補給のないまま、スバス連隊は死の撤退行を続けました。

 

すでに手持ちの食糧も底をつき兵士たちは栄養失調でバタバタと死んでゆき、自殺を図るものもいました。

 

しかも雨季は最盛期に入り、ジャングル内は至るところ、激流や泥地と化していました。

 

しかしスバス連隊は半数近い犠牲をだしながらも、タムにたどり着きました。

パレルを攻撃中のガンディー、アザード両連隊を増援しようとする一念に支えられて、再度の難行軍を乗り切りました。

 

ところが、タムに到着するやいなや、シャ・ヌワーズ・カーン中佐は日本軍からの命令が変更されて国民軍第一師団に復帰は出来ないと告げられました。

 

インド国民軍の将校らは、もはや日本軍の命令に従う必要はないと考え、それならば、英軍と戦って死のうと、攻撃計画を立てました。

 

これを知った日本の光機関の少佐はラングーンのボースに緊急電報を打ちました。

ボースは直ちにスバス連隊に対して、カレワまで撤退する事を命じました。

 

いっぽう、ガンディー、アザード両連隊は、4月20日、山本支隊の両翼からパレルを攻撃せよとの命令を受け、出撃していました。

 

ガンディー連隊は深い谷や断崖を突破して4月29日、バレルの英印軍の航空基地の正面に殺到して突撃しましたが、軽迫銃砲しか持たない貧弱な火力では敵の重砲・戦車・攻撃機に対抗する事はできず、反撃されて撤退していました。

 

この期間、補給は後方の道路が良かったため、ときどきはありました。

しかし、米や蛆の湧いた塩干魚ぐらいしかありませんでした。

 

インド国民軍は前線で宣伝工作隊を組織して、英印軍のインド人将兵に対し活発な投降を呼掛けました。

投降するインド兵もありましたが、投降してもあまりの給食のひどさに驚いて逃げ帰るケースもありました。

 

「独立の大義は理解できましたが、こんな生活では将来に希望が全くありません」

といった置き手紙を残して姿を消した者もいました。

 

インド国民軍の英印軍への投降宣伝は期待したほど上手くいきませんでした。

原因の1つは戦況が明らかに敗勢であったのと、英軍司令部が素早い対策をして、イギリスに忠誠心が強い兵に交代させるなどしていたためです。

 

インパール作戦末期には逆に国民軍から逃亡兵が出ました。

逃亡兵が続出すると動揺はガンディー連隊にも波及して投降が相次ぎました。

 

この緊急事態を聞いたボースは、ガンディー連隊には腹心のハッサン少佐を派遣して引き締めを図り、ようやく逃亡は止まりました。

 

 

既に4月下旬にはインパール作戦の戦況は絶望的となっていました。

インパール北方から進軍した日本軍「烈」は、力戦空しく、ついにコヒマを突破出来ず、6月2日、独断撤退を開始しました。

 

「烈」の撤退でコヒマ~インパール街道は6月22日には開け放しになり、英印軍はインパールへ増援の部隊や軍需品を自由に送れるようになりました。

 

インパール正面攻撃の日本軍「祭」は、インパールから10キロ以内に近づきましたが、英印軍の空路を含めた立体的反撃に遇って後退を始めていて、山本支隊もパレルの前面で膠着していました。

 

南方の日本軍「弓」は、敵の包囲作戦で戦力を消耗していました。

 

6月に入るとだれの眼にも作戦の失敗は明らかでした。

 

日本軍司令部は作戦中止を検討し始めましたが、司令官同士のお互いの腹の探り合いで誰がいつ中止を申し出るのかはっきりした意思表示が出来ず、いたずらに時間を消耗していました。

 

また純軍事的な見地以外に、インパール作戦の政略的意義があることが決断を鈍らせる結果になった事も否定出来ません。

河辺方面軍司令官は、

「インパール作戦には日印両国の運命がかかっている。1兵、1馬でも注ぎ込んで最後まで戦わねばならない」

と自分に言い聞かせました。

 

河辺中将は、ボースを国民軍司令部に訪ねました。

第一線の状況を説明したあと、

「苦しいのは事実だが、何処までもやりとおすつもりです」

と決意を述べました。

 

ボースは大きくうなずいて

「国民軍の士気高揚のためにも、ぜひ第一線を視察させていただきたい。危険をおもんばかってお止めになるのは心外です。またジャンシー連隊も含めて、後方に残されている国民軍の全部隊を前線に出したいのです。先日シンガポールへ行きましたが、現地のインド人同胞は、いささかも士気は落ちていません。我々はどんなに戦争が長引き、苦難が増そうとも、その運命を甘受し、独立実現のために日本の指導の下、最終の目標に向かってまい進します」

と述べました。

 

まだまだ気力に満ちた様子のボースの言葉を聞いて、河辺中将の内心の苦悩は増すばかりでした。

 

 

※参考文献