なななし名無しのひとりごと

なななし名無しのひとりごと

迷ったり、ぼんやりしたり、笑ったり。

 思った事、考えた事、気ままにつらつら書いていきます。たまに詩を作ってみたり。

Amebaでブログを始めよう!


 前回の「べき」の、続きのような形で。

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「べき」で自分を縛り付けないと


安心して眠りにつけなかったのは


むき出しの自分を見たくなかったから




大声で「べき」を叫ぶのは


いつも中心に立っている人で


僕は教室のすみっこで


頭の中で「べき」を唱え続けた


まるでお守りのようにして




そんなふうに凝り固まって


一体誰に認めてほしいの?




弱音を吐き続ける自分と


それを貶し続ける自分とで


いたちごっこを続けていては


外に目を向けることはできないよ



自分を隅っこにおいやって


自分じゃないものを中心にすえて


どうやって楽になる気でいたの?



僕には僕がいるだけだ


答えを示す神様はいない


過ちを赦す仏様もいない


僕に声を上げる自由があって


声を聴いてくれるかもしれない人が、いるかもしれないという


それだけだ



中心はここだ


僕が言葉を発するこの場所が


僕の中心だ


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一気呵成にかいてしまえば、やはりこんなものでしょうか。


外に、というかぶっちゃけ、他の人の言葉に根拠を求めずに書くと、ここまで楽だったんですね。忘れてました。


まあ、できあがったものは、詩というには堅苦しくて、論文というには厳密でないような、そんな代物ですが。


お目汚しになれば。



 この前友達と話していて、思った事があります。


僕は、気付くと「べき」を使っているのだな、と。


ああするべき。こうするべき。たとえ言葉として「べき」を使っていなくても、相手に自分の価値観を強要するような話しぶりになっている事が多々あるようです。



この前このブログで、「真善美なんて絵空事かもしれないが僕はそれについて考えたい」なんて、読み返すと恥ずかしくなることを書きました。そんなつもりでいれば、「べき」が口癖になるのは自然なことかもしれません。


 しかし「真善美」と偉そうに言っても、それは疑いなく「僕の」真善美、僕の価値観、好みです。それは一人で思考実験しているうちは何の問題もありませんが、周りに主張すれば「べき」に、つまり他の価値観を否定しにかかるものになってしまいます。


他の話題ならそんな深刻な話題にならずに済むのでしょうが、「善」を掲げるならそうはいきません。「何が善か」を仮定にせよ定義することは、その定義に反するものを、否定される「べき」「間違い」とみなすことだからです。


僕の喋る、「べき」だの「べきでない」だのが「僕の」善悪でしかないことは僕が一番知っているというのに、気付けば僕が喋っている言葉からは「僕の」が抜け落ちている、自分を棚上げにした言い方になっている。それはものすごくもどかしいです。


今思えば、僕が精神的に脆いきらいがあるのも、こうしてずっと「べき」を考えているせいなのでしょう。


思っているだけの「べき」は絵空事ですが、実生活は絶えず揺れ動きます。自分のしている、またはしちゃった行動が自分の価値観に反することなど日常茶飯事です。


そういう時に、僕はベクトルが内に向かいやすいというか、自分の価値観でもって自分を全否定してしまう事が多いようです。そんな事をしても、ストレスがたまって健康を害するだけだというのに。


最近はだから、わざと何も考えないようにするか、なんとかベクトルを外に向けるようにしています。前者の方は簡単です。いま大学は春休みなので、文字通り何もせず頭を働かすようなものを読まなければそれで充分です。


しかし、それでは何も動きません。なにもしていないのだから当たり前です。


だから、ベクトルを外に向けたい。向けたいのですが…。さっきから書いてる「もどかしさ」がずっと引っかかっています。


 「現代の人々の苦悩は『いかにして(大きな)父になるか』では無い。『すべての人が不可避的に(小さな)父として機能してしまう』ことにあるのだ。」


正確な引用ではありませんが、宇野常寛の『リトル・ピープルの時代』中の文言です。


この文章中で言う「(大きな)父」とは、ここで僕が言っている「善」やら「価値」を定義してその責任を負う人、まさしく「べき」を他者に向けて発信する人のこと。そして、それが許されている人、むしろ道を示すことを期待されている人でもあります。


ノブレス・オブリージュ(高貴なる義務)という言葉は、そういう「大きな父」としての役割を実際に担う人がいた時代の言葉なのでしょう。


ついでに付け加えると、ここで「父」という言葉が用いられているのは、かつての家父長制において父親がまさに「家族がどうあるべきか」を決定する人であったからだと思います。


 

そして「小さな父」とは、そういう「大きな父」がもう成立しえなくなってしまって(小ブッシュがなろうとしたけどその結果のイラク戦争は…)、誰も道を指し示す人として期待はされないけど、誰もが自分の「べき」を主張しなければならない、そうしないと己が立ち行かない、そういう状態のことを指し示しています。


とすると今の僕の、このもどかしさは、まさしく「小さな父」として、自分の好みを「べき」として発信する事へのためらいから来ているのでしょう。


…こうしてぐるぐる考え続けること自体が、「ベクトルを内に向ける」自傷行為なのかもしれませんが、ずっと同じような事を頭に留めないように、ここに記すことにしました。


あんまり、繰り返したくないものです。

もう詩は書かないと思ってたけれど、また作りました。


「さみしさ」


さみしさに耐えかねて開かれた口は

同じさみしさの重みで閉じられる


言葉を紡ぐのもさみしさのゆえならば

それを心中に留め置くのも またさみしさのゆえ


誰にも知られぬことの恐怖が

知られて拒まれることの恐怖に打ち負けるとき

言葉にならぬ言葉は脳髄に充満し

その高まる圧に頭蓋骨は悲鳴を上げる


ゆえに声なき独語を繰り返すこの私は

最も嫌う孤独へと自ら歩み入り

自ら負うた荷の重さに打ちのめされて

結局は声を上げる 「助けて」と


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 今週の月曜日、成人式でしたね。

僕は二十歳でしたが、行きませんでした。昼まで寝て、高校の同窓会だけ行きました。



 理由としては、単に眠かったというのもありますが、行ったところで、つまり「成人式」に出たところで「成人」するわけじゃないやい、という気分だったせいもあります。


 古代縄文の抜歯やら、江戸時代の月代剃って元服するのと違って、成人式に出る前と後で明確な差が出るわけでもありません。昨日も今日も、親の金で飯を食って、親の金で学校に通って、親の金で本を買って読んで寝るだけです。なにが大人か。「これからは成人としての責任と自覚を」と言うのならば、自分の行動に責任と自覚を持つなんてこと、「子供だからしなくていい」なんてレベルのことでしたっけ。


 僕にとっては、大学生という期間はいわゆるモラトリアム、自立するために力を蓄える準備期間であって、そのど真ん中に「大人と子供の区切り」としての成人式があるというのは、非常にヘンな気がします。


 と、ここまで書きながら、京極夏彦著『陰摩羅鬼の疵』で読んだ話を思い出しました。それによれば、内部と外部、大人と子供、善と悪、といった区別の「線引き」をするのは、かつては個々の村などの共同体の役目だった。しかし、明治から昭和にかけて、その機能は完全に失われた。まず明治期に国家が個人に対するというあり方が整備され、それが敗戦で壊れた。結果、今の我々は自分自身で境界線を引くこと、つまり「誰にも頼らずに独りで勝手に大人になること」を強要されているのだそうです。


 成人式に行く気にならなかったのも、そのせいかもしれません。誰もが自分の尺度で、思い思いに大人と子供の線引きをしている。だれも、成人式に出たから今日から大人だなんて、思ってない。とっくに形骸化したセレモニーだと、僕が思っているから行く気にならなかったのだと思います。


 


 

 

 


 年を以て 巨人となせり 歩み去る―高浜虚子



 新年明けまして、おめでとうございます。


 正直言うと、あんまり祝う気分では、ありません。


 その代わりに、上に挙げた句のような、なんかデカいものがいなくなってしまったような感覚が、少しあります。


 でも、同じ虚子の句にも、こんなものもありますからね。


 去年(こぞ)今年 つらぬく棒の ごときもの


 去年はもう二度とやってこないけど、去年は今年につながっている。去年の自分はもうどこにもいないけど、去年の自分を土台にして、今年の自分がいる。



 去年やめた事。去年始めた事。このブログも、去年再開したもの。全部背負って、今年が始まる。


 やりたかったことで、もうやれちゃったこともあって、気が抜けるところがあるけれど、まだまだやれてない事のほうが多いから。始めたばっかりやから。


 今年もえっちらおっちら、生きて、進んでいきましょうかね。





                 【暇だったので】死にたがりの絵【描いてみた】


【初音ミク】死にたがり【オリジナル】

 (歌詞)

一つのな い日曜日
自堕落浸って優越感
対して気持ち良くないくせに
喜ぶ姿は らりぱっぱ
わざわざ
ネタ 集めに必死
うつ病 きどりの一般人
良い人ぶって 励ますのも

もー めんどいわ

死にたがり
 死んでもいーよ
誰も
かまっち
 くれやしないよ
死にたがり
 死んでもいーよ
もー 聞き飽きた
 死んでもいーよ


お前 に何がわかるんだ」と
をわからない君が言う
「なら勝手に死なせてくれ」と
一人になれない君が言う
どんなに不幸を嘆いても
結局のところ他人事
泣いて わめいて 手首切れど

わざとらしーわ

死にたがり
 死んでもいーよ
誰も気付いちゃ
 くれやしないよ
死にたがり
 死んでもいーよ
どーせ みじめだ
 死んでもいーよ
死にたがり
 まだ生きてんの
死にたい くせに
 なぜ生きてんの
死にたがり
 死んでもいーよ
死にたい んだろ
 死んだらいーよ


生きたくない
 死にたくもない
何がしたいのか
 わからない
に聞かれても
 困るのさ

つべ こべ言わずに

生きるか
死ぬのか
いっちゃってー

死にたがり
 死んでもいーよ
誰も
かまっち
 くれやしないよ
死にたがり
 死んでもいーよ
勝手にしろよ
 死んだらいーよ
死にたがり
 まだ生きてんの
生きるか 死ぬか
 とっととしろよ
死にたがり
 死んでもいーよ
死にたくないなら
 せーぜー生きのびろ

知ったこっちゃねーよ

死にたがり
 死にたがり
死にたがり
 ねぇ死にたがり
つべ こべ言わずに
 せーぜー生きのびろ



 これは、優しい歌です。厳しくもありますが、優しい歌です。


 『ロストワンの号哭』の方の感想で、「この歌は辛さを軽減してはくれるが根本的な解決にはならない」みたいなことを書きました。逆にこの歌は、「余計辛くなるかもしれないが、根本的な解決を促す」歌です。



 ストーリー的には、周りに死にたいと愚痴を言い続けている「うつ病気取りの一般人」相手に、「死にたかったら死んだらいーよ、誰も構っちゃくれやしないけど」と一回突き放した上で「それでも生きたきゃ生きやがれ」と声をかける、といった感じです。


 「死にたい」なんて気持ちを持ってしまったら、選択肢は二つしかありません。その気持ちに従って死んでしまうか、それとも「やっぱり生きたい」という気持ちが勝って生きるかです。その「生きたい」の気持ちのもとは、事情は色々あれど誰もが無根拠に持っているのではないかと思います。


 ではこの歌が呼びかけているような、周りに「死にたい」「死にたい」と言い続けながら生きている人々の場合は、どうなのでしょうか?彼らもやはり、生きたいのでしょう。だって現に、死なずに生きているのですから。では何故死にたいのかと言えば、それはやはり苦しいのでしょう。でもそれは、「自分が生きることを選択した上で、今ここに生きている」ことを失念した上での苦しさだと思います。その状態では、自分が生きたいと思っていることすら、自信を持って肯定することが出来ません。だから、自分が苦しいのに死なずに生きていることを正当化できなくて、余計苦しいのです。そのため彼らは、その「苦しい」という気持ちを「死にたい」という言葉で発信して、誰かと共有するか気遣ってもらうかしないと、息がつけないのです。


 『ロストワンの号哭』が、聞く人にとって避難所になりうることの意味も、ここにあると思います。辛いと感じているのは自分だけではないと思えることは、ある程度生きることの辛さを和らげてくれます。しかし、何度も言いますが、それでは根本的な解決に、救いにはなりえません。自分自身の生きたい気持ちを自覚できなければ、その辛さに立ち向かって、ちゃんと生きることが出来ません。我々が死ぬまでちゃんと生きていくための原動力は、それしかないのですから。この歌は、彼ら「死にたがり」の中に眠っているそうした気持ち、「たとえ辛かろうと無意味だろうと知ったことか。俺は生きたいんだ!」という強い気持ちを、少々荒っぽいやり方で揺り起こそうとしているのだと思います。


 ただ、リスクが無いとは言えません。最初に僕は、「いま現に生きている以上、その人は生きることを選んでいる。」と書きましたが、その理由が生きたいからではなくて、「本気で死にたいけれど死ぬのをためらっている」からだとしたら?そんな人がいないとは言い切れません。実際にいじめを苦にしたりして、様々な理由で自殺する人はいるのですから。そのような人にとって、この歌は「死んでもいーよ」と言って、自殺の後押しをしてくれる歌となってしまいかねません。この歌が「うつ病気取りの一般人」に対しての歌であって、本物のうつ病の人向けではないのは、そのせいだと思います。



 ただ、です。不謹慎ですが、こんなことも考えてしまいます。もし本当の意味での「死にたがり」が、この歌を聴いて結果本当に死んでしまったとしたら、その人は「死んでもいいと言ってくれてありがとう」と言って死ぬのではないのでしょうか…?


 なお、オリジナルの動画は非常に突き放すような感じですが、より激励色の強いPV付動画もニコニコ動画には上がっています。個人的には、こちらの方が優しさが前面に出ていて好きです。

 【手書き】死にたがり【PV】

 ブログを再開するちょっと前に書いたものです。



 「歌ではないもの」


真も善も美も中空に溶けて
一つのルールが全てを覆う
はりめぐらされた根のように
それは形を表しはしない
まとめあげる事も行われない
答えも指針も示してはくれない
しかし足場にはなってくれるのだろう
私がどこに立つかを指定してはくれず
どんな景色が見えるのかを保証してもくれず
ただ、そこに立つことの険しさを定める

だからきっと、道がないわけではないのだ
切り立った崖の上にいるわけではないのだ
道は四方にあり
それらはそれぞれの険しさと
それぞれの景色とを持っている
だからきっと、何も制限されてはいないのだ

だが私は今うずくまっている
両の手足を縮め 震えながら
どの道にも歩みだせずに中空を眺め
なくなったものと、元からないものを さがしながら
空に手を伸ばすための足場づくりにすらも
踏み出す勇気を持てぬまま



 「歌ではないもの」なんて題付けたけど、これやっぱり詩になってないですね。これはただの散文です。


 ただ、書いた時期の率直な気持ちを表してはいるとは思います。むき出しですが。


 この分になぞらえるなら、今は最後に書いた「空に手を伸ばすための足場作り」に着手したところでしょうか。


 「真善美」だなんてまやかしかもしれない。答えなんて求めても無駄かもしれない。一生を棒に振るだけかもしれない。


 でも、関係ない。僕はそういうものが好きなんです。そういうもののことだけ考えていたいんです。


 「好きなことだけやりなさい」と、水木しげる大先生は言いました。これが僕の好きなことです。


 



 ボーカロイドの楽曲を、最近よく聞いています。
ほんで、感想記事などかいてみようと、思い立ちました。

「ロストワンの号哭」

 http://www.youtube.com/watch?v=8cKRC8KXCtQ

歌詞:

渡り数センチの不信感が 挙げ句の果て静脈を刺しちゃって
病弱が飛び出すもんで レスポールさえも器に変えてしまいました

ノーフィクション

数学と理科は好きですが 国語がどうもダメで嫌いでした
正しいのがどれか悩んでいりゃ どれも不正解という
オチでした

本日の 宿題は 個性な のこと
過不
い 不自由い 最近に 生きていて
でもどうして 
達は 時々に いや毎日
悲しいって言うんだ しいって言うんだ

黒板のこの漢字が読めますか あの子の心は読めますか
その心を
く染めたのは おい誰なんだよ おい誰なんだよ
そろばんでこの式が解けますか あの子の首の輪も解けますか
達このまんまでいいんですか おいどうすんだよ もうどうだっていいや

いつまで経ったって達は ぞんざいな催眠に酔っていて
どうしようもないくらいの驕傲をずっと 匿っていたんだ

昨日の 宿題は 相変わらず 解けないや
過不
い 不自由い 最近に 生きていて
でもどうして 
達の 胸元の 塊は
消えたいって言うんだ 
死にたいって言うんだ

黒板のこの漢字が読めますか あの子の心は読めますか
その心を
く染めたのは おい誰なんだよ おい誰なんだよ
そろばんでこの式が解けますか あの子の首の輪も解けますか
達このまんまでいいんですか おいどうすんだよ おいどうすんだよ

面積公式言えますか 子供の時の夢は言えますか
その夢すら溝に捨てたのは おい誰なんだよ もう知ってんだろ
いつになりゃ大人になれますか そもそも大人とは一体全体何ですか
どなたに伺えばいいんですか おいどうすんだよ もうどうだっていいや


 何というか、聞いていて、とても心がヒリヒリしてくる歌でした。
過不足もなく、不自由もなく。なのに悲しくて、淋しくて。
でもどうすればいいのかも、どうしたいのかすらもわからなくて。
どんどん神経質になって、「もうどうだっていいや」と投げ出して。
さらに深みにはまってしまう。

 なんだか、身に覚えがあるような、ないような。

自分の時は、どうやって抜け出したんだったかな。
とりあえず勉強してたんだッけか。
いや、おんなじような気持ちを持ってる人らと、気持ちを吐き出しあったら、ずいぶんと楽になったんだ。

 この曲はたぶん、そういう曲なんだろう。
同じような閉塞感を抱えてる人たちに、「俺もそうだ」と、語りかける。根本的な解決にはならなくても、一時的な避難所を用意してあげる。そんな曲。

 この曲で一瞬楽になれた後、そいつがちゃんと生きていけるかは、多分そいつしだいなんだろうな。下手したら、のめり込んでしまうかもしれないな。

  なんか、太宰治の小説みたいですね。 

 ブログ書くのがホントに久しぶりです。

前の記事から一年半くらい経ってます。


 その間、このブログを放置しっぱなしだったわけで。


 今自分で読み返すと、色々思ったり恥ずかしかったりします。

文章が固いなあとか。ずいぶん気負ってんなあとか。偉そうなこと言ってんなあとか。

間違いなく自分が書いたことばっかしなのに、なんだか他人事のように思えたり。


 年月のせいですかね。

でも、僕の書いたことなんですよね。

 なんか、目まぐるしかったです。この一年。

大学に入り、部活に入り、いろいろ体験して、うれしくなったりしんどくなったりして。

で、現在はまた、ひまな時間が多くなって。ぼーっとする時間が増えて。


 なんか、また色々、書いてみたくなったり。


 でも、前に書いてたモノと、大分雰囲気ちゃうなあと思い。

タイトルとか変えてみて。

また書いていこうと、まあ、思うわけです。



 ちょこっと考えたりしたことが、靄のように頭の中に留まっていて、でもはっきりした形を残さずに消えていく。そんなような状態が、ここずっと続いていて気持ち悪かったので。


 文字に、形にしていけば、少しはね。生産的な、前向きな効果に、つながるんじゃないかと。


 自己満ですね。でも、思ってるだけなら、もっと自己満なので。

積み上げていけば、何かしらには、なってくれるんじゃないですかね。


 

 「ひとり」




学校へ向かうみんなの姿


まるで一つの生き物のよう


その中にぼくはひとり


木をながめてひとり


空をながめてひとり


山をながめてひとり

ここではぼくはひとり






一人


ぶつぶつ流れる先生の声


みんなただ黙って聞いている


その中にぼくはひとり


質問をしてひとり


あいづちを打ってひとり


盛んに喋ってひとり


ここでもぼくはひとり

HITORI




 ----昔のメモ帳をあさってたら、こんなのが出てきました。

たぶん一昨年の、高1の冬頃に作ったものだと思います。

 

 自分の中では未完に終わっていたんですが、今見るとなかなかいい味だしてるような気もするので、ここにUPしてみました。


 あと、こんな歌も見つけました。


今日もまた 活字の海に 潜りゆく 生き抜く術を ソコに探して