今週の月曜日、成人式でしたね。
僕は二十歳でしたが、行きませんでした。昼まで寝て、高校の同窓会だけ行きました。
理由としては、単に眠かったというのもありますが、行ったところで、つまり「成人式」に出たところで「成人」するわけじゃないやい、という気分だったせいもあります。
古代縄文の抜歯やら、江戸時代の月代剃って元服するのと違って、成人式に出る前と後で明確な差が出るわけでもありません。昨日も今日も、親の金で飯を食って、親の金で学校に通って、親の金で本を買って読んで寝るだけです。なにが大人か。「これからは成人としての責任と自覚を」と言うのならば、自分の行動に責任と自覚を持つなんてこと、「子供だからしなくていい」なんてレベルのことでしたっけ。
僕にとっては、大学生という期間はいわゆるモラトリアム、自立するために力を蓄える準備期間であって、そのど真ん中に「大人と子供の区切り」としての成人式があるというのは、非常にヘンな気がします。
と、ここまで書きながら、京極夏彦著『陰摩羅鬼の疵』で読んだ話を思い出しました。それによれば、内部と外部、大人と子供、善と悪、といった区別の「線引き」をするのは、かつては個々の村などの共同体の役目だった。しかし、明治から昭和にかけて、その機能は完全に失われた。まず明治期に国家が個人に対するというあり方が整備され、それが敗戦で壊れた。結果、今の我々は自分自身で境界線を引くこと、つまり「誰にも頼らずに独りで勝手に大人になること」を強要されているのだそうです。
成人式に行く気にならなかったのも、そのせいかもしれません。誰もが自分の尺度で、思い思いに大人と子供の線引きをしている。だれも、成人式に出たから今日から大人だなんて、思ってない。とっくに形骸化したセレモニーだと、僕が思っているから行く気にならなかったのだと思います。