長島の一向一揆(ながしまいっこういっき)

1570年ごろから1574年にかけての石山合戦に伴い、伊勢長島(現在の三重県桑名市、伊勢国と尾張国の境界付近)を中心とした地域で本願寺門徒らが蜂起した一向一揆。

織田信長との間で大きく分けて三度に渡る激しい合戦が起こった。

朝倉家と浅井家がまだ健在な頃に長島の一向一揆衆は信長と敵対しております。

彼らは石山本願寺の本願寺顕如が信長と敵対することを決めた際、石山本願寺から指令を受けて信長に反旗を翻すことに。

そして信長が比叡山へ逃亡した朝倉・浅井家連合軍を包囲している最中、報告がやってきます。

長島の一向一揆衆の抑えとして戦いを繰り広げていた信長の弟・織田信興(おだのぶおき)が一向一揆衆の猛攻を受け、討ち死にしたと報告が入ります。

しかし信長はこの時朝倉・浅井家の連合軍が比叡山へ逃亡して、信長と敵対していたためどうすることもできずに歯噛みをして、悔しさを飲み込むことしかできませんでした。

信長は朝倉家と浅井家連合軍との間で和睦を成立させると岐阜城へ帰還し、次なる作戦へ移行。

それは弟信興を殺害した長島の一向一揆衆へ復讐することでした。

彼は大軍を率いて岐阜城を出陣して長島へ到着すると佐久間信盛(さくまのぶもり)、柴田勝家、そして信長率いる軍勢の三方面から攻撃を開始します

長島にはいくつも中洲があり、その中洲に砦が構築されているため、主城である長島城へ到着することなく織田軍は、中洲に建てられた砦や城へ火をつけるだけで戦果を挙げることができませんでした。

信長はこれ以上戦果のあがらない攻撃を続けていても意味がないと判断し、すぐに撤退を開始。

佐久間隊と信長の本隊は比較的早く撤退することができましたが、柴田隊は中々引き上げてきませんでした。

彼がすぐに引き上げる事ができなかったのは一向一揆衆の追撃を受けていたためでした。

一向一揆衆の追撃は苛烈を極め、柴田勝家はこの追撃戦で手傷を追ってしまいます。

その後柴田軍の代わりに軍勢をまとめて戦ったのが美濃三人衆(みのさんにんしゅう)のひとりである氏家卜全(うじいえぼくぜん)でした。

彼は幾度も一揆軍の攻撃を跳ね返しておりましたが、一揆衆の鉄砲隊に狙撃されて亡くなってしまいます。

そして氏家隊は壊滅してしまいます。

しかし柴田勝家の部隊は氏家隊が奮戦してくれたおかげで、なんとか退却することができました。

こうして信長は二度に渡って長島の一向一揆衆に敗北してしまうことになります。

織田信長は朝倉・浅井両家を滅亡させると自らそのまま軍勢を率いて伊勢へ向かいます。

信長は伊勢でも一向一揆衆が反乱を起こしていることを知っており、このまま放置すれば尾張(おわり)や美濃(みの)にも影響が出る可能性があると考えて、出陣することにします。

信長は伊勢で反乱を起こした一揆衆を鎮圧して岐阜へ帰還しようとします。

すると長島の一向一揆衆が織田軍の帰還を狙いすまして追撃戦を展開。

この戦いには一向一揆衆だけでなく伊賀・甲賀の鉄砲名人も加わっていた。

しかしここで信長に天が味方してくれます。

鉄砲の天敵である雨がドシャ降りして鉄砲が使えなくなってしまいます。

だが一向一揆衆はドシャ降りで鉄砲が使えなくなると織田軍に槍や刀で攻撃をしてきます。

一向一揆衆の追撃戦は今回も苛烈を極め織田軍は被害を増大。

今回の追撃戦で奮戦したのは織田家筆頭家老である林貞秀(はやしさだひで)の息子・林進次郎の部隊でした。

彼の部隊は信長の本隊が追撃を受けることのない安全区域に退却するまで、一向一揆衆の追撃を食い止めます。

しかし彼の部隊は一向一揆衆の猛攻を受けて壊滅。

林進次郎は討ち死にしてしまいます。

林隊の犠牲があったおかげで信長はなんとか一向一揆衆の追撃から逃れることに成功し、岐阜へ撤退することができました。

織田信長は都合三度長島の一向一揆衆に敗北しており、恨み骨髄の状態でした。

そして彼は四度目の正直で織田軍の総力をあげて、長島の一向一揆衆を討伐するべく岐阜城を出陣。

信長は長島に着陣すると軍勢を三つに分けて攻撃を開始します。

この戦い方は長島の一向一揆衆を攻めるいつものパターンですが、今回はひと味違いました。

彼は長島の各中洲に築かれている砦や城を攻撃するため、九鬼水軍や尾張・伊勢の水軍を総動員しているところです。

彼は九鬼水軍を使って長島の一向一揆衆が篭城していた5つの中洲の砦や城の内、二つをスムーズに陥落。

残り三つの砦や城に一向一揆衆を追い詰めていきます。

信長は残り三つの城に猛攻をかけるのではなく、兵糧攻めでじわじわと攻撃していくことにします。

信長の兵糧攻めを受けた長島の一向一揆衆は1ヶ月あまり耐えますが、ついに兵糧が無くなったため、織田軍に降伏することにします。

信長は長島の一向一揆衆の降伏を受け入れることにしますが、これはフェイクでした。

信長は一向一揆衆が城を捨てた時、諸将に命じて一向一揆衆へ攻撃を仕掛けるように命令。

一向一揆衆は信長軍の攻撃を受けて降伏がフェイクであったことを知ると激怒し、ガリガリになった一向一揆衆は織田軍へ攻撃を行います。

信長は反撃して来る一向一揆衆へ猛然と攻撃を行い彼らを殲滅。

そして長島城に残っていた農民や動けなくなった一向一揆衆の兵士を殲滅するため、火を放ちます。

こうして信長は長島の一向一揆衆との長年の戦いを終えることになり、積年の恨みを晴らすことに成功するのです。

織田勢を苦しめた伊勢長島の一向一揆に対し、信長はほぼ総動員に近い大軍を率いてこれを殲滅しました。

籠城する一揆軍に対し、包囲による干殺しのほか、最後は城をまるごと焼き討ちし、男女二万数千人が殺害されたといわれています。

日本の現在は、宗教と政治や軍事は切り離されていますが、昔は宗教は政治や軍事と密接な関係がありました。

お寺が軍事力を持つ理由は、当時(奈良時代~戦国時代くらいまで)は、広い土地があり裕福だった寺社は盗賊やその他の勢力から狙われていたからです。

今では静かなイメージのお坊さんも、寺社同士の争いをしていたこともありましたし、地元の勢力と手を組んでいたこともあったようです。

当時の権力者から、有力な軍事力をもった寺社は邪魔だと目をつけられていたので、次第に攻め滅ぼされたり軍事力を奪われるようになっていきました。