塚原 卜伝(つかはら ぼくでん) 生年月日: 1489年

日本の戦国時代の剣士、兵法家。

父祖伝来の鹿島古流(鹿島中古流)に加え、天真正伝香取神道流を修めて、鹿島新当流を開いた。

塚原卜伝は、今から約500年前の戦国時代の剣士です。

京都で起きた大動乱・応仁の乱が終わったころ、鹿島神宮の神官・吉川家の次男として生まれました。

幼いころは朝孝ともたかという名前で、とても賢く活発な子どもだったそうです。

吉川家は鹿島の太刀を受け継ぐ家系でもあって、卜伝のお父さんは大人しい兄よりも朝孝に剣を継がせたいと思っていました。

しかし、お父さんは朝孝が生まれてすぐに、剣友で塚原城の殿様である塚原安幹と朝孝を養子に出す約束をしていたのです。

お父さんとしては長男への期待と次男の将来を考えてのことだったのでしょう。

それにより、朝孝は6歳で塚原家の養子になりました。

強さの理由卜伝の強さは単なる才能ではなく、その経歴にもあります。

生まれ育った吉川家は鹿島の太刀を受け継いできた家系です。

卜伝は幼いころから剣術の達人である父に鍛えられてきました

その上で、養子としてやってきた塚原家で香取の太刀を学びました。

卜伝は2種類の剣術、それも一流の使い手の指導によって腕を磨いてきました。

剣への目覚め卜伝は元服(現代の成人)のあと、剣の修行のために16歳で鹿島を離れます。

第1回の廻国修業に出発します。

いわゆる鹿島立ちです。

諸国を巡って修業を続け、「真剣の試合19度、戦場の働き37度、一度も不覚を取らず、矢傷6ヶ所以外に傷一つ受けず、立会って敵を討取ること212人」という話のほとんどを、この第1回の修行の折に経験したものと思われます。
さらに、この第1回の廻国(かいこく)修行は、京都を中心に戦乱の中での修行であり、人の死をみる事が多く、世のむなしさにやがて心を病み、永正(えいしょう)15年(1518)30歳の頃、区切りをつけて故郷の鹿島へと戻ってきたと思われます。

そして、帰路の途中、自らの殺人剣を見直し、人を活かすために使えないかと考え出すのです。

漁師は網を使って魚を殺す・・・しかし、それによって多くの人の命をつなぐことができる。

自分もそのように剣を振るえないか。

戦国時代なので剣そのものを封印することはできませんでしたが、卜伝の場合、望めば殿様の立場なので、生活のために剣を振るう必要はなく、そうした考えに至ったのだと思います。

また、卜伝にはもともと神道や仏教への信仰がありますので、殺生を望まなかったのでしょう。

活人剣への目覚めは、卜伝が鹿島神宮の神官の家に生まれたこととも関係があると思います。

鹿島神宮のご祭神はタケミカヅチ。

最強の神でありながら、その力に頼らずに話し合いで問題を解決してきました。

幼いころからそれを知っている卜伝は、剣術を磨くよりも和を生み出すことで戦いそのものを無くすことを目指したのではないでしょうか。

とはいえ、活人剣は殺人剣よりも遥かに難しいのです。

向かってくる相手から殺意を無くさないと戦いが終わらないのですから。

若い頃の宮本武蔵が卜伝の食事中に勝負を挑んで斬り込み、彼はとっさに囲炉裏の鍋の蓋を盾にして武蔵の刀を受け止めたとする逸話があるが、この二剣豪は同時代ではなくこれについては全くのフィクションである。


第2回の廻国修業出発します。

廻国修業中に実父の死が伝えられてト伝は10年程で修業を終え、天文(てんぶん)の始めの年(1532)頃、鹿島へ帰ります。

そして、塚原城に入って城主となり、天文(てんぶん)2年の頃、妙(たえ)という妻を娶(めと)って城の経営と弟子の育成に力を尽くします。
10年程充実した年が過ぎ、天文(てんぶん)13年(1544)春になって妻が病で亡くなると、ト伝は養子彦四郎幹重(みきしげ)に城主の地位を譲ります。

鹿島に戻ったあと、卜伝は修業を重ねて奥義を会得し、流派・新当流を開きます。

卜伝という名前は、奥義の会得後に名乗り始めました。

元服のあとは塚原高幹たかもとという名前ですが、それとは別に剣名を「卜伝」としたのです。

第3回の廻国修業に出発します。

70歳近いト伝は、自分が完成した「一(いち)の太刀(たち)」という『国に平和をもたらす剣』を伝えるべく、将軍足利義輝(よしてる)を始め、義昭(よしあき)、細川藤孝(ふじたか)などに指導をし、なかでも義輝(よしてる)将軍は剣豪の域に達しています。

やがてト伝は伊勢国(三重県)へ入り、伊勢国司(いせこくし)の北畠具教(きたばたけとものり)に約2年指導し、唯授一人(ゆいじゅいちにん)の「一(いち)の太刀(たち)」を具教(とものり)に授けます。

ト伝が具教(とものり)に伝授した「一(いち)の太刀(たち)」は現在鹿嶋には伝わっておりませんが、剣の究極の「人の和」を表現する思想的な剣技と思われます。
具教(とものり)はト伝を敬愛し、具教がト伝のために用意した屋敷跡、塚原という広大な土地、塚原公園、塚原橋、塚原観音など、ト伝の名を伝えるものが現在でも残っています。

戦国の世を生きて30有余年の廻国を果たし、平和を願った剣豪は元亀2年3月31日(1571)83歳の生涯を閉じました。