昨日配信されていたインターネット情報誌「TRIP EDITOR」に、「標準語やと思っとった…上京して通じなかった悲しい『方言』たち」という記事が掲載されていた。
その内容自体は他愛もない話で、東京で住みはじめたころに、それまでごく当たり前に話していた言葉が通じなかった、というエピソード集である。
つまり「方言」だと思わずに話していた、ということを、それぞれの出身地ごとの特徴的な言葉を並べて、解説したという記事である。
ただ日本というそれほど広くもなく、交通網が発達していて、人の移動や往来も頻繁な国で、これほどもそれぞれの地域差がある言語を持っている国も珍しいのではないだろうか。
江戸時代の幕藩体制の中で、人の往来も今とは比べものにもならない状態だった時には、その土地で生まれ育ち、一生を終える人が多かったから、その土地で使われる言葉だけで暮らしていても不自由はなかった。
その後、明治期になって日本という〝状態〟が生じた時に、〝軍隊〟という組織の中では、それぞれの地域で使われる言葉で話していたのでは、意思疎通ができないから困るということになった。
第一人称をとっても、「わたし」「わたい」「おれ」などと、思いついただけでも数多く上げられる。これでは不便だろうということで、「自分は」という言い方に統一された。
「自分は○○であります」という言い方に統一することで、言葉の地域差を解消しようとした。だけど今、若い人が第一人称に「自分」を使うことに、私はむしろ違和感を覚える。
現在は、軍隊用語をあえて使う必要がない時代である。だから、そんな時にわざわざ「自分は」という言い方をすることに対して、何の不思議さも覚えないことの方が気味が悪い。
それよりも、「わたし」で十分だし、若い男性なら「ぼく」でも良いと思う。〝女性言葉〟という言い方が許されるなら、若い女性が「うち」というのも肯定できる。「私の家」が「うちのところ⇒うちとこ⇒うっとこ」となっても、それで問題ないと思う。
そもそも「方言」とは「地方言葉」である。この「地方」という言い方も、「中央」に対比されるものとして存在する。では「中央」とは何なのか。
今では「東京=中央」だと思われている。しかし、元来の意味は「中央=(旧軍の)連隊所在地」であり、「地方=それ以外の出身地」という意味で用いられてきた。
「地方出身者」とは、軍隊に召集される前に連隊所在地以外の地域に暮らしていた人、ということであり、召集された兵隊のほぼ全員が「地方出身者」だった。
こうして、地域で使われていた言葉から軍隊用語に切り替えることで、人為的に統一した言葉を用いて、意思疎通が図れるようにした。
現在では、東京の〝山の手言葉〟に近い表現で、NHK用語が放送で使用されている。そして、これを勝手に「標準語」などと言っている私たちがいる。誰も標準語など定めたわけではない。
だから「方言」という言い方を、私は好きではない。それに関して、以前に面白いエピソードを聞いたことがあった。
私の知人で大阪在住の在日韓国人の方の弟さんが、東京で友人と居酒屋で話していた時のことである。その友人も在日の方で、2人で〝大阪弁〟でワイワイやっていたらしい。
その時、横に座っていた中年男性が突然に怒り出して、「何で方言を使っているんだ」と絡んできたという。そしてとうとう「表へ出ろ!」と言われる始末。
知人の弟さんも若いから、「なんや、おっさん!」となって表へ出た。そこで中年男性が、「俺は苦労して、東北の言葉を標準語に直したんだよ。それをてめぇら、どこの人間だよ」と言ったらしい。
知人の弟さんは、「どこの人間」という言葉に素直に反応して「韓国」と言ったのだという。とたんに中年男性は言葉に詰まって、「そうか」で一件落着になったらしい。
まさか「韓国」と言われるとは、思ってもみなかったと思う。一瞬で、何かフワッと違う方向性になってしまって、中年男性が気抜けしたと思われる。
しかし関西圏の出身者は、東京の人が使う言葉にはなかなか同化しない。明石家さんまさんが東京に進出したころは、まだまだ東京で関西圏の言葉を聞くことが少なかった時代だった。
そんな時代に彼は、「アホ、チャイまんねん。パーでんねん」という流行語まで生み出した。これをもしNHK用語的に表現して、「バカではありません。少し頭が鈍いと思います」と言っていたらどうだっただろう。
「方言」と言われると、関西圏の人たちは困ってしまう。関西圏のイントネーション(抑揚)で話すことと、使う単語が東京の人の話す単語と一致しないこととは、イコールではない。
もちろん関西圏に住んでいないとわからない単語もある。だが、そういう問題ではないと思う。自分の感情をもっとも豊かに表現できるのは、きっと使い慣れた言葉だと思う。
なぜ東京にいるから、東京生まれ東京育ちの人と同化しなければいけないのか、そこが私には不思議でならない。
秋田や山形の人と、沖縄や鹿児島の人が話をすれば、きっと会話が成立しないだろうというのは、もはや若い人ならそこまでのことはない。使う単語は大筋で同じである。
それが、学校教育の成果なのだ。だから、あえて「方言」というやや否定的な意味を込めた言い方をしなくても、それぞれが生まれ育った地域の言葉を大事にすれば良いと思う。
なんだか、久し振りに「方言」という言い方を目にして、〝ちょっとなあ〟と言う感覚にとらわれた。