第一連隊(スバス連隊)の主力は、5月16日、危機に立っているコヒマの日本軍「烈」を支援するためにコヒマへ転進せよとの命令を受けました。

 

コヒマまではカボウ谷地を抜けてナガ山地を突破する500キロをこす道程を行進しなければなりません。

 

しかしインド国民軍のなかで最精鋭をもって任じ、副次的な役割しか担わされていないことに強い不満を抱いていた連隊長のシャ・ヌワーズ・カーン中佐以下の将兵は、コヒマ占領の報を信じていただけに、いまこそ祖国へ進軍できる時がきたと小躍りしました。

 

野戦病院に入院中の兵まで病院を脱走して行軍に加わりました。

ところが、補給部隊を持たないので、食糧の補給はすべて日本軍に頼らない訳にはいきませんでした。

 

既に補給は途絶えがちであったので、彼らは高地に住むナガ族の栽培している陸稲の籾と野草しか口にしていませんでした。

 

出発の際は少量の補給を受けましたがコヒマへ強行軍を開始してからは、1粒の米すら支給されませんでした。

しかし、この頃は日本軍も同じ状況でした。

 

英印軍の経験の長いシャ・ヌワーズ・カーン中佐は、日本軍が補給面でもインド国民軍を差別していると、強い不満を持ちました。

 

ボースは5月21日夜、ラングーンに帰りました。

緊急業務を処理するためでした。

 

ボースは2,3日で前線のメイミョーへ戻るつもりでしたが結局足どめを食ってしまいました。

 

それはボースがあまりにも周囲からずば抜けた存在であるが故でした。

ボースの側近や閣僚は、ボースの指示がなければ何事も決定できぬイエスマンになっていました。

 

ボースの前に出ると誰もが直立不動でかしこまり、意見をいうどころの騒ぎではなく、緊張のあまり手がブルブル震える者もいたと言われます。

 

ボースは孤独でした。

しっかりした片腕や助言者もなく、細々としたことまで全て自分ひとりで判断し処理しなければなりませんでした。

 

彼の超人的精力はそれを可能にはしましたが、その反面、ワンマン・チームのもろさがつきまといました。

現にボースのいないラングーンでは、インパール作戦の不調を聞いて政府やインド独立連盟内部に動揺があり、ボースはそれの引締めを図らなければなりませんでした。

 

スバス連隊は空腹を抱えながら、激しいスコールの中をコヒマへと急ぎました。

飢えのため体力の弱った将兵はジャングルに包まれた、3000メートルに達する険しい山系の道なき道を踏破するのは想像を絶する難事でした。

 

しかし、彼らは「チェロ・デリー」「チェロ・デリー」と励ましあいながら進みました。

6月初め、スバス連隊は半月の苦難の強行軍の末、コヒマの南にたどりつきました。

 

ところがコヒマで英印軍に最後の力をふりしぼって突撃を繰り返しているにもかかわらず、一か月も1発の弾丸、1粒の米も送って来ないのに激怒した日本軍「烈」の佐藤師団長は、5月25日、牟田口軍司令官に、

「6月1日までにはコヒマを撤退し、補給を受けられる地点に向かって移動する」

と独断撤退を通知する電報を打っていました。

 

完全に軍司令部不信に陥っていた佐藤師団長は、師団に撤退を命じていました。

 

6月4日、佐藤師団長はスバス連隊を自ら訪れてシャ・ヌワーズ・カーン連隊長にコヒマ攻略は絶望であると説明し、「烈」とともにウクルルに撤退するように勧告しました。

 

シャ・ヌワーズ・カーン中佐は、

「自分も部下も、初めて踏んだこの祖国の地から去ることはできない」

と抗議しました。

 

佐藤師団長は

「インパール攻略はいずれ再興されるだろうから、そのときまた本分を尽くせばいい」

と説得しましたが、シャ・ヌワーズ・カーン中佐は逃げ口上と受け取りました。

 

中佐はタムのインド国民軍第一師団司令部の位置まで後退して、その指揮下に復帰したいと申し出て、6月22日、ようやく許可されました。

 

スバス連隊の撤退を聞くと、ボースは22日、河辺方面軍司令官を訪れ、

「直ちに第一線へ視察と激励のため出発したい」

と要請しました。

 

河辺将軍は、

「いま第一線へ出るのは危険だ。万一のことがあれば指導者を失った国民軍はどうなる。少し時機をまってはどうか」

と引き留めましたが、ボースは聞かず、前線行きを熱望しました。

 

河辺将軍は遂に根負けして、再検討を約束しましたが、ボースはなおも

「こうなれば、残余の国民軍部隊もすべて第一線に投入したい。婦人部隊のジャンシー連隊も同様です。われわれは戦いがいかに困難であり、どんなに長引こうとも、いささかも士気に変わりはなく、独立の大義達成のため、これくらいの犠牲は甘受して、日本軍と協力して目的を完遂したい」

と決意を述べました。

 

 

※参考文献