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緑の錨

歴史家の山本尚志のブログです。日本で活躍したピアニストのレオ・シロタ、レオニード・クロイツァー、日本の歴史的ピアニスト、太平洋戦争時代の日本のユダヤ人政策を扱っています。

さらにホテル・オークラ東京本館オーキッドルームの定番について。

オーキッドルームのメニューの内で、いつもメニューにあるわけではないにしても、有名なブイヤベースや牡蠣料理なども、シーフードレストラン時代に由来するものだと思います。

これに対して、ウィンナー・シュニッツェルは本館10階にあった幻の名店コンチネンタルルームのメニューから受け継がれたものです。写真はポーションを半分に落としていただいたもの。普通に頼むともっともっと大きくなります。



オーキッドルームのメニューにある、ウィンナー・シュニッツェルの名声は夙に高いものと思います。私も同じ料理を30年ほど食べてきました。

オーキッドルームは一般的なカジュアルすぎるレストランではありません。こちらも心構えを持ってうかがったほうが楽しめる種類のお店です。ただ、メインロビーに接している関係もあって、特に宿泊客のためのレストランという性格も強いことから、ひとりでも楽しめる、間口の広いお店であることも事実です。

別館の名店ラ・ベル・エポックのメニューにあればやや場違いであろうシュニッツェルが、他のメニューと共存できるところにオーキッドのよさがあると思います。

オーキッドのウィンナー・シュニッツェルには、品格と魅力があります。

なお、コンチネンタルルームは今想起すると、存在したことがそもそも不思議であるような贅沢なレストランで、再現は不可能でしょう。膨大な種類のヨーロッパ大陸の名物料理を、それぞれ高い水準で調理・サービスするという大変なコンセプトのレストランでした。

私はコンチネンタルルームによく通っていました。そして、その血脈を引くオーキッドルームに移ってきた次第であり、四半世紀にわたって大変助けられてきました。

今回の改築で、この種類の伝統あるメニューがどのように受けつがれていくのか心配しております。



ホテルオークラ東京本館オーキッドルーム。

これもオーキッドルームの定番中の定番として知られるオマール海老のテルミドール・オーキッド風。やはりバランスがよくて、重からず、軽からず。




オーキッドルームはシーフード・レストランだった時期があり、そのころは、現在のサテライト・キッチンの部分に水槽があって魚が泳いでおりました。

このレストランの有名な料理には、そのころから受け継がれたものも多いです。

オーキッドルームは古典的なメニューをきちんと提供してくれる貴重なレストランであり、これまで本当に助けられてきました。

秋の風情。暑さが苦手な私にはありがたいことですが、もう8月も終わりなのかと切ない気分になります。ホテル・オークラ東京本館閉鎖・解体のことがあるのでとりわけ。

ホテル・オークラ東京本館・レストラン・オーキッドルームの定番中の定番より、舌平目のボンファン。すこし食べきれないのでポーションは減らしていただいております。








このレストランをドーバー・ソールが好きなホロヴィッツが気に入っていたという話がありますが、よくわかります。重すぎず、軽すぎず。好物のひとつです。

ワインはあえて赤。シャンボール・ミュジニー(ルイ・ジャド)。

筆者としては、このレストランが永遠に消え去ることは肯定できません。

ホテル・オークラ東京オーキッドルームにてディナーのパリ・ソワール。

よりポーションが大きくて、このような。わたしにとっては、初夏から初秋にかけてだけでなく、どの季節でもいただきたい好物であります。




オーキッドルームのスープ、冬の名品としてはレディ・カーゾンが知られます。写真はないのですが。

また、いつか冬に、以前とさして変わらぬオーキッドルームにて、レディー・カーゾンをいただけるように祈っております。

 写真はホテル・オークラ東京レストラン・オーキッドルームのパリ・ソワール。シャンパンはルイナールのブラン・ド・ブラン。




 ヨーゼフ・ロートの「聖なる酔っぱらいの伝説」を読みました(ヨーゼフ・ロート「聖なる酔っぱらいの伝説」『聖なる酔っぱらいの伝説他四編』所収、池内紀訳、岩波文庫、2013年)。

 訳文は見事に美しい。ロートは翻訳者に恵まれる作家のようです。

 
ナチスはドイツを手中に収めて、やがてはオーストリアも併合。ユダヤ系のロートに帰るべき祖国はなく、パリで亡命の日々を送っていました。

 定宿のホテル・フォワイヨが解体されたあと、ロートはむかいの安宿ホテル・デ・ラ・ポストに移って階下のカフェ・トゥルノンで浴びるようにペルノーを飲みながら、寿命を縮めながら書きつづけました。

 にもかかわらず筆は荒れないで、遺作となる『聖なる酔っぱらいの伝説』を創りあげたのです。

 宿無しの酔漢に、最後の最後に訪れた奇跡と死。

 文無しの酔っぱらいでありながら、名誉を失わない主人公のアンドレアスに、ロートを自然に重ねあわせてしまいます。

 そのパリの描写の簡潔な美しさ。いくつか例をあげてみます。

「いっぽう、橋の上や川沿いには銀色の街頭があかるくともり、あでやかなパリの夜のはじまりを告げていた」(前掲、ロート「聖なる酔っぱらいの伝説」、329頁)

「夜は彼らの前に、明るすぎる砂漠のようにひろがっている」(同前、368頁)

 この物語でも、ホテルはやはり舞台のひとつとなっています。

 酒瓶の彼方にヨーロッパの破局と減っていく寿命を見つめながら、それでもホテルとカフェに背水の陣を敷いて、人を愛して、人生を愛しつづけた作家が最後に贈った物語です。

 オーキッドルームのパリ・ソワールはレストランの名品のひとつ。コンソメがしっかりしていて全体の輪郭がくっきりします。

 ルイナールは周知のごとくあでやか。

 夏に華麗な冷製のスープと美しい泡とともに、パリに死んだロートを思うのです。そういったことにふさわしい料理、シャンパン、レストランは貴重です。

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 ヨーゼフ・ロート「ホテルの世界」(ヨーゼフ・ロート『放浪のユダヤ人とエッセイ二編』平岡達治訳、鳥影社、2009年所収)を読みました。

 ホテルに働く人びとと以心伝心の常連客であることを、あたかも無邪気であるかのように誇るロート。そして、かれらのすばらしい肖像を描いていきます。

 ホテルは第一に人であることを、あたりまえのように見ぬいて。

 ロートは「わたしはホテル市民であり、ホテル愛国者なのだ」(ロート「ホテルの世界」146頁)と書いています。さらに、次のようにも。

「わたしはこのホールに座ったままでいる。このホールはわたしの故郷であって、しかも世界であり、異郷であって、しかも近隣であり、わたしの、祖先の肖像がないギャラリーである。ここでわたしはわたしの友人たちであるホテルの従業員について書き始める」(同前、147頁)。

 かれは複数の角度で、ホテルとそこで働く人びとの絆について語ります。ハプスブルク帝国崩壊後、根無し草となったロートがようやく見いだした拠り所のようでもあります。

「ホテルの世界」をロートが書いたのは、1929年。まだドイツ・ヴァイマール共和国がかりそめの相対的安定期に憩い、ヨーロッパが前途にかすかな希望を見ることができた時期です。このような希望は同年10月に端を発した大恐慌によって打ちくだかれてしまうのですが。

 1929年には、かつてロートが生まれて、かれが当初は批判的ですらあったハプスブルク帝国はすでになく、ガリツィアの故地ブロディはポーランドの一部となっていました。

 ロートにとって、ホテルでの刹那の人間関係は現実につかみとれる唯一の絆だったのかもしれません。

 しかし、ロートは多くのものを失い、多くのものが崩れ去るのをすでに見てきました。かれの態度は控えめで慎重で、見方によっては臆病ともいえるものです。

「今回は充分長らく滞在した。これ以上逗留していると、他人でいられるという大きな幸せを汚すことになるだろう。必要もないのにホテルを去らないでいると、このホテルをわが家に貶めてしまうことになるだろう。わたしはここでわが家のようにくつろぎたい。しかしわが家にはしたくない。来ては去り、来ては去りたい。この地で一つのホテルがわたしを待っていてくれるのを知っている方が、はるかにすばらしい」(同前、182頁)。


 ロートは幻想家でありながら、現実を見失ってはいません。このエッセイで、敏腕ジャーナリストとしての鋭い観察眼を随所で発揮しています。あきらかな感傷と苛烈な観察眼は、かれのなかで不思議なかたちで融合しているようです。

 それは後のロートの創作にしばしば反映しているように思えるのです。

 やがてナチスが勢力を増した1932年、ロートは大作『ラデツキー行進曲』を書きあげます。老皇帝フランツ・ヨーゼフ2世とハプスブルク帝国の運命を美しい叙事詩として織りあげた畢生の傑作は、史実に基づいているようでいて幻想の伽藍であり、後ろむきのユートピアともいうべきものであり、それでいて現代性を失わないのです。正しく、神話といえるでしょう。

「ホテルの世界」に戻りましょう。平田達治氏の訳文は大変に読みやすく、
とりわけ挿絵が魅力的です。本書は編集者、出版社など作り手の愛情にあふれた本であるように思われます。

 ホテル・オークラ東京本館の建て替えが予告されている今、切実に響くエッセイでありました。

 写真は酒を愛して酒に死んだロートのために、ルイ・ジャドのシャンボール・ミュジニー2010年をホテル・オークラ東京オーキッドルームで。このレストランが続いてくれることを祈りつつ。




ホテル・オークラ東京本館館建て替え問題では、5階ロビーばかり注目されているようです。そこで、もうすこし1階の様子について取りあげます。

宴会場正面入り口付近。

さりげないけれど、綺麗だと思います。




ホテルに生きて、ホテルに斃れた作家というと、ヨーゼフ・ロートを思いだすのです。それで、ロートの作品や伝記を調べているのですが、なかなか進みません。

ロートは漂泊の作家といってよく、ユダヤ系であり、ナチスに反対してパリに亡命、1939年5月に世を去りました。第2次世界大戦開幕直前のことです。

かれは昔日のハプスブルク帝国をなお信じて、国のない皇位継承者の臣下を自ら任じていたようです。幻想家でありながら、鋭く現実を捉えた作品を生みだしました。

帝国の消滅以降、故国のなかったロートにとって、ホテルこそが自分の拠り所であったようです。かれの文章を読みながら、故郷の代用としてのホテルを考えています。

様々な人が書いた、ホテル・オークラ東京の建て替えに異議を申したてる文章を読むと、しばしば、ホテルに特別な繋がりを求める切実な感情が表出されているように思います。

写真は夜のオークラ本館1階入口です。





東京国立近代美術館に行ってまいりました。午後遅くに到着したために、特集「誰がためにたたかう?」だけを見たのですが、簡単に言葉にできないような、重いものを心に残す内容でした。

現在、いくつかの企画を考えています。戦争と革命の時代の音楽家たちについて。できるだけ丁寧に取り組んでいきたいと思っています。




画像はホテル・オークラ東京本館1階ロビーの照明です。東京国立近代美術館も谷口吉郎の設計。往時の姿をしのぼうと「建物を思う部屋」にも行ってまいりました。
八月となりました。

ホテル・オークラ東京の総料理長であった根岸規雄氏が執筆した本(根岸規雄『ホテルオークラ総料理長の美食帖』新潮選書、2012年)を読んでいます。

ホテル・オークラの歴史と料理のありかたについて縷々綴られた良書であるように思います。懐かしく思いだされる人々にも触れられていて、時折読む手を休めて感慨に耽ったりもいたしました。

根岸氏はホテル・オークラのフランス料理について「その最大の使命は『半世紀を超えても変わらない味と質を維持する』ということ」(根岸、前掲書、202頁)だと指摘して、「ホテル・オークラの味は、次の半世紀も不滅です」(根岸、前掲書、214頁)とも述べています。

進歩と変化がすべていいと言うわけではなく、変わらないものにも特別な価値はある。この点について、顧客とはとてもいえないまでも、期間だけは長くオークラに通わせていただいた私も同感です。

それだけに、ぜひ、オーキッドルームのような本館のレストランが続いていくことを願っております。


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