「べき」 | なななし名無しのひとりごと

なななし名無しのひとりごと

迷ったり、ぼんやりしたり、笑ったり。


 この前友達と話していて、思った事があります。


僕は、気付くと「べき」を使っているのだな、と。


ああするべき。こうするべき。たとえ言葉として「べき」を使っていなくても、相手に自分の価値観を強要するような話しぶりになっている事が多々あるようです。



この前このブログで、「真善美なんて絵空事かもしれないが僕はそれについて考えたい」なんて、読み返すと恥ずかしくなることを書きました。そんなつもりでいれば、「べき」が口癖になるのは自然なことかもしれません。


 しかし「真善美」と偉そうに言っても、それは疑いなく「僕の」真善美、僕の価値観、好みです。それは一人で思考実験しているうちは何の問題もありませんが、周りに主張すれば「べき」に、つまり他の価値観を否定しにかかるものになってしまいます。


他の話題ならそんな深刻な話題にならずに済むのでしょうが、「善」を掲げるならそうはいきません。「何が善か」を仮定にせよ定義することは、その定義に反するものを、否定される「べき」「間違い」とみなすことだからです。


僕の喋る、「べき」だの「べきでない」だのが「僕の」善悪でしかないことは僕が一番知っているというのに、気付けば僕が喋っている言葉からは「僕の」が抜け落ちている、自分を棚上げにした言い方になっている。それはものすごくもどかしいです。


今思えば、僕が精神的に脆いきらいがあるのも、こうしてずっと「べき」を考えているせいなのでしょう。


思っているだけの「べき」は絵空事ですが、実生活は絶えず揺れ動きます。自分のしている、またはしちゃった行動が自分の価値観に反することなど日常茶飯事です。


そういう時に、僕はベクトルが内に向かいやすいというか、自分の価値観でもって自分を全否定してしまう事が多いようです。そんな事をしても、ストレスがたまって健康を害するだけだというのに。


最近はだから、わざと何も考えないようにするか、なんとかベクトルを外に向けるようにしています。前者の方は簡単です。いま大学は春休みなので、文字通り何もせず頭を働かすようなものを読まなければそれで充分です。


しかし、それでは何も動きません。なにもしていないのだから当たり前です。


だから、ベクトルを外に向けたい。向けたいのですが…。さっきから書いてる「もどかしさ」がずっと引っかかっています。


 「現代の人々の苦悩は『いかにして(大きな)父になるか』では無い。『すべての人が不可避的に(小さな)父として機能してしまう』ことにあるのだ。」


正確な引用ではありませんが、宇野常寛の『リトル・ピープルの時代』中の文言です。


この文章中で言う「(大きな)父」とは、ここで僕が言っている「善」やら「価値」を定義してその責任を負う人、まさしく「べき」を他者に向けて発信する人のこと。そして、それが許されている人、むしろ道を示すことを期待されている人でもあります。


ノブレス・オブリージュ(高貴なる義務)という言葉は、そういう「大きな父」としての役割を実際に担う人がいた時代の言葉なのでしょう。


ついでに付け加えると、ここで「父」という言葉が用いられているのは、かつての家父長制において父親がまさに「家族がどうあるべきか」を決定する人であったからだと思います。


 

そして「小さな父」とは、そういう「大きな父」がもう成立しえなくなってしまって(小ブッシュがなろうとしたけどその結果のイラク戦争は…)、誰も道を指し示す人として期待はされないけど、誰もが自分の「べき」を主張しなければならない、そうしないと己が立ち行かない、そういう状態のことを指し示しています。


とすると今の僕の、このもどかしさは、まさしく「小さな父」として、自分の好みを「べき」として発信する事へのためらいから来ているのでしょう。


…こうしてぐるぐる考え続けること自体が、「ベクトルを内に向ける」自傷行為なのかもしれませんが、ずっと同じような事を頭に留めないように、ここに記すことにしました。


あんまり、繰り返したくないものです。