なななし名無しのひとりごと -2ページ目

なななし名無しのひとりごと

迷ったり、ぼんやりしたり、笑ったり。


 群青の  空 語り合う  僕と月


初めて俳句で「僕」使いました。


こっちのほうが、生々しくていいかと思います。


 あと、こんな短歌も作りました。



 燃ゆる火に 浮きつ沈みつ  影見えて


     忘るる事の などて叶わん


いつまで引きずってんだ、と自分でも思うんですがね。



 自分一人で抱えてるだけだからなのか、この感情には何も変化が起きません。


正直、扱いかねています。


 自画像の 乱反射せり 胸の内


 春琴の 弦張りつめて 泣きくづる



 曇りなき 空引き裂いて 槍の雨


 日は暮れて まんぼう空に 浮かびゆく 

                      ―故、「どくとるマンボウ」北杜夫氏へ―



 しばらくお休みしていたら、また変な句が溜まってきました。



 特に三句目。別に欝だった訳ではないというのに、何というか、言葉が勝手に結合したかのように、頭に浮かんできました。


 不思議なことも、あるものです。


 蒼天や  夏の名残の 蝉の声


今日は運動会でした。


 いままで、そこまで好きで無かった運動会も、「これが最後」と思うと妙に燃え上がり、行進のかけ声、選手への声援、応援の旗振り、そして校歌と、喉を酷使してハッスルし続けました。結果、案の定潰れました。


 それでも、妙に爽快感があり、楽しかった、やり甲斐があったと、自分でも驚くほど素直に、心から思いました。 受験目前の、言い換えれば卒業が目前の今、とてもよい思い出を作れたと思います。


 「運動会」というと、何となく夏なイメージがある気がしますが、今や九月。もう夜になると、鈴虫や松虫の声が我が家を包みます。でも昼のあいだは、ミンミンゼミやツクツクボウシが、これが最後と歌声を響かせています。


 この句は、そんな夏から秋へと移り変わる時期の、風情を言葉に出来ないかと思って詠みました。 いかがでしたでしょうや。


 今の今まで、「硫黄島からの手紙」を観ていました。


 くだらない死、無残な、悲惨な死、あがきにあがいた最後の最後の、壮絶な死。 誰も、彼も、みんなみんな、硫黄島に骨をうずめて逝った。ひとりの兵士が、焼くに忍びず地中に埋めた、送られることの無かった手紙だけを遺して。


 観ながら、何度も泣いて、何度も怒って、何度も手を合わせました。


「わたしゃあ、戦後二十年ぐらい、人に同情ってものをしなかったねぇ。何でか、っていうと、戦争で死んだやつらがイチバン可哀相だと思ってたからです。戦争で死んだ奴らは誰よりも生きたかった!死にとうなかったんです!」  


 しげーさんの言葉が、なんというか、こう、胸を抉ります。


 先ほどニュースのインタビューで、被災した方が「神様や仏様が本当にいるのなら、何をしてでも自分たちを助けてくれるはずだ」とコメントしていました。それを受けてというか何というか、日頃自分が考えていたことがふと頭をもたげてきたので、ここに書いておきます。


 神様仏様という存在は、僕ははっきり言って、居ると思います。というか、「なぜ世界は在るの」とか考え出した場合、どっかで神-というより、そう呼ぶ以外にどうしようもないもの-の存在を、想定せざるを得ないんじゃないかと思います。

 

ただ、その神というのは、祈りに応えて誰かを救ったり、キリスト教の説く「主」みたいに個人の罪を許したり、そういう人間くさいことをするような存在では無いと思うのです。ただ在るもの、せいぜい我々の行動を見ているものであって、僕らはそれを思い描いて、心の拠り所にするぐらいしか出来ない。「助けてくれ」とすがる対象ではなく、「上手くやるから見ていてくれ」と、むしろ誓う対象であるように思います。


 む~~ん・・・いちおう書いてはみたけれど、すごいこと言ってるような何も言ってないような・・・。やっぱり、慣れないことはするもんじゃないですね。


 春あけぼの 夏ばけものと 誰ぞ言ふ


   山川草木 皆ざわめけり


 宵闇に 百鬼夜行の 声ひびき


   戸の開く音の 我を囲めり



 「春はあけぼの 夏は化けもの」という言葉は、水木のしげーさん著『日本妖怪大

全』という本で見かけたものです。当初はおもろい語呂合わせやなーぐらいにしか考えていなかったんですが、最近学校の自習室と駅を行ったりきたりしていると・・・池を通ればウシガエル、空き地を通ればキリギリス、、山からはお約束の蝉の大合唱。鳥も時たま鳴き交わしているし、そのうちゲゲゲの唄とか聞こえてくるんでないかってくらい、生き物の気配がそこら中に漂っていて、「ああ、こりゃ妖怪もようけ出るやろうなあ」、と、しみじみと実感しました。


 受験生が受験の天王山夏休みにぼんやり短歌詠んでてええんかい、と、自分でも考えたりはしますが、出来る物はしゃあないので、これからもちょくちょく投稿しておじゃまします。  それでは。

 

「待つということ」

ねぇ ぼくは待っているんだよ
黒い空を見上げて

待っているんだよ 
何かを
それが何かは知らないけれど

でも 待っているんだよ
だって さみしいじゃないか
何かが足りないんだよ このままじゃ
このまま死ぬのは ナットクできない

天使を待っていた子供がいたね
ピーターパンを呼んでいた子供も

彼らはもう遠くにいってしまった
青空の向こうへ飛んでいってしまった
案内したのが 待っていたモノなのかどうかは わからないけれど

雲が工場の排煙のように立ちこめて
ちっぽけな星たちを覆いかくしている
真っ暗な帳(とばり)の下でぼくたちは
誰かが叫んだ呼び声を聞いていた


 空を見て プラトンの星を 探しけり


 もののけの 声絶えはてり 山の影


 霧雲や 補陀落山の 薫りする


受験勉強が本格化したら俳句を詠む暇も無くなるかと思いきや、ぽつりぽつりと


年度分のメモ帳も埋まっていき、もう一ページを超えました。この三句はその中


から、共通の「神聖な気持ち」(と自分で呼んでるもの)を表している句を選んだものです。


 最近、こういう敬虔というか、宗教家めいた気持になることが多いです。



若草の 碧やまぶし 春は来ぬ


赤茶けし 花やますます 碧む葉や


新緑や くすくす笑いて 野をおおう


子をあやす 唄のやうなり 草いきれ


 ダークな句ばっかりなのもどうかと思い、年度が替わってからこっちの在庫一斉放出です。


 最近はもう、校舎の裏山から蝉の声が聞こえてくるようになりました。温暖化の影響なのか、もう春も過ぎつつあるようで、少し悲しいです。


鬼出でて 詰り会うなり 湯のけむり


桶の水 こころの闇も 映しけり


煩悩や 垢と供には 落ちぬらむ



 内容はホントに鬱々してます(中間考査悪かったです)が、叙景句ばっかり詠んでた頃の、いまいち言葉をしっくり使えてないようなフワフワした感じはなくなりました。


 良い傾向なのかそうでないのか、よく分からないです。