生が原点回帰-いや、正しい原点かどうかは怪しいので原点模索というべきですね-をするならば、基点はこの「基本」であるべきでしょう。


3.フルコン空手の「基本」は武術化できるか?

ここで、タイトルのテーマが浮かび上がります。
フルコン空手の「基本」は武術化できるか?
この数年、ぼんやりですがいつも考えていたこのテーマに、少しずつ切り込んでみたいと思います。

切り込もうと思っているのは、次の「基本」です。

(1)十字礼(三戦立ちよ~い)
(2)三戦立ち(構えて~)
(3)正拳中段突き
(4)正拳上段突き
(5)裏拳顔面打ち
(6)裏拳左右打ち
(7)裏拳脾臓打ち
(8)手刀回し打ち
(9)手刀内打ち
(10)手刀鎖骨打ち下ろし
(11)手刀鎖骨打ち込み
(12)貫手
(13)上段受け
(14)外受け
(15)内受け
(16)下段払い
(17)回し受け

さて、どこまでできるやら・・・。
予告して結局書かずに終わっているテーマも多いので、自分自身期待せず書いていこうと思います。