本を読む

湊かなえ著『往復書簡』のふたつめ

二十年後の宿題 を読み始める。


小学校の時の担任の先生が、定年して、

当時の教え子で今は教師をしている生徒にあることを頼む。

これまで何千の生徒を教えて来たが、

気になる生徒が6人いる。

その6人が今幸せに暮らしているかどうか会ってきてもらえないか?

彼女は今入院していて、自分では会いに行くことが出来ないから~


そして頼まれた生徒は6人に会いに行く。

という話なのだが…


ちょっと素敵だなと思う。


誰かに頼まれて、知らない人に会いに行く。

どこに居るかもわからない

当時の名前と住所だけを頼りに

そして、頼まれたものを渡す。


先生の代理で会いに行くのだから、

相手は喜んで会ってくれる…?

とは限らない。


そういうことではなく、

日本のどこかに居る人に連絡をとり会いに行く。


私も以前親しく友人付き合いをしていて、今は連絡取れなくなってしまっている人に

なんとか会えないモノかと考えることがある。

フェイスブックで名前を検索してみたりする。


それが誰か大切な人に頼まれたことだったらさらにやりがいがある。


そんなことを考えながら本を読み始めた。


本を読む。

ドラマを見る。

映画を見る。

何をしても、私は

始まってすぐのちょっとしたことから、

自分の空想の世界が始まる。


そしてひとつのショートストーリが出来上がる。

または、自分の考え、言いたいことが溢れてくる。


それはいつでもブログのテーマになる。


しかし、PCが手元にあるとは限らないし、

ゆっくり書く時間があるとも限らない。

そして、そのブログネタは、半分以上は露と消えてゆく。


日常の中にもたくさんネタは転がっている。


きっかけは小さいのだ。

そこから話が広がったり、

別の一本の道へつながっていくのは

いつも私の頭の中の世界なのだ。

それは限りがなく、

際限なく、広がってゆく。



確定申告に行ってきました!


昨日友人が、げっそりとした顔で「今日税務署に行って来たの」と…

書類をチェックしている税務署員を目の前に辟易して疲れて帰ってきたのだとか…


私は毎年すべての書類がそろい次第、税務署に行き、

パソコンで入力するようにしている。

これは3年前から始めたのだが、

ヘルプしてくれる人が居るので、トラブルが起きても何の問題もない。

家で悶々とひとり悩むよりも行ってしまった方が楽だ。


今年は、最後の源泉調書が昨日届いたので、少し遅くなってしまった。

雪が降る寒い日だったので空いてるかとちょっと期待したけど混んでいた。

でも帰るころには空いてきたから、来年は16時半くらいを目指してい行くことにしようか?


今回お手伝いしてくださった方は、

若い女性で、

隣の年配の男性につきっきりで結構放ったらかされていたのだけれど

(これは例年同じこと。キーボードを打つことが早い私は結構放ったらかしにされる)

気を使ってくださり、時々楽しい会話などしながら

確定申告を済ませることが出来ました。

そう、楽しいひと時だったのです。


待ち時間も含めると1時間半近くかかったけれど、

出来上がってからちょっと数字が合わない感じで

そのチェックに時間かかったりしたけれど、

どれもこれも楽しめたのです。


税務署で、ヘルプをしてもらいながらPCで入力していくと、、

もはや、後日問題になるという心配もほとんどなく

すっかり終わった気分。

ついでに予定よりも多めのボーナスが入ることが決定!

この時期に行くと春までにはボーナスが入ってくる。


正直、年を越えてから、家のPCに帳簿をつける作業は

時々分からないこともあり、イライラする作業だったのだけれど、

最終的には楽しめてラッキー。


これで来年は大丈夫!っていつも思うんだけど、

一年経つとすべて忘れるんですよねぇ(^_^;)



かなり時間をかけて、向山昌子著『アジア的シンプル生活術』を読み終わったところ。


なかなか面白かったのにこれほど時間がかかったのは、

最近エッセイ的なモノが苦手になりつつある感じがするのと、

短編なので、途中で本を置いてしまうことが多々あるからだ。


とても楽しく読めた話はいくつもあったし、

参考にさせてもらおうと思うこともたくさんあった。


そして、私はこの本を読みながら、アジアの国を一緒に旅することが出来た。


ある人が言っていた。

「本を読まないと損する」

という言葉を私はこれから拝借しようと思っている。

「本を読まなければならない」ではなく、

「本を読まないと損よ!」

一度きりの人生、どう楽しむか、どう台無しにするかはその人の勝手だけれど、

損するのはちょっと…………損。


私はこの一冊の本を読む間、少しだけ違う空気を吸ったりして

小さな旅を繰り返すことが出来た。

それは素敵な時間を持つことだ。

家の中に居ても、風を感じることが出来たり、

匂いや味を感じて、別の空間を感じることが出来た。


私にとってのアジア経験はかなり少ない。

バリ島に行ったことがある。(しかし、経験値としてはかなり低い)

トルコをアジアと言っていいならば、トルコ。

ヨルダンは、中近東だから、サッカーのくくりで言うとアジア?

イスラエルは? イスラエルをアジアって呼ぶ人はほとんどいないような~


そんな感じなのだ。


彼女の本には、タイとインドとトルコがよく登場していたので、

トルコはアジアでいいのだろう(今の場合)


少ない自分の経験も使って想像の世界が広がっていく。

一冊の本、活字だけで、これほどの世界が広がっていくとは…


それはそれは素晴らしいことなのだ。


病気をしたら、

怪我をして家を出られない時には、

そして年を取って、なかなか遠出ができなくなったら、

本を読めばいい。

本を読めば旅が出来る。


そのためには、今から目を大切にして老後に備えなければ~


今日見たドラマで大企業の社員が、その高層ビルの中で全体を見渡すという映像があった。


そのビルは、中心が吹き抜けになっていて、周りを囲む廊下がガラス越しにすべて見渡せる。

そこには、数千にも及ぶ社員たちが働いている。

そこを今日去る社員が見つめているという絵だ。


その絵を見て、生まれて初めて、企業の歯車、一社員もいいかもかおって感じた。

そう、生まれて初めて。


私の人生は中学3年生の時に持った将来の夢に突き進んだ。

そして、生涯フリーランスとして生きて来た。

学校を卒業して以来、企業に所属したことがない。

それは大変な面もあるけれど、

好きなことをやっているのだから、

文句も言わず、恵まれているとずっと思ってきた。

後悔もない。


しかし、あのビルの中の一社員になるのは悪くないなと初めて感じたのだ。


何がいいのか?

まず綺麗なビルであること。

きっと化粧室も綺麗だろう。

そしてそこには自分のデスクがある。

つまり自分の居場所だ。

朝起きて、毎日行く場所がある。

小さなデスクでも、それは自分の居場所であり、

段々居心地の良い場所にしていけばよい。


そして数千人の社員がいる。

部署が同じだったり、仕事で繋がっている人とは知り合いだし、

同じ時間帯に通勤してきて毎朝のように会い、顔見知りの人もいる。

社員食堂に行くと、あっちこっちに顔見知りの人がいる。

声を掛けるのだろうか?

毎日会うのだから、わざわざ挨拶する必要はないのかしら?

でも上司にはいちいち挨拶しなければ、やっぱりいけないのではないかしら?

いろんな想像が駆け巡る。


その中に、将来の伴侶が現れるのかもしれない。

同じビルの中に数千人の人間が毎日通ってくるならば、

学生の時と同じように恋愛沙汰もたくさんあることだろう。

エレベーターの中で目が合ってドキドキすることもあるだろう。

片思いもするだろうし、誰かに好意をもたれることもあるかも。

つまり学生生活の延長がそこにはあり、

それが同世代だけではなく、もっと大人の人や

そのうち若い後輩も含めて、

いろんな人たちと学生生活のような人間関係があるのかしら?


フリーランスにはそんな類のことはないのだ。

毎日通う場所がないのだから。


ドラマの中にの一枚の絵から、

私は見たことのないちょっと素敵な世界を駆け巡ってみた。


でも、これが当たり前の人が世の中にはたくさんいるのだ。

そして、これを読んで、そんな魅力的なもんじゃないよ!と思うのだろうか?



そういえば、私は八百屋さんが好きだった。

以前住んでいた家の傍にはスーパーと八百屋と肉屋と魚屋があった。

私は、スーパーで食材を購入した後、八百屋に寄って山ほど野菜を買って帰った。

それだけで幸せな気分になる。

しかし、今は傍に八百屋がない。

で、仕方なくスーパーマーケットで野菜を買っている。


人は、どんなことにも慣れていくもので、

比較材料がないと、その中に漫然としていく生き物だ。


東京近郊の農家で、その土地で生まれた野菜を買ってくる。

味がある!


しいたけでも、トマトでも、きゅうりでも、ホウレンソウでも。


そして気づく。

スーパーで買う野菜には味がないのだ。


スーパーで売っている野菜たちは、みな同じ大きさで同じ形をしている。

びっくりするほと揃っていて美しい。


スーパーでこのような商品を並べるために、

形の整った野菜が農家で作られているのは明確だ。

そして農家の直売所では、

形がバラバラの野菜をたくさん売っている。


きゅうりはいつからあんなにまっすぐになったんだったっけ?

子ども頃に食べたトマトは、いくつかのこぶがついているような形だった。


形が同じものがある袋に入っているとそれはそれは美しい。

しかし、野菜は一部の料理を除いて、切って使うので形の良さをあまり求めていない。

更に、形が良くても味がなければ仕方がないのだ。


大量生産のために、

スーパーで売れるように

形を整えて美しく作られた野菜たちは、

もはや当初の野菜の味も栄養もなくなってしまった。


そして今私たちは声を大にして言うのだ

「野菜に美しさを求めてはいない。美味を求めているのだ!」


八ヶ岳に行くと、帰りに山ほど地元で採れた野菜を買って帰る。

旬のものは安く手に入るので、たくさん買って友人におすそ分けする。


農家の人たちが日ごろ食べているおいしい野菜が美味しいに決まっている。

何故なら彼らはプロフェッショナルなのだから。

そして、彼らは、きっと

スーパーに並んでいる形の整った野菜は食べていないと思う。


料理は形ではない(一流料亭や、プロの仕事でない限り)

一番求められているのは味、そして栄養


ああ、美味しい野菜が食べたい!


とブログを書きながら夕飯のメニューを考える私でした('-^*)/

朝起きた。

お休みだけど、目が覚めたので気持ちよく早起きした。

でも、旦那はまだ寝ている。


リビングに来て、旦那が居るとみられない録画してあるテレビドラマを見る。

んで、カレーが食べたくなった。

何でもないシーンで、なんでもなくカレーを食べていたことがきっかけだった。


そうしたら無性にカレーを煮込みたくなったのだ。


そうした感情が発生することもそうだが、

その感情に素直に従って行動できることはとても幸せなことだと思っている。


ドラマが終わってカレーを煮込もうと思ったら、旦那が起きてきてしまった。

ああ.....

しかし、気持ちは変わらずカレーを煮込みだす。

まず、お米を洗って炊かなくちゃ。

本当はミートソースを作ろうと思っていたひき肉でキーマカレーを作ることにした。

ま、適当です。

にんにく、しょうが、たまねぎをゆっくり炒めて、

ひき肉の他に

人参と使い切ってしまいたいシイタケを細かく切って炒めて、

カレー粉の他に、いろんな調味料を適当に入れて、

最後は、市販のカレー粉のお世話になるのですが、

それでも煮込んでいる間幸せだった。

そうそう、ミートソースに使おうと思って解凍しておいた

残り物のトマトソースも入れて煮込んで。


時々、煮込み料理を思いっきり作りたくなることがある。

上記の通り、思いついた時にそれを出来ることはとても幸せなことだと思う。


今朝は、旦那様が起きてきてしまったので、一時間くらいしか煮込めなかったけど

(それでも旦那様は、黙って一時間以上待っていたのです。偉い偉い!)


山梨で買ってきた、トマトとそのまま食べられそうなホウレンソウでサラダをつけて、

朝からオリジナルキーマカレーが出来上がりました。


ゆっくり家事をすることは副交感神経の働きにいいらしい。

ということで、気が向いた時にゆっくり料理をする。

それが朝食だろうと

お腹を空かした旦那がテーブルで待っていようと、

私は楽しみながら包丁を使う。


朝から、ちょっと手の込んだ料理を作れる幸せ。


それは、いろいろな小さなラッキーの積み重ねがあってこそ持てた素敵な時間だ。


でも、よーく考えてみたら、

やっぱりこれは「早起きは三文の徳」ということなのかもしれない

十代から二十代のほぼ十年位私は渋谷が大好きだった。

しかし、今は行かない。

ごちゃごちゃしてて苦手だからだが、

昨日久しぶりに渋谷で食事することになった。


ちょっと素敵な店でワインでも飲みながらおいしいモノを食べたいと思ったが

店がないのだ。

以前は、ゆったりとしたオシャレな店がありがちだった道をずいぶん歩いたが、

そこにはファミレスがあったりする。

居酒屋はあるが、オシャレな店がない。


世の中チェーン店ばかりになり、

個別の素敵な店がなくなって久しいが、

とにかくぶらっと入れるオシャレな店が見当たらない

(もちろん渋谷詳しい人には探せるのでしょうが…)


やっと見つけた店は、

外見の雰囲気も、店の椅子も良かったので、入ったが、

ここがひどかったのだ。


いいのは、椅子だけ。

まず「予約がたくさん入ってるので2時間制になります」と

席についてから言われた。

「予約が入ってる」ってのは嘘だろうとすぐに察したが、

金曜日だからまあいいかと思った。

でも嘘つかない方が感じはいい。

「金曜日なので混雑してきたら……」の方がいい。

そもそも若いバイト君が言う言葉が嘘であることはバレバレなのだ。


このバイト君が仕事できないのはもとより、

他の人たちも誰一人仕事する気に見えない。

誰も責任取る気がない。

オーダーする前から、

なんかおいしいモノが出てこない感じがしてしまった。


バイト君は仕事できないけど、感じは悪くなかったのでよしとして、

出て来た料理は、ひどかった。

なかなかこれほどまずい料理は食べられない。


そして2時間後、しっかり追い出された。

店のテーブルのほぼ半分は空いていたのに。

こちらも別に長いしたい店ではなかったので出て来た。


お酒は悪くなかったが(飲んだのはビールとグラスワインです)

食べ物とサービスはひどいモノだった。


渋谷の繁華街にあり

通り一遍の客しか来ない店ならこれでよしということなのだろうか?

金曜日の夜なのに店が空いているのもうなずける。


それにしても、仕事が出来な過ぎる。

そして楽しそうに仕事をしていない。

ああいう若者たちをみると将来の日本が不安になる。


因みにこの店は、balobaloとか言う名前でした(スペルがちょっと違うような気もします)

支払ったのは6千円ちょっと。


もう二度と渋谷で、ぶらっと店には入らない!と決めた夜でした。


コーチの暴力を理由に自殺した

日本女子柔道選手が、暴力を告発した

などをきっかけに

全国の中高校のスポーツ部の暴力がチェックされている。


どうも引っかかる。


私たちとの時代の違いなのだろうか?


今は、かなり微妙な時期なだけに

多少叩くなどは……と

少しでも暴力擁護論みたいな発言はほとんどの人が出来ない状態になっている。


だから私もとりあえず、指導の時に手をあげるコトについての意見は差し控えたい。


この問題は、いじめ問題と非常によくにていると思う。


実際に行われた暴力(いじめ)の種類や程度は比較できないのだ。

平手打ちならよくてグーで殴ったらだめとか

そういうことをルールづけることはが重要なのではない。


では、何を物差しにするかと言うと、

ここがいじめ問題とよく似ているのだが、

受けた側の気持ちの問題なのだ。


それを受けた人が、著しく傷つけられた場合、

それはいけないことになる。


しかし、やる側は、受ける側の気持ちをどれほど推し量ることが出来るか、

人は、万能ではないから、

他人の気持ちは分からない。

ほとんどの場合分からない

と言っていいと思う。


人は、知らず知らずのうちに、

他人を傷つけているモノだ。


それが殴ることであろうが、言葉であろうが、別の方法であろうが。


いじめ問題については以前脚本にも書いているのだが、

これはなくならないのだ。

専門家が、文化人が、

いじめをなくすために~と討論しているのを見ると

どうも変だなと思ってしまう。


世の中、世界中、歴史の中でいじめは、暴力は、山ほど行われてきた。


大切なのは、

人の命。

人の命を(自分の命も)大切に思い、

それを奪わないことが最重要なのであって、

(だから、問題が発生したら逃げることはいいと思う)

それをなくすことを論じるよりも、

傷ついても、辛いことがあっても、

逃げていいから死なないことをしっかり教えていかなければならないのだ。

というのが私の意見。


どんなことがあっても、生きているからこそであり、

死んだら……………………終わりだもの。

セブン・イレブンのデザートにはまっている。
とくにモンブラン

今日も帰り道にセブンイレブンがあったので、
買って帰ると最初から決めて出かけた。

ところが、数が少ないのだ。
今日はあったからいいけど…
モンブランは一つしかなかった。
家族の分と思って、
仕方がないのでいろいろなデザートを購入してきた。

 
250円でこの味はたまらない~とはまっている。
いろいろなところで美味しいケーキを購入するが、
今は平均500円くらい?
まずくはないが、しつこいモノも多い。
500円出して、食べ終わって、Too Muchってことが結構あって、
損した気分になる。
それならこのセブンイレブンのデザートくらいで良いじゃない、
別に特別な日でも何でもないのだから。

この値段の差はなんだろう?と考える。

分かった。
最初セブンイレブンでモンブランを購入して帰ってきた日、
袋の中でモンブランが2,3回宙返りしたらしく、
とにかく家に帰るとひっくり返っていた。

高い店で買うとこれがないのだ。
もちろんケーキ用の箱に入れてくれる。

ケーキでなくてもそう。
例えばお弁当も高い店(デパ地下みたいな?)で買うと、
お弁当が動かないようなそれ専用の袋があるのだ。
そしてしっかりと持ちやすく閉じてくれる。

そうか、包装料だったのか…
それなら余計、セブンイレブンのケーキでもいいような気がしてきた。

別に袋の中で宙返りして、
上の部分が、ふたにへばりついていたとしても
味に変わりはないし、
とにかくこの値段ならいいかと思ってしまうのです。

でも、今日は写真の通り、
気を付けて持って帰ってこられました   し 。

西洋からの流れだろうか?

いつ頃からか、女性に年齢を聞くのは失礼というのが当たり前になった。

だから聞かれることもほとんどない。


会員証などを作る時も

生まれ年を書かなくてもOK.

誕生月日だけ書いておけば、

ちゃんと誕生カードが届いたりもする。


ただ、エステの会員証には年齢を書く。

これは病院と同じ感覚だから。

自分の年を知ってもらった上で対処していただかないと。


有名人だってもちろん、

ほとんど年齢を言うことはなくなった

が、

スポーツは別。

厭っていうほど、年齢を言う。


我が家でよく見るVリーグ(女子バレーボール)では、

同じ人の年齢を連呼するアナウンサーもたくさんいる。

21歳トリオ、まだ19歳とかはいいが、

ベテランとか、35歳とか…あまり連呼されるとちょっとかわいそうに感じたりもする。


最近、私が年齢を書いてほしいと思うのが、

作家である。


特にエッセイを書く作家には、是非とも年齢を明記していただきたい!


本を読む時に、執筆年(または出版年)はチェックする。

と同時に、作家の年齢を知りたいのだ。

共感の度合いが違うのだ。


基本的にエッセイは女性が書いたモノばかり読むのだが、

やはり同性、同世代の方の書いたモノだと実感がわきやすい。

先輩の書いたモノならば、いろいろ勉強させていただく

若い女性が書いたモノなら、参考にさせてもらう。

とにかく年齢を知っていることによって、身体の中に入ってくる感じが違うのだ。

しかし、

最近の風潮からか?

作家の年齢(生年月日)が明記されていないことが多々あることに最近気づいた。

読みながら、時々時代背景が出てくるので、

この人は私と同世代だぞ!と感じるが、

なんとなく気持ちが悪いのだ。


同性代でも、タメとそうでないのは大違いであるように

やはり知っていた方が理解しやすいのだ。


女優じゃないんだから、年齢書いてもいいのではないかと思うのだがいかがでしょうか?


注:女優が年齢を書かない方がいいのは、役を演じることが仕事だからである。本当の年齢を知ることで、役のイメージを覆いきれないことが発生する可能性もある。が、最近は役者として演じ切ることよりも、演じるその人の個性で勝負されることが増えているので、あまり大きな問題ではなくなっているような気もする。